岡田純良帝國小倉日記

衣奈多喜男遺徳吹き荒れる都立美術館。
9月1日
衣奈多喜男遺徳吹き荒れる都立美術館。
 昨日は某所にて一瞬の嵐に遭遇。大暴風。これが北関東のゲリラ豪雨かとまさに仰天。急に低く濃い雲が現われてバケツを引っくり返したような太くて水滴の重たい雨を降らせた。

20180831 東京都美術館.jpg

 夜半、電車遅れつつも何とか上野。俺には懐かしい大連駅。東京都美術館。アッツ島玉砕は15年以上ぶりに再会。争闘は初見。
 「朝日新聞 没後50年藤田嗣治展」[記念号外]に腰を抜かす。何で今頃。藤田を追放するお先棒を担いだ、アンタらの心の痛みがそうさせるのかや。今年の賞与は3桁に届かなかったという話もあるが、真実は何処にありや。
 考えてみれば、朝日の文化事業部は、「最後の特派員」の衣奈多喜男以来の伝統で、俺に言わせれば、元々の源流はむちゃくちゃやりよる「やっちゃれ会」の系譜ではあるけえねえ。
 50年前には門外不出のツタンカーメン王をフランス政府に掛け合って引っ張り出したのは、その衣奈多喜男大明神じゃけえ。やれい、やれい、やっちゃれい!

「朝日新聞 藤田嗣治没後50年展覧会」 記念号外.JPG
| 6旅・行動の記録 | 16:25 | comments(0) | trackbacks(0)
離島はビーチだけでなし、銭湯もたまには。
8月16日
離島はビーチだけでなし、銭湯もたまには。
 奄美第二のシマ古仁屋にはイギリスのすかしたゴルフ好きのセントアンドリュースみたいな聖地があって、ここは俺のような旅人には外せない場所なのだ。
 平成に入って有志諸兄の奮励で大改修成った高千穂神社に参拝し、汗みずくになるべし。そしてその汗を流す前に島一番の名物かりんとうを買って、そして、そろそろと潜れ、もうひとつの聖地・嶽乃湯ののれんを。

奄美ツアー 20180814 (嶽乃湯) (1).jpg

 高千穂神社は創建不詳とされているが、御維新の後、明治二年に創建したと考える方が妥当にも想う。この辺りは琉球貿易が盛んだったこともあって、宗教的には緩い政策が続いていたからだ。
 加計呂麻島のデイゴ並木をリリーと寅さんのナニだとばかり想うのはおめでたい限りだが、少し気の利いたやつはデイゴ並木を植えた理由は4〜5月に一斉に真っ赤な花をつけるデイゴが、琉球貿易の密貿易船の目印だったと知れば別の面も見えてくるだろうさ。

奄美ツアー 20180814 (古仁屋高千穂神社).jpg

 古仁屋では、有志諸兄のなけなしのへそくりからの奮発も立派だが、ヌーンと想わされたのは参道には徳田虎雄の石柱。徳洲会の寄進も大きなものがあったろう。
 徳田虎雄も離島でのビジネスモデルを作り上げたんだからなあ。地元の人々には頭が上がらんだろう。
 敗戦前には昭和天皇、高松宮、敗戦後にも天皇の行幸で高千穂の坂を皇室のお歴々が登られたと聞く。
 まぁ、俺のような出来損ないは、ゴルゴダの坂を登った誰かの気分で大汗をかいて、境内から加計呂麻を遥拝し、麓の嶽乃湯で、南国らしいぬるいお湯でさっぱりとする辺りが上出来というもんだぜ。
 嶽乃湯の女将さん、お二人のご老人、お世話になりました。お元気でお健やかに。

