岡田純良帝國小倉日記

ゲイたちの、ゲイたちによる、ゲイたちのための映画――「憂国」。
6月24日
ついに体験――三島由紀夫の「憂国」。
 5月から6月にかけ、雨中を集中的に三島由紀夫映画祭に出かけて出演映画を観たためか、再びミシマに興味が移っているところ。思春期に親しんだ作家であるためか、現在の自分よりも若い作家の姿を観るのは、大変にスリリングであった――時間軸として41年も前に死んだ作家のフィルムに残る姿は、自分より若い――理屈を超えた心の揺らぎがあった。
 その上、40年の隔たりという時間軸の前提があって、さらに、この人物は、どんな顔で演技をしていても、やがては1970年(昭和45年)11月25日の昼には切腹して、部下に首を刎ねさせているという最期が繰り返し脳裏を過るのである。
 映画は自分には映画でなく、つまり死者の生前の姿の確認であった。劇中劇を観ているような。映画として観るより、ドキュメンタリーのような実感を持って観てしまった。
 スクリーンで姿を観ても、“その後”が浮かぶゆえ、映画は映画としてよりも、ある種の“確認”であり、“体験”になるという、極めて倒錯した感覚である。だから、三島の姿をスクリーンで観ると、こちらの胸が動悸を打つ。

         「憂国」スチール。
 本構図は40年近くも観慣れていた。今回初めて分かった衝撃。よく目を見開いて観よ!

 五社英雄の「人斬り」は先日触れた通り。娯楽映画の中で大物としての出演であったから、右の二の腕の立派な筋肉とマンガの様な大きな黒い目が印象に残った。勝新太郎が出演を懇願した理由も分かった。それは三島に大衆的な人気があったからだということも。
 しかし28分ほどしかない「憂国」(1966年製作)は、無声で、会話が無い代わりに、全篇がミシマのオンパレードである。クレジットは一字一句本人自筆の墨書である。各々の文字は丁寧な楷書体なのだが、この人の字は大きさがアンバランスで、特に舞台となる部屋の壁にある「至誠」の文字は、「誠」がヤケに大きい。歪なその辺りも含めて、ミシマのエゴが万篇に散りばめられてある。
 しかも三島の肉体は映るが、特徴ある目も顔も殆ど画面に映らない。性格は消し去られ、しかし肉体だけはこれでもかというほど写される仕組みになっている。
 (なるほど)
 本作の演出は考えてみれば堂本正樹なのである。
 敗戦後の銀座のゲイバーで三島由紀夫に見初められた15歳の堂本正樹少年は、その後も、三島の稚児のような関係が続いていたそうだから、さもありなん。
 中尉殿は何時も陸軍の制帽を目深にしている。わざわざ白褌姿から制服になるところも、また、切腹をする折に制服の金ボタンを外すところも、白褌以外の下着は一切身に着けていない。胸から下腹にかけての体毛が黒々とあり、映画が始まるとそればかり記憶に残る。
 相方の鶴岡淑子はオーディションで選ばれたそうだから経験も無く、こんなゲイ集団の実験映画に出演させたのは気の毒ではあった。だから死を目前にしたセックスの場面でも情熱が感じられず、「接吻」は固く閉ざした唇を相手の唇に押し付けているだけだ。
 それにしても、軍の中で身動きが取れなくなるから死ぬというマゾヒスティックな死は外国人には到底理解されないところだろうけれども、だからこそ、それは衝撃的でもある。腹からドッと血は吹き出し、はらわたは飛びだし、唇から泡が湧く。反射的に映画を観た横尾忠則の画を想い出した。
 映画は能の舞台を模しているから、西洋風の約束事は取り払われている。良人の自決後、彼女の白無垢は黒々とした夫の血を吸い凄愴な姿になる。幽冥の合間を漂う夢遊の心境。だから死化粧をする鏡台のある自室に入るところは襖を開けるのだが、出る方向は違い、舞台に直接戻るので扉はもう無い。
 やはり映画は観るものだ。こちらは痛そうな映画は苦手なので、「人斬り」も本作ももう観たくないが、能の舞台を切腹の舞台に使うアイディアはシャープで、唸らされるところではあった。打ち合わせの合間に抜け出して観に行ったのだが、結果的に観て良かった。
 本作は、こちらが獄中に拘置されていた2006年には、大森であった三島由紀夫映画祭で上映されたことはある由。そもそも自決後、未亡人の平岡遙子が本作の回収を唱えたため、相当数のフィルムが回収され焼かれたが、大森の高台の邸宅の中から、彼女の死後に「発見」されたことがきっかけで再び上映されることになった。
 父親に酷似した娘は一時演出家になったのだが、今、どこでどうしているだろう。
 映画の尺は28分。クレジットは先にふれた通り巻紙に墨書された三島由紀夫本人の筆によるもの。監督・制作・原作・脚色・美術「三島由紀夫」とある。そして次に置かれたのは演出の堂本正樹。プロデューサーの藤井浩明の名はその次である。
 ゲイのゲイによるゲイのための実験映画。だからかどうか、映画館の暗がりには、ゲイらしき客は多かったように想える。


