岡田純良帝國小倉日記

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気になる言葉(壱)
7月11日
気になる言葉(壱)
 「開高健全人物論集1 人よ、いざ」[潮出版社]
 最近、この人物のモノの書き方には一つの定理があることに気付いてきた。変幻自在に変えていった文体のことではない。取り上げて書く対象との距離の取り方である。
 盛んに旅をして、地上でも旺盛に動き回り、夥しい数の人々と会い、語り合い、かつ、大量のルポと評論と時々小説を書いた人物は、関西のシティー・ボーイだから、洒脱であっても、はにかみ屋である。羞恥心をこらえて、発言し、人と会い、時々は泣いたりしてよく笑った。映画を見ては泣き、小説を読んでは泣くという多情多感な人だったという話を知ると、残された文章からは別な顔も見えてくるだろう。
 開高健(1930-89年)による小田実(1932-2007年)作品の論評を読んでいたら、彼らはほぼ同世代ゆえに、開高健らしからぬシッポを見せた破調の下りがあったので引きたい。

砲兵工廠跡(1954年).jpg

 「“近代”の懐疑の毒気に犯されて”超克”を試みた作家は日本にも無数にいた。その“近代”はどこかクラゲに似ていた。足が細く、頭だけ大きく、透明で、ぷるぷるしていた。どんな色にでもたやすく染まるのもクラゲにそっくりであった。昨日ヴァレリーと叫んだのが今日はミソギと叫んだ。純粋の魔が叫んでいた。美しく死ぬことは美しく生きることであるとおごそかに書きたてて無数の若者をそそのかし、自分はちゃっと火の粉のかからぬところによけ、新秩序が八月十五日に崩壊しても自殺しなかった。イモを食べながら口のなかで何かブツブツといい、ペンをとりあげて、またしても“純粋”と書きだした。ヤマト人たちは彼らを許した。戦前も“純粋”、戦中も“純粋”、戦後も“純粋”。もはや戦後でなくなるといよいよ“純粋”。ヤマト人たちは純粋と聞かされるといつでもたまらなくなり、トメドなくなる性質を持っているので、責任を問うことなど、ヤボではばかられた。責任は限界である。純粋は無限である。どんな時代にも通用する」(昭和40年8月1日『日本』『小田実「戦後を拓く思想」』)

通天閣(1963年).jpg

 横光利一(1898-1947年)が「文藝復興はあり得ない」と叫んだ「純粋小説論」が想い浮かび、小林秀雄(1902-1983年)の「私小説論」も浮かんだ。昭和10年頃の文壇でのあれこれだ。
 それから7年後には世の中は戦時色が濃くなって、「近代の超克」と銘打った翼賛会的なシンポジウムまで開催された。
 開高のこの文章で対象となった人々の中には、日本浪漫派だけでなく、河上徹太郎(1902-80年)も入れば、京都学派四天王の高坂正顕(1900-69年)も鈴木成高(1907-88年)辺りまでをも包含していると捉えるべきだろう。
 「昨日ヴァレリーと叫んだのが今日はミソギと叫んだ」
 憎さ余って、つい、たたらを踏んでいる。
 見ろ、小林秀雄を筆頭とする世代のメジャーな書き手に開高の筆は殆ど及んでいない。筆が及べば必ず血が流れただろう。分かっていたから書かなかったと考えるべきだろう。しかし開高健にも例外はある。井伏鱒二(1898-1993年)と金子光晴(1895-1975年)ときだみのる(1895-1975年)と渡辺一夫(1901-75年)は別格。というわけで、本稿、明日も続く。


追記
昨日はイワシ食いながら密談。出光の合併工作ではないけれど、ここに来るまでは色々あった。日本はこらからさらにやるべきことが多くて大変なのに西日本はこんなことになつとる。厳しい条件の中で、そろそろエネルギー改革に手をつける絶好の機会かも知れん。
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