奄美ツアー 20180814 (嶽乃湯) (4).jpg


追記
名瀬に戻り某所に。三元豚ばら肉のシードル煮が旨かったでぇ。これから風呂に入ろうと思うのだが、すでに因幡の白ウサギ状態。痛いの痒いの。ヌーン。
| 6旅・行動の記録 | 14:51 | comments(0) | trackbacks(0)
吉田五十八の仕事――山口蓬春邸。
8月14日
吉田五十八の仕事――山口蓬春邸。
 5月の連休には山口蓬春(1893-1971年)の家に行ってきた。
 この山口蓬春という画家は、藤田嗣治(1986-1968年)が日本を去った後にも、フランスの藤田と文通があった。同業の画家としては珍しい。戦争画を描いた仲間であるが、山口に対して藤田は心を開いていたと言えるのではないかと俺は前から感じている。
 山口は松前藩のあった松前城下で生まれたが、親は日銀勤務で、10歳の頃には上京した。東京美術学校の西洋画科に入ったが、後に日本画科に転じ、その後、半世紀以上にわたる長い間の画業で作風を変えていったのは知られているところ。
とりわけ出発点の西洋画と転じた日本画と、どちらとも取れないような画風やモチーフ、光の取り入れ方で、蓬春モダニズムと呼ぶべきスタイルを確立したところなどを考えると、蓬春も藤田には共感を抱くところがあったように想う。
近代美術館にある「香港島最後の総攻撃図」などの細密な建築物のデッサンと白い建物の肌、燃え上がる炎を見ると、藤田作品とも通じるような視点を感じる。
事実、蓬春自ら、「その色彩の美しさを描きたかった」と語っていることからも伺える。

20180430 葉山散策 (掲載1).jpg

 建築家の吉田五十八(1894-1974年)は美校生時代からの蓬春の親友で、敗戦前に住んだ代々木上原の邸宅と画室を設計したのも吉田であった。戦後の超住宅難の時期に、葉山に何とか作業場を確保した山口へ、終の棲家のこの家を買うように勧めたのも吉田である。
 建物は昭和初期のもの。蓬春は何度か増改築を行って現在の邸宅に変えていったのだが、この家の画室を設計したのも吉田なら、山口の墓石を設計したのも吉田であった。
 俺は吉田五十八の数寄屋造りがモダンで元々大好きなのだが、この山口蓬春の画室は、中でも吉田の数奇屋モダンの象徴のような気がして、ずっと長い間の憧れだった。
 憧れは期待に全く違わず、65年前の和風建築物と思えないほど程度良く保存されており、建材も普請もしっかりしている。正目の床、柱の建材の使い方の贅沢さに痺れた。
絶え間なく鶯の声が聞こえ、新緑の中に有名な山口の枝垂れ梅が見えた。陶然となり、憧れの建物の中にいる嬉しさにうっとりとなった。



 こんなにも落ち着いて、緑陰の中でも十分に明るさの楽しめる建物に暮らしていたら、もう、外出などしなくともいいような気持ちになるだろう。
画室を増築する前に画室にしていた二階部分からは一色海岸が見渡せ、少し上に登れば富士山も見えるだろう。梢を揺らす風と、鶯と、時折、そこに鳶の呼び交わす声。
 金銀財宝などと無縁だが、何と贅沢な建物だろうと想う。
 巨大なガラスのはまった四枚の引き戸は戸袋に吸い込まれ、全開にすることができる。窓際から一段高くなった画家の座る内側の床には画家のすぐ脇のところに障子を引く溝が切ってある。障子で全面のガラス窓から差し込む光が明る過ぎる日でも、室内の明るさを柔らかく調節することができるようになっている。

20180430 葉山散策 (掲載3).jpg

 驚いたのはさらにガラス窓の外の雨戸で、八本の溝が切ってあり、八枚の雨戸を順繰り引いていく仕掛けになっているのだろう。その溝の直線が美しい。
 画室の裏にも白い小石を敷き詰めた庭が拡がって、そちら側にも大きな窓が切ってある。前庭から後ろ庭まで表から見通せる窓の明るさ。
和風建築でありながら、モダンな思い切りがある。直線の緊張と和風建築に不釣合いな室内の明るさがある。正目無垢材の端正な美しさに圧倒されて、すっかり頭に血が昇った。日本人に生まれて良かったとしみじみ想った。宿願を果たしたので、心持も充実した。