追記
“小倉の料理番長”つながりで、青山にそのイーゲのカフェをオープンした方がいらっしゃるでらウェア。
| 1ミシマ | 07:20 | comments(0) | trackbacks(0)
「人斬り」余禄――司馬史観と海音寺潮五郎。
6月19日
「人斬り」余禄――司馬史観と海音寺潮五郎。
 「人斬り」は司馬遼太郎の1964年(昭和39年)の「人斬り以蔵」を原作としている。
映画で仲谷昇の演じた姉小路公知は勝新太郎演じる岡田以蔵に斬られる。姉小路暗殺は維新暗殺史上の一つの謎とされるが、司馬史観は土佐勤王党説を取っている。
 先日、手元の海音寺潮五郎の「幕末維新の男たち(上・下)」[新潮文庫]で調べてみた。
 「誰かが斬らせ、誰かが斬ったには相違ないのだが、その誰かがわからない」
 確たる説は定まっていないのだ。しかし有力なのは、薩摩の配下、田中新兵衛の佩刀が現場に残されていたゆえの薩摩説である。
 「この刀は薩摩鍛冶奥和泉守忠重の作であり、こしらえも薩摩風である」
 しかし田中新兵衛が暗殺現場で自らの刀を投げつけて残すようなことをするかと退ける。
 次に幕府と会津説。さらには長州説。
 田中新兵衛は、武士姿をしていても、薩摩藩士ではなく、従って武家浪人でもない。
 「見せていただきとうごわす。とっくりと見せて下され」
 佩刀を受けとり、取り調べ中にいきなり切腹した。腹を刺した刀で、切腹を止めようとした奉行所の人間が飛び掛かる前に、一瞬で頸動脈を切っていたという。映画では以蔵の使っていた肥前の佩刀も、実は坂本竜馬の家に代々伝わる肥前忠吉を借りたものである。刀の貸し借りは日常であったのだろう。
 「(薩摩説の)反対説を支持する人々は、この事件の数日前に、新兵衛が三本木の料亭で、何者かに刀をすりかえられて、友人に語って口惜しがったという話を伝えている」
 司馬遼太郎が土佐勤王党説を取るのはゆえないことではないのだが、この田中新兵衛と土佐勤王党の武市半平太(仲代達矢)との関係には触れていないのが不思議だ。

「幕末動乱の男たち」2冊表紙。

 「成人した半平太の容貌を説明しておこう。彼は身長六尺、鼻高く、あご長く、眼中に異彩があり、顔面蒼白、深沈で喜怒色にあらわさず(ほとんど笑ったことのない人だったという)、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があったという」
 映画中の仲代達矢の武市半平太は、まさに本人を髣髴とさせるものがあった。
 とまれ木屋町二条下ルの河原で島田左近権大尉を暗殺し、田中新兵衛は一躍名を売った。
 「諸藩の志士の中では、おしもおされもしない人物と認められるようになり、薩摩人以外は、その身分を問題にするものはなくなった。
 土佐勤王党の首領武市半平太が、新兵衛と義兄弟の契りを結んだのも、この名声(?)のためである」
 「人斬り新兵衛こと田中新兵衛は半平太に傾倒することがわけて深かったが、やはり西郷とならぶべき人物であると言っている」
 権謀術数に長けた武市ではあるが義兄弟を裏切るリスクを取ったか。だから武市の命で盗んだ田中新兵衛の刀を使い、姉小路を斬ったのが以蔵という説はどうかと想う。
 「いのちを惜しんでかれこれ言いのがれすると疑われるだけだと思ったのであろう。
 『いのちなんぞ、少しもおしまんぞ。この通り』
 と、証明するために、いきなり腹を切ったのであろう。これが藩政時代の薩摩の武士の気風でもある」
 薩摩武士の末裔・海音寺潮五郎はそう記す。
 土佐郷士であった武市は暗殺者として使った以蔵が零落、強盗となって捕えられるまで、機会がありながら、手を下さなかった。獄中で毒薬の天祥丸を与えたのに死ななかった。しかも、最後は拷問に耐えられずに白状した以蔵によって半平太は切腹を申し付けられ、土佐勤王党は壊滅してしまうのである。
 海音寺潮五郎は司馬遼太郎を世に出すのに大いに骨を折ったが、後年、距離ができた。考えてみると、こういう細かい史実を追っていくと、その理由も分かるような気がするのではないかと想う。



追記
最近、電車に乗っている時間が多いじゃんけ。ポメラみたいなのは目にキツいし、文庫も読んでいると疲れるので、だけど新聞ならまぁ、読み飛ばせる。その伝では、相変わらず時間は無いけれど、今も限られた日経と讀賣の書評は目を通している。
今、最もシブい言葉を発しているのは、朝吹真理子ではないかと思わせられている。これは別稿にて。いやはや刺激されるなぁ。
| 1ミシマ | 07:05 | comments(0) | trackbacks(0)
ニッポンの行方――「人斬り」から40余年(下)。
6月18日
ニッポンの行方――「人斬り」から40余年(下)。
 五社英雄の「人斬り」はVHSビデオで観たことがあるような記憶があった。実際には、VHS化された後、もうここ20年間ほどは公開されたこともないそうだから、観たというのはこちらの記憶違いであったかも知れないし、勘違いであってもおかしくない。
 そして、実際に今回観てみると、作品はフジテレビと勝プロの共同制作映画であって、今日のテレビドラマの撮影や製作方式が、映画のフィルムに焼き付けられている新感覚のものだったことに驚いた。その点で、時代を先取りした作品という感じも一方で持った。
 映画のクレジットで、いきなり、「フジテレビ・勝プロダクション」という併記があって、だから何となく、テレビ映画という感じがするのかも知れない。1969年(昭和44年)作品であり、フジテレビ第2回映画進出作品として、真夏の8月のお盆休みに公開されたそうだ。
 後半部で、捕えられた岡田以蔵が奉行所の牢屋に投獄されると、いじめようと手ぐすね引いている牢名主役の萩本欣一と熊髭役の坂上二郎の出てくる場面があって、その場面はそれまでの緊張が破調して、当時のTVの公開収録場のようなお約束っぽい間合いになる。だから映画館でも笑いが漏れた。
 「鬼龍院花子の生涯」を撮った五社英雄らしく、カメラのリズムもテレビのようであって、人が斬られたり槍で突かれたりする場面では、一瞬だけ、サム・ペキンパーの得意だったスローモーションが使われるが、それは決して映画のリズムではない。カメラの構図にもそれが感じられる。ここでは「人斬り」の映画として感想に残った部分のみ記しておく。
 冒頭、吉田東洋役の辰巳柳太郎が3人の刺客に襲われる場面は、陰惨なシーンが長々と続く。この場における辰巳柳太郎は悲壮だが重厚で、敵に死んでも後ろを見せない武士の鑑のようで、立ち往生のような最期を遂げる。少年時代の緒方拳が、辰巳柳太郎の演技に魅入られて新国劇を志したことがよく納得できる、武士らしい美しい死に様であった。

