岡田純良帝國小倉日記

稀勢の里の横綱昇進は国際ニュースに。
2月3日
稀勢の里の横綱昇進は国際ニュースに。
 稀勢の里の横綱昇進は当地でも大きく報じられたのだけれど、稀勢の里のことというよりは、これまで20年近くも、日本人の横綱昇進が絶無であったから、稀勢の里の昇進は、国民的な朗報で、待望事であったと書いてある。
 昇進に水を差すような記事もあったけれど、分かってないね。来場所の5月場所の重圧は、砂かぶりで観ている他人なんかに理解できるもんか。
 横綱は全てを背負うから、星の数は多いのが当たり前のことだ。さりとて星の数が少なくとも、これだけの長い間の日本人横綱の不在を埋めて欲しいという重圧もあり、簡単には引けない。
 日本も加速度的に老いて来ているから、昇進の決まった瞬間から大変なモノを負っている。若貴時代のあの若々しい館内の熱狂とは大違いだ。相撲は、本場所まで足を運んだら、あんたは参加者としての義務を負っているのさ。
 何も、金切り声を上げなくともいい、次に続く者を応援する温かな声援こそが、関取を育てる観客の側の大切な使命なのだから。

日本人横綱誕生は国際ニュースに
| 2相撲・柔道 | 13:18 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の肆)。
12月30日
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の肆)。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」[増田俊也著, 新潮社]
 岩釣兼生を可愛がった頃は、逆算すれば木村はもう50歳を超えていたはずだが、明治の大将だった坂口征二も、赤子が捻られるように飛ばされたらしいと語った。その一方で、3人は異口同音に、元プロレスの喧嘩家というような言い方でその異常な強さを表現した。彼らすら、ゲテ扱いをしたのも、また木村政彦を巡る街場の評価の真実であった。

                 前田光世。
  講道館から破門された早過ぎた野生児、弘前藩の前田光世。この人は早稲田からも中退。

 木村のように勝負に拘る野生児は、敗戦後の混乱が落ち着いてくると、逆に日本のムラ社会では悉く標的にされた。講道館さえ手がつけられなかった意趣返しであったのか。
 今、世界の格闘界はグレーシー柔術を擁したブラジル陣営にコテンパンにノされている。そのグレーシー柔術の創始者がCarlos Gracieで、有名なCarlos Gracieと木村政彦との伝説の一戦は今やYoutubeで観られる。一度観てみるといい。いい時代になったものだ。
 組んで数秒後の大外刈りの切れ味は必見である。木村には受身を基本とする講道館柔道ではなく殺意を感じる。まさに殺意だ。観たことの無いスピードで、Carloso Gracieの細身は、青畳に棒のように逆落としで叩き付けられる。この人が力道山に嵌められて、空手チョップで失神したのは痛恨の一事であったことがこの動画でよく理解できる。
 Carlos Gracieに柔道を教えたのは青森藩出身の前田光世。前田も、世界中を賞金を賭け、異種格闘技を戦ったため、講道館はついに破門した。松前は熊本高等工業で高専柔道に夢中になったが、戦前の高専柔道は、敗戦後の社会では超エリート集団となって日本を牛耳った。特に、大正から昭和初期に岡山の旧制六高だ。柔道部は高専大会で8連覇を成し遂げ、一時、日本の財界を文字通り制圧した。
 特に有名なところでは経団連会長の永野重雄とミスター日経連・会長の桜田武。2人は、上の世代の公職追放で若き日に抜擢されたが、戦後の共産党が扇動する凶悪な労使紛争さえも柔道部の猛稽古で鍛えた肉体と闘争心とで乗り切った。彼らの“なんでもあり”という高専柔道仕込みの馬力こそが敗戦後の資本家を守ったのである。
 だから、傍流の社会党から中央復帰を狙っていた松前重義にとっては、勝負に拘りプロ柔道を旗揚げしようと画策した木村政彦など無用の者と見ていただろう。松前にとって、柔道界で役に立つ者とは、その強さではなく、政治力にあったからだ。
 前田光世と木村政彦に通じるのは、格闘家としての野心以外、一物も私心が無かったという点だ。突き詰めれば、自らの強さを示さんがために、禁じ手を敢えて使い、異種の武道家と闘い続けた野生児であったということに尽きる。
 木村政彦・Carlos Gracieの世紀の一戦は、Carlos Gracieの頭蓋を木村が締め上げると、耳から血が溢れ出した。次には袈裟固めを解いたCarlos Gracieの上腕を絞り上げると、骨が軋んで潰れ折れる音がしたという。木村が一方的に攻め続け、闘いはTKOで終わる。

                  見世物のプロ柔道を始めようとした木村政彦の師匠・牛島辰熊。
  日本中の私学から誘われた木村政彦を三顧の礼で拓大に迎えた同郷の英雄・牛島辰熊。
  容貌魁偉。九州男児の典型だが、今ならイケメンのモデル辺りになるのだろうなあ。 

