岡田純良帝國小倉日記

気になる本――フランス軍、傭兵部隊の魅力。
5月20日
気になる本――フランス軍、傭兵部隊の魅力。
 「フランス外人部隊」[野田力著, 角川新書]
 考えさせられるコラムだった。
 まず著者・野田力(のだ・りき)( https://twitter.com/noda_liki)へのインタビューを引こう。
 「高校卒業後、警備会社でアルバイトしながら自衛隊を目指した。『災害救援に携わりたかった。高校を卒業するころ阪神大震災後の自衛隊活動に関する本を読み、組織の中でどれだけ自分のやれることをやりたい、と思うようになった』。しかし自衛隊の試験は15回受けても不合格。たまたまフランス人と知り合ったことをきっかけに『外人部隊に入ることを考え始めた』」

野田力@Afgan.jpg

 フランス軍の外国人パラシュート部隊に配属となり、Afganistanに派兵されて衛生兵を務めた。この実戦の現場では「S.A.F.E.」という考え方が重要なのだという。
   「S(Stop the burning process)=脅威の無力化
   A(Assess the scene)=現場状況の把握
   F(Free of danger for you)=自身の安全を最優先
   E(Evaluate for the ABC)=症状の評価」
 きな臭く、血生臭く、おっかない。
 「帰国後は看護師や救命講習の講師などをして、衛生兵の経験を生かしている。『自衛隊とかけ離れた世界だったけれども、有意義な時間だった。可能性は低いが、また帰ることもできる心の故郷だと思う』」
 フランスの傭兵部隊の衛生兵といっても、銃撃を交える交戦地帯では軽機関銃を担いで隊の仲間を援護するのだから命懸けである。著者は、元々自衛隊に入隊して災害救援に関わりたいと考えていたわけで、15回受けても落ちた。

        「外人部隊」ジャケット。.jpg

 15回も受けたとは自衛隊の入隊考査では過去の受験回数を考慮に入れないということか。エアラインのマイレージ・サービスみたいだ。なぜこういうロイヤリティーのある人を自衛隊は採用しないのだろう。一つの社会なのだから様々な業務がある。使い方次第でどうにでも使えるだろうに。採用方法に問題があるように想う。
 ともあれ、この人はフランスの傭兵部隊にいたわけだ。俺にはちょっと憧れがあった。隣のイタリアのSardiniaまでは行ったのだが、フランス側のCorsicaには行っていない。著者が頼もしいのはCorsicaのCalviにある日本人経営のRestaurantが好みだと話していることだった。(「U Casanu」[18 boulevard Wilson 20260 Calvi Tél: 04.9565.0010])

「戦争の犬たち」スチール。.jpg

 「可能性は低いが、また帰ることもできる心の故郷だと思う」なんてフランス軍傭兵部隊への郷愁を言わせているなんて自衛隊が情け無い。San Francisco時代は陸上自衛隊から派遣留学していた医官がいた。差し支えない範囲で隊の医療体制を伺ったことがある。衛生兵の知り合いはいないので、実務はよく知らないが、それにつけてもなあ、である。(『あとがきのあと』、日本経済新聞)


追記
昨日の「サラメシ」は静浜基地のパイロット訓練の教官たちの昼飯だった。空上げ定食(唐揚げ定食)。自衛隊の訓練といっても、ジェット戦闘機のナニではなくて、その訓練は、セスナ型のプロペラ機なんだけど、古い関大尉のような人たちの脳裡に残っている画像と目の前の画面がダブるわけですわい。困ったことですわい。

追記の追記
昨晩は奈良は今井町の「出世男」で景気良く一杯。打ち止め近し。藤田嗣治(1986-1968年)の昨年の「芸術新潮」の特集は好調ですらい。今週は短い。また週末から旅。あの都会で円盤ゲットできるかな?密かに調査中也。果報は寝ないで待っててね。
| 9本・記録集 | 06:10 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――昭和、捨て子、頓死。
5月19日
気になる本――昭和、捨て子、頓死。
 「悪童小説 寅次郎の告白」[山田洋次著, 講談社]
 昨年の夏に奄美に行った時、そんな積りはなかったのだが、「男はつらいよ」で寅次郎がリリーと暮らす加計呂麻島のビーチを訪ねることになった。ビーチは静かな離島らしく、若い頃に鹿児島で働いていた女性が帰郷して開いたカフェにお邪魔をして四方山の話を聞いたリアル・リリー、縮めればリア・リリである。リア・リリよ、リア・リリ。
 そもそも、「男はつらいよ」は、予定調和の大王、山田洋次(1931年-)の脚本だったから、その内、国民的映画とかもてはやされるようになり、小学校の教師が王や長嶋と同じく教室でも子供たち向けの戒めや説教に使える安全パイとして扱うようになった。

