岡田純良帝國小倉日記

気になる本――キューバ棄民・アメリカ移民。
4月29日
気になる本――キューバ棄民・アメリカ移民。
 アメリカは半世紀を越え、54年振りにキューバとの国交回復を決めたと想ったら、新政権はキューバに対する不信感を隠さない。
 昨年8月から北米大陸との定期運行が再開されたにも関わらず、供給過剰で撤退するフロリダのLCCが相次いだ。4月にはシルバー航空が、6月にはフロンティア航空が、各々撤退する。
 この一方、中華人民共和国とアメリカ合衆国の往来はどうだろうか。先日は北朝鮮の動きを封じようと意気込むTrump大統領と習近平国家主席との会談が行われたものの、不首尾に終わったと言っていいだろう。
「108年の幸せな孤独」[中野健太著, KADOKAWA]
 中々興味深い人生だ。
 「カリブ海の国キューバで、108歳まで暮らした日本生まれの男性がいた。(1928年)20歳で農業移民として新潟県(新発田市)から渡った島津三一郎(しまづ・みいちろう)さんだ。一獲千金、故郷へ錦を飾ることを夢見たが、再び祖国の土を踏むことはなかった。本書は映像ジャーナリストが、そんな男性の足跡をたどったノンフィクションだ」
 「第2次大戦中はキューバが親米政権だったため、日系人は約3年間強制収用された。その後もキューバ革命、キューバ危機、ソ連崩壊が襲う。米国との国交断絶は農家の収入を減らした。そんな運命と対峙しながら、島津さんは独り身のまま歯を食いしばって生き抜いた」
 昨年6月10日、島津さんはキューバ南部のフベントゥ島で死去した。明治末の1908年生まれということだから、明治男だったということか。この島を含めて、キューバへの移民は沖縄出身者が多かったそうだ。だが、アメリカ合衆国の国交断絶によって、日本からも直接行ける土地ではなくなっていた。
 「私はお金をもっていない。だから、長生きすることができた」
 著者にはそういう言葉を残したとある。昨日の「実利」とは真逆の箴言でもあるだろう。
 キューバとアメリカの断交が決められた時は、日系移民たちは、アメリカの同盟国となっていた日本から棄てられたと感じただろうか。
 2008年に「サルサとチャンプルー Cuba / Okinawa」という映画が製作されて公開もされていたそうで、当時、島津さんはすでに100歳であったが、矍鑠としていて、煙草はのみ、よく歌っているという。こういう人物もそのたくましさにしびれるな。孤独の豊かさを知っていたということでもあるだろう。(日本経済新聞)

        「108年の幸せな孤独」表紙。.jpg

「アメリカと中国」[松尾文夫著, 岩波書店]
 著者の松尾文夫(1933年-)さんはBarack Obama大統領による広島での献花が日米の関係改善につながるとして、内外のメディアを通じて10年ほど前から提案を続けてきたが、昨年、結果的にせよ、その提案が実現された。
 1960年代から共同通信のアメリカ駐在記者を長く務め、Richard Nixon大統領とHenry Kissinger補佐官と組んで実現させた米中の国交正常化をその早期から予言し、米中関係の専門家として有名な人物でもある。
 「著者は米中関係を短い時期を除き基本的に『共生』の歴史であったと捉え、とくにアメリカの現実主義の伝統を忘れてはならないと説く。名うての反共主義者であったNixon大統領はKissinger補佐官とともに1970年代はじめ、ベトナム戦争に疲弊したアメリカの苦境を打開するために、同盟国である日本の立場を犠牲にして、激しく対立していた中国との和解に踏み切ったのである」
 だが、それは内政で行き場の無い状況に追い込まれていたNixonの苦肉の策だったというのが正しいのではないか。あれほど支持率が低く、大義の無いベトナム戦争を続けていた政権の問題が大きかったと俺は記憶している。
 「米中両国は現在、安全保障、通商をめぐり厳しい対立関係にあるが、その歴史には確かにしたたかな『共生』の原理が働いており、少なくとも日米関係が及ばないほど長く、そして深い内情がある」
 これは確かにそうだと想うのは、国民党政権時代から、中国はアメリカ国内で相当な資金を使ってLobbyingを続けてきた。党が代わった今日でも大量の資金を投入し、あることないことひっくるめて継続的にプロパガンダを続けている。
 しかし気になるのは、「日米関係が及ばないほど」とあること。彼我を比較してみると、日本側のアメリカ社会へ訴える努力が一貫して足りない点に大きな原因があるはずだ。
 松尾さんが永年献花を提案したことも預かって、献花外交が実現したのは立派だ。しかしジャーナリスト1人では国際競争では勝てるはずがない。アメリカへ移住した日系移民は大人しく、華僑や半島系に比べて殆ど目立った動きは見られない。母国の日本のためとか、日系移民の地位向上のためとか、日系人が目立って動かないのも、日本側からの弾込めが足りず、国際社会への発信が無いことが大きいはずなのだ。
 アメリカの日系人政治家を幾つかの世代で比べてみるがいい。

Daniel Inoue.jpg

 Hawaiiへの移民の子供だったDaniel Inoue(1924-2012年)はまだ良かった。軍人としてヨーロッパ戦線で右腕を喪い、アメリカの英雄として表彰されたほどの愛国者は、各国からの移民を含めて、アメリカ社会全体を見通せるバランス感があった。
 ところが今や敗戦後の日本の努力不足のため、アメリカ人華僑のNorman Hsuから巨額の献金を受け、がんじがらめのMike Honda(1941年-)のような日系人政治家はどうだ。アジアの某所から遠隔操作されて、父母の母国を裏切るようなことを言う。これが日系移民の子孫だと想うと実に情け無い。
 それでも、元を質せば日本からの努力不足によるものでもある。周辺国は金も手間もかけている。その間隙に付け込まれるとは海を渡って身を削った御先祖様に申し訳が立たない。恥ずかしいことだと想う。(立教大学教授・佐々木卓也評、日本経済新聞)