追記
本日は某所に移動日。バスにこんなに乗るのはロンドン以来かなあ。便利かつ唯一の公共移動機関でもある。バスから見ることのできる街の成り立ちはトンネル工事と埋め立て。そして異様なほど巨大で多い大病院だわね。離島での医療ビジネスは美味しい証拠。昭和時代の徳田虎雄と保岡一派の激突を思い起こさせられますわなあ。俺には住めんなあ。ヌーン。
| 6旅・行動の記録 | 06:11 | comments(0) | trackbacks(0)
平成三○年みたま祭り。
7月14日
平成三○年みたま祭り。
 昨日からみたまさんが始まっておったけえね、行って参りました。今年は仏法でいう新盆が2人あって、神道式では2柱ということになるかいね。
 みたまで靖國に通うようになって、もう四半世紀近くなるけれども、15年ほど前までは境内に必ずおった元海軍、元陸軍の兵隊の姿を見かけなくなった。とうとう、戦争が終わった、いうことじゃろう、想う。
 春に浜名湖に隠棲していた伯母が亡くなり、先月、父が亡くなった。靖國神社には義理の祖母の國榮の永代供養の提灯が毎年出ているので、今年も確認して拝んで来た。
 父は呉で生まれて、関東で死んだが、息子は、父の生まれた隣の町くらいで数年遅れて生まれた男の子と女の子が結婚してもうけた娘と所帯を持ったわけだから、まぁ、呉にはよくよく縁が深い。
 祖母と義理の祖母はケンジョの先輩後輩で、義路の祖母はいよいよ百歳を目前にしていて、海軍にも縁が深いかも知れない。
 
  20180714 みたま祭り (5).jpg

 靖國での再会を約して死んだ親戚が何人もいるので、靖國神社に来ると何となくホッとするわけだが、その靖国も年々歳々変わっている。
 屋台が参道にびっしり並ぶ風景が消えた代わりに、南京虐殺の噓とか、教科書問題を糾弾するとか、境内到る所にオヂサンたちが立っていて、ちらしを配布している姿は目立つようになった。
 ずんずんと参道を進んでいくと、全国から集っていた高市のような屋台が消えたと想っていたのに、麹町警察署、麹町消防所の警戒本部のテントとALSOK警備本部のテントが仲良く並んでいる一般道の手前に半円の側道が左右に造成されていて、その一角だけに屋台が押し込められているのだった。

       20180714 四川豆花飯店 (1).jpg

 これも大きな変化だろう。日本全国から永代供養の大提灯が並んでいて、屋台を置かせるだけの場所を参堂に確保することができないのだ。遅かったか!
 「二、三年前に締め切りました」
 靖国に永代供養の「岡田純良」の提灯を出そうと想っていたのだが、時遅く、これまた、已む無し、である。

  20180714 みたま祭り (2).jpg
 こちらの写真では見えないが、靖國神社の第二鳥居は大阪砲兵工廠が明治二十年に鋳造
 した歴史的な構造物でもある。近寄ってペタペタと触ると、靖國のみたまのぬくもり
 どころか目玉焼きができそうな青銅の重みに弾き飛ばされそうだったわい。
 第二鳥居の目の前にある大村益次郎像だが、大阪砲兵工廠の設置を命じたのは大村本人。

 帰途、大手町の丸の内線ホームで「ジャンプ展」のポスター。新丸ビルで四川料理。花椒まみれになって汗ドロドロかいて帰宅。

ジャンプ展.jpg


追記
そろそろ起きるけえ。一つ大書しておきたいのはこれだわいねえ。

現場の事情も知らんくせに。

もうボランティアを泊まらせる

場所も駐車場もないねん。

NHKのボケ!