 そんな野生児を、講道館や松前に代表される日本社会は排除した。2人は共に陋巷に窮死したとは言わないが、講道館は実力に相応しい名誉を与えなかった。何れも7段止まり。有り体に言えば、世界に「柔道」の名を拡めた功労者の扱いは日陰者のそれであった。
 彼らに光を当てることは、日本社会の暗部に光を当てることでもある。柔道界の退嬰に光を当て、指導層のヘッピリ腰を糾弾することになる。篠原のような礼儀知らずの男が上に立つ今の柔道界がなぜ弱いか。世界の異種の猛者連を視野に入れて、彼らの強さも、認識・評価しようとせず、「柔道ムラ」に閉じこもっているからだ。
 本来、柔道は殺意をはらむ格闘技であった。幼い頃の経験で俺はそれを知っている。Carlos Gracieは木村政彦に敬意を払い、木村も彼に精神の戦いで負けたと回顧している。戦闘力の無い男はどんな文化圏でもバカにされるが、真に強い者は誰をも魅了する。
 カツシンと五社英雄の組んだ映画、「人斬り」が想い浮かぶ。仲代達矢の武市半平太は、暗殺を企て、岡田以蔵を道具のように殺戮に使い、用済みになると棄てた。木村政彦と力道山との話はよく似ている。力道山は狡い。
 昭和もイヤな時代だったというオチになるが、それでも、文壇には四高の猛者・井上靖がいた。財界は六高の永野重雄や桜田武が牛耳っていた。それだけは羨ましい。(ノンフィクション作家・佐野眞一評、日本経済新聞)


追記
昭和30年代後半から昭和40年代一杯は、どうしても、釣り込み腰の岡野功、一本背負いの猪熊功、内股の山下泰裕も含めて、立ち技が美しく、惹かれた。
 いがぐり君、柔道一直線、柔侠伝。
 今だって、寝技ではなくて立ち技。どうしたって見た目はそうでしょうとも。寝技はカッコ悪いよ。嘉納治五郎に聞いたって、立ち技だと言うはずだぜ。寝技はネチッこくて今でも好かん。
 やっぱり三画締めのK先生の影響か知らん。旧帝大に行っても柔道はせんかったろうや。やっぱり。
| 2相撲・柔道 | 09:00 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の参)。
12月29日
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の参)。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」[増田俊也著, 新潮社]
 講道館の黒帯を取って、それを区切りに柔道を止めることにした。
 「止めることはねえだろう」
 ご隠居のN先生からも諭された。
 県警の本部長に栄転をしていたO先生は、高校に進む年の年賀状では、黒帯の凛々しいお姿を期待していますと書き送って来た。その思いには応えられなかった無念は今でも胸の中にある。だが、柔道を止めたことで少年時代と決別したという感じがある。
 進学した高校には、東海大に進んだ恐ろしい先輩はいなかった。その恐ろしい先輩は、中学時代、Kに心服して三角締めの世界に入れ込んだ。耳朶を潰さないように孫悟空の禁箍児みたいな、あるいは、オウム真理教の信者みたいな輪を自作して耳の上に巻いていた。格闘技オタクだ。中学や高校の部活動を逸脱した狂気の世界だった。
 東海系は付属の相模高校辺りから、早くも「高専柔道」の本山で、俺はたまらなく苦手な世界だった。たとえ東海から逃げられても、高校で柔道を続ける限りは“スポーツ界の東大”(by Eちゃん)こと日体大が待っていた。
 無論、そのO先生から逃げおおせても、敷地の外れの郵便局には、当時よりも半世紀も前から黒帯を絞めていたN先生。OB会でもかなりの顔役のようだった。このままなら、寝技中心の大学柔道部に進まねばならない。三角締めはたまらない。そういう部外者に目に見えないしがらみは若者の気持ちをグッタリさせる。だが本当にイヤだったことは、畳を離れてもどこまでも続く師弟関係だった。

伝説のヒーローだった猪熊功。width=
もう一人の忘れられた柔道家、猪熊功。松前の代貸となり東海大王国の礎を造り講道館と離反。
出身の東京教育大は大学柔道では異色の経歴。バブル後、悲劇的な最期を遂げた昭和の英雄。