追記
南欧某地に参りましたモーレ、って、もうバレてマンガーノ。合言葉はマキニキナーキ。これまでは一度も出してない必殺の合言葉なのだ。ウッフッフッフ。
葉山の出雲さんの話を店主のサルボから聞いたけど、シチリアと和食では使える魚介の種がほとんど重なっているからお互いウィンウィンでいけるもんねあ。
トマトの旨さにはたまげましたなあ。強い旨味がある。あんなに旨味のあるトマトなら全ての料理は旨味でベア⭐⭐くらい上がるね〜。ランチは、スカンピのパスタにしてムール貝のスープ。夜は魚介類のカルパッチョ。つまり刺身だ。蛸が旨くて悶絶。グルーパのスープは日本のハタとも違う感じだったけど最高だった。高くて不味いのに慣れていると、安くて美味い店だと何だか申し訳ないような気持ちにもなってくるのだった。

追記の追記
昭和天皇の誕生日だった時代には毎年武道館まで行って全日本柔道選手権大会を見ていた時期があった。今年は、一体どうなるのかな。柔道も今は大変な時代になった。外国人選手のレベルが高いもんね。日本でも選手は純血種ばかりではなくなってきたのは面白いけどね。さてどうなるか見てみたい。
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気になる本――雑誌の終焉(下)。
4月28日
気になる本――雑誌の終焉(下)。
 「ロッキング・オンの時代」[橘川幸夫著, 晶文社]
 1960年頃に廃れという人生雑誌の後で、「受験」時代が全盛となり、その結果として、70年安保に向けた全共闘を頂点とした日本中を吹き荒れた学生運動は直結している。
 60年安保こそ主導した全学連に社会的な支持が集まったが、その10年後、先鋭化し、大学教員まで吊るし上げる全共闘は社会の広範な支持を得られなかった。
 その学生運動に幻滅した人たちは何に向かったのだろう。想い付きではあるのだが、例えば、70年代初め頃のあの時代、洋楽ロックはどうだったろう。
 「世界の若者を熱狂させた欧米のロックの洗礼を受け、何かを表現したい思いに駆られた浪人生や大学生らが東京にいた。彼らは72年、読者投稿誌としてロックを語るミニコミ誌を創刊する」
 「やがてポピュラー音楽界の一翼を担う『ロッキング・オン』だ」
 「橘川さんはリーダーの渋谷陽一、論客の岩谷宏、ミュージシャンの村松雄策の各氏と同誌を創刊。『学生運動が終わりシラケの時代と言われた70年代に、知識も経験もなく僕らは新しいことをやった。閉塞感のある今の若い人たちに、ゼロから一を生み出す喜びを知ってほしい』。その思いで当時を回顧した」
 暑苦しいが、雑誌の編集はそういう押し付けがましいほどの熱意がなければやれない。
 橘川さんの言うロックとは、海外の人たちのやる音楽であり、日本人の組むロック・バンドはここでは除外されていたと俺は想う。「ロッキング・オン」誌上はガイジンのロック・バンドしか最初は取り上げられなかった。

     「Rolling Stone Chuck Berry Special」表紙。.jpg
  「Rolling Stone」さえ、こうして、Chuck Berryの追悼号を出したのだ。日本は一体、
  彼からどれだけのモンを受け継いだのだろう。本来は…彼が全部手にするはずだった
  儲けを勝手に独り懐に入れたんだろう。誠意を見せるのはこういう時以外に無い。
  どこの誰も追悼号を出していないそうで、俺は人として誠に恥ずかしくて淋しいぜ。

 丁度この頃、これからはニューロックだと言われていて、内田裕也やはっぴいえんど、フォーク系のミュージシャンが、日本語で歌うべきか、という論争もあった。最後はキャロルの矢沢永吉まで巻き込み、日本語によるロックの是非はかなり真剣な論争となった。この辺りの論争は、大学生の大衆化と重なっている記憶が俺にはある。
 「知識も経験もなく僕らは新しいことをやった。閉塞感のある今の若い人たちに、ゼロから一を生み出す喜びを知ってほしい」
 橘川さんはそう言うけれど、21世紀の若い世代は、海外の外国人のバンドはずっと遠い。アクビなどは「くるり(QURULI)」が何よりも好きなバンドで、彼らから大きな影響を受けている。日本人のバンドや、彼らのセンスの方がずっと近しいものとして支持されている。
 今はまた、社会現象となるような大ヒット曲は生まれ難い時代だから、感覚的にも、大ヒットとか、メジャーといったものが伝わり難い時代だろう。閉塞感というより、個々人が各々のフィールドで愉しんでいる。そういう時代相のようだ。
 情報も大量にあるから楽器の演奏能力等は昔と比べるとずっと高く、上手い。同好の士で集まってコミュニティーで愉しむ状況が現出している。そんな中からヒット曲が生まれ、社会現象とならなくとも構わない、という時代。大体、ヒット曲が生まれる時代ではなくなって久しい。
 とはいえ、雑誌文化を否定する気はさらない。
 この人が後年始めた別の雑誌、「ポンプ」から俺と同年の岡崎京子が投稿して世に出た。彼女が世に出たのは橘川さんの雑誌からというわけだ。想えば70年代後半は雑誌やミニコミが溢れ、パンク以降、とりわけ「ファンジン」が隆盛になった。
 今でも、昔の同人雑誌のようなコミュニティーがあり、それに近いメディアはある。日本でメガヒットが生まれなくとも、「ピコ太郎」のような世界的な現象が突如として起きることになる。
 岩波書店の岩波茂雄は山本と同郷の長野県松本の出身。本書が出版された筑摩書房の創立者の古田晃は同じく塩尻である。何やら篠ノ井線の通奏低音が聞こえてきそうだ。
 余計なことだが、古田晃はアメリカで父親の事業を助けて働いて貯めた資金で筑摩を創刊した。帝大卒業後に海外に渡ったのも文化事業を起こすためだったと言われる。「実利」を追うだけなら凍土のかの人たちと同じ。現世主義は惨めな最後が待っている。(「著者来店」・佐藤憲一評、讀賣新聞)