| 6旅・行動の記録 | 17:32 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜の風(2)――風水が治める星港。
6月19日
亜細亜の風(2)――風水が治める星港。
 Merlionは2002年にアジア通貨危機で揺れるご当地星港では、都市全体を揺るがせる大論争に発展した。
 Merlionは70年代にLee Kuan Yew(1923年-)が設置した人工的なLandmarkだそうだ。星港の役人は、昔から日本には天然資源が無いと言うが、観光資源はあると言う。

   20180613 (18).JPG
  お忍びでなく、命懸けで独裁者が異国で敵対国の首脳と会談する場合には、夜間に危険
  を顧みずに移動するのには、それ相当の理由がある。そのそれ相当の理由を考えた時、
  まず今回考えられることは、こんなことだろう。南はスルーされる可能性が高いという
  話も聞いたぜ、俺は。

 2002年の通貨危機の結果、風水的に場所が悪いから、僅かな距離でも移そうという話に国論が一決して、Merlionは移動し、そして、巨大になった。そして今や、対面にあった荒涼とした埋立地の開発と共に、某金帝国の独裁者さえ見学に出かける一大スポットになったのだ。
 日本人はそういう彼らの言葉こそ、聞くべきなのに、聞かなかったから、Merlion観たさに善男善女がこうして集まるようになった。
 Mr. Kimは聞く耳を持っているから、白頭山をはじめとして、必ず、かの国にインバウンド産業を盛り立てるためにこれからあれこれと新しいことを始める。
 そのノウハウを教えるためにSingapore Economic Development Boardはかの土地に投資をするだろう。そうなると資金の還流はどうなるか。獄中⇒星港⇒白頭山⇒獄中と、極東の島国とは無関係な海岸に沿った流れができる。

20180613 (Cathay Pacificのお粥).JPG
  鶏肉のおかゆが出てきたので、すっかりQuantasの御姐ちゃんには随喜の涙。これまた
  白も南半球の濃厚なブツが出てきた。かのエアラインのワイン品評会は歴史も長くて、
  南半球のワイン業者ににとって、死活に関わる重要なイベントになっている。品評会で
  蔵出しされてきたワインだもの、ビジネス・クラスだってそこいらのファーストよりも
  ずっと美味いぞ。そして気前良くずんずん注いでくれるから眠れんかったワイナリー。
 
 俺たちはあの首脳会談の翌朝に当地に入った。そしてその晩に、2日前にMr. Kimの歩いたという場所を運ちゃんに心付けをはずんで案内して貰ったのさ。
 1970年代にはまだ星港は産業集約の拠点でもあって、日本の製造業には、進出する投資先として魅力的な時代が、短かったものの、確かにあった。それだけインセンティブを付けて投資を募ったからだ。日本企業はそういう点しか見えないし、見ない。スパンの長さと深さは政府とは違う。
 マクロな見立てをしていかないと、尻小玉を抜かれっちまうのだが、さて、この辺りの怪情報は、ニッポン政府はどれだけ入手しているか知らん。
 Me. Kimが国を開くコトに本気なら、やれることは幾らでもある。金が還流する流れがあれば、人も還流するから、犠牲者達も必ず戻ってくるはずなのだ。やれんねえ。
 そんなこと、考えている人がおるか知らん。おっても、クチにしないんでしょう。それでいいのか知らん。
 「そんなこと、どうでもいいじゃない」(by 野口五郎岳)
| 6旅・行動の記録 | 19:46 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜の風(1)――香港の女。
6月17日
亜細亜の風(1)――香港の女。
 香港の街まで空港から足を伸ばして歩くのは12年振りで、上海の林立するビル以上の密集度には驚いた。
 New Yorkの林立する高層ビルが世界的な富の象徴だったのは1980年代くらいまでだろうか。香港も摩天楼は言われたけれども、もう、どの都市も突出した摩天楼の街ではなくなってしまったわけだ。相似形で、全て特徴が薄れて、街のキャラクターが見え難くなってきたとも言えるわけだけれど。
 若い男は無口だったのが、慇懃無礼になり、図々しくなった。それでも、変わらないのは香港は女たちで、投宿したテルホの客室係とか飲食店のチャンネーたちは客あしらいがうまく、嬉しくなるようなサービスだった。