こちらはカツシン晩年の「浪人街」(原田芳雄と勝新太郎)から。

 今回の映画祭の中心の三島由紀夫は、薩摩の“人斬り新兵衛”こと田中新兵衛役で登場する。場面は少ないのに、役柄は実にオイシイ。場をさらう演出になっているのだ。本作への出演を依頼するために、勝新太郎は三島由紀夫に三顧の礼を尽くしたという話がある。本作での三島由紀夫はそれだけのものはあるだろう。
 居酒屋で呑んでいるカツシンの以蔵の前に現れた、小柄なミシマの新兵衛。
 「岡田以蔵にも邪魔をして欲しくない相手がいる」
 田中新兵衛はギョロリと土佐勤王党の面々を睨み、
 「坂本龍馬だ」
 そう言って、大きな眼で岡田以蔵を見詰める。
 「勘定して呉れ」
 そこに間合いを外したかのようにノンビリとした声で座敷から現れるのは石原裕次郎の坂本龍馬。自ら姓名を名乗った田中新兵衛は、坂本龍馬に畳み掛ける。
 「貴公の姓名をお伺いしたい」
 すると、間があって、
 「坂本龍馬」
 その折の三島由紀夫の眼がいい。無理に身体を後ろに返し、店を出ようとする裕次郎の坂本龍馬を見上げる。感情が読めない黒目の大きい真ん丸の眼だ。
 実は、田中新兵衛とは薩摩藩士ではない。脱藩した浪人である以前に、海音寺潮五郎の言葉を借りれば「海に近いあたりの町の、薬種商某の子で、町人ながら勇壮で武を好」んだ人物である。薬種商の家に生まれ、密貿易船の船頭であったとも言われる。だから、
 「薩摩の田中新兵衛」
 とは、大きく出た物の言い方になる。
 三島由紀夫の本名、平岡家も田中新兵衛と同様、士族ではない。維新後の官僚の3代目であった。三島の切腹を士族に憧れて死んだと言った者もあったが、論外であろう。この映画の後段で、翌年には現実世界で自刃することを知る観客にとり何ともリアルな史実が用意されているが、ここでは触れない。想い出すのは岡倉天心の戯れ句。
 「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
 奇骨侠骨開楽栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」
 田中新兵衛は薩摩藩の中で最期まで武士に取り立てられることもなかった。その死すら、汚名と誤解に包まれ、150年後の今も真実は解明されていないのである。



追記
クレイジーじょんこより、善男善女に緊急秘密指令。「Happy?」

おかっち こんばんわ
おかげさまで 決まりました。
P.I.L. 8月15日 新木場スタジオコーストでライブです!
じょんこ

お盆やなぁ。盆踊りや。
| 1ミシマ | 07:56 | comments(0) | trackbacks(0)
ニッポンの行方――「人斬り」から40余年(上)。
6月17日
ニッポンの行方――「人斬り」から40余年(上)。
 昨年の11月25日は、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で自刃してから数えて40年であった。こちらとは縁の無い人ではあったが、感慨があった。
 書店に行けば、故人の特集のコーナーが設えられてあり、重版の過去の書籍類が並べてあるのではなく、新刊の研究書が置いてある。40年というと、時代は一回りして、完全な過去だ。その遠い過去から、三島の哄笑が聞こえてくるようでもあった。
 三島が死んだ時には祖父はまだ存命であった。祖母は胃潰瘍という名目で祖父の入院の準備に忙しい時期であったかと想う。この翌年(1971年)の3月14日に旧第4陸病であった国立大蔵病院で亡くなった。こちらはまだ小学校1年生である。あれから40年!
 幾度も触れたことではあるが、没後10年の1980年には、NHKは三島由紀夫の特集を組んだ。ヘリコプターから空撮した総監室外のバルコニーに立った三島由紀夫は、たった10年後ではあったが、フィルムは白茶け、遠い過去の亡霊のようであった。
 この特集が今もこちらの深い部分の記憶に残るのは、当時こちらも16歳で、最も多感な年代であったこともあるが、今もって確認できないのだが、楯の會のメンバーのその後を追い、何人かの會員が問いに対して証言をしていた場面が鮮烈であったことにある。

         三島由紀夫別。

 3日前にも「魔群の通過」の項で記した通り。水戸・常陸の気風が合わないのは「水戸学」を奉じる儒家で彰考館総裁の家の末裔が、当時の高校教師で、学校では悉く衝突したが、この教師の旧友が、市ヶ谷に乱入した楯の會の會員であったこともある。
 当然、教師は鼻持ちならない偽善者であるのに対して、その旧友であった人物の取った行動には、善悪の彼岸を超えた衝撃を感じていた。16歳の少年にとっては、三島由紀夫はより近しい存在感があった。だが、あの番組を観てからさえ、30年が経っていたのである。
 こちらは今や三島の享年を超え、すっかり歳を取り、脂は抜け、髪は白くなり、足腰も弱って来た。だが、何時それが入れ替わったか分からないが、皮肉なもので、歳を取ったこちらと引き換え、目に触れる三島由紀夫の姿は若々しい。
 意地の悪いことに、こちらが歳を取るまで付き合っては呉れないのだ。
 「ウハハハハハハハ」
 哄笑が聞こえると記したのは、そんな40年後の気弱な読者のことは何もかも織り込んで、三島由紀夫が腹を切ったことを知っているからでもある。
 とまれ、5月半ばから6月初旬にかけて有楽町の旧読売会館8Fの「角川シネマ有楽町」でかかっていた三島映画祭、「三島由紀夫を観る」で生前の姿を確認することは楽しかった。もう、三島由紀夫の動く姿、声を映画館の暗闇で観るだけでいいのである。
 誠に情けないことではあるが、スクリーンに三島が現れると、理屈ではない何かがこの50歳に近い身体の中から迸ってきて、涙が幾筋も流れた。恥ずかしい話ではあったが、若々しい三島の肉体が眩しい。その死は、残された者に謎を突き付けて、その謎は永久に解くことはできないが、生前の姿は、直視でないほど眩しかった。本稿、明日も。