追記
ロンドンはテロ準備罪のヤングが逮捕されましたワイ。各地から注意警告。今日はこれから数時間休んで明日早朝に出立。暫くの間は某国へ。やってられんってったって、生きているんだから動きますワイ。ナイフ持っている人と、電車ですれ違っているのかも知れんからねえ。やれんねえ。ということで、市内某所に引越しを決めようと想う。
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気になる本――雑誌の終焉(上)。
4月27日
気になる本――雑誌の終焉(上)。
 「『働く青年』と教養の戦後史」[福間良明著, 筑摩書房]
 副題は「『人生雑誌』と読者のゆくえ」である。「人生雑誌」という言葉は初耳だ。まず目次を引いてみよう。
   序章  格差と教養と「人生雑誌」
   第1章 戦争の記憶と悔恨―荒廃と復興の時代
   第2章 人生雑誌の隆盛―集団就職の時代
   第3章 大衆教養主義の退潮―経済成長と消費の時代
   第4章 「健康」への傾斜と人生雑誌の終焉―ポスト高度成長の時代
   終章  人生雑誌に映る戦後―エリート教養文化への憧憬と憎悪
 「葦」という戦後雑誌をご存知だろうか。戦後雑誌と言っても猟奇的なカストリ雑誌と違って、「人生雑誌」や「人生記録雑誌」を代表するものだそうだ。
 出版されていた期間は1949年(昭和24年)から60年(昭和35年)。最大毎月8万部が刷られていたという。俺の生まれる前に廃刊になっているから知らなくて当然か。
 創刊は早稲田大学の哲学科に聴講生として籍のあった山本茂実(1917-98年)が中心となって進められた。逆算すれば山本は当時すでに30代で、当初は学徒兵の遺書等も取り上げられたという。山本は松本市に生まれ、高等小学校を卒業して実家の農業に従事した後、応召。長い軍隊生活の後で復員し、松本青年学校の教師を勤めた後で、上京して早稲田の聴講生になった。
 筑摩のコピーも分かりやすい。
 「経済的な理由で進学を断念し、仕事に就いた若者たち。知的世界への憧れと反発。孤独な彼ら彼女らを支え、結びつけた昭和の『人生雑誌』。その盛衰を描き出す!」

        「『働く青年』と教養の戦後史」表紙。.jpg

 だから、雑誌は学生だけでなく、勤労青年・青年団員をおもな読者層として創刊され、読者からの投稿原稿を幅広く受け付けて掲載した。
 「本書はこれらの人生雑誌の担い手を、発行人と読者の両面から捉え、かつて隆盛した大衆的教養主義の実相を浮かび上がらせる」
 「当時、中卒で商店や工場で働く勤労青年も『「実利」からあえて距離を取り「人生」「読書」「社会批判」といった公的・形而上的な主題につよい関心』を抱いた。彼らの間には、エリート教養人への憧れと反感が同居していたのだ」
 第2章に人生雑誌の隆盛は集団就職の時代と重なるとあるから、これは分かりやすい。中学を卒業して夜行列車に乗る子供たちは、親と泣き別れて大都会に出た。直ぐにも働く仲間ができれば良いが、そうでなければ日々の暮らしの中で孤独をかこつだろう。人生雑誌はそういう孤独感を埋める装置になったと考えれば分かりやすい。

        「教養主義の没落」表紙。.jpg

 編集顧問としては、亀井勝一郎、清水幾太郎、都留重人らのが絡み、若かった早乙女勝元も編集に加わっている。この雑誌の成功で、各社から「潮」、「人生手帖」、「雑草」、「人生」、「みどり」といった人生雑誌が発行された。
 山本は後に「あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史」を書き、「愛と死をみつめて」などもこの人生雑誌の潮流の中から生まれた。串田孫一の一連の著作もこの辺りから出たという話を知ると感慨深い。
 「この隆盛が、60年代半ばまでにぱったり終わる。人生雑誌は続々終刊し、出版社は目玉を『人生』から『実利』に切り替えた」
 「『受験』『ビジネス』『健康』は、実利の三大商品である。高校や大学への進学率が劇的に上がり、人々の関心が教養主義から消費主義へ機軸を転換させる中で、『青春』も『人生』も語られることはなくなった」
 「私たちが生きる現在は、この転換の果ての風景だ」
 賛否分かれるようだが、嵐山光三郎が死の恐怖から逃れるためには「教養」しかないと主張し、語っているのはこの反語になっている。人生雑誌の廃れた後に続いたものは何だったのか。(東京大学教授・吉見俊哉評、日本経済新聞)


追記
ウッフッフッフ。辞めときますが、ウッフッフッフ。
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気になる本――サイコパスと軍用犬。
4月26日
気になる本――サイコパスと軍用犬。
「サイコパス」[中野信子著, 文春新書]
 10刷20万部でべストセラーというから、延べると1刷で2万部印刷ということか。昨年11月に発売して半年で20万部だ。テレビを観ないので知らなかったのだが、著者はテレビに出て様々な発言をしている「天才脳科学者」だそうだ。
 著者を調べていくと「かつら」というキーワードが現われる。人前に出る時には黒髪のかつらで、地毛は金髪。カラオケなどでメタルを熱唱するのだそうで、学者としてとそうでない顔を使い分けるため、「On / Off」の切り替えにかつらが必要なのだそうだ。今時は中々そういう切り替えが難しいのかな。メタルと学者は同居はできるようにも想うが。