   「東声会」町井久之会長。.jpg

 さらに腹が立ったのは渥美清(1928-96年)が他の喜劇映画への出演を取りやめたことだ。1970年代はイヤな時代で、例えば美空ひばり(1937-89年)は実弟の加藤和也の問題でNHKから干され、高倉健(1931-2014年)も任侠映画から足を洗った。イヤな時代である。
 そういうこともあって、ずっと気に入らなかったわけだが、渥美清の本名は田所康雄で、「東声会」系で新宿を縄張りにする「三声会」と近かった愚連隊の予備軍のような男だったことを知って見方が変わった。阿佐田哲也(1929-89年)は田所時代の渥美清を知っている。
 だからこそ、奄美では、「男はつらいよ」は作りモノだったのだと却って実感した。
 讀賣新聞では戌井昭人はこう記す。
 「寅さんが、妹のさくらとは異母兄妹で芸者の子供というのは知っていたけれど、父親との確執は相当なもので、子供の頃は随分辛つらい思いもしていたらしいなどなど、このようなエピソードが戦中、戦後の時代背景と重なりつつ語られている。寅さんは昭和の経済成長とともにあると思っていたが、戦争の子供でもあった。いつの間にやらわたしは、実在の人物の自伝を読んでいる気になっていた」。

現場の渥美清。.jpg

 朝日新聞では意外にも斎藤美奈子が本書を取り上げでいる。
 「寅は帝釈天の参道の団子屋の軒先に捨てられてたんだそうですよ。それが昭和11年2月26日、二・二六事件の当日だった。道楽者の父親と売れっ子芸者のお菊の間に生まれたのが寅で、京都に身売りするお菊が父親の家の前に置いてった。だから妹のさくらとは母親が違う。しかし、育ての母の光子がそりゃあできた人でね、寅次郎をわが子同然に育てた。上に兄がいたんだけど、戦時中に発疹チフスで亡くなって」
 車寅次郎は昭和11年生まれとは知らなかった。11年生まれはあんなダボシャツを着ない。昨年亡くなった父親には弟がいて、乳飲み子で親戚の家に養子に出たが、養家の夫婦が離婚して出戻り、直ぐに病死していたことを謄本で知った。それが寅次郎と同世代だ。
 「男はつらいよ」が人気シリーズで世間に受容されるようになってから、脚本家の小山内美江子(1930年-)は「3年B組金八先生」を書いて、荒川放水路の河川敷でテレビのロケが行われるようになったと俺は想っている。息子の利重剛は元気かな。(作家・戌井昭人評、讀賣新聞 / 文芸評論家・斎藤美奈子、朝日新聞、他多数)


追記
昨日は絶好の外出日だったにも関わらず家で静養していました。お陰様で良い休養日になりました。

追記の追記
小山内さんは別件で今の俺とも近頃は海外の某国での活動に絡んで関係が深くなっている。お子さんの教育ではかなり苦労されたことがあるのだろう。それでも小山内版の脚本は、都会の下町の綺麗事の域を出ない感じがあったね。俺の周辺はもっとストレートな不良少年たちがいた。家の出自の違いというものが、絶対的なラインとして、彼我の根本的な暮らしを分断して、そういう目に見えないものが世間にはあることに気付かされた。京都で育った松山猛のパッチギとも違うけれど、朝鮮、徴用工、キムチ、漂白剤、ドブロク、チョゴリ、そういったものだけではなくて、土着の家も様々な家があったからだ。そろそろそういうことが記憶の中から薄らいできた。東京の子は思春期の反抗なんて、何か環境が甘いなあという感覚が70年代の俺のテーマだったのだ。
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気になる本――江戸っ子の得意は引っ越し。
5月18日
気になる本――江戸っ子の得意は引っ越し。
 「築地――鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと」[佐藤友美子著, いそっぷ社]
 昨年は東京と周辺の魚介流通業界で大きな節目の年になった。築地市場から豊洲市場へ、移転が実施された。あっという間に、しかも呆気なく終わってしまった。
 市場の引っ越しは一大事業なのだ。レベルにも上から下まである。各々の段取る計画力、実行する現場の実力まで。
 フランスのレ・アール(パリ・中央市場)が1969年に郊外のRungisに移転した。規模は築地の10倍ほどある。魚介、肉、野菜、チーズ、花卉、食器類と、扱う商品毎に建物が分かれており、一般人なら原則は入れない。市場が出て行った後に残ったレ・アールの古い建物は、短い間、展覧会・劇場などに利活用されたが、直ぐ1971年に解体された。
 その後、半世紀近く。2016年に新しい建物がオープンし、再び、ショッピングセンター、劇場、展覧会等に使われることになったわけだが、移動した先は10kmほど離れた場所だったので、当初は様々な混乱が起きた。
 元々、手狭になったこともあったが、交通渋滞の解消が目的でもあった。立地上、大型トラックが都心部に入り込む必要があるため、慢性的な交通渋滞によって生鮮食料品はその鮮度を喪い。生鮮を扱う市場の意味が薄らいでいた。

「鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと」表紙。.jpg

 築地はそういう問題はとうの昔に解消していたはずだが、様々な横やりが入った末に、豊洲への移動をやり遂げた。築地の関係者は自分たちの偉さに、全然、気付いていない。おめでたい。そんなところが日本人のやることという感じもあるわけだが。
 施行管理者だとかには学びが多いだろう。プロジェクト・マネジメントの好例として後世のためにまとめておけばいいと想う。
 21世紀に入っても、2008年にLHRにBritish Air専用の第5ターミナルが開港した時、乗客の荷物が1万5千個も行方不明になったというニュースが世界中に流れた。空港の全域を管理するコンピューターのシステムもダウンして、散々な状況だった。
 築地から豊洲への移転については、ターレで人身事故があっただとか、引っ越しに伴うものとは思えないような、当事者には申し訳ないが、のんきな事故ばかりだったはず。
 というわけで、築地がかつてないほど注目を浴びた1年だったこともあってか、市場を特集するテレビ番組は多かったが、市場とそこで働く人に関する書籍は、意外にあまり出ていなかった印象がある。
 というわけで本書。
 お会いしたことはないのだが、こちらは以前から勝手に著者に親近感を抱いているのだ。今や、移転する前の築地でも少なくなっていた天然鮭の専門卸業者の「天然鮭 昭和食品」(http://www.tsukiji.or.jp/search/shoplist/cat-a/cat-3/248.html)の代表取締役社長である。
 しかしこの女性経営者は、若い頃には、金子光晴(1895-1975年)が好きで、アジア放浪を続けていたフリーライターだったという経歴がある。しかし、市場に仕事として本式に通うようになったのは恐らくバブル絶頂期である、そこに俺はピンとくるものもあった。
 しかも日本が札束でパンクしそうなイヤな時代だのに、20代の後半だった著者は年末の客でごった返す築地場内の店頭で、いきなり「人は要らないか」と声を掛けたのだった。
 それから30年。臥薪嘗胆。何かあるに決まっている。(『あとがきのあと』、讀賣新聞)

追記
昨晩は某所にてrock 'n' roll痛飲。力尽きて先ほどまで爆睡。よく眠りました。
| 9本・記録集 | 06:17 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(肆)。
5月17日
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(肆)。
 「評伝・小室直記 (上・下)」[村上篤直著, ミネルヴァ書房]
 先一昨日から続く小室直樹(1932-2010年)の話。会津高校の後輩で小学校の夜警を真似た人物を俺は知っている。その話を書いておこう。
 白虎隊終焉の飯盛山には、敗戦前、当時のItalyのFascist党党首・首相であったBenito Mussolini(1883-1945年)の名で寄贈された巨大な、石造りの「白虎隊顕彰碑」が21世紀の今日も残っている。知られていないが、戦前の会津はファシズムに近かったのだ。

「評伝・小室直樹 上・下」表紙。.jpg

 戦後、会津高校ではこの思潮が逆転した。今度はこの巨大な顕彰碑を引き倒そうという機運が盛り上がり、約束した時間に飯盛山に行った主導者が1人だけ処罰される。俺の知る人はその処罰されたお調子者でもある。敗戦で主義思想は真逆になろうと、会津は寒冷の蝦夷の地にあって、右にも左にも激しやすく、熱しやすい土地柄である。
 会津で育った小室が音に聞こえた変人・奇人でも、貧窮の末についに40代の末で書いた「ソビエト帝国の崩壊」は80年代のベストセラーになった。崩壊の10年近く前にソ連の衰退を予見した力について、世間はあれこれ言った。
最近、似た話を、探検家で作家の角幡唯介(1976年-)が書いているのを読んだ。
 「誰でもそうだが、20代、30代とひとつの物事を追求すれば、自分でも気づかないうちに膨大な経験を蓄積している。経験を積むということは想像力が働くようになるということであり、経験値が高くなれば多くのことを予測できるようになる」
 幾何学、数学、経済学、社会学――小室直樹は理論を立てて語ったが、それでも直観を大切にした。それも、薄っぺらなアカデミズムとは合わない。竹内は書いている。
 「私も小室の理論に魅了された一人である。小室は早晩東大の社会学の教授になるものと思っていたが、その気配はなく、アカデミズムでは不遇だった」
 東京で生まれたが、同盟通信記者だった父親が早く亡くなったので小室は母方の会津で育った。開高健(1930-89年)と同じように、家が貧しくて、持って行く弁当が無いので、昼休みは水を飲んで空腹をごまかした。

20151101 (飯盛山にあるファシスト党首ムッソリーニの顕彰碑).JPG
 飯盛山にあったムッソリーニが贈った「白虎隊顕彰碑」である。2015年11月P仙撮影。

 小室の曽祖父には爲田寅像という人物がいる。爲田家には戊辰戦争を生き延びた藩士がいたと口伝があり、筆者は爲田家の仏壇の位牌や古い戸籍を調べる内に爲田寅像がその会津藩士だと仮説を立てている。
 「世間は生きている。理屈は死んでいる」
 勝海舟(1823-99年)の言葉は、ノーベル賞を夢見た小室にも重なってくるようだ。
 日本社会でシノギをやっていると、識者は個別には正しい理屈を言うのだけれど、事実、世間はその通りには動かないことを誰もが知っている。なぜだろう。
 話は俺なりの結論に飛ぶ。
 小室直樹はアスペルガー症候群で土井虎賀寿はスキゾイドパーソナリティ障害ではなかったか。以前から疑っている。病理のリテラシーが向上している今ならまだしも、昔は京大でも今西錦司(1902-92年)のように師弟関係を重視するドンには理解されなかったことだろう。古くは京大哲学の西田幾多郎・田辺元を軸にする京都学派。土井虎賀寿はここから弾き出されたようなもの。では小室はどうなのだ。
 竹内さんには阿部次郎(1883-1959年)もいいが小室直樹をやって欲しい。旧制教育の精華であった高踏派の教養人とは全く相対するタイプの人物ではあったが、小室直樹もまた、京都アカデミズムの一端に連なり、また武道派の血を受け継ぐ日本の教養人の典型でもあろうから。(関西大学東京センター長・竹内洋評、日本経済新聞、『ライフ』讀賣新聞、産経新聞)