追記
本日も関東は雨に煙っております。そして当方は体調不良。
しかしまぁ、参るしかないわいなぁ、諸兄姐。
| 1ミシマ | 06:20 | comments(0) | trackbacks(0)
世界中の○われ者――露助。
8月26日
グルジア――プラハ――そして、樺太。
 グルジアへのロシア軍の侵攻が始まったのは8月8日。停戦合意は16日に成立したが、早くも第2の冷戦という言葉が出てきた。先週来、各国のメディアが使い始めている。
 「Cold War was over」
 ブッシュまでがこう演説してグルジア侵攻を非難し、冷戦は終わっていると明言するが、新たな冷戦の始まりの可能性も捨て切れない。
 グルジアは民族浄化で悪名が高く、今回も、南オセチアへ軍事介入したサーカシュビリ大統領の率いる現政権は、親米の一方で、マフィア的な腐敗政権という別の顔も持つ。
 とはいえ、ロシア軍の圧倒的な火力からは、頻りに40年前の8月20日のプラハ侵攻が想い浮かぶ。「ブレジネフ・ドクトリン」だ。モスクワの高圧的な姿勢は、時代が変われど永遠に不滅なのだという感慨もあった。
 (しかも)
 今回、ロシア政府の縄張り意識にこちらが生理的な嫌悪感を抱いていた理由も分かった。ソ連軍は、63年前、今年のグルジア侵攻翌日の8月9日、日ソ不可侵条約を反故にして、ポツダム宣言受諾前の満州と樺太に攻め込んだ。その忌まわしい過去が胸にあった。
 2006年秋、ソ連軍が攻め込んだホルチン右翼近辺に滞在して、砂漠中の電化されて間も無い農村を訪ね歩いたことがある。牧畜を勧めるのだが、砂漠に定住した農民は、農業に関する基礎知識が無く、耕作地を有効活用する経営的な視点も持たないため、頑迷固陋で、子供を中学にやることすら反対していた。
 実際、文化大革命期の下放政策で、都市部から送られた人々の大規模伐採で農地開拓は急速に進んだが、引き換えに現在の砂漠化の引き金になったのが真相だという。日本人の開拓時代には、疎らながら、日本人の感覚で呼ぶ林は草原の間に点在していたという。
 冬は零下20度以上になる凍土で、実際に人々がフィールドに出て働けるような期間は精々10月の初旬までという土地は、農地を開墾するのは容易ではなかったはずだ。しかし、農地開墾の具体策を立案し、灌漑施設を併設する勤勉な日本人の開墾なら、現在ほど酷い砂漠化は進行しなかったのではないかとも、あの砂漠で感じたことも、また事実だ。
 ソ連軍はあんな凍土にまで出兵し、戦車を繰り出して南下した。瀋陽からそれほど遠くない位置関係にあり、ソ連は満州侵攻と見せながら、事実上、中国領土へ侵攻する意思をハッキリと抱いていただろう。 何しろ、ソ連軍は同年2月のヤルタ会談の謀議内容では収まらずに、満州侵攻と同時に、南樺太まで降りてきたのだ。
 当時、旧国境線(北緯50度)から南の樺太には、40万人以上の日本人・朝鮮人が暮らしていたとされる。8月9日からのソ連軍の侵攻で、9月初旬までの1ヶ月間で、約6,600人が犠牲になったと言われている。
 大横綱の大鵬幸喜は、これまた有名な話だが、南樺太で、ウクライナ人の父親と日本人の母親との間に産まれた。大鵬の父親は富裕な牧場主であったが、日本政府によって強制収容所に入れられ、妻と息子とは強制的に引き離されている。革命と戦争とに翻弄された生涯を送り、息子の新入幕の年、その事実を知らずに亡くなっている。
 こちらは、別に民族浄化主義でもなんでもない。ただ、殆ど兵力の手薄だった地域へ、国際法を破ったソ連軍によって侵攻された屈辱は覚えておこうということだ。ヤルタ協定自体が、被割譲国との取り決めを無視して一方的に引いた国の勢力図である。
 緒戦で帝国陸軍の劣勢を確信したソ連政府は、1週間後、アメリカ合衆国政府に対して、樺太だけでは飽き足らず、さらに北海道本島の北半分をソ連分として分割するよう迫った。元々、ヤルタ協定で、ルーズベルトとスターリン間で、南樺太と千島列島は合意していた。しかしスターリンは、北北海道まで寄越せと、今度は新たにトルーマンに迫ったのである。
 往時こそ不凍港領有による極東・北太平洋の覇権が目的であったが、近年のロシアは、また違う。豊富な天然資源、とりわけ化石燃料の獲得による経済力を背景に、軍事費を倍々ゲームで増大させている。
 CIS(区立国家共同体)など、絵に描いた餅であり、所詮、幻想に過ぎないことを、今回のグルジアへの統治意識剥き出しの出兵で露呈させた。グルジア周辺は絶対的に手放せないパイプラインの要衝の港があり、影響力を常に行使させなくては他国に付け入られる。
 やはりロシアは中国と似ている。チベットを見てもそうだ。実際、新疆ウィグル地区も無道が続いているが、ダライ・ラマのような世界的に有名な指導者が無いためにただ光が当たらないだけだ。チベットはバングラデシュ北方にあるが時間帯は北京と同じ。日本とバングラデシュとは、3時間の時差があるから、本来、北京とは2時間の時差を設けていい。
 露中は、共に覇権主義でも垢抜けない。イモだから嫌われるのだ。チベットやモンゴル辺りを主戦場に、数億人規模でイモ洗いをやってくれるなら、人類全体にいいことずくめなのだが。