20180612 (20).JPG
 ベッドの上にちゃんと浴衣があったよ。バスルームにはバスローブがあったけれども
 浴衣よね、日本人なら。起毛したバスローブはゴワゴワしていてその内冷えてくる。
 浴衣があって小さく「お1、やったね!」と、快哉を叫んでしまいましたよ、わたしゃ。

  ホテルのティー・バッグに普洱茶があったのが嬉しかったねえ。そんなことで喜んでいるようでは俺っちもそこの十人並みの飼い慣らされた中年オヤジと何ら変わらないわけなんだわねえ。
 っていうのも、高級俱楽部で飲茶した程度。香港のざっかけないおばちゃんたちのいる店で飲茶ができなければ、香港に来た意味が如何ほどあるかといおうか、精神が解放されないといおうか。

           20180612 (16).JPG
 部屋のティーバッグに普洱茶があったわけだ。こういうの、緑茶なんかを出さなかった
 日本で、再評価されて慌てて玉露を出すようになった道行きとも似ているわけだけれど、
 ずっと香港の方がしたたかで、トッポイねえ。

 今の横浜や神戸の中華街に、1980年代の面影を求めても無駄なことと少し違っていて、彼らは彼らなりにどんどん発展を続けていて、円という通貨が弱くなっていくと、もう、高値の花になってしまう可能性を感じた。
 横浜も神戸も発展を続けているけれど、老人大国のデフレという特殊な進化系で、神戸で豚マンの列に並んでいるアジアの観光客諸兄姐にとって、並ぶのは安価だらかでも食欲からでもなく、観光の楽しみとして苦痛に絶えているということに我々は今さらながら気付かなければならないわけだ。
 ともあれ、俺は香港の到るところにいるチャンネーたちの心遣いに泣けました。うなるような大金を懐にしているおねえちゃんも、ニッコリ。
| 6旅・行動の記録 | 15:14 | comments(0) | trackbacks(0)
衣食住足りて――どこへ行く獄中(上)。
6月11日
衣食住足りて――どこへ行く獄中(上)。
 先日の某国某所では半日以上、某さんと一緒に膝を突き合わせて色々語り合った。彼のような政府と着かず離れず、しかし緩急自在に距離感を操る人物が某から会いに来ることそのものが異例のことなんだろう。
 当地の○○が驚いて会食を設定した。豪華な場所は止めて△△時代に通った懐かしい店の□□分店らしい「○○○○」を指定した。
 当初はサシで□□の下町の飲み屋に行っても良かったのだが、まぁ、そこは人間が合い寄れば直ぐ政治になる。已む無しである。
 この折、紙袋一杯に資料を持参した。1920〜30年代の某所と某所の古地図を渡した時の某さんのリアクションが面白かった。“小倉の料理番長”が国会図書館まで足を運んで、小倉の図書館で発見してコピーし、フエキ糊で貼り合わせて作った△△や□□の古地図。
 確か2006年頃に作成した大判の古地図が出国直前に転がり出て来た。租界が出ている。○○門が出ている。○○大路が出ている。△△も□□も、今ではすっかり変わり果てた。
 「これは」
 某さんは声を詰まらせた。
 「この地図を片手に歩いて李香蘭(山口淑子)の家や小澤征爾の家も探し当てましたよ」
 「そうですか……」
 昔は、何時も持って回った尊大な言い回しをする人だったのに。

