岡田純良帝國小倉日記

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立花隆の世に出た陰に。
2月19日
橘孝三郎から立花隆へ続く水戸ッポの怨念。
 いささか旧聞に属する話になるが、「文芸春秋」の2月号誌上に、ノンフィクション作家・保坂正康が書いた「私が会った『昭和史の証人』秘録」が掲載されている。中に、五・一五事件で青年将校の思想的指導者となった「農民同志」こと、農本主義塾の「愛卿塾」主催者、橘孝三郎に関する記述があった。
 丸山眞男は橘孝三郎のことを典型的な日本型ファッショと呼んだが、旧制水戸中学から一高に進んだ後、卒業直前に郷里に戻り帰農した変り種でもある。だから武者小路実篤が起こした宮崎の「新しき村」と並んで、橘が1929年に始めた自給自足組合「愛郷会」は、東の「新しき村」として世間から脚光を浴びた。
 高学歴で資産家の帰農は、大正デモクラシーの中で、当時は一種の華々しい英雄的行為だった。しかし、「愛郷会」結成に至る頃までには、橘自身、幾度かの失敗を重ねており、県から招かれて農村振興の策を述べる中で、県内には次々に同様の組織が生まれていく。唱道家であり教育者のタイプである。
 しかし農村の組合活動は、実利を目指す農民との思想の違いなどで失敗を重ね、やがて弟子の手引きで血盟団事件の首魁であった井上日召らと出会うことになる。周囲の農民の期待と自身の理想の違いとに失望した橘は、発電所の攻撃によって、都市生活者にとって農耕の重要性の見直しの契機が生まれることを目指し、直接行動を志向する。
 橘孝三郎――水戸に隠棲していた老獪なアナキストとして、こちらの古い記憶にあった。五・一五事件で無期懲役を宣告されて下獄した男は、三島由紀夫の自決後の楯の会会員の導師として、隠然たる力を持っているといった伝説は、1970年代後半(昭和五十年代前半)の水戸の近辺に、まだ薄っすらと残っていたためである。
 そして、保坂の記した橘孝三郎の言葉からある推論と共に疑念も浮かんだ。調べれば、推論は事実のようだ。だが、疑念は拭えない。この件は、後々、調べようと想っているが、今日はこちらの考えた推論と疑念だけを記すことに留めたい。
 保坂正康は、1972年(昭和47年)の秋から翌年夏まで、毎月2度ほど水戸で存命中の橘を訪れて、聞き書きをしている。まず、当時80歳になろうとしていた橘の言葉を引用する。
「君と同じ年代の親類の者がジャーナリズムにいる。それが田中(角栄)批判のレポートを書いた」
 保坂正康は知っていて抑えているようで、ここでは全く触れていない。このレポートは、立花隆が、1974年11月、「田中角栄の研究〜その金脈と人脈」と題して「文藝春秋」に発表したレポートそのものを指している。
 立花隆の本名は橘隆志であり、その生年は1940年。保坂正康は1939年生まれである。さらに言えば、立花隆の父親・経雄は2005年9月に95歳で死去したが、「全国出版新聞」、「読書タイムズ」の編集長をつとめ、「週刊読書人」の創刊に加わった言論人だ。
 戦前、橘経雄は日本各地で国漢の教員を勤めており、戦中には、北京市立高級中学でも教鞭を取っていたと息子は記している。立花隆は戦後の混乱期、家族と共に、父の郷里の水戸に引き移り、水戸一高から上野高校に転校するまでの間は水戸で育っている。
 人々を教え導き、農村を改良しようとした孝三郎と、子供に国漢を教えるために戦前の北京で教壇に立った経雄は血筋で繋がっている。1893年生まれの橘孝三郎と、1910年前後に生まれている橘経雄は、叔父と甥っ子の関係にあったのか知らん。隆は孝三郎と遠縁にあると幾つかのサイトにあるから、かなりの確度でこの読みは正しいように思う。
 そして、疑念の方は単純である。
 「君と同じ年代の親類の者がジャーナリズムにいる。それが田中(角栄)批判のレポートを書いた」
 と語った橘孝三郎は、この保坂正康の文章では、1974年の3月に亡くなったことになる。立花隆がレポートを発表したのはその年の11月であるから、どうあっても証言は喰い違う。あるいは、保坂の筆が滑ったのか、あるいは立花隆は橘孝三郎と経雄を通じてなんらかの交流があり、隆がいずれ田中角栄に筆誅を加えることを前もって知っていたか。ならば、正確には、橘は“レポートを何れ書くだろう”という言い方をしたのか知らん。
 とまれ。
 「田中(角栄)によって日本社会と日本人は軸を失うだろう」
 産業革命以後の人類史に批判的であった橘孝三郎は、保坂正康に向かい、絶頂期の田中角栄の著した「日本列島改造論」を引き合いに出して、こうも語ったという。
 当時の水戸では角栄を見つめる冷静な視点もあったかも知れないが、徳川に駆逐される前の佐竹藩のお膝元、常陸太田の辺になると、国政に送った若い梶山静六への期待で沸き立っていた記憶がある。
 「静六さんはすごい」
 身内の大人がうなされたような声で言ったその口ぶりには今も心に残るものがある。
 まぁ、保坂正康の活動を顧みれば何より聞き取りに労力を費やしてきた人であるから、ここは、橘の証言が意図的に脚色されたとは考え難いところだろう。つまり、立花隆は、間接的にせよ、生前の橘孝三郎と行き来があったのではないか、という推測にどうしても行き着く。
 もしそうであるなら、立花隆は、何時か血縁の橘孝三郎の評伝に取り掛かるべきだろう。「知の巨人」と持ち上げられる人ならば、公表された書物に留まらずに、一族に口承される逸話、日記・手紙の類、反古、果ては家の襖の下張りを引き剥がしてまでも、橘孝三郎の真の姿を伝えることは、現代までの日本社会が辿ってきた裏道を解き明かすことになる。これは、職業的な義務であろう。
 さらに、たとえ橘孝三郎の拠って立っていた位置とは、戦後育ちの立花隆の思想や理念、興味とは遠く隔たりがあったとしても、なおのこと、書かれるべきだろうと想うのである。
 なぜか。
 水戸学の農本主義の怨念は、たった今でも、中空を当て所無く漂っている。
 くどいが、
 「君と同じ年代の親類の者がジャーナリズムにいる。それが田中(角栄)批判のレポートを書いた」
 というこの証言は重い。
 立花隆が世に出るレポートを、老いた大叔父が楽しみに待っている姿を、こちらは脳裏に想い浮かべるばかり。五・一五事件で犬養毅に向けて火を吹いた銃口は、40有余年後に、親戚の青年の手のペンへととって代わり、「今太閤」に向けられたことになるからである。


追記
暫く日記を書く暇もねえっぺよ。
| 10随想 | 17:00 | comments(1) | -
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コメント
立花隆は「孝三郎」を書かないと思います。
今から30年前、児玉清氏の「寂しき越山会の女王」に
比べ、「田中角栄研究」の角栄という存在に対する冷たさの理由が理解できたような気がいたします。
| SS | 2007/09/23 5:18 PM |
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