追記
何とか起きましたけど、本日も密談絡みの飲み会あり。キツイわなぁ。自業自得だけどねえ。
| 9本・記録集 | 06:45 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(賛)。
小倉日記’19(第二十二弾)
5月16日
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(賛)。
 「評伝・小室直記 (上・下)」[村上篤直著, ミネルヴァ書房]
 一昨日から続く小室直樹(1932-2010年)の話。Harvard / MITでは当時最先端の経済学に触れたものの、すでに、彼らによって理論経済学は完成されてしまったと考えた小室は、突然、留学先のアメリカで、経済学を離れ、社会学の理論化を研究しようと決意する。
 そもそも幾何学から理数経済学へ転換した時も、市村真一の語るような、数学のように美しい理論で経済学を語りたいという欲求が彼を突き動かした。今後理論化され数式化されるとしても、まだ手付かずの分野として社会学がある――小室は再びそう考える。

「評伝・小室直樹 上・下」表紙。.jpg

 しかし、ここでよく分からないのは、そう考えれば社会学に飛び込めばいいだろうに、小室が選んだのは心理学であった。心理学は、同じ頃、フルブライト留学生として河合隼雄(1928-2007年)がUCLAで学んでいた。1950年代の末、アメリカでは臨床心理学は実証期に当たり、河合は心理学を深めるためにヨーロッパに飛んでいく。
 小室は自分の収めた数学をベースに、心理学の実証的な手法を用い、社会学の理論化に適用しようと考えたのか――彼一流のロジックがあるのだが、それは前人未到の理屈で、そもそも一般には簡単に理解を得にくい。
 門外漢にはついぞ分からないのは、敗戦後の京都大学のアカデミズムの最良の部分が、なぜ小室を必要としなかったのか、ということだ。京都アカデミズムの極点は、学際を問わない大きな視点にあったはずではないか。
 小室はその伝では、学際を軽々と越えてあらゆる分野を行き来した人だった。小室こそ京都アカデミズムを代表してもおかしくない素養を持った人物ではなかったのだろうか――それなのに、京都アカデミズムが小室に手を差し伸べなかったことが分からない。

「土井虎賀寿自画像」。.jpg
 「土井虎賀寿自画像」。土井は今や書も人気があって、今では値段がついているはず。

 理屈は分かる――社会学を指向する決意を持って帰国、留学のきっかけを作ってくれた恩師の市村に社会学をやると言ったため、師匠としては弟子を破門するしかなかったが、市村は破門した小室のことをずっと気にかけていた。しかし、師匠を傷付けても弟子はそれを気にしない。師匠が弟子を想う機微が小室には分からないのだ。
 結局、京都に居られなくなり、小室は東大に入り直す。今さら、東大に入り直すのだが、そうなると三高教授の職を棄て、辰野隆(1888-1964年)に弟子入りすべく東大の仏文科に入り直した土井(旧姓:久保)虎賀寿(1902-71年)の生涯がそのまま俺には重なってくる。
 今度は東大の田無寮に移り、小学校の夜警をやりながら論文を量産するが、一向に大学から声は掛からない。しかし慕ってくる若者は次々に集まってくる。
 田無寮での放埓や、追い出されて移った練馬の六畳一間のアパート暮らし、行き付けのスナックのママへのプロポーズなど、武勇伝には事欠かない。こんな人生行路はムダと嗤えるものだろうか。(関西大学東京センター長・竹内洋評、日本経済新聞、『ライフ』讀賣新聞、産経新聞)


追記
これから出立です。世界一の日本のフリーズドライ製品を頂いて、帰国いたします。種々ありましたが、今回だけはかなりお勉強にがなったかしらねえ。諸兄姐、思い直して期間延長かな。それではしばらく深く静かに潜航。

   日本のフリーズドライ。
| 9本・記録集 | 04:59 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(弐)。
5月15日
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(弐)。
 「評伝・小室直記 (上・下)」[村上篤直著, ミネルヴァ書房]
 昨日の続きで小室直樹(1932-2010年)の話だ。
 青雲の志を抱いて会津を後にした小室青年。しかし待ち受けた1950年代初頭の京都は、静かに学問を深められると期待していた情勢とは全く違っていたかも知れない。
 当時、法学部に在籍した映画監督・大島渚(1932年-2013年)の軌跡を辿ると、何となく概観できるだろうか。

京大事件(1951年)。.jpg

 大島は府学連委員長として京都学生界を牛耳り、京大天皇事件(1951年)に関わっている。しかも、大島は法学部の助手試験を受けて落ちた。大島渚のような急進的な思想を持つ学生が大学に研究者として残ろうとした。彼らは「大学の解体」を叫んだ人たちだから、俺などには自己矛盾と思い上がりも甚だしい感じがあるわけだ。児戯に類するものでも、人間は愚かなものだから、同じことを繰り返す。時代のなせるわざというものか。