 当時、全日本柔道連盟と講道館の覇権争いを縫って、東海大総長だった松前重義が天才少年・山下泰裕を擁して日本の柔道界を押さえにかかっていた。山下を留学させ、国際柔道界での主導権も取り返す。松前の夢は際限が無かった。松前王国が完成した暁には、国内の柔道家の間には決定的な序列が生まれ、主従関係は固定化し、絶対化することも、先行きが分かる者には見えていた。
 日本武道館にある小学生の全国大会でも、指導者の中でも大学柔道の出身者はお互いに顔見知りで、大きな声で挨拶を交わす。恐ろしい指導者が、昔の先輩がやってくると、それこそ、尻尾を股間に挟んで小さくなって愛想笑いをするのには辟易させられた。
 今ではロシアが黒帯外交を展開している。山下くらいが独り頑張ったって、所詮現役の日本代表チームの力が伴わないので迫力に欠ける。今の日本の居並ぶ選手は一人残らずロシア人に取って喰われそうだ。
 こちらにとって柔道が楽しかったのは、周囲の先生は、各々一派を形成していたからだ。お山の大将の3人は何れも大学柔道界に逸話を残す紅白帯の高段者で、手下に心服する弟子があって、その薫風は、外から見ている限りは微笑ましいものだったからだ。
 その3者が、口を揃えて恐ろしいと語った柔道家が、“拓大コーチの木村政彦”であった。
 中でも最も若かった日体大OBのO先生は、大学時代、拓大の学生から、
 「木村さんは弟子を可愛がってたまらない」
 死ぬと思ったことが幾度もあったそうだと述懐した。当時、プロレス入りが囁かされた岩釣兼生と木村政彦との異常な関係を想い出させるものだった。
 本稿、明日も続く。(ノンフィクション作家・佐野眞一評、日本経済新聞)
| 2相撲・柔道 | 07:29 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の弐)。
12月28日
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の弐)。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」[増田俊也著, 新潮社]
 悪ガキ集団は警察署のデカに柔道の手ほどきを受けたのだが、叩き上げのデカの上には、明治から警視庁に進んだO先生が君臨していたことは記した通り。自分の道場だけではなかった。今にすれば、市内にあった大工場には社員・工員の柔道部があり、ここにも、オリンピックのメダリストで中央大のエースだったGがいた。
 デカたちに別れを告げ、入学した中学では、隣の高校の柔道部の監督で東海大学時代に世界選手権を制したK先生がいて、当時も毎年全日本柔道選手権の出場を目指していた。つまり現役の柔道家が身近にいた。この人の得意とする寝技は、三角締めを基本とする「高専柔道」で、俺はその寝技が苦手だった。

美しい柔道。天才・岡野功。
中大柔道部OBのGの先輩には岡野功がいる。立ち技の切れ味が鋭く、全てが早く、力強く、美しい。
古賀稔彦はこの系譜。この人も講道館から嫌われ続けた昭和の英雄の一人。つまり孤狼であった。

 組んでいる形からいきなり自分から相手を引き込んで寝技に持ち込む。そのネチっこい、気色の悪い戦い方が生理的にもイヤだったが、本当の理由は別にあった。寝技では強くなれないことを知っていたからだ。
 高校は、日体大で、団体戦で明治の坂口征二と引き分けたという伝説を持つ、これまた別のO先生が待っていたが、俺は、ここで、ようやく7年間の柔道ジンセイに見切りを付けることに決めた。
 軽量級だった中学1年では、県央から北側には一人も敵がおらず、個人戦では県大会の決勝でツチを着けた。だから翌年からは体重を増やし、重量級に鞍替えして団体戦での勝負に変えた。だが、こちらは今ひとつだった。
 もう柔道ではこちらは先が見えていた。軽量級に落とせば、それなりに勝算はあった。高校では、耳朶が潰れて餃子になり、鼻骨は折れるだろうが――それはまだ我慢できる。しかし、一つ上の先輩が隣の高校からそのまま東海大に進んだように、生涯を柔道家で生きる道が見える。それだけはイヤだった。柔道は、どれほど屁理屈を並べたところで、勝ち続けなければデカイ顔はできない。高校ではそれが危うくなる。
 先行きに漂う暗雲は自分自身が一番よく知っていたのである。それまで左肘複雑骨折をはじめ、両肩の度重なる脱臼、両手足の指の骨折になるとよく数も覚えていない。その何れも、相手に負けたくなくて、しかし無理をしたから負った怪我であった。
 俺の肉体は天性の柔らかさがあったが、腕立てや腹筋を何百回やっても筋力が付かない。多少なら何とかなるが、腕の筋力の不足はどうしようもない。それまでは、立ち技から内股で巻き込んで身体の大きな相手に勝った。つまり、捨て身技である。しかし高校はそう簡単にいかない。寝技の世界が拡がるからである。
 中学では禁じ手だった絞め技・関節技は高校で解禁になる。試合時間も、立ち技よりも寝技の比率が長くなる。立ち技の襟と袖の取り合いもそうだが、畳の上で寝技の応酬となれば身体の大きさよりも筋力。筋力のある相手と闘えば、圧倒的に不利になる。
 推薦枠の選択肢も蹴った。俺は全県で小学時代から顔と名前を売っていた。高校以降は、それまでは格下の相手に惨めに負けることが見えていた。俺はその重圧に負けて逃げたとも言える。情けないことに。
 本稿、明日も続く。(ノンフィクション作家・佐野眞一評、日本経済新聞)