追記
若ノ○もおりました。岡田帝国度数もうなぎ登り(意味不明)。
「岡田帝国」度数。 「岡田帝国」度数。 「岡田帝国」度数。 「岡田帝国」度数。 
| 1ミシマ | 07:25 | - | -
また今年も今日という日がやってきた。
11月25日
今日は何の日?
 1970年は小学校に上がった年である。
 4月の入学式直後、担任の馬渡ます先生は、
 「この中で、大阪の万国博覧会に行った人はいますか?」
 開口一番、子供たちを見渡してこう問うたものよ。
 3月の半ばから万博は始まっていたから、万博に行った家もあるだろうと思ったのだろう。教室の後ろに並ぶ母親たちを意識しての問いかけに、かなりの子供の手が上がったと記憶している。
 (ちぇっ!)
 我が家では数年前に東海道を何度か往復して、やっとこ敦賀から引き上げたばかりで、無論、親など来ていない。赤子を抱えて、腹の大きな母親を見るなら、大阪なんぞに行くわけはないだろうと、はなから諦めていた。
 (この教師も“その手合い”か)
 小学1年生を馬鹿にしてはいけないのだ。
 その年に起こったことで、今も覚えていることは幾つかある。
 まずは連休前に急性胃炎で寝込んだこと。学校給食を喰い過ぎたのだった。アッハッハ。
 この過食は、多分に精神的なものがあり、毎日、級友と取っ組み合いの喧嘩をしていた。翌年、山の手の団地にあった転校先の学校で、クラス全員とぶつかって、学校からの脱走事件を起こし、さらに過食の夏に結びついていく。
 次は、遠足で動物園に行って、キリンの親子を写生したら、1年生の絵を評価しに現れた上級生が、口々に、
 「あれは親が手を入れた絵だから駄目だ」
 と言った由。それを馬渡先生がそっくり伝えてくれたので、なおさら憤慨した。社会というヤツは理不尽だと思い始めたのはこの頃からだ。
 夏休みでは、終戦記念日の朝に、NHKのアナウンサーが、
 「終戦から25年目の朝です」
 と挨拶をしたことは、これまでにも幾度か書いた。
 この後、10月には、祖父がヨーロッパから帰朝して羽田の東京国際空港に迎えにいった。ドイツのダイキャスト製トラックのおもちゃを貰い、チョコレートの詰まった大きな箱を持たされたが、そのままどこかに隠して忘れ、翌年の引越しで出てきたら、一面にカビが生えていて、ただの1個も喰えなくって、悔しくて眠れなかったっけ。
 こうしてみると、1970年の時点で、短気で乱暴で、協調性が薄く、そして喰いしん坊である。現在にそのまま繋がるキャラクターは、この時点でそっくりそのままできあがっていることに、我ながら呆れてしまう。
 ともあれ祥月命日の今日。三島由紀夫と楯の会会員による市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監本部の篭城と切腹事件があった。翌朝の朝日新聞の一面に、総監室の窓からカメラを差し入れて撮ったらしい写真があった。逆光に生首らしいものが置いてある。自ら望んで飛ばした人の生首を見て、あの時、人間もまた、不可解千万なものだと知ったのだった。

追記
1970年から10年後、NHKの「金曜特集」か「NHK特集」で、楯の会の突入隊員のその後を追った特番を放映したのを視たぜ。たかだか10年前の話なのに、あの日の東部方面総監室を映し出すヘリのカメラの映像は、42歳の今の感覚で30年前くらい前の印象があったっけ。高校2年生になっていたから、多感だったんだな、きっと。
1980年当時、突入した楯の会の会員だった小賀正義とは高校のクラスメートで、下宿まで一緒だった男が、翌年には担任教師になるとは想わなかった。コイツが、実に詰まらない小物だったのに、まぁ、突っ張っちゃったんだな、これが。こんな男のせいで肘鉄ならぬ蹉跌を経験することになるとは、お天道様もご存知なかったろう。アッハッハ。


追記の追記
顔の形が変わっちゃったのよね。暫くはこんな顔と付き合わなけりゃならないんだなぁ。ちょいと複雑。諸兄姐、よき週末をお送り下さいませ。小生は参禅するかレコード漁りをするか、思案中でありまする。
| 1ミシマ | 08:59 | - | -
三島と司馬、そして荻窪文士村。
11月23日
「司馬遼太郎が発見した日本『街道をゆく』を読み解く」[松本健一著, 朝日新聞社, 2006]
 松本健一は、三島由紀夫の自決が司馬遼太郎に与えた影響について「週刊文春」では次のように指摘する。本書を貫く視座でもあり、引用する。

 「『週刊朝日』に連載を始めた時期を見たら、1971年1月1日号。前年の11月25日に、三島が自決を図っているんですが、その翌日に温和な司馬さんが強い調子の三島批判を新聞紙上に書いている」

 これは事件翌日、司馬遼太郎が毎日新聞に「異常な三島事件に接して」という小文を寄稿したことを指している。司馬は「本来、自分の想念の中に閉じ込めておくべきことを彼は現実にやってのけた」と痛烈に批判した。1923年生まれの司馬遼太郎は臨時招集で満洲に渡り少尉で終戦を迎える。僅か2年年下でも、召集検査で肺浸潤と誤診されて即日帰郷となった人物への大いなる皮肉でもあったろう。
 この辺りの2人の機微についてはもうあまり興味は無い。岡田家が少なくとも200年は住み続けている「肥薩の道」を歩いた司馬の言葉を松本がどう読んだかが気になっている。
「作家が死ぬと時代が変わる――戦後日本と雑誌ジャーナリズム」[粕谷一希著, 日本経済新聞社, 2006]
 「中央公論」編集長を経て、現在の都市出版の前身で「東京人」、「外交フォーラム」を創刊から担当した編集者(http://www.speakman.co.jp/1/kasuya-kazuki.html)の回顧録である。こちらも、偶然、三島由紀夫の自決後に、司馬遼太郎が「文藝春秋」で「この国のかたち」の連載を始めたという話を、「文士が国士になった」と言い表しているそうだ。なるほど。これは言い得て妙だが、書評を見る限りとりたてて新しい光は当たっていないようだ。
 こちらは粕谷一希と「東京人」の編集部にいた若き日の坪内祐三の関係を色々と想像してしまった。というのも、当方は「外交フォーラム」は永年の定期購読者で、毎回「東京人」の特集は北京にあっても必ずチェックするくらいの同社の雑誌の熱心な読者だからだ。
 例えば今月の「東京人」は中央線沿線特集で気になっている。井伏鱒二の「荻窪風土記」を愛読していたので、「阿佐ヶ谷将棋会」などはひどく懐かしい。変人の外村繁に太宰治、亀井勝一郎に加え、木山捷平、上林暁などが後に加わっている。阿佐ヶ谷駅北口の中華料理店「ピノチオ」(現在の西友の対面辺にあったという)を根城に、投了すれば飯を喰い、酒を飲んだ。
 店主の“佐藤さん”は、今なら気取って「ヴィノッキオ」とでも名付けるか。中野の中島健蔵とか川崎の河上徹太郎まで加わる一大勢力の「阿佐ヶ谷会」に昇格する前、1940年頃の井伏鱒二は今の当方と同年齢。太宰治はまだ30歳位だ。
 文学史的には太宰にとって井伏は師匠ということになるが、各々作品から判断する限り、2人は結びつかない。だから「荻窪風土記」を読むまでは、人も水と油の感じがあった。
 それでも、目線を荻窪の井伏邸に置いて、群像の中に2人を置くなら、その結びつきも判るような気になった。中央線に飛び乗れば、甲府まではそれほど遠くはない。太宰が井伏を追って甲府に引っ込んで「富嶽百景」を書いたり、情死後には、井伏鱒二が石碑を建ててやったりしたことも理解できる。
              井伏鱒二by中島健蔵。
 各々が書いた作品からではなく、井伏鱒二の荻窪という地勢から交友を見据えるならば、見えなかったものも見えてくることを「荻窪風土記」は教えてくれる。
 1980年代の半ば、まだ阿佐ヶ谷の北口商店街はアーケードで塞がれる前で、特に入り口左側にはバラックっぽい雰囲気が濃厚に残っていた。