「評伝・小室直樹 上・下」表紙。.jpg

 このような世相の中、貧窮に喘ぐ学生が自己の思想に忠実に研究生活を続けるのは生半ではなかっただろう。吉田寮では「小室将軍」と呼ばれるような居場所を見付けていたが、左翼旋風の吹き荒れる当時、皇国思想のグル、元東京帝大教授・平泉澄(1895-1984年)の私塾「青々塾」にも小室は通ったという。
 これは著者が小室を指導した経済学の市村真一(1925年-)に取材して丹念に追った事実で、京都でも、会津で過ごした少年時代と同じように何時かはアメリカを討つという考えを小室は変えなかった。大学でも思想的には孤独をかこっていたことは容易に想像できる。
 会津高校から京大理学部に進んだのは湯川秀樹(1907-81年)のようにノーベル賞を取るためだった。しかしその京大で、理学・数学から経済学に舵を切ったのも、想えば当時隆盛を極めた社会思想と無縁だっただろうか。そうは想えないところもある。

        「大島渚著作集 第1巻 我が怒り我が悲しみ」表紙。.jpg

 この評伝の上巻・下巻には各々副題がある。上巻は「学問と酒と猫を愛した過激な天才」、下巻は「現実はやがて私に追いつくであろう」。
 しかし現実は彼の人生に追い付かなかった。当時の京大のめぼしい学生の例に漏れず、市村の推薦を受け、フルブライト奨学金を得て敵国のアカデミズムの中心地、 Ann ArborからBostonを50年代末には渡り歩く。言うなれば敗戦国の苦学生の皮肉ではある。
 行った先で経済学から心理学まであらゆる碩学の研究室のドアを叩いた。直接、会って、当人から話を聞く。小室は、生涯、年齢の上下を問わず、直接対話主義を取り続けた。
 Ann Arborから始まった研究は、Harvard / MITに拡がっていき、ノーベル賞級の経済学者に直接薫陶を受けたにも関わらず、さらに学問を深めず、突如、全く別の分野へと急旋回してしまう。というわけで、本稿、明日も続く。(関西大学東京センター長・竹内洋評、日本経済新聞、『ライフ』讀賣新聞、産経新聞)


追記
昨夜遅く、あら還になって生まれて初めて海外の国内便のビジネス席でMelbourneに入った。シラーは旨かったなあ。チーズはフランスからの輸入物だったけど。空港は小さくて、可愛い。
迎はインド人。街中に近付くにつれて興奮。中華料理屋と石造りの落ち着いた街並みとケーブルカー。数年前にJALが一時ブッシュしたことはあると感じる。これなら和洋両方で美味い店がありそうだ。日本人好みだろう。明日は最後の晩になるからこれからのためにも独りで精々歩き回ろうかと想いつつ就寝。

追記の追記
走りながらの交渉。生まれついての説明好きか、各地で談論風発。米中摩擦、英国のEU離脱問題辺りの一般政治ならまだいいけれど、とうとう、こちらに新天皇即位と改元まで景気浮揚になるかといった質問まで出てきたわいねえ。これは足元をすくわれましたぜ。
| 9本・記録集 | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(壱)。
5月14日
気になる本――久々の熱い評伝か、会津っぽの生涯(壱)。
 「評伝・小室直記 (上・下)」[村上篤直著, ミネルヴァ書房]
 これは昨年11月10日の書評。古新聞だと言うなかれ。小室直樹(1932-2010年)は一度も袖を触れ合ったことは無い人物だが、会津というと俺には身近な人がいて、小室直樹はその人の風貌を常に思い出させるからだ。
 また、小室の一見奇矯な振る舞いは、今で言う、発達障害であったようにも想うわけだ。この系統では、極めて小室に似た別の学究も浮かんでくる。小室の評伝と聞き、それがどうも色物ではないと知ると、途端にこちらとしてはグ〜ッと身を乗り出したくなってくるというわけさ。
 しかも讀賣紙上ですでに2010年に亡くなっている人の本格的な評伝を取り上げたのは、あの京都アカデミズムの重鎮、“関西の教養主義者”竹内洋(1942年-)である。

「評伝・小室直樹 上・下」表紙。.jpg

 超のつくほどの分量で上・下巻通算1,500ページの評伝。1冊4cmで重ねると8cmある。ボリュームだけで圧倒される。
 対象が小室直樹。評伝がそうと知ると、反射的に脳裡には、青山光二(1913-2008年)が、旧制三高哲学科の師であった“ドイトラ”こと、土井(旧姓:久保)虎賀寿(1902-71年)の生涯を描いた「我らが風狂の師」が浮かぶ。
 あれは面白かった。何が面白いかと言って、青山光二は学生時代から困った師匠として土井虎賀寿を見ている。何時も、(しょうがねえなあ)という苦々しい思いで師匠と家族の面倒を見る。それでも、ギリギリのところで天才を信じて付いていく愚かしさが描けていたから面白かった――これは“ドイトラ”以来の収穫か?と期待は膨らんだ。
 本書は生前小室と一度も会ったことのなかった著者による評伝。著者は東大の院生時代、研究に絶望して学問を辞める覚悟を決めるが、自殺を考えつつ、学問的に彷徨した揚句、辿り着いた果てが小室であった。ここに感ずるものがあるわけだ、読者としては。