追記
体調不良。
| 2相撲・柔道 | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の壱)。
12月27日
今週の気になる本――今、明かされる最強の柔道家の真実(其の壱)。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」[増田俊也著, 新潮社]
 年末に来て、新刊として出たばかりのある種の奇書は、一部で大変な話題になっている。敗戦後の街頭テレビの時代を懐かしんでの話題というのが興味深い。
 本書は、老舗雑誌の「ゴング格闘技」誌上に足掛け5年にわたって連載された増田俊也の原稿をまとめたものだ。後期高齢者くらいの往年の力道山ファンが、先を争って読んでいたという話があるそうだ。いやはや、そうですか。
 そもそも、「ゴング格闘技」の読者にそれほど高齢者が多かったということも、思えば、時代の変化を示す逸話のように感じる。そうなれば、1980年代には文藝春秋社に新風を吹き込んだ「Number」も、今の読者構成の主流はかなり年齢層が高いのだろうか。
 昭和という時代は、一応、経済成長の続いた期間であったから、明日を夢見る雰囲気が社会にはあった。プロスポーツの勝負の帰趨は社会を揺さぶった。男子小学生の将来の職業欄は「野球選手」であるのは当たり前だった。
 その点、俺たち柔道少年団のガキはヤーサン予備軍の集団だったけれど、皮肉なことに道場は警察署にあった。警察署の現役警官は七曲署のデカよろしくトヨタ・クラウンを乗り回していた。パンチパーマのデカ諸兄は、毎週金曜日夜8時に放映される、「太陽にほえろ」を熱心に観ていたことを俺は知っている。
 昭和のあの時代は、パクる方も、パクられる方にも、同じ臭いが染み付いていた。
 駐車場の奥には取調室があって、俺たちはそこで何が行われているかを知っていたから、よく覗きに行った。夏なら、置き引きくらいの犯罪者の取調べなどは、鉄格子の入った窓を開け放してやっていた。そういう時代である。皆さん叩き上げの猛者連で、猪首の獰猛なタイプのデカが多かった。もう40年近い、1970年代初頭の頃の話だ。
 一方、俺たち悪ガキの周囲には大学柔道出身の高段者がいたのも確か。最も高齢なのは昭和初期の明治大学柔道部大将のN先生。この方は講道館8段。卒業した旧制中学校の校庭裏で、今で言う特定郵便局の所長をやっていた。普段は郵便の実務を家の人に任せ、奥の部屋で柔道整復師をしていた。そういう生業を考えると、地主の倅だったのか。
 こちらが小学卒業前の県大会で怪我をした時、大会役員席から走り出て来て、
 「右肩が外れてるぞ。応急処置をして貰ったら明日から俺の医院に来い」
 と言った。
 「良かったなあ、N先生に診て貰えるなんて」
 俺はそれからN先生の下に度々通うようになった。それだけ怪我が多かったのだ。

三船久三(左)と嘉納治五郎(右)。
    ネット上では間違えられているが、正しくは左が三船久三十段。右は嘉納治五郎也。
  彼らが講道館を造ったが、現講道館はガチガチの墨守団体。昔日の強者の面影はさら無し。

 N先生は戦前に三船久三十段に稽古をつけて貰ったことが自慢だった。県の大会では、紅白のダンダラ帯を締め、必ず投げの型を披露する生涯現役型の柔道家であった。
 警察署の最初の責任者は講道館6段のO先生。柔和な性格だが警視庁柔道部OBで明治の元エースだった。学生時代には体重が増え過ぎて、自転車の前輪が外れて飛んだが、前方回転受身を取ってかすり傷一つ無かったという話を子供にするのが好きだった。
 俺たちは、当時こそまるで意識をしなかったけれど、学生柔道出身の学士様から薫陶を受けて入門したということになる。
 本稿、明日も続く。(ノンフィクション作家・佐野眞一評、日本経済新聞)


追記
やる気がメイヨーら。
| 2相撲・柔道 | 06:26 | comments(0) | trackbacks(0)
柔道、キてる?
11月24日
柔道がキているのか。
 先日来、考えているのは、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の異様な反響のこと。
 我が家や事務所の近所の小さな本屋で平積みになっているという事実を目の当たりにして、1970年代前半頃以来ではないかと驚いている次第。
 往時、オリンピックの金メダル級の選手が引退すると、数年後、大抵、指導員としての指南書、あるいは、自伝のような書籍が怪し気な出版社から出されていたものだったから。
 「柔道一直線」は、小学生の間でも大人気だったし、強いということは大切な価値だった。ガキは肉食系の動物のようにじゃれ合ってはやがて喧嘩するのは動物の習いで当たり前で、ぶつかること自体は悪ではなかった。
 あれから幾星霜。柔道から離れて30年以上の年月が経っている。