ゴーグルとベストを着用した軍用犬の空中作業訓練。.jpg

 「サイコパス」と聞くと、連続殺人鬼を想起する俺などは古いそうで、「サイコパス」の定義はもっと幅広い。それでも、例えば「Trainspotting」の主要登場人物の1人であるBegbieは映画中でも「サイコ」と仲間に陰口を叩かれる。日常精神疾患があるというニュアンスでまだまだ一般的には使われている。
 しかし今では「サイコパス」の定義は正確には違っていて、サイコパスの人の特徴は、「良心や善意を持っていない」ということだそうだ。犯罪者に限らないし、「およそ100人に1人の割合で存在するという」とある通り、社会一般に珍しくはないそうだ。だが、「平気で嘘をついたり、人を陥れようとしたり」という面もあるそうで、厄介だ。
 (ははぁ、なるほど)
 平気で嘘をついて陥れる人というと、思いつく人物がいるが、今ものうのうと某地で暮らしている。本書でも指摘されている通りで、言葉が巧みで社会的な地位も高い。彼を「困った人」だと気付く人は殆どいない。だが、極めて社会的に危険な人だと思う。最初に持った家庭で、奥さんと子供たちは、夫の人生の踏み台になった。殺人こそは犯していないけれど、考えてみれば、その歩いた路傍に彼に陥れられた人たちの死屍累々だ。サイコパスの割合は年々増えていないのだろうか。売れる理由も想像がつく。(『ベストセラーの裏側』文化部・岩本文枝評、日本経済新聞)

             Begbie in Trainsppoting.jpg
 
「戦場に行く犬 (原題:Soldier Dogs)」[Maria Goodavage著, 晶文社]
 「サイコパス」に焦点が当てられる一方で、軍用犬を中心とした犬と人間の関係はどうだろう。近年、軍用犬を主人公にした映画が撮られていた理由も次の下りで分かった。
 「2011年、米軍がアルカイダの指導者、ウサマ・ビンラディンを襲撃した時、その作戦には犬も参加していた。名前はカイロ。アメリカではテロリストを倒したことより、この軍用犬のほうが話題になり、オバマ大統領(当時)もカイロの帰国後にわざわざ表敬訪問にでかけたそうなのである」
 「鋭敏な嗅覚と聴覚。ハンドラー(犬の指導手)に褒められることだけを報酬に敵地に乗り込むという忠誠心。兵士が亡くなっても、遺体の傍らにじっと佇むという話もあるくらいで、犬と兵士の間には特別な絆が芽生えるという」
 毎朝毎晩市内を歩いていて飼い犬とすれ違う時には、俺はじっと目を観るようにしている。犬は必ず目が合うと反応してくるから面白い。

大日本帝国陸軍の軍用犬。.jpg

 中には俺に飛びついて来る幼い子もいれば、じっと顔を見詰めるだけの老犬もいる。何れの犬も、こちらと何らかのコミュニケーションができていると感じる。長じた犬の場合は、人間で言うと3歳の幼児くらいの知能を持つ個体もいると言われる。犬に関する書籍は多いが、老犬の顔ばかり集めた写真集があるのも分かるように想う。
 欧米人は、犬を犬小屋で隔離して飼うのでなく、通常は家族として家の中で育てる。細やかに感情が通じ合っていることが分かるような場面に立ち会うと、観ている方も幸せな気分になるのは不思議だ。おっと、この時、「サイコパス」は何も感じないのか。くわばら、くわばら。(ノンフィクション作家・高橋秀実評、日本経済新聞)


追記
今日は某所で密談の結果、俺は急にまたまた忙しく日欧を往復することになりそうなのだったよ。ビエーン。花のピュンピュン丸ちゃんなのよ。
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手元にある本――あるマレーの軍属の話(下)。
4月25日
手元にある本――あるマレーの軍属の話(下)。
 「Outsider」[Frederick Forsyth著・黒原敏行訳, KADOKAWA]
 Frederick Forsythの父親がMalaysiaのJohorのゴム園でPlantationのManagerとなって移住したのが1930年頃。
しかしその後、5年近くも単調な日々を耐えても泣かず飛ばず。母国に残して何とか手紙のやりとりだけで留め繋いだ恋人を呼び寄せるか、いっそ帰国する方が良いのか迷い始めた頃だった。
 深夜、ある日本人の労働者から子供の容態が急変したので助けて欲しいと懇願される。父親は夜は9時には休んでいたが、日本人が相談しに来たのは10時を回っていた。
 街から危険なジャングルを隔てて遠く離れていた荘園のManagerは医者の真似事もやらなければならない。いざとなればよろず相談の何でも屋になった。
 10歳位の日本人の男の子は素人でも急性虫垂炎と分かった。しかし自分では手術は無理だ。自分の背中に男の子を紐で括り付けて、街を行き来したオートバイで130km離れたChangi(現Singapore)の総合病院へ密林の悪路を飛ばしたとある。JohorのJalan Kluang辺りにゴム園があったのではないか。

       「Outsider」表紙。.jpg

 途中から大通りに出たが、深夜のジャングルの悪路をオートバーで飛ばすのはこれも命懸けだ。幸い、腹膜炎になりかかっていた男の子は、間一髪で、緊急手術を済ませ、何とか一命を取り留めることができた。
 当時は、夜行性の虎や豹などの猛獣も毒蛇もいたジャングルを切り拓いてPlantationを開発していた時代。今ならJohor−Changi間は高速を一っ走りだが、深夜にオートバイで未舗装の密林を走ることは危険極まりない冒険だった。
 俺は、40年近くも昔、小河原良太に借りたスクーターに女の子を乗せて、未舗装の道を走ってヤブに突っ込んだことがある。猛獣がいるような密林なら、オートバイが止まった時点でもう危ない。
 ちなみに、金子光晴や菅原通濟はジャングルを通らず、河を船で上り下りした。その河も人喰いワニがいたりして怖い。オートバイで未舗装・無灯火の森を深夜走るのは、猛獣がいなくとも危険だ。背中に病人を紐で括り付けていたらなおさら危ない。よくジャングルを走ってまで従業員の子供を助けようと決心したものだ。