       「我らが風狂の師」文庫本表紙。.jpg

 まだ小室直樹は健在ではあったが、アカデミズムの世界では相変わらず無視され、どの学校からも迎えられず、窮死する危険と隣り合わせだった時期が長かったこともすでに著者は知っていた。それでもその著作にのめりこんでいった。著者は小室の全人格的な理解は避け難い壁で、つまり、小室直樹の評伝は“書かなければならなかった”はずだ。
 その小室は、母校の京大にも残らず、阪大院の師匠からは破門され、東大で自主ゼミを開講して弟子を育成したが、弟子は出藍の誉れ。師匠のような無禄のイバラの道を歩む者はいない。“ドイトラ”と、その周辺群像と似ていて、こちらは嬉しくなってくる。それは、小室本人にも周辺にも要らぬお世話というものだが。オホホホホホ。
 ともあれ、小学校の夜警までしたルンペン学者がなぜ生まれたか、素朴な疑問が浮かぶであろう。そうするとアカデミズムの入り口になった1950年代の京都という街を我々は想像しないわけにいかないのよ。(関西大学東京センター長・竹内洋評、日本経済新聞、『ライフ』讀賣新聞、産経新聞)


追記
昨日は某所でプラター。不味い!
やっぱりどうしても、宗主国があのお国だと、衝撃と呼んでいいほどの不味さに腰を抜かす。味覚のベースが低い。味蕾の数が少ない。パブは昼間から景気よくやっているけど、それが何なの? ドヌーン。

追記の追記
出がけに作ってきた「California Sun」のプレイリストが好調。これから朝飯喰って。クソひって、またまた6番勝負。続きますなあ、勝負の世界が。
| 9本・記録集 | 06:36 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――アメリカと日本の知名度の違い。
5月13日
気になる本――アメリカと日本の知名度の違い。
「North 北へ」[Scott Jurek著・栗木さつき訳, NHK出版]
 著者のScott Jurek(1973年-)はアメリカ人の24時間走の記録(266.677km)を持っている。 副題を読むと冒険と本書の執筆の目的がわかる。「North: Finding My Way While Running the Appalachian Trail」(北:アパラチア山脈のトレールを走破する中で自身を見詰め直す)といった辺りだろうか。
 邦題は「北へ」。これにも意味があって、本来、アパラチア山脈のトレールは北から南へ南下するのが王道だが、著者はこれを破って北を目指す。しかも、アパラチア山脈には20マイルしか歩いたことが無く、トレール全長3,500kmの予備知識も殆ど無く、入念な下調べもせずに飛び出してしまうのである。
 2015年、3,500kmの走破記録を打ちたてようと走り始め、結局所期の目的を達成する。記録は46日8時間7分。では、それまでの記録は――Jennifer Pharr Davis(1983年-)の持っていた46日11時間20分(2011年)であった。
 素人としては、大変に失礼だが、3,500kmの走破が3時間短くなったことが嬉しい?、と、突っ込みを入れたくなる――実際、本書は記録の問題ではないという背景もあった。
 Scott Jerekはアメリカを代表するウルトラランナーで、数々の記録保持者ではあるが、しかし、彼も40歳を過ぎ、アスリートとしての一つの節目を迎えていた。
 妻のJenny(1983年-)も夫と同様の有名なウルトラマラソンとマラソン・ランナーであり、だからこそ、夫の変化には以前から気付いていた。
 「41歳になった彼はもはやそれほど自信に満ちてはいない。彼の口調にも、物腰にも、それはあらわれていた。もうレースには参加しないんですか? そう尋ねられると、彼は言葉を濁した。11年前には、40歳になったら引退しようと思っていたのに、いざそうなってみるとなかなか決心がつかないようだった」
 繰り返しになるがScott Jurekはアメリカ人の24時間走記録(266.677km)を持っている。距離で言えば1日24時間の間にフルマラソンを6回半も走ることになる。信じられない気がしてくるが、2010年の大会の世界トップは井上真悟(1980年-)の273.708 kmである。井上がウルトラマラソンにのめりこむきっかけは「失恋」。人はパンのみに生きるに非ず。(日本経済新聞)

「用心棒」[David Gordon著]表紙。.jpg

「用心棒」[David Gordon著・青木千鶴訳, 早川書房]
 日本経済新聞で紹介される主人公の横顔はこうだ。
 「ニューヨークのストリップクラブの用心棒ジョーはハーバード大を中退したインテリ崩れで、元陸軍特殊部隊員。物静かだが腕っ節はめっぽう強く、もめ事を鮮やかに解決してしまう。そんなちょっと出来過ぎなタフガイが思いがけない事件に巻き込まれ、手に汗握る冒険活劇が繰り広げられる」
 それが、出版元の照会文ではこうなる。
 「Joe Brody is just your average Dostoevsky-reading, Harvard-expelled strip club bouncer who has a highly classified military history and whose best friend from Catholic school happens to be head mafioso Gio Caprisi」
 カタギの世界に戻れなくなった男を、中学時代からの友だちに拾われたが、拾った男はたまたまマフィアの一員になっていた、ということになるだろう。
 ,鉢△砲牢愀言が無いようだが、俺としてはある。,琉羮綽晋腓論こεにはScott Jerekの野望を打ち破ったヒーローだが、日本では一般的には殆ど知られていないだろう。△虜邁函David Gordon(1967年-)は日本で極めて人気のある作家だが、本国アメリカで知名度は殆ど無い。(日本経済新聞)


