岡田純良帝國小倉日記

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山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ壱)
4月20日
山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ壱)
 「山岡鐵舟 幕末・維新の仕事人」[佐藤寛著, 光文社新書]
 さて、以下は鐵舟・鐵太郎に関連する自分の絡む話になるので蛇足になる。
 まず、随分前だが、鐵舟のお身内にちょくちょくやり取りする知り合いがいた時期がある。姓は山岡さんというのだが、元々鐵太郎は山岡家ではなくて小野家に生まれた。山岡姓を名乗るのは結婚以降で、槍の師匠だった山岡静山の死んだ山岡家に婿養子で入ったため。
 「研究会まで作って熱心に研究されていますが、私らは普通の人間ですからね」
 山岡さんはそう言ったことがある。
 鐵舟は「禅」、「剣」、「書」の達人としても有名だが、達人として人生の大半を費やした人物でもあるから、祖先の鐵舟は、海外を忙しく飛び回るような子孫にとって、実はややこしい存在でもあった。
 鐵舟は最後には皇居を遥拝して座禅を組んだまま死去した。死因は胃癌といわれる。死期を悟って、参内し、天皇に拝謁した。天皇には(成人して以降ではあったものの)御用掛だったから、その存在は大きかった。
 晩年は、道場を開き、生活のために書を書き与えたため、弟子・門人・食客は無数に多かったから、会葬者は5千人。棺が皇居前を通過する時、明治天皇は皇居で鐵舟を黙送した。実際に殉死をした人もあったし、殉死の可能性のある人は警視庁に身柄を拘束された。
 山岡さんは謙遜するような十人並みの人ではなかったが、俺が付き合っていた時代にすでにあった山岡鐵舟研究会(http://www.tessyuu.jp/)と少し距離を置いていたようなところがあった。

       山岡鐵太郎 (1).jpg

 それはそうだろう。祖先の鐵舟の存在は有り難いが、朝から晩まで、鐵舟、鐵舟、と熱く語る人たちとドップリ付き合っているわけにいかない。だから身内として鐵舟の創建した谷中の「全生庵」(http://www.theway.jp/zen/index.html)での法事を執り行う時だけ忙しくされていたような記憶がある。
 また、その「書」については直接扁額を見る機会は無かったが、書を依頼した幕臣には話を聞いたことがある。これもまた何時もの話だが、鐵舟の書は愛宕山下の明治期に創業された古い印舗の扁額にあった。
 明治時代は日比谷公園ではしょっちゅう壮士の集会が行われていたという話を聞いた。演歌の始まりでもあり、自由民権運動のあけぼの時代の話である。
 「この辺りも随分とそういう人が行進して盛んに気炎を上げていたそうです」
 そういう人たちの中心となったのは不平士族だったのだろう。
 扁額は店舗と共に関東大震災で焼け落ちた。その後、どんな経緯かこれまた知れぬが、先々代が頭山満に扁額の揮毫を依頼した。鐵舟から頭山満。近現代の超国家主義者の系譜でもある。
 山岡鐵舟―頭山満である。どういうオッカナイ家柄だと腰が引けそうなところだが、眼の前の主人は小さく穏やかな女性だった。
 「家は幕臣で、山岡さんとは行き来があったそうです」
 そしてそのSさんの家はビルの谷間で潰されそうな小さな木造の店舗兼住宅だった。
 だから俺は頭山の書は観ている。「超」のつく無骨な書で、ヘタクソも甚だしいもので、いっそ爽快とも言えるものだった。あまりに下手なので俺は彼女に質問したのだった。
 S家では幕臣として鐵舟と往来があり、武士の商売で店を始める時に揮毫を頼んだと聞いているとその老女は言った。彼女が元気ならChuck Berry(1926-2017)の卒寿を超えているだろう。俺が日本で使ってきた銀行印はこの店で作ったものだ。
 

追記
体調不良。どうか知らん。基礎体力の低下か知らん。困ったものであります。
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