Bear Grylls with Barack Obama.jpg
 Barack Obamaにサバイバル術を実地に教えるBear Grylls。生きるチカラ自体を画面で
 目の当たりにさせられる。敵をやっつけるのもいいけれど、極限状況から抜け出して
 生き延びていく判断力、行動力、運動神経。身体能力の限界まで使い切っている感じ。

 後日、日本人は父親の前に進み出て、自分は金も無く、恩に報いることができないが、一つだけあなたに忠告したいのは「帰国した方がよい」ということだと言ったそうだ。父親は、もう潮時だと感じていたこともあり、その忠告を素直に聞き入れて帰国した。
 ここには多くは書かれていないが、当時の世相や情勢の変化について、父親は感じるものがあったのかも知れない。
 この5年後の1941年12月には真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。翌年1月には“マレーの虎”、山下奉文の指揮による「マレー作戦」で日本軍が電撃的にマレー半島全域を侵攻できたのは、父親の帰国前から、その男のような「日本人工作員」を各地で多数育成し、手引きさせたためだろうと書いてある。日本で言う、いわゆる「軍属」で、ハリマオで知られる谷豊(1911-42年)などもその1人だ。

金子光晴「職人」原稿.jpg
 金子光晴の原稿。インテリの原稿だからなあ。そうそう、ちょっと、この人からも、
 サイコパス系の匂いを感じるんだけどな、俺。

 自分の体験からも言えることで、この話には異国で暮らす者に大切な教訓がある。
   (1)分け隔てせずに人に公平に接したこと
   (2)リスクをかえりみず弱者の命を救ったこと
   (3)相手の誠意ある言葉を信じて容れたこと
 こういう人にはごくごく自然にいい情報が集まってくる。
 帰国して恋人と結婚した父親。2人の間に生まれたのがFrederick Forsythである。家で取っていたのが「Evening Standard」で、外電記事の都市名を読み聞かせながら父は自分の冒険譚を息子に話して聞かせた。
 日本人従業員が忠告した言葉にも情がある。彼が「日本人工作員」であったとは書いていない。Forsythの誕生はその日本人の忠告のお陰で、日本の戦争責任は問われたが、自分の生まれた責任は、日本人には問えないと書いている。これまた味がある。


追記
明日にご期待。

| 9本・記録集 | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0)
手元にある本――あるマレーの軍属の話(上)。
4月24日
手元にある本――あるマレーの軍属の話(上)。
「Outsider」[Frederick Forsyth著・黒原敏行訳, KADOKAWA]
 一昨年出版され、昨年暮れに翻訳が出た。毎晩、寝る前に、1チャプターずつ読んで寝ることにしている。コイツは誇張無しのファンタジーだから毎晩の夢見がいい。
 まず俺があれこれ言うよりも、手嶋龍一の評が的確だな。まさに我が意を得た。
 「Forsyth少年はSpitfireを駆って大空を飛びたいと憧れていた。Cambridge大学の入試面接でも『パイロットになりたい』と告げ、安全だが退屈な人生を拒んでしまう。まさしく筋金入りの『アウトサイダー』なのである。この特異な自伝は、短編の狙撃手、Roald Dahlが人生を綴った『Boy - Tales of Childhood』、続く『Going Solo』の系譜を継ぎ、消えゆく大英帝国の青年群像を彷彿とさせる」

       「Outsider」表紙。.jpg

 その通りで、Frederick Forsyth(1938年-)の軌跡はRoald Dahl(1916-90年) を想起させる。そう書こうと想ったら手嶋さんが先に書いていた。
 無論、Roald Dahlの憧れた人で、海峡を挟んでFranceには「星の王子様」を著したSaint-Exupéry(1900-1944年)がいる。
 付け加えるなら、手嶋さんは消え行く大英帝国の青年群像としたが、今でもBear Grylls(1974年-)はまさに彼らの衣鉢を継いだ冒険家だ。俺が女なら押しかけ女房になりそう。男の憧れを地でいってるわけだ。

Bear Grylls.jpg
 この人は、20歳で特殊部隊に入ったけれど、そもそも、十代で殆ど全てのサバイバル
 術を体得している。その上で武器弾薬だのマーシャルアーツだののマスターだから、
 一人だけで30人分の兵隊くらいの力があるんじゃないかなと想うわねえ。

 残念ながら、日本でこのラインは少ないのだが、強いて挙げれば、商業学校に学んだ、言葉は悪いが、言うなれば遊び人の系譜がこれに相当するか知らん。
 Roald Dahlの翻訳者としては日本では田村隆一が知られている。Dahlが好きだから約したわけで、そこに田村隆一の強い共感がある。戦前の旧制府立商業の系譜で、「荒地の恋」の流れ。田村隆一や北村太郎の属した「荒地」同人だけでなく、編集者では植草甚一、役者なら殿山泰司辺りかな。
 だけどちょっと無理がある。日本の社会には20世紀は遊びが少ない。大敗戦を境に敗戦前と敗戦後の暗黒が日本人を小さくしたように見える。日本人はこれに懲りずに、これからまた気を取り直して伸び伸びとやればいいと俺は想う。
 本書でいきなり一発喰らったのがFrederick Forsythのオヤジ殿の若い時の話だ。Frsythは1代で生まれたのではない。息子に体験談を聞かせて対話を続けた父親があってこそ、彼のような男が誕生したのだ。
 彼の一族はKent州の中流階級。父親は商船学校を卒業して船乗りになろうとしたが、20世紀前半では船乗りの職が見つからなかった。父親の海外雄飛の夢も先人がある。言うまでもないことだが、「Treasure Island(宝島)」を著したRobert Louis Stevenson(1850-94年)や「Heart of Darkness(闇の奥)」を書いたJoseph Conrad(1857-1924年)。彼らの語った物語などには何かしら刺激を受けているはずだ。