追記
QuantasでAusieにやって来たよ。到着してチェックイン直後、早速、Red Eye Recordsに。オヤジに俺は文字通りのPoor Red Eye Boyなんだと言ったら大受けで、早速話し込んだ。
STIFFについて1983年にBert Muirheadがまとめたいい本がこんな場所で古本で出ていたんで買った。やっぱり英語圏だよなあ。それと、Ausie Garage Sceneは幾つもコンピ出ていたけど、店のオヤジ一押しの怒涛の31曲入りの一枚、それが「OOf Hopes & Dreams $ Tombstones」なのだ。午後から怒涛のミーティング3連発。ニッポンの明日のためにも疲労と睡魔を押して頑張ります。

| 9本・記録集 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――言葉と社会と人類の未来。
5月12日
気になる本――言葉と社会と人類の未来。
「虐殺器官」[伊藤計劃著, ハヤカワ文庫]
 東京大学で生物心理学を研究する岡ノ谷一夫(1959年-)が本書を平成名著に取り上げているのには思わず唸らされた。

      「虐殺器官」表紙。.jpg

 「20世紀を代表する言語学者チョムスキーは、言語を器官と呼び、その生物学的な基盤を強調した。『虐殺器官』はたぶんこれを参考にしている。言語はヒトを人間としたが、言語による知識の蓄積は20世紀半ばより核エネルギーの解放を可能にし、この惑星を危機にさらしている。のみならず、電子化された言語情報を蓄積した者は、今や、民衆の行動を自由に制御することができる。アラブの春、スノーデン事件、ポスト・トゥルースなど、現実が、著者である伊藤計劃の想像力に近づいている」
 主人公はアメリカ情報軍に所属するクラヴィス・シェパード大尉。宿敵であるジョン・ポールもアメリカ人。ジョン・ポールはクラヴィスに個人情報管理は無駄だったと語り、後進国で虐殺文法を活用して内戦を引き起こし、アメリカに憎悪が向かないようにしていたと語る。虐殺文法とは言うなら洗脳であり、味方を守るために敵を攻撃するという外交政策で取られる古典的な手法でもある。
 伊藤計劃(1974-2009年)は死後天才作家ともてはやされ、今はその僅かな遺作が一つずつアニメ化され、映画化されつつある。「現実が、著者である伊藤計劃の想像力に近づいている」と岡ノ谷一夫が評した言い回しは、Anthony Burgess(1917-93年)の「時計仕掛けのオレンジ」でも同じ価だったと記憶している。(『平成時代名著50』33、生物心理学者・岡ノ谷一夫評、讀賣新聞)
「探偵小説の黄金時代」[Martin Edwards著・森英俊・白須清美訳, 国書刊行会]
 「荒蝦夷」代表の土方正志(1962年-)が本書を取り上げるのは意外。俺が,畔造戮橡椽颪魑鵑欧襪里砲呂修譴覆蠅飽嫂泙ある。

      「探偵小説の黄金時代」表紙。.jpg

 「戦間期、一九二〇年から一九三〇年代が『探偵小説の黄金時代』だった。アガサ・クリスティー、アントニー・バークリー、ドロシー・L・セイヤーズらを中心に、いまや古典とされる本格探偵小説の傑作名作が枚挙に暇がないほど続々と刊行され、豪華絢爛に咲き誇ったこの英国黄金時代、ミステリ・ファンなら現場に居合わせたかったといちどは夢見たことがあるはずだ。アメリカ探偵作家クラブ賞(評論評伝部門)受賞の本書はその夢をかなえてくれる文芸ノンフィクションの大作である」
 黄金時代ったって、イギリスの黄金時代のお話だ。概略は版元の紹介文を引きたい。
 「1930年、チェスタトンを会長とし、セイヤーズ、クリスティー、バークリーら錚々たる顔ぶれが集まり、探偵作家の親睦団体(ディテクション・クラブ)が発足した。英国探偵小説黄金時代そのものと言っていい同クラブの歴史と作家たちの交流、フェアプレイの遵守を誓う入会儀式の詳細、リレー長篇出版などの活動、興味津々のゴシップまで、豊富なエピソードによって生き生きと描き出し(中略)た話題作。図版多数の一大人物図鑑」
 伊藤計劃は孤独に世界を削り出したが、イギリス人は上から下までクラブが大好きだ。スポーツだけではない。パブもクラブの集まりがしょっちゅうある。イギリスかぶれが嵩じると、例えばLondonの広島県人会のように「AllSop Arms」[Baker Street, London NW1]のようなパブで例会をやることになる。この辺りは80年前に大日本帝国陸軍駐在武官事務所のあった近傍。本家本元Sherlock Holmesの事務所が置かれた通りの近く。
 探偵小説黄金時代が到来した背景にはクラブ文化がある。それが言いたかった。彼らは当時の社会を深く研究していたが、少なくとも、人類の未来は考えていなかったことも。(出版社「荒蝦夷」代表・土方正志評、讀賣新聞)

追記
昨晩は下北ガーデンで超満員のロッカーズ。チケット完売後にそ〜っとその筋から手を回してチケットをゲットした。
朝からロッカーズの初期から聴き込んで予習をしていったので楽しかった。パンクはどうなんだろ、ネオローラー系が多かったな。本件別稿で。