              「JUDO」。
      やっぱり柔道といえば投げ技でしょうな。世間の抱くイメージがこんなだものさ。

 平成では、古賀利彦、吉田秀彦、鈴木桂治、棟田康幸などがそれでも僅かに記憶に残る。記憶に残るのはハッキリしている。彼らの柔道が立ち技に切れがあるものだったからだ。立ってよし寝てよしというのは、柔道の基本と言われるが、やはり柔道の基本姿勢は立ち。彼らの柔道は、相手を自ら引き込む柔道ではなかったことが潔く映ったのだろう。
 柔道から興味が薄れたのは、古くは「高専柔道」とか「七帝柔道」とか言われた寝技中心の喧嘩柔道の亜流が幅を利かせていた時代があったからだ。1970年代の後半以降、軽量級の柔道はその手の寝技を得意にする筋力型の選手が多かった。
 ハッキリ言えば、東海大学の寝技中心の柔道が好きではない。今もそうだ。
 具体的には、全日本選手権では、東海大の寝業師・佐藤宣践が優勝しても、福岡県警の園田勇(福岡工業大)や警視庁の遠藤純男(日大)のような選手が優勝しなかったことが大きい。その後、佐藤宣践は猪熊功に見出された怪童・山下泰裕を繰り出してその全盛期を作った。
 こちらが中学に上がると、その佐藤宣践の愛弟子が近所にいた。どこまでいけば練習が終わるのかという暮らしをする先輩を間近に見たことで辟易したことが一番大きいのだが。
 その後、興味が薄れたのは、ルールの適用範囲が拡がって、曖昧な領域が拡大したこと。「勝つために負けない戦法」のような卑怯な方法で勝ち上がることが国際大会で目立って、それを日本柔道連盟が抗議できなくなっている腰抜けぶりは、誰の目にも明らかになったという情けないこともある。
 あれから30年以上の時間が経過して、今、再び、立ち技のキレや格闘技としての柔道の本質に注目が集まっているのであれば、これは何とも嬉しいことだ。こんな世間の動きに対して、怯え震えているのは講道館の奥ノ院のセンセイ方であろうか。
| 2相撲・柔道 | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0)
「な〜んでか?」
9月25日
シノギの今――ニッポン人の好きな排除の論理。 
 「近頃、ボクのオナラが臭いのは〜」
 「な〜んでか」(by 堺すすむ)
 「そ〜れはね」
 「大相撲でヤクザを排除するシステムが、ゲートに備え付けた〜」
 「監視カメラだから〜」

 「近頃、ボクのオシリが痒いのは〜」
 「な〜んでか」(by 堺すすむ)
 「そ〜れはね」
 「そんな報道でも〜」
 「ニッポン人は納得してるから〜」

 「近頃、ボクのトモダチの機嫌が悪いのは〜」
 「な〜んでか」(by 堺すすむ)
 「そ〜れはね」
 「監視カメラ1台で排除されたから〜」
 「その悔しさで夜も眠れず〜」

 「ほんまかいね?」
 「ほうぢゃ。幹部の子供ぢゃったら娘でも入れんらしいね」
 「ほうかいの」
 「『ゴクセン』も排除されるん」
 「ほうぢゃろ。身内ぢゃから当然ぢゃ」
 「ナンかい、世間が『ヤクザ』言うとる定義はそもそもナニよ」
 「ナンぢゃろか」
 「広域指定暴力団の構成員ということかね」
 「知らん。広域ぢゃなくともヤクザはおるぢゃろ」
 「言うたらよ、公安委員会が暴力団に指定したら、もう、それで暴力団なんぢゃ」
 「ほうぢゃろ。北関東辺りの地回りは広域ちゃうで。よーけおるけえ」
 「大体よ、バブル期の研究書でもよ、ヤクザは○○問題と同列に論じられとるのよ」
 「○○のハナシぢゃろ」
 「○○○もヤクザの温床や言うアメリカ人研究者の指摘があったぢゃろ」
 「ホントのところはよう知らんがよ」
 「わしも知らんけんど、そげな議論がずっと前から続いとるのは確かやね」
 「事実としても、民主党政権下でヤクザを排除する論理が幅を利かせるいうのはどや」
 「それよ。公約違反やないかいのう」
 「ドアホ。ほいでも監視カメラで排除しとるいうのはどういうことね」
 「大体、どないな識別システムになっとるんか」
 「その道のプロの誰かが監視しとるわけよ。ほいぢゃけ、コワイ顔の人は入れんよ」
 「コワイいうて、人それぞれ感じ方が違うぢゃろうにの」
 「暴力団担当の警察の方がよほど顔もコワイわ」
 「カメラの向こう側のヤクザより、こちら側でモニターを睨んどるマルボーがコワイ」
 「そりゃ、江戸の昔から言われとる話ぢゃね。2足の草鞋でようやるわ」
 「国技館に愛知県警のマルボーがお客として入ってきたらどないなるんか」
 「裏から出てくるのは本所警察かいのう」
 「所轄いうてもどうかの。マルボーは地元のヤクザしか分からんぢゃろ」
 「ほいたら警視庁の組織犯罪対策課で第3係の若いの辺りが飛び出すんぢゃろ」
 「ほうぢゃ。ほいで2人が揉み合いになったらどこの誰がどげん止めるんかいのう」
 「そりゃあんた、ヤクザぢゃ」
 「それがヤクザの仕事ぢゃの」
 「『喧嘩はやめい!』言うてから」
 「『どっちもどっちも』言うてから」
 「言わん、言わん」
 「無用な喧嘩を止めるのが街場の正しい道ぢゃからの」
 「『いい加減に止さんと血の雨が降るぞ!』言うてから」
 「両国はどこぢゃったか」
 「Mぢゃったかのう」
 「そうぢゃのう。ワシらももう分からんなってもうたのう。川向こうは全然ぢゃ」
 「地下にもぐってもうたけえ。21世紀ぢゃけ、わしらはもう何も分からんのう」
 「やれんのう」
 「やれんやれん」