     「おじいちゃんにも、セックスを」田村隆一。.jpg
 如何にもフリョーなじいさんだわねえ。俺のようなカタギには、もうこんな雰囲気は
 逆立ちしたって出せませんやなあ。年季が入っているからねえ。残念だけど、ムリだ。

 父親が海外移住を考え始めた1930年頃は、20世紀初頭以降の自動車産業の勃興で、急激にゴムの需要量が伸びていた。Malaysiaの最南端、Singaporeと隣接したJohorのゴム園でPlantationのManagerの仕事を見付けて移住した。
 金子光晴(1895-1975年)が「マレー蘭印紀行」などでも記している通り、Batu Pahat近郊でゴム園を通過したのは1928〜29年。海外雄飛組の菅原通濟(1894-1981年)はさらにこれより10年以上前の大正初頭にこの辺りのゴム園の開発で辛酸を舐めた。
 当時の日本人にとっては、喰い詰め者(金子光晴)や一旗組(菅原通濟)が流れ着く先がマレー半島だったということでもある。満州地区や南米各地にも渡った人が多数いたわけだが、アメリカ移住組は何年か働いて儲けたら日本に戻ろうと考えた人もかなりいたそうだ。だが、1930年代半ば頃から戦争の影が濃くなるに従って人々の目算が狂っていく。
 どの国で過ごしたとしても、20世紀は、戦争という一大イベントを抜きして一族の話は語れない。だとすると、21世紀はどうなるのか。仕掛けるのもたまらないが、仕掛けられて巻き込まれるのもとんでもないことで――種々考えさせられるところだ。

追記
これから某所へ。
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備忘録――岡田一族補遺(壱)
倫敦日記’17(第十五弾)
4月22日
備忘録――岡田一族補遺(壱)
 「九州地方の近世社寺建築」[各都道府県教育委員会編] 
 アクビが、学校から鹿児島の寺社建築の緊急調査報告書の写しを貰ってきてくれた。我が岡田の鎮守・箱崎神社の文化財記録の入手を目的にしたのだが、短い報告書には想わぬ発見があったこともあり、備忘録として以下に概要を記しておきたい。
 1989年に国の重要文化財に指定された箱崎神社。その前提となる調査報告書であり、重文に指定された文化的な価値が記されたものだ。
 鹿児島県教育委員会が事業主体となり、200万円の国庫補助を受け、文化庁の指導の下に行われた。鹿児島大学の教授が主任調査員となり、鹿児島大、九州大の研究者らが入って調査を行った。
 鹿児島では薩摩藩が寺請制度(檀家制のこと)を取っていなかったため、現在は寺社の数が非常に少なくなってしまっている。元々宗教的な行事も、温暖な気候もあってか、大規模建築に頼らず、戸外の踊りや祭りなどで済まされる性格があったという。
 江戸天保9年(1838年)の幕府巡検使調査では、大隅・薩摩の神社は3,572件、寺院は1,226件あった。ところが明治初年の廃仏毀釈で寺院打ち壊しが盛んに行われたため、藩内の寺院の殆どが廃された、とある。
 その後、明治9年の信仰の自由令の施行後、真宗大谷派別院が鹿児島市内に設立され、その後、真宗を中心とした社寺建設が進んだとあるから、薩摩藩内は目の回るような価値観の転変が数年サイクルで起きたことになる。
 薩摩藩は貧しかったので常に藩の財政が逼迫していた。藩債の整理(踏み倒し)、藩による砂糖専売、琉球(密)貿易奨励などで財政の建て直しを進めた。台風による災害・飢餓が常態で、間引き・堕胎・人移し(村民強制移住)等が盛んに行われていたとある。
 ここに我々一族に関係のありそうな興味深い記述があるのでそのまま引く。 

箱崎神社 (4).jpg 箱崎神社 (7).jpg
  一族の鎮守・箱崎神社境内にあった龍柱とその他石造・石柱類。2002年撮影。

 「いわゆる西目(薩摩半島)職人の他郷への出かせぎも一種の人移しと考えられよう。
 昔から薩摩半島のことを西目、大隅方面を東目というが、西目には早くから職人が
 発生していた」
 「代表的なものは市来の大工、かわら焼き、日置の大工、左官、吉利や永吉、田布施、
 佐多、川辺、知覧、勝目の大工、木挽、加世田の大工、鍛冶などが挙げられる」
 「西目職人は人口の不足で職人のいない東目地方に出かせぎに流れ歩き、土着する
 ものもあった」
 「大工、左官職は士族に限られ、平民には許されなかった」
 旧菱刈町市山の岡田一族は旧東市来長里から人移しで現れたことは伝承されている。
 その東市来の岡田家は元から大工・土建業を生業としており、維新後も鹿児島県内では多数の土木案件を請け負って、学校や役所、橋梁の建設に関わってきた。

    箱崎神社 (3).jpg
 寄進者として岡田一族の何人かの名前を見付けた。彫られた時期は明治以降である。
 明治期以降も打ち壊しの対象とはならず幸いにも改修が続けられてきたわけなのだ。
 薩摩では神社は壊されず、仏教寺院が破壊された。鑑真が渡来人で仏教は到来物と
 いうことは薩摩ではどうやら強烈に意識されていたようでもある。

 「今回の近世社寺の建築で特に蟇股、エビ虹梁、龍柱などの見事な装飾は、小さな規模の工事であるが近世的センスの細工であり、棟札等の記録で、彼等の仕事と推定しうるものもある」
 「蟇股」(かえるまた)とは社寺の梁の上に置かれた輪郭が山形をした部材。「エビ虹梁」(えびこうりょう)とは文字通りエビのように湾曲した虹梁。側柱と本柱を結ぶ高低差のある所に用いる梁材。鎌倉期以降唐様建築で使われてきた。「龍柱」は文字通り龍を象った柱で中国建築の象徴。島津家別邸では中国由来の「蝙蝠」を釘隠しに象っている。
 「鹿児島県神社の特長と想われるものに、龍柱がある」
 霧島神宮、鹿児島神宮、新田神社、枚聞神社、龍生八幡神社に龍柱があるとある。
 我が一族は西目職人の大工の流れを汲んでいるとすると、移住はとても分かり易い。明日以降詳述する箱崎神社境内に龍を象った龍柱があり、一族の名が彫られている。公式の報告書の中には遊んでいるような思い切った記述があり、まことに興味深い。