 「この中に父親が通ったバラックのバーがあるの」
 「それで」
 「ママが品のいいお婆さんなのよ」

 高円寺南口、今の「パル商店街」近くで生まれ育った人に教えて貰ったことがあったっけ。ちょっと残る話だった。


追記
さて、旅。アホラシ。しかし、旅がないと生きてゆけないのも現実でっせ。さらば。
| 1ミシマ | 06:24 | comments(0) | -
マニアなら必見はこちら。
11月18日
芝山幹郎お勧めの「からっ風野郎」。
 「日本経済新聞」では「映画評論家」、「週刊文春」では「翻訳家」となっている芝山先生は、先週末の「今週の1本」で、「WOWOW」の「からっ風野郎」を選んでいたのには唸ったなぁ。
 大体、映画の出来不出来よりも、出演した三島由紀夫の実像を観られるというところに芝山さんの「嬉しい気持ち」があるところも味があってよかった。言葉の持つ本来の意味で、映画評論家とは、そこに固有の目線がないと詰まらないもの。
からっ風野郎評。46年後の35歳はどう見える?(「日本経済新聞」より)
 実際、芝山さんは、製作当時(1960年)の若尾文子については、いくらページを割いても構わないくらいぞっこんだと想うから、35歳の三島由紀夫に乱暴されてしまう若尾文子が不憫で不憫で、思わず指の間から覗いてしまうのではないだろうか。アハハハハハハ。
 本作の三島由紀夫はもろにチビスケが分かる。役者として観るより、自意識過剰の魂が革ジャンを着て、画面で展開しようとする物語をブチ壊している。その、強烈に居心地の悪い存在感を楽しめるならば、これはこれで印象に残るだろう。柴山俊之さんも、確か、阿木燿子の書いた「からっ風野郎」に曲を付けていたっけ。
 1979年頃に、12チャンネル(テレビ東京)で放映した本作を、今でも覚えている。高校の授業をサボって、デパートの電器製品売り場で観たのだった。
 三島の着ていた革ジャンが欲しかった。細いチノパンと合わせるととても線が細かった。どんなに突っ張っても、横っ面をパンパンとすれば、ぐったりと首を垂れてしまいそうだ。三島の本質が、画面にそのままそっくり出ていて、理屈抜きに楽しい。
                    近年再評価?、「からっ風野郎」。
 できちゃった結婚で若尾文子と所帯を持つ三島由紀夫は、父親役の志村喬や船越英二に支えられて楽しそうに演じている。映画は東京駅前の大丸で子供用品を買った後、神山繁に殺されて終わる。骸をデパートのエスカレーターの上に晒すという凝った演出を名場面とする人も多い。(実際、芝山さんはそう感じているようだ)
 丁度映画製作の前年暮、「仁義なき戦い」で松方弘樹が演じた坂井鉄也役の佐々木哲彦が呉の繁華街で殺されている。深作欣二の映画では、娘におもちゃを買う隙を衝かれて殺害される。本作との共通項を想う。偶然だが、三島を狙う神山繁も、実際に呉の人である。
 今では“人斬り哲”こと、佐々木哲彦も、随分と脚色されたものだが、
 「ここらは危ないけえ、早う帰りんさい」
 夕刻、同じ町内で顔見知りだった女子生徒には、よく声をかけて帰宅を急がせていたと、“当時の女子生徒”から直接聞き取りをしたことがある。
 その佐々木哲彦の死を思い浮べたのかどうか、本作を監督した増村保造は、旧制一高と東京帝国大学法学部で三島由紀夫とは同窓同期であった。撮影の現場では、高名な作家を随分いじめたそうだが、テーマ曲の「からっ風野郎」は、歌だけでなく、作詞も三島由紀夫自身であり、作曲は深沢七郎である。監督なりに映画的ロジックで抵抗してはみたけれど、結果的には、人気作家に自作を蹂躙されてしまった恨みは画面に濃厚に残る。
 三島由紀夫の愉快なところは、それらを、自分ですっかり書き残していることであった。葉巻をくゆらせる作家の哄笑が聞こえてきそうだ。天晴れだけど、それでも何だか空しい。三島由紀夫は小説家というよりも、虚構家で、ゆえに結構を語る評論は面白く、演劇には本気で力を注いだのだろうと想像する。
 そういえば、深作欣二は「仁義なき戦い」以前に「黒蜥蜴」を撮っていた。作家の自作自演映画(「憂国」など)を含め、今一度、生前に池袋であった回顧展のようなものをやってみたら面白いと想う。1970年に首を飛ばした作家の著作権は、もうあと数年で消滅する。