20180323 12年ぶりの上海飯は弁当.jpg
 12年ぶりに行った都市で喰わされた最初のシーメ。ナンチャッテ・ハコベンだった。
 20世紀の末に世界のどの地域でも評価を落としたのが獄中飯だったろう。引き換え、
 和食は圧倒的な評価で受け容れられ瞬く間に伝播した。何百年も華僑が営々と築き
 上げてきたモノが僅か四半世紀で瓦解したのはメインランドから流出した者の喰い、
 調理した料理の不味さゆえだ。誰も言わないが、これは、人類史に特筆すべき共産
 主義の及ぼした悪の一つだろう。ここに記しておく。この白米の盛り方。どこにも
 美感も気遣いも、ホスピタリティーさえも無い訳よ。味が分かろうというものさ。

 彼の地では手に入らない古地図。そんな古地図に声を詰まらせるとは、某さんも孤独に奮闘して長くなり過ぎたのか。それが、彼の国の伝統的な知識人の味のあるところだ。
 「日本租界のそばに魯迅の家があってね」
 「魯迅!」
 「時代は重なってはいないんだけど」
 「魯迅!」
 「今は、魯迅の家は記念館になってますよね」
 「そう。だが、あの人はね、あの人の描いた小説の言葉がキツイですね」
 「庶民の会話では、日本人が訳せない汚い言葉が使われているんでしょう」
 「革命家にも革命にも厳しかったよ」
 「だってヤクザや馬賊と変わらないと見限っていたでしょう」
 「そうでした」
 「革命派に転じた郭抹若とは対立してはいなかったけど」
 「考え方は違いますね」
 「双方、周囲のシンパ同士は反目し合っていたんでしょ」
 「私たちはそういう話までは知らないですね」
 「魯迅は革命には反対だったと聞いてます」
 「それは分かるのですが」
 「武田泰淳がそう証言している」
 「『阿Q』を含めて尊敬されていても、文学史の上で正当な評価はされていない」
 手に持って歩いた△△や□□の古地図には、細かい字で書き込みを入れていたのだが、その書き込み入りのものはさすがに憚られて持参せず、慌しく処分して出てきた。
 「郭抹若も魯迅も日本が好きだった。私も」
 某さんが口を開いた。そういうと、某さんが郭抹若や魯迅の名を口にすると、その先は、もう酒になる。だからその先はこちらから聞かないことにして黙った。


追記
台風の中を出発予定。ヌーン、どうしてこうなるの?子供の頃は晴れ男で、ジェンッジェン雨男じゃなかったのに。しかし新幹線はワイコフですなぁ。またお騒がせ男が岡崎から登場っすか。岡崎、お騒がせ男輩出じゃのう。のう?
| 6旅・行動の記録 | 06:52 | comments(0) | trackbacks(0)
本も音源も出ていっちゃったの巻。
5月3日
本も音源も出ていっちゃったの巻。
 15箱、310kgほどが積み出されて出て行っちゃった。これからモキタへ。悪い仲間全員集合でもないけど、集まれる関東地区の人間は集まるかという話になってる。
 荒れるかしんみりするか、それとも盛り上がるのか。到底、俺には想像がつかねえな。

20180503 寺田倉庫搬出 (掲載).jpg
| 6旅・行動の記録 | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0)
小倉の処分処分処分。
4月27日
小倉の処分処分処分。
 アメリカ人の友達から贈られたおもちゃも処分する時が来たわけだ。俺が大切に乗っていたからよく分かっていたんだろうけれど、これは嬉しかったな。
 もうそのヤツも今年の4月1日で68歳になったはずだ。

Porsche 911  (掲載).jpg

追記
このクソ忙しい時期に呼び出すなんて、まったく頭ごなしに来ますわねえ。権威っての、怖いけど、権威を意識しているからまだ救われる。救われないのはそれが分からない人だ。
| 6旅・行動の記録 | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0)
田蟹という食材の魅力。
3月12日
田蟹という食材の魅力。
 「た」の付く食材には、たにしも田うなぎもあるわけだが、田んぼのたんぱく質では田蟹も旨い食材の一つだろう。俺たちは、大都会の街外れ、郊外の住宅地と呼んでいい某所に、ある晩、勇躍、タクシーで乗りつけたのだった。
 田蟹屋で有名な某所。ここはイーゲの店員がいると直ぐに分かった。田蟹を素揚げにした揚げ田蟹などは青海苔と一緒に塩で喰うのだが、もう、厨房に飛んでいき、
 「あんたと俺は胃が繋がっているぞ!」
 と調理人の両手を握りたくなるほど日本人にはずばりと来る。それほど旨い。 
  