追記
本日は、某所にて、かなり突っ込んだ密○謀○の後で、某所にてブ○ジ○諸兄姐とケツ振り合戦。もとい、その前に別件バウアーあり。
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山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ弐)
4月21日
山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ弐)
 「山岡鐵舟 幕末・維新の仕事人」[佐藤寛著, 光文社新書]
 昨日からの蛇足になるが、山岡鐵太郎の関係者の話の続きを。
 由比「望嶽亭」のお身内とも行き来があった。
 言い伝えでは、官軍大本営に急ぐ鐵舟は、東海道の難所・薩埵峠で警戒する官軍から発砲された。疾走して峠を駆け降りて、目に付いた店の戸板を激しく叩いた。女将は鐵舟と戸板越しの問答の後、暫時、扉を堅く閉ざしていたが、外の様子を伺うためにかんぬきを外した途端、大男が店に飛び込んで来た。生死を分けるリスクの中でも、戸板の向こうの女の声だけでその腹の中が読める。これは抜群の判断力だ。
 土間に平伏して事情を説明する鐵舟の話を聞き、その場で匿うことを決め、清水港に密かに舟を出したのが主の松永七郎平。主はその場で清水の次郎長に親書を認めて、官軍の大本営までの身柄の護衛を「万事頼んだ」という。
 俺の付き合ったお身内は、江戸の焼尽を未然に回避するために来たと言うような男をその場で匿い、博徒宛の親書を書く洒脱闊達・臨機応変の人物ではなかったようだ。立派な教育者ではあったが――だが、歴史とはそういうものだろう。
 そもそも――俺の言いたかったのは、維新の事跡は150年前の過去ということだ。鐵舟の生きた時代と、今の我々との関係は、もうとても薄い。
 別の言い方をすれば、平時であっても、誰もが鐵舟になる可能性があるし、乱世でも、とても鐵舟には及ばない。どんな時でも歴史から学び、危機に及んで今を突き抜けることができればと想うわけだが、実地にその場に立った時、どれだけやれるかと想う。

       山岡鐵太郎 (1).jpg

 往時は「万事頼む」と言われれば、命懸けになった。今、「万事頼む」と人から頼まれて、アナタは絶体絶命でもやれるか。やれまい。
 西郷も禅者と記したが、鐵舟とは禅者同士の気合がある。鐵舟は、維新後に、死んだ人たちを弔うために谷中に土地を買い、「全生庵」を創建した仏門の人でもある。切り結んだ双方の人たちを弔った。対峙した人たちは仏教と禅者の同じ土俵があった。
 大乱になってもおかしくない時、約260年も続いた平時でも、官軍も賊軍も街道の料亭もヤクザも、全員に共通する精神世界があったということだろう。今とは違う。
 別の言い方をする。
 俺はEUにギリギリぶら下がっている国々の人々に知己がある。新たな国造りをする人たちは皆さん30代から40代ばかり。50代以降はもう新しい国を指導できないと諦めてじっと黙っている。言いたいことも言わずに口を結んでガマンしている。
 社会が若いというのはこういうことを指すのだと感じられる。それくらい溌剌とした社会を目の当たりにすると、却って「御一新」の江戸末の回天を想い出すことになる。150年前の日本は、今の彼らと丁度同じような時代相にあった、そういうことだろう。
 何しろ、山岡鐵舟や高橋泥舟は32歳から33歳。西郷隆盛が40歳。勝海舟が45歳。成熟してしまった今の日本なら、企業で言うと、主任さんや課長さん、精々早くとも執行役本部長さんくらいの年齢に相当する。
 維新後一世紀経たずして天皇を頂点とした大日本帝國は一旦、滅亡した。その事実を鑑みると、敗戦後70年強が経過し、負け犬根性が社会の隅々まで浸透し、国を売るような人が首相の座に就いたことも納得がいく。今や危ない国家に囲まれて、とても新しい国造りどころでない。国難を乗り切る次善の策を講じなければならない。
 外海に漕ぎ出せば、先方様には共通の土俵は無いと考える方が良い。自分の価値観と通じ合う人たちはいない。海の外との交渉に馴れ合いは期待できない。地政学的にも敵視する人々に囲まれて、厳しい、孤絶した環境にある。江戸末期は大陸側の脅威は列強であったが、北方からは某帝国の侵入も懸念されていた。
 今も本質的に高いリスクに囲まれている点では往時と変わり無いとも言えるだろう。今や、社会が老いて、少子高齢化が進展し、政令指定都市圏への過度な集中のために地方の凋落は止まらない。大人が夢を語らないからマイルド・ヤンキーが増殖する。
 維新の事跡は最早ファンタジーの世界にある。だから若い夢を喪った今、あの時代に憧れる人々が絶えないことはよく分かる。だが、哀しいけれど、維新を有難がっても直面する課題がまるで違うから、今ある課題解決の指針にはならない。
 歴史を学ぶのは素晴らしいが、往時と隔絶していることも併せて考えないと、とんだ痛い目に遭う。イヤなことを書くようだけれど、敗戦後、社会がセコくなったから、今や敵は身内に隠れていることが多いのだ。まことに哀しいことではあるが、自戒を込めて記しておきたい。