追記
そういえば、谷保の「居酒屋兆治」、店仕舞いか。これは、しまった!
さて、これからまたまた今日明日とウンウンうなってパソコンと取っ組み合いだ。秋晴れの絶好の日和なのだけど、ね。
| 1ミシマ | 09:20 | comments(0) | -
チャオプラヤで風に吹かれて浮かぶ人。
8月29日
Wat Arun夕景。
 旅の最終日は市内に八百以上も仏教寺院のあるバンコクだった。
 娘と空港からバスに乗ったら、王宮博物館に行くまで1時間以上もかかり、娘は気分を悪くした。夜半はカミカゼ・タクシーに乗れば20分程度しかかからないことを考えると、仏教王国にとって、大変な経済的損失になるだろう。
 久々のバンコクは、モノレールが走り、地下鉄も誕生してはいたが、まだまだ庶民には運賃は高値のようで、あの、悪魔のような交通渋滞と大気汚染は緩和されていなかった。
 小腹がへったので、屋台で鶏肉と魚肉の揚げ物を幾つか買う。6個で30バーツ。空いたベンチを探して、暫く灼熱の午後の陽光の下を歩く。赤道近く、日陰になる逃げ場が無い。
 「美味しいねぇ」
 娘はベンチに腰を下ろし、水を呑んで、やっと人心地が付いたようだ。
         ノラもシャム猫。娘だけ首輪。
 王宮至近の観光地区だけに屋台だらけ。さすがタイ王国、世界中の観光客が歩いている。北京の外国人観光客の少なさとは大違いで嬉しい。王宮も立派だが、王家のお膝元では、マンゴスチンやドラゴンフルーツなどの南国の果物を並べ、揚げ物や氷菓子を売っている。それを珍しそうに買っていく外国人の姿。
 (これが、自然な人間社会の姿ってもんだ)
 人権という言葉の使用が禁じられている北京から来た今の我が身にとっては、自然な人々の営みを見ると、途端にホッとする。
 とはいえ、大型観光バスが10台ほどもエンジンをかけっ放しで並んで停まる脇を通れば、排ガスとエンジンの熱気で卒倒しそうになる。しかも、運転台の掲示板は簡体字だ。よく見れば、中国・杭州からの大ツアーである。気分はたちまち萎えてくるのには、我ながら、自嘲的な笑いが浮かんでくるのが悔しい。
 バスの列を通り過ぎるだけで、汗の浮かんだ肌が汚れていくのが自分で判る。熱気こそ熱帯性のものだから香港に近いが、北京の空気も、年がら年中汚れている。東京から来た娘にはキツイだろうが、こちらはその汚れた街の空気に慣れてしまっている。
 Wat Phoの「大寝姿仏」(リクライニング・ブッダ)を見た後、Tianの船着場から、Choprayaの水上バスに飛び乗った。Tianの船着場周辺も、世界中のバックパッカーが雲集している。船着場というのは、世界中、どこでも人の行き交う雑踏らしい興奮に満ちているものだが、Tianでも、朽ち果てた木造の売り場に、外国人の騒がしい話し声が満ちている。
 バスを待つ間、Choprayaの向こう岸から、驟雨がやってきては数分して通り過ぎていく。客の乗り降りする鉄のブイはChoprayaに打ち込んだ四本のパイルに囲まれ、浮き沈みを繰り返す度に金属の擦れ合うものすごい音を立てる。だが、川風が吹き飛ばすのであまり気にならない。
 というのも、Choprayaには川風も吹くが、他に騒音が絶えることは決して無いからだ。 Choprayaを行き交う水上バスは、タイの普通の漁船と変わらず、船外機は剥き出しである。焼玉エンジンこそもう見られないけれども、ディーゼル・エンジンからはゆうに2mはあるシャフトが延び、その先のスクリューに直結している。一度火が入れば、その騒音たるやすさまじく、往時の日本の暴走族など足元にも及ばない。
 チャーター・バスが一番小さく、船体は細く尖った舳先から船尾のスクリューの先まで入れれば10mといったところ。それをアクロバットのような操舵さばきで右に左に後ろに前に操る。
 見ていると、例えば、方向転換をするため、尖った、脆そうな舳先を3m程度の船と船の間の隙間に差し込んだままで、左右の船には全く舳先を触れず、尻を大きく振って方向を変える。この間、Choprayaの水は行き交う水上交通で大きく波打ってもいるから、これら全てが、複雑に上下左右に揺れているのに関わらず、である。
 待たされて飛び乗った水上バスは満員で、他にもTianから日本人客が何人か乗る。
 (おいおい)
 だが、見ていると、混んでいることをいいことに運賃を係員に払わない。最近日本人も観光に慣れてきたか、こういうところでシケたゴマカシをやる。民族の恥をよそに晒していることに気付かない。恥ずかしいことだ。
 対岸に渡し舟が出ている通り、船着場からもWat Arunの塔は見えていたけれど、やはりそのシルエットを楽しむためには、Choprayaの川の上から眺めるのが最上だろう。川風に吹かれ、夕景に浮かぶWat Arunの姿には、一種独特の凄味がある。
 水上バスにはサフラン色の袈裟をかけた年老いた僧侶がいる。ベールをつけたムスリマがいる。インド風のサリーを巻いた女たちがいる。タイの漁師の巻きスカートもインドのサリーが根っこにあるように思う。バンコクに暮らす人々以外にも世界中から押し寄せた外国人観光客がそれぞれの言語で喚き叫び合っている。中には帰宅途中の白い制服らしいシャツを着た男女の高校生がいる。通学バスとして使っているのだろう。
 (うっ!)
 しかし行き過ぎたチャーター船の拡声器から、中国語のガイドが聞こえてきた時には、思わず悲しくなって下を向いてしまった。
 足元の川面を見るならば、屋台の売り子たちの捨てた野菜、木っ端や廃材がねずみ色の水の上に浮いている。しかしひとたび目を上げれば、75mに達する長塔の優しいなで肩の姿がある。そのシルエットは、なるほど瞑想する仏陀に見えてくるから不思議ではないか。
 (?)
 向こうから、風に乗って途切れ途切れに三島由紀夫が「暁の寺」を描いたという話をする日本人の声が聞こえてきた。市谷の陸上自衛隊に乱入して割腹自殺した作家も、21世紀の後半には、「暁の寺」を著した作家として、日本人の記憶に残ることになるのかも知れない。
 (ミシマかぁ)