追記の追記
久々にユニクロでパンツを3枚買って旅の準備万端デザイン研究所。今晩はイダテン観ろとの陣内さんの御指示だが、その時間には、わしゃ羽田じゃワイナリー。
| 9本・記録集 | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――何時か来た道か。
小倉日記’19(第二十一弾)
5月11日
気になる本――何時か来た道か。
「世界史のなかの文化大革命」[馬場公彦著, 平凡社新書]
 「京劇」研究者の評者の書評をそのまま引いておきたい。
 「1966年から10年にわたった『文化大革命』は今も謎が多い。中国では政治的な理由で、文革の研究公開も、文革を公式の場で語ることも禁じられている。海外でも、文革を中国一国内で完結する事件と見る傾向が強く、国際的な視野に立つ論考は少ない。本書は、文革を20世紀の世界史の流れから大局的に見直す新しい文革論である」
 「1965年、インドネシアで『9・30事件』が起きた。この、中国黒幕説もある陸軍左派によるクーデターは、一日で鎮圧されたが、影響は大きかった。その後の『赤狩り』による虐殺の犠牲者は50万とも100万とも言われ、華僑への迫害も起きた」

21世紀の紅衛兵(別)。.jpg
  このシャシンは勘違いされては困るので付記しますが、彼らの同胞の現代人による
  コスプレであります。彼らは過去をこうして簡単に揶揄してしまうが、本質的には
  見詰めて向き合っていないわけでしょう。阿Qの暗黒史は今まだここで続いている。
  だからつい45年前でもこの吊るし上げの裏に人肉食もあったわけよ。人肉食も。

 「日本でも文革礼賛派と批判派が対立した。文革に心酔し中国をうらやむ新左翼もいれば、いち早く真相を見抜いた大宅壮一のような評論家もいた」
 俺の友人知己で1960年前後に北京で生まれた連中は、中学時代までは下放され、勉強の「ベ」の字も無かったので、文革終焉後も共産党が大学を再開するとは信じていなかった。だから入試再開のニュースは彼らを大混乱に陥らせたことは今でも密かな酒席のネタだ。「文革」の時代を知っている彼らにとって、色々あったって、現在の方が何万倍もいいに決まっている。彼らにとって、だから例えば大宅荘一(1900-70年)は「大先生」である。
 気味が悪いのは「『時代閉塞のなかでの破壊願望がさまよい、造反のための暴力のマグマはたまっていくことだろう』と著者は指摘する」とあること。下方を経験していない若い世代に放埓を許すとどうなるか。(中国文化学者・明治大教授・加藤徹評、讀賣新聞)
「中国はここにある」[梁鴻著・鈴木将久ほか訳, みすず書房]
 一方、東京大学の准教授で中国社会を研究する阿古智子(1971年-)が「この一冊」に挙げた書評が目を引いた。社会学者が小説を取り上げたからでもある。
 「本書は、文学者が自らの故郷である中国の『梁村』を描いたものだが、中国農村を社会学の参与観察の手法で研究してきた私は、非常に親近感を覚えた。『事実』は、それを描く『私』の立ち位置に影響されるということを、常に意識する点が類似しているからだ。自分の観念は捨て去りたくても捨て去れない。だから、問い続ける。『私』は何をどう、描くのかを」

「中国はここにある」表紙。.jpg

 では、版元のみすず書房の紹介文を。
 「都市の繁栄の陰で荒廃する農村。農業だけでは暮らせない人々が出稼ぎにゆき、ほとんど帰らない。老人は残された孫の世話で疲弊し学校教育も衰退した。子供は勉強に将来の展望をみない。わずかな現金収入を求めて出稼ぎに出る日を心待ちにする」
 「著者は故郷の農村に帰り、胸がしめ付けられるような衰退ぶりを綴った。孤絶した留守児童が老婆を殺害強姦。夢はこの世で最も悪いものと自嘲する幼馴染。夫の長期出稼ぎ中に精神を病む妻。『農村が民族の厄介者となり…病理の代名詞となったのはいつからだろう』。希望はないのか。著者は農村社会の伝統にその芽をみる」
 俺は昭和30年代から40年代の日本を思い出す。水上勉の「飢餓海峡」の世界。出稼ぎで農村が疲弊し、中世以来の農村という村落のあり方が根底から破壊されていく移行期だ。この同じ時期には小沢昭一(1929-2012年)が取材した放浪芸も消えて行った。
 この農村社会が放浪芸人たちを支え、寺社仏閣の例年行事の秘儀祝祭を支え、香具師や博徒の存在を許容する社会基盤にもなっていた。それが消えて、もう、跡形もない。
 俺はその農村の構成員ではなかったにせよ、日本各地に農村があった時代を知っている。同時に「良展ちゃん誘拐事件」などの痛ましい事件が都会で起き、農村でも子供の放置や大人の「蒸発」が起きた時代を知っている。
 中国で△里茲Δ幣説が書かれ、全国的な評価を得たことと、,涼者が預言していることがある一つの方向に向わないことを祈りたい。(『この一冊』東京大学准教授・阿古智子評、日本経済新聞)


追記
昨日は某所で密談・謀議。
痛飲、慨嘆、発見、驚愕、狂喜、抱擁、検討、合意、乾杯、という一連の流れだったね。ウッホッホッホ。タチの悪いオヂサンにならずに1次会でとっととお別れしてきたけれど。さて、この話、どこらまで進むかな。楽しみでもあるぜ。久々に打って出るか。オッホッホッホッホ。
| 9本・記録集 | 09:39 | comments(0) | trackbacks(0)
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