岡田純良帝國小倉日記

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気になる言葉(弐)
7月12日
気になる言葉(弐)
 「開高健全人物論集1 人よ、いざ」[潮出版社]
 小林秀雄(1902-1983年)は「テスト氏」から「本居宣長」へずんずん進んでしまったわけだ。人の思惑など関係なく、我が道を行った。昂然と、傲然と。
 焼跡闇市の神様、坂口安吾(1906-55年)は「教祖の文学」を書いて小林秀雄をやっつけた。しかし安吾でさえも小林秀雄には勝てない。「伝統と反逆」と名付けた有名な対談では、教祖を前にして焼跡闇市の神様は酔っ払ってしまい、敢え無くチンボツしてしまう。

井伏鱒二。.jpg

 だが、一箇所、安吾は、モオツアルトが生きていた時は、自分たちが今になって感じるような整然たるものであったか分らないと言って絡む。これは正論だと俺は想うわけだ。
 2人の間には不思議な笑いが流れている。恐らく、対談前から認め合っているからだ。
 「昨日ヴァレリーと叫んだのが今日はミソギと叫んだ」
 開高健(1930-89年)は、この馴れ合いが許せなかったのだろう。
 しかし、社会の最新流行からは距離を置き続けた井伏鱒二(1898-1993年)については全く評価が違っている。
 「原爆についてテリー・サザーンは鋭敏と知性を純粋結晶した黒いユーモアを書いて映画館の暗闇にうずくまっている私を涙が出るほど笑わせてくれたが、シベリアの荒野めがけて落下してゆく巨大で野暮をきわめ、かつ手のつけようなく頑強な鋼鉄体と、それにうちまたがってカウ・ボーイのテンガロン帽を勇ましく旺盛にうちふりつづけるパイロットを、さて映画館からでてよちよち歩きつつくらべてみれば、墓掘り人夫の陽気な歌の一種でしかなかった。この映画ほど逆説を徹底して演じつつ逆接のはかなさを見せてくれたものは他になかった。巨大で野暮をきわめ、かつ手のつけようなく頑強な鋼鉄体が、どうしようもなく正説なのだった」(昭和45年2月1日『文学界』『井伏鱒二』『黒い雨』の場合)

「博士の異常な愛情」スチール。.jpg

 井伏鱒二の文脈の中に、突如、映画が援用される。無論、Stanley Kubrick(1928-98年)の「博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか (Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)」と書いていないが間違いない。「テリー・サザーン」(Terry Southern(1924-95年))は本作の脚本を担当、原爆にまたがる"King" Kong少佐はSlim Pickens(1919-83年)が演じている。
 全編井伏鱒二を持ち上げている文章の中で、開高はギャグが如何に強烈なメッセージとなるかと熱っぽく説いている。井伏の広島弁混じりの会話は原爆投下後の阿鼻叫喚さえ一つの歴史の中に定着させる、のどかなユーモアさえ漂っている、それこそ「黒い雨」が戦争文学の結晶となった一つの秘密ではないか、という文脈の中で語られるものだ。

「東京あたり」裏ジャケの小林克也.JPG

 先日、「ビルボード東京」で「ナンバー・ワン・バンド」を観て以来、小林克也(1940年-)の「うわさのカムトゥハワイ」の歌詞が頭から離れない。
 それが、先日、この開高健の井伏鱒二の下りで、ガツンと衝撃を喰らった。小林克也の広島弁のラップは、まさに井伏鱒二の文章の味わいに似ているということを想い知った。深いぞ、克っちゃん!

追記
本日雨。呉もヤラれておるらしく、心配ですわい。階段住宅はどないやねん。ドヌーン。
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