追記
「近頃、ボクの血圧高いのは〜」
「な〜んでか」(by 堺すすむ)
「そ〜れはね」
「NHKのお膝元の代々木体育館でやってた『2010年世界柔道選手権大会』の結果を〜」
「毎朝ちゃんと報道しなかったから〜」

| 2相撲・柔道 | 06:37 | comments(0) | trackbacks(0)
頑張れ、隠岐の海!
3月18日
美男力士の系譜――隠岐の海の行方。
 1970年代前半、小学校のクラスメートと休み時間中に取っていた相撲で、俺の四股名は何時も「霧島」だった。霧島一博の出てくるより前で、だからその霧島が大関に昇進した時、心から嬉しかった。今では、この人の自叙伝はフランスの教科書に掲載されている。
 26年前(1984年)の9月場所、つまり蔵前国技館の最後の場所では、以前から目を付けていた十両の源氏山関(寺尾)の身体を触った。21歳の寺尾は、すらっとした美しい横顔で、見ていると涙が出そうなほどキレイだった。
 2001年にアメリカから4年ぶりに帰国した時には、久々にナマで興奮したのは、22歳の安美錦(http://blog.goo.ne.jp/aminishiki/)の若武者振り。色白で身体が柔らかく、相撲巧者。俺が女なら、夢中になりそうな美丈夫だった。
 すぐ夢中になって、将来は大関まで昇進していい位置に付けてやってくれればと願った。だが、あれからもう10年だ。小結に返り咲いたとはいっても、3年前には関脇まで昇っている。しかし31歳の今では、大関の声はファンの間から以外、もう殆ど出ないまで枯れてしまっている。残念なことだ。
 若き日、平成の大横綱と言われた貴乃花が、自ら引退するきっかけの大金星を給金した相手が若き日の安美錦であった。当時24歳だったと想う。あの時は、どこまで伸びていくだろうと恐ろしくなるくらい底知れないところがあった。
 そう言っても、本人は頭を掻いて苦笑いをするくらいが関の山だろうけれど、こちらは、やっぱりどうしたって残念でならない。潜在的な力がある人だと想うからこそ、毎場所、楽しみにして観てきたわけだ。
 それは俺だけではないだろう。色々あった朝青龍が引退して、興行面で危機感を抱いた日本相撲協会も、初日に一人横綱の白鵬とぶつけた上位も安美錦であった。この初日でも、もっと踏ん張れば、小結といっても、関取としての存在感を渋く打ち出せたのに、まぁ、憎らしいことに、アッサリと負けてしまう。これも、美男力士の宿命なのだけれど。
 まぁ、無論、こんな恨み言を記すのも、贔屓の引き倒しだろう。こちらの、一方的で、過ぎたる想いだったということなのだろう。それでも、敢闘賞が1回だが、殊勲賞4回、技能賞は5回。そして、金星は7個も獲っている。
 俺が3役の上位陣なら、嫌いな大事な取り組みではやりたくないタイプだ。安美錦は、関取としては策士タイプとは言わないが、技のデパートだ。身体が柔らかく、運動神経も抜群で、ナニを繰り出してくるか分からないから不気味だろう。
 その点、今場所は、待ちに待った幕内入りを果たした隠岐の海は、現在24歳だ。もっと安美錦よりも身体が大きい。安美錦の身長は185cmで、隠岐の海は190cm。しかし体重は安美錦の場合は、前頭に上がった時は130kg台だったろう。今の隠岐の海は150kgある。
 隠岐の海は、24歳ではあるが、だから小兵ではない。土俵を湧かせて、場所を湧かせるような関取になっても、安美錦のようなタイプの関取にならないだろう。上位陣を脅かす策士ではなく、優勝の行方に絡む王道を歩むタイプに育って欲しい。
 昨年の正月明け、有楽町駅前で見た隠岐の海は、びっくりするくらいの美男子だった。土俵の魅力は未知数だ。しかし誰か期待させ続けて欲しいものだ。
 (ともあれ)
 本割りでは、誰か一人くらい、こちらを毎回泣かせてくれるような色っぽいニッポン人力士が、上位陣に常にいて欲しいと願うからだ。そうでなくては――やっぱり、寂しい。


