岡田純良帝國小倉日記

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Clashのアジト、「Rehearsal Rehearsals」を訪ねて(番外賛)
2月1日
Clashのアジト、「Rehearsal Rehearsals」を訪ねて(番外賛)
 話をPunk Bandのモノクロ写真に戻そう。
 Punk Bandを撮った写真のオリジナルはモノクロのフィルムだったという事実はPunk MovementがReal of Real on the Streetsだった何よりの裏付け。コイツは勲章だろう。
 会場でかかっていたバンドを記憶している順に挙げてみる。
   1. Sex Pistols
   2. Clash
   3. Damned
   4. Jam
   5. Generation X
   6. Eddie and The Hot Rods
   7. Adverts
   8. Undertones
   9. Saints
   10. Wire
   11. Johnny Thunders and The Heartbreakers
   12. Blondie
   13. Patti Smith Group
 先日のDonald Trumpの就任式で、「核のボタン」を手渡した前大統領・Barack Obamaの音楽コレクションの中にはPunk Bandのアルバムが含まれていることを想い出した。Sex Pistolsの「Never Mind the Bollocks」、Ramonesの「Rocket to Russia」もあった。Whitehouseが公式に認めた。音楽史だけでなく、合衆国の社会史上、多分、有色人種のObamaの大統領就任は画期的な社会的な事件となるだろう。
 彼がずっと続けていたBlues、Soul、R&Bといった有色人種を中心とする音楽関係者によるWhitehouseでの定期的なコンサートは大統領自身の意思を感じるまことに意義深いイベントだった。
 Iggy Pop(1947年-)はStoogesで「Rock and Roll Hall of Fame」入りする時に、
 「虐げられても音楽を続けて来た全ての人たちに」
 と謝辞を送った。別れた妻は黄色人種(日本人)でもあった。また、イギリスになるが、Paul Cook(1956年-)の妻も有色人種(黒人)である。

Johnny Rotten (2)

 大国は英国病に悩み、不況だったから70年代後半の音楽雑誌の大半はタブロイド版でモノクロ印刷が基本だった。変わり者のPete Frameの創刊した「Zigzag」は煙草の巻紙に印刷していたが、77年に編集長が後に伝記作家になるKris Needs(1954年-)に代わってPunkを追いかけるようになった。誰も彼もPunkを商機と見て一口乗ったのだ。
 今は無い銀座の「イエナ書店」で買った洋書雑誌では、78年に出たアメリカの「Punk」は、Sex Pistols最初で最後のアメリカ・ツアー特集が組まれていて、雑誌真中はフルカラーのページが何枚か組み込まれていた。但し、これはカルトなオタク雑誌である。
 日本では、1979年の1月にシンコー出版から創刊された「ジャム」はフルカラーだった。表紙こそBruce Springsteenだったが、真中辺りにはSid Viciousのインタビューが掲載されていた。しかもそれはオリジナルのカラー写真が添えられた独占インタビューだった。
 「Sid Viciousのカラー写真が載った雑誌があったのか!」
 遠い昔、アメリカ人に驚かれたことがある。ここまで考えて、初めてその言葉の真意が分かった。Punkだけでない。QueenやCheap Trickも、世界で初めて「発掘」されるほどキッズにセンスと購買力があった日本が特殊な地域だったということが。
 Londonを離れてNew Yorkに飛ぶ直前、78年の夏に創刊編集長の水上はるこが取ったインタビューは4ヵ月後の雑誌創刊に合わせて掲載された。Sid Vicious(Nancy Spungen)の肉声は「ナイフの街に愛が死んだ」と題され、79年1月の「ジャム」創刊号に間に合った。
 誌面は3ページのフルカラーで、水上はるこは2人が暮らしていたアパート(3 Pindock Mews, Mada Vale)までカメラマンを連れて出向いたのだ。
 その部屋は、インタビュー後、8月末のVicious White Kidsのコンサートの打ち上げの夜に薬物の過剰摂取で死人が出た。水上は事件の起きる前にインタビューを取れたのだが、その後、2人はNew Yorkに飛び、そして10月には、Nancyは「Chelsea Hotel」の部屋で腹にSid Viciousの愛用のナイフを何者かに突き立てられた状態で発見された。
 インタビューのタイトルはNancyの殺害事件を意味しているが、雑誌が本屋に置かれている79年2月の俺の誕生日(2日)にはそのSid ViciousがNancyの後を追ってヘロインで死んでしまう。その間にフルカラーで彼らのインタビューが掲載された雑誌があることは、日本以外では殆ど想像も付かないことだったのだ。

Sid Vicious, Nancy Spungen and Johnny Rotten at 45 Gunter Grove June 1978

 丁度、その時期は俺にとって高校受験直前だった。今にして想うと俺がPunk Rockに急激に傾いたことを笑った少年たちは、イギリスなら、変わり切れないOld SchoolのPub Rock Fanだった。「Trainspotting」なら排他的なFrancis Begbieでもあるだろうか。彼らとの間には埋めようのない溝が生まれていた。旅立つ時期だったのだろう。
 70年代らしい「シティー・ライフとロックが出会う音楽雑誌」とサブ・タイトルが付いた「ジャム」の功績は、一度しっかり光が当てられてもいいだろう。Adrian Bootらが戦場のようなLive Houseでモノクロ・フィルムを巻き上げている頃、水上はSid Viciousの住む部屋にカメラマンを同伴し、カラー・フィルムで彼らを撮らせていた。大したものだ。

      Johnny Rotten (1)

 その次の創刊第2号はPatti Smithが表紙だが、Johnny Rottenの独占インタビューが掲載されていた。Sex Pistolsの解散後として、事実上、世界で初めてのものだったと想う。水上が突撃したのはChelsea地区にあったフラット(45 Gunter Grove Kensington London SW10)でなく、SOHO地区にあった日本料理屋だった。
 Sex Pistols解散後、あれほど騒がれていた男が独占的にインタビューを受けたのだから、Johnny Rottenは水上はるこを深く信頼していたのだろう。一連の独占インタビューは、俺には大事件だった。それを今、ハッキリ想い出した。15歳の誕生日の前後のことだった。



追記
1月のご愛顧=帝國:小倉:米國=18,980(27,773←15,087←15,435←16,504←17,148←16,538←18,202←18,597←23,362←19,300):3,638(5,839←3,696←3,122←4,360←3,409←3,992←13,022←7,903←4,917←4,425):1,234(471←463←438←813←460←743←361←926←747←789)=68%:62%:262%=23,852(34,083←19,246←18,995←21,677←21,017←21,723←31,585←27,426←29,062←24,514)70%

追記の追記
そろそろ寝るズラよ。体力が落ちているズラよ。困ったねえ。
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