   20180306 (掲載・揚げ田蟹2)
 
 そしてメインは田蟹鍋である。
 トマトとニンニク酢を効かせたスープ。そこにブンをひたして入れる。さらにたっぷりの大葉やパクチー、檸檬グラス、こぶみかんなどのハーブ類とキャベツを入れ、細切れにした牛肉を入れる。
 その間に田蟹のすり身とカニ味噌をたっぷり入れるのだが、この蟹味噌が強烈なのだった。 
 醗酵させた海老味噌をベースにしたマムのブンなどを喰ってみると分かるが、この蟹味噌も十分に醗酵をさせて、それ相応の臭みと深い味がある。  
 
20180306 (掲載・田蟹鍋1)
 
 この味噌のしぶきをシャツの袖なんかに飛ばしてしまったら、それは、「取り返しのつかないこと」になりやんす。諸兄姐、それを知った上でトライして頂きたいものでござるよ。 
 今回の旅で想ったのが、シクロやタクシーの運ちゃんが俺たちの姿を観て声を掛けてくることが殆ど無かったことだった。
 シクロの運ちゃんは20年前はインテリがなるのだとか言われていたのだけれど、そんなインテリはもう死んでいるというわけだから、今のシクロ・タクシーの運ちゃんの素性は俺は知らない。しかし、これほどの自動車とバイクの洪水の中で、シクロの存在意義は最早全く無いと言っていいだろう。

20180306 (掲載・田蟹鍋2)

 それと共に、若い世代のヴェトナム人の男女の腕に刺青が入っているのは行く先々で目にした。世界中、カタギであっても刺青を入れる時代になったとはいえ、ヴェトナムでは、日本社会と同様で、刺青は極道の印であったはずである。
 衣食住足りて、こういう人間が出てくるのだろう。日本でも同じ道を辿ったわけだ。俺は渋谷のチーマーだの関東連合だのの世代と、自分とでは価値観が隔絶している感じがある。俺がガキの頃にはヤクザとカタギにはそれ相当の違いがあった。
 それと同じ流れが今のヴェトナムには起こっているということなんだろうと俺は理解した。
 田蟹鍋だとかマムのような発酵食品と共に、若い人の間の刺青の流行は、汗水流してスズメの涙ほどの対価にしかならないシクロ・タクシーとは別に、どんどんその愛好家を増やしているのだった。
 この辺りにも考えさせられるものがある。


追記
帰宅してグッタリ。帰国便の朝食がバイン・ミーになっていたのには驚きましたね。工夫ですな。
機内で「戦狼」見る。ものすごいプロパガンダ映画に辟易。嗤ってしまったのだが、アジア歴代興行収入第1位。仕事柄やられている感が強烈に残った。
それ以前に、ラウンジの朝日新聞で寄稿者の名と内容に仰天。情実の新聞社の伝統か、洗脳もここまでくるといっそ清々する。それがかつて日本をあちらの方向に沈ませかけた右や左の旦那様・奥様ら、ある種の人たちにはジンセイ全てってところなんだろう。宗教と同じだ。
情け無い気分だが、俺だってリアルな現実から眼をそらすわけにはいかないから読まないわけにはいかんもんねえ。成田の駅で日本の空気の良さにはホッとした。しかしこの空気の中に不穏なものも感じられるわねえ。特使もやって来る、ある方面のお喜びの吊るし上げ会見もある、そしてそこに付け込もうとする勢力もある。
アホラシ、もうひと寝入りするわいな。
| 6旅・行動の記録 | 16:09 | comments(0) | trackbacks(0)
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