追記
だけど、初代も2代目も、貴乃花はキライなのよ。へそ曲がりだからか知らん。ま、性分ですな。
| 2相撲・柔道 | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0)
総裁選はいざ知らず――お家芸はいずこへ。
9月12日
「妥協追放」――角界と日本柔道に明日はありや。
 先月末から、日本相撲協会は激震続きだったけれど、ようやく先日でひと段落した。
それでも、北の湖理事長辞任の報も、後年の歴史家の手にかかれば、国際化の過渡期の一つの逸話に落ち着くのかどうか。心許ない。
 先に大麻事件で相撲協会から解雇された若ノ鵬は、元横綱が現役の力士時代に拳銃密輸事件を起こした時には、相撲協会は譴責処分で済ませたことがあり、今回も、その程度の処分に減じてくれるように訴えるという報道もあった。
 しかしその横綱とは例えば北の富士である。東前頭三枚目時代にハワイ巡業でホテルの支配人からコルトを貰ったということで出頭した事件があったが、最終的に、現役の横綱・大鵬まで容疑が及ぶこととなり、文字通り、角界を揺るがす事件ではあった。こんなこと、今に始まったことではない。今と違うのは、捜査が身辺に及ぶ前に、自首する力士が続出、連日のように紙面を賑わせたという点だ。
 その点、幕内の露鵬と十両の白露山は、同容疑でドーピング検査を受け、クロだという結果が出たが、容疑を一貫して否定し、大麻吸引を全く認めていないと突っぱねてみせた。外国人ならその程度のことは言い張るだろう。これが国際標準というものだ。
 しかし不祥事というなら、大阪相撲の横綱で、力士としては初めて相撲協会の理事長となった常ノ花が、管轄下だった相撲茶屋の経理問題の騒ぎで国会質問され、割腹自殺未遂事件を引き起こしたというタブーがある。この時、常ノ花は理事長職を辞めさせられて、相談役に退いた。しかし、元々は蔵前に国技館を作った時の理事長でもあり、歴史的にも傑出した手腕を持った大人物であった。潔さが違う。
 角界の再発防止委員会ではマニュアルを作成して配布だとか言う。マニュアルを作って配布すれば一通りの対策した、問題は起きませんという理屈は、近年の日本社会の世論の愚かさを露呈する事例としては最高の噴飯モノだろうと感じる。
 あまりガタガタしない方がいい。これは、歴史を振り返った時に浮かぶ素直な気持ちだ。だが、今はそういう時代ではないのだ。どんなことでも、自分に利害の及ばないことには執拗にクレームを付けるモンスター庶民の時代なのだろう。馬鹿馬鹿しい話だ。
 その一方、オリンピックにおける柔道の審判と日本柔道の審判とのルールの違いを目の当たりにすると、相撲協会のゴタゴタとは本質的には違うなぁとしみじみ感じる点がある。
 今ではどのニッポンの伝統的なギョーカイも、渡海した伝統文化と国際標準との軋轢の中で戸惑っている。柔道は一国の伝統競技だったものが東京オリンピックから正式種目に加えられ、一度は休んだものの、もうかれこれ40年以上が経過して隆盛を迎えている。
 国際化の遅れた日本人はいいように言われまくり、駆け引きで負け続けて、自分たちの作ったルール・ブックまで書き換えられてしまっている。カラー柔道着がルールにも明記されている。講道館柔道では卑怯な技として軽蔑されてきた「朽木倒し」のような技の乱発。哀しくなってくる。この辺りで、どれだけ先を見越して舵を切るかということだろう――あれこれ考える前に、根本的に将来的にどうしたいのか、コンセンサスを作るべきだ。
                 北の富士勝昭。

 日本柔道連盟は審判と選手へのルール教育の徹底だとか言う。しかし日本人選手にだけ日本と海外の試合ではルール・ブックを別にして、ダブルスタンダードを強いるならば、弱体化は見えている。そんな器用さではオリンピックを戦い抜くことができないことは、本大会で使う重いボールを日本のプロ野球では使おうとせず、本番では重い球に打ち勝てなかった真実を聞いても分かる通り。 
 伝統文化のルールの変更と罰則の適用まで、国連のような国際決議機関に任せるのか。それとも、最後まで、自国の文化として日本人が責任を持って取り扱う覚悟があるのか。委任すれば文化は質的な転換を避けられず、我流を通せば失うものも大きいかも知れない。
                Sayaka Matsumoto。

 今回の北京で最も心が洗われたのは、サヤカ・マツモト(米)である。アメリカ人の父親と日本人の母親に育てられたハーフの彼女の柔道は、実は、今大会で最もオーソドックスな組み手・立ち技が中心の講道館スタイルであった。彼女に楽勝した谷亮子の柔道は、昔の講道館で言うなら、美しいとは言えない。
 「国際化=妥協」は、全くおかしな話だ。相撲協会も柔道連盟も、張り手をぶちかまし、粛々と我が道を歩んで欲しいところだが、どうなることやら。