 20世紀の日本を代表する屈指の作家であった三島由紀夫だが、その生まれて死ぬまでの間でも、塔はその優雅な姿を変えずにChopraya河畔にあった。「輪廻と転生」をテーマに、「暁の寺」を含む四部作を残した三島由紀夫は生首を晒して死んだ。だがWat Arunで勤行をする少年僧も衆生なら、業火の中で死んだ三島由紀夫もまた、衆生である。
         遊んでもらった象たち。
 この人の海外における人気の高さは外国人にとって判り易いからだろうと想う。仏教の輪廻を描きながら、平和ニッポンで自衛隊に乱入して、クーデターもどきの演説をぶち、割腹自殺を遂げるとはいかにも劇画的だ。西洋的な価値観でも理解しやすいところに、その人気の秘密の一端があるだろう。
 (しかし、そんなものだ)
 こちらが死んだ作家の年齢に近くなると、その人間の成熟について、いささかの疑問を抱くようになった。改めてWat Arunを眺めていると、むしろ仏法の厳しさと優しさ、その両面に感じ入るものがある。
 三島由紀夫の遺作の最終場面は、老人となった主人公が、生きてきた自らの生の軌跡に疑問を抱くという絶望的な終わり方をする。本当ならその一切空の中にこそ、人の信仰への渇きもあれば、救いも隠されているはずだ。しかし、作家は、老いの苦界を描こうとはしなかった。
 (青臭い)
 どうしても「45歳の青年」として死にたかったのなら、そこに、こちらはひ弱さを感じてしまう。老人の絶望という平板な結末で終わらせてしまう点にニヒルな現世主義と老いと向えない弱さとが見えてしまう。無論、枯渇した才能への呪いも隠されているだろう。
 インドやタイの暮らしを眺める目は、迷信に塗れた混沌を鋭利に切り取って見せるが、文明の対立という二元論から抜け出せない。判らないことを受け容れることができない。そこに、欧米の人々にとっての判り易さがあり、同時に限界があるようにも感じられる。 一方では、1925年(大正末年)に生まれた三島由紀夫が代表する日本のある世代にとって、東西文明の対立の図式は骨絡みであり、社会進化論は刷り込まれたものがあったろうとも想うわけだが。
 (ともかく、だ)
 目の前の妖しい混乱の魅力はどうだろうか。混沌の中に屹立する特大仏塔の美醜がないまぜになった優美な佇まい。インドでもなく、チベットでもない。
 塔は、実のところ、近づいて見れば薄汚く、壁面装飾には割れた中国製の陶器を使っている。中国との交易船が持ち帰った陶器のうちで、割れてしまったものを捨てるのは勿体無いと、壁面の装飾に流用したものだという。
 あるいは塔の下に置かれた中国の武人像も、寺院と何らの関係も無い。持ち帰るものが何も無い時に、交易船の船底に重石にするために置いた石像を帰国して寺院に運び込んだだけの話だ。だがこの辺りに悠揚として迫らぬ篤い仏の知恵を感じないわけにはいかない。
 インドが好きになれないのは、カースト制度がたまらないだけでなく、そもヒンドゥーの教えに違和感を抱くからだ。マレーシアも同じ伝で好きになれない。タイやヴェトナムの街に身を置いて心安らぐ理由は料理や酒だけではなかった。
 街角のどこでも、昏々と眠り込む猫や犬がある社会は、仏法が行き渡っているためだと気付いた時、予期せぬことであったけれども、すでにこちらの身体にも、仏の教えが染み込んでいることに愕然とした。実は、日本こそ極東の一大仏教国であり、そこには近隣と相容れない秘密が隠されていることにも同時に思い至ることになる。
         眠る兄弟たち。
 例えば三島由紀夫の大森の邸宅は擬似コロニアル様式である。聞こえはいいか、自身が自嘲して振り返る通り、あらゆるものが似非の折衷建築である。ニューヨークに滞在した折に、郊外に点在する怪しげな折衷建築を見回って自邸の参考にしている。短期間にせよ、その住宅地に暮らしたこちらは、世代の違いか、その心理にあまり近しいものを抱けない。
 (お迎えが来るその時まで、あるがままに生きていくべきさ)
 後厄の今は、こちらも自分の値踏みはすっかりできてしまっているから、晩年の作家の内面を理解できないわけでもない。しかし、どうやらヨタヨタとでも、この冴えない生を全うすることの方が、他人に演説をぶって腹を切るよりも、まだ実り豊かなものになると信じている。作家の築き上げた虚構が、すっかり透けて見える年齢になったということか。
 三島の死んだ数年後、バンコクでも学生の腐敗糾弾運動が過激化した。1973年10月に世に言う「血の日曜日」事件が発生し、当時のタノム首相が国外に脱出する。当時は寺院も学生の排撃対象となったというが、すでに18世紀頃、Wat Arunは、一旦は廃墟になっている。三島が訪れた1967年当時も、寺院の内部は廃墟と紙一重の状態であったようだ。
 この国では、現在もタクシン首相周辺にはテロの噂が絶えず、クーデターの計画も摘発されている。だがタイの仏教界は、世俗塗れを叩かれても、教条主義には陥らなかった。長年月、この塔が優雅な姿を川面に映してきたことを想うと、深く打たれるものがある。人々の信仰への渇きが、幾重にも重なって織り成されてきた生が、塔の影に二重になって見えるからだ。
 「お父さん!、次だよ」
 娘の声で我に返る。丁度、40年前に三島が滞在していたというオリエンタル・ホテルの前だ。水上バスを飛び降りると、長々と尾を引いていた夕陽は何時の間にか沈んでいた。


追記
“小倉の料理番長”から連絡あり、第5回の小林秀雄賞の選考会が28日に東京都内で行われた由。小林秀雄賞に荒川洋治の「文芸時評という感想」(四月社)が選ばれたということを、知ったよ俺は。荒川洋治さんとは実際にお会いしたことも無いけれど、福井繋がりもこれあり、住枝人脈でもあり、嬉しい。荒川さん、総ナメだな。またまた、「檸檬屋」は盛り上がりそうだ。
詩人による文芸評論というものが認められるのは、日本の場合は、中々無いように想う。それは荒川さんの言葉が詩の世界だけに閉じていないからだろうさ。そもそも日本では、実に難しいことであったけれども、蛸壺に入って、惰眠を貪る人では無いという何よりの証左。この領域を超えていく腕力はスゲエなぁ。
| 1ミシマ | 07:08 | - | -
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