追記
昨晩は江東区役所から清澄白川、木場へ。深川飯から深川高校へ。ビールから日本酒へ。ヤクザから蛇頭へ。密談。謀議。諸兄姐、疲れました。しかし古い話で盛り上がるのは、とても楽しいけんど、歳を取った証拠ですらぁ。いやいやいやいや。街を歩いていても、あしらいがいいね。今度は月島でもんじゃでも喰うかねぇ。
| 2相撲・柔道 | 07:47 | - | -
あらまほしき次のヨコシンはたれか?
2月9日
大相撲の行方。
 初場所2日目には東の花道近くの升席にペギー葉山がいた。五月みどりは暫く見ないが、随分前に集中的に通っていた時期があったような記憶がある。桂由美も来ているそうだ。升席から先は明るいから、NHKは何も言わないけれど、ほぼ、把握しているだろうと想う。
 先日、スカ線の車中で、もう名前を忘れたが、ベテラン女優が母親らしい老女を連れて錦糸町方面から乗ってきて新橋で降りていった。老女を連れていたのに、グリーン車ではなかったわけだから、まず両国の大相撲見物帰りと考えるのが妥当なところだろう。
 芸能界でも、デーモン木暮はNHKのゲスト席で解説するくらいだ。往年のプロ野球選手、現役のスポーツ選手も顔を見せている。若いところで土屋アンナ、ベテラン勢では司葉子といった人も、断髪式に顔を出すから、やはり相撲界は派手だ。去年暮れにJRの新宿駅のホームで八名信夫を見かけた。元は岡山東商のピッチャー出身だから、スポーツつながりなのか、悪役商会つながりなのか、この人も、時折、顔を見せる。
 杉山邦博や内館牧子はどの場所で顔を見ても驚かないが、毎回荒れる3月の大阪場所は大村昆、林家ペー、京唄子などは常連なので楽しみだ。知らなかったのだけど、料理人の神田川俊郎は正面勝負審判席の間に座っているという。場所も場所だ。皇室でさえ安全を考えてタマリ席には座れない。人柄が偲ばれるところだ。
 この他、九州場所は稼業の方を中心にして、男性客の比率が最も高いように感じている。時に毎回同じ男女が隣り合って座っているから、店に出る前に客と一緒に相撲見物をしている同伴の構図なのかどうか、あれこれ想像してしまう。無論、女は負けん気の強そうな雰囲気で、臨席のママには肘鉄でも喰らわせそうだ。
 一方、名古屋場所では水商売の姐さんは別として、堅気の女性の比率が最も高いように想う。尾張地方の女は、そもそもあまり男に頼らず、自立心が強いという気がするのだが、その実態が画面に如実に現れている。女を売りにしたような着飾りをしない女性陣が多く、これはこれで、強い女を意識させられる。
 先日、坪内祐三が、昨年は国技館に8度も足を運んでしまったということを記していた。これは、「週刊文春」の「文庫本を探せ!」で舟橋聖一の「相撲記」[講談社文芸文庫]を紹介する下りで書いてあった。一昨年後半からまた相撲を観るようになり、去年辺りからは十両の取り組みまで観るようになったという。
 これは、贔屓の関取以外も、無名の力士の動向も気になってきたからで、そうなると、本場所のある月の午後はずっとテレビの前に座っていなければ落ち着かない。

 「だから奇数月は私の仕事の量が減る」

 何時だったか、こうまで書いていたくらい、相撲に入れ込んでいるのだった。
 こちらは、国技館が蔵前にあった時代に1度、両国に移ってからは2度升席で観たが、普段は椅子席CかDが関の山だ。椅子席では雰囲気は楽しめるが、鬢付け油の匂いまでは分からない。蔵前は特設リングみたいな貧相な構造ゆえに花道で上り調子の美しい力士を観ることができたが、坪内祐三は両国のどの辺りで観戦しているのだろう。
                   坪内祐三。
 内館牧子を継いで、坪内祐三のような人には、これからの大相撲を支えて欲しいものだ。相撲は毎場所続けて観ると、どの力士の人生も気になってしまう。先場所負け込んでいたあの男はどうしたとか、元気だったのに怪我で顔を見られないのは寂しいだとか、観れば観るほど、あれこれと浮かんでしまい、テレビの前から動けなくなる。
 先日は前時津風親方が逮捕された。何とも言えないところ。柔道でしごきを受けた身としては複雑な想いがあるし、やっぱり、哀しい話だと想う。
 若い頃には分からなかったが、取り組みは一瞬なのに、仕切りという時間があることで、相撲はファンを増やしている。後進を育てる親方の年齢になると、土俵の力士の気持ちに感情が移入して、もう、駄目だ。時々感激して涙が湧いたり、小さな一勝に力が入って、力士に声をかけてやりたくなったりする。小林一茶と同じ。とはいえ、近年荒れる大阪と同じように両国でも座布団が舞う。荒れた世相の反映か。この雰囲気を、坪内祐三はどう観ているのか、少し気になっている。
| 2相撲・柔道 | 09:39 | - | -
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