追記
シャンゼリゼで銃撃と射殺の報。本日は某所で○欧の進軍の状況をつぶさに聞いたよ。さらに○欧の移動の話なども出ましたねえ。

追記の追記
欧州戦線波高し。第1回目の投票前に欧州からの投資が一斉に東京から引いている。これでまた第2回目の投票結果でまたアジアに戻ってくるかどうか。フランスの候補の顔触れを見ると、エリートを育てているし、育っているわね。優秀な人は優秀だからなあ。日本はそういう人がサッとトップになり難いのが辛いところ。国難の意識が低いからってのもあると感じるわねえ。
| 9本・記録集 | 06:43 | comments(0) | trackbacks(0)
山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ壱)
4月20日
山岡鐵太郎備忘録(番外其ノ壱)
 「山岡鐵舟 幕末・維新の仕事人」[佐藤寛著, 光文社新書]
 さて、以下は鐵舟・鐵太郎に関連する自分の絡む話になるので蛇足になる。
 まず、随分前だが、鐵舟のお身内にちょくちょくやり取りする知り合いがいた時期がある。姓は山岡さんというのだが、元々鐵太郎は山岡家ではなくて小野家に生まれた。山岡姓を名乗るのは結婚以降で、槍の師匠だった山岡静山の死んだ山岡家に婿養子で入ったため。
 「研究会まで作って熱心に研究されていますが、私らは普通の人間ですからね」
 山岡さんはそう言ったことがある。
 鐵舟は「禅」、「剣」、「書」の達人としても有名だが、達人として人生の大半を費やした人物でもあるから、祖先の鐵舟は、海外を忙しく飛び回るような子孫にとって、実はややこしい存在でもあった。
 鐵舟は最後には皇居を遥拝して座禅を組んだまま死去した。死因は胃癌といわれる。死期を悟って、参内し、天皇に拝謁した。天皇には(成人して以降ではあったものの)御用掛だったから、その存在は大きかった。
 晩年は、道場を開き、生活のために書を書き与えたため、弟子・門人・食客は無数に多かったから、会葬者は5千人。棺が皇居前を通過する時、明治天皇は皇居で鐵舟を黙送した。実際に殉死をした人もあったし、殉死の可能性のある人は警視庁に身柄を拘束された。
 山岡さんは謙遜するような十人並みの人ではなかったが、俺が付き合っていた時代にすでにあった山岡鐵舟研究会(http://www.tessyuu.jp/)と少し距離を置いていたようなところがあった。

       山岡鐵太郎 (1).jpg

 それはそうだろう。祖先の鐵舟の存在は有り難いが、朝から晩まで、鐵舟、鐵舟、と熱く語る人たちとドップリ付き合っているわけにいかない。だから身内として鐵舟の創建した谷中の「全生庵」(http://www.theway.jp/zen/index.html)での法事を執り行う時だけ忙しくされていたような記憶がある。
 また、その「書」については直接扁額を見る機会は無かったが、書を依頼した幕臣には話を聞いたことがある。これもまた何時もの話だが、鐵舟の書は愛宕山下の明治期に創業された古い印舗の扁額にあった。
 明治時代は日比谷公園ではしょっちゅう壮士の集会が行われていたという話を聞いた。演歌の始まりでもあり、自由民権運動のあけぼの時代の話である。
 「この辺りも随分とそういう人が行進して盛んに気炎を上げていたそうです」
 そういう人たちの中心となったのは不平士族だったのだろう。
 扁額は店舗と共に関東大震災で焼け落ちた。その後、どんな経緯かこれまた知れぬが、先々代が頭山満に扁額の揮毫を依頼した。鐵舟から頭山満。近現代の超国家主義者の系譜でもある。
 山岡鐵舟―頭山満である。どういうオッカナイ家柄だと腰が引けそうなところだが、眼の前の主人は小さく穏やかな女性だった。
 「家は幕臣で、山岡さんとは行き来があったそうです」
 そしてそのSさんの家はビルの谷間で潰されそうな小さな木造の店舗兼住宅だった。
 だから俺は頭山の書は観ている。「超」のつく無骨な書で、ヘタクソも甚だしいもので、いっそ爽快とも言えるものだった。あまりに下手なので俺は彼女に質問したのだった。
 S家では幕臣として鐵舟と往来があり、武士の商売で店を始める時に揮毫を頼んだと聞いているとその老女は言った。彼女が元気ならChuck Berry(1926-2017)の卒寿を超えているだろう。俺が日本で使ってきた銀行印はこの店で作ったものだ。
 

追記
体調不良。どうか知らん。基礎体力の低下か知らん。困ったものであります。
| 9本・記録集 | 07:06 | comments(0) | trackbacks(0)
山岡鐵太郎備忘録(肆)
4月19日
山岡鐵太郎備忘録(肆)
 「山岡鐵舟 幕末・維新の仕事人」[佐藤寛著, 光文社新書]
 襖1枚隔てて殺気充満の中、山岡鐵太郎は言った。
 「謹んで朝命に背かないことを申す忠臣に対して、寛典のご処置なければ、これより天下は大乱とならんことをご推察ください」
 さて、そこで西郷はモードを変えた。一度交渉の場から消える。
 7.西郷隆盛との交渉(下)
  「西郷氏悟る所あり」
  「慶喜恭順謹慎のことを静寛院宮や天璋院殿の使者が来られて嘆願されたが、ただ
  恐縮狼狽するだけで要領が得なかったが、先生のおかげで江戸の事情がわかった」
  この言葉には嘘はないだろう。そこで総大将と談じて来るからと言って暫く消え、協議の上戻った。鐵太郎に条件(有栖川大総督宮の五か条の御書)を伝えて曰く。
  「一、城を明け渡すこと
  一、城中の人数を向島に移すこと
  一、兵器を渡すこと
  一、軍艦を渡すこと
  一、徳川慶喜を備前へ預けること」
  鐵太郎は、これを聞き、徳川臣下である備前預かりという第5条だけは呑めないと突っぱねた。有名な話だが、応酬はさぞかし激しかっただろう。この間の陣営内の雰囲気はどうだ。事実、後日、山岡鐵太郎は村田新八に凄まれたことがある。

       山岡鐵太郎 (1).jpg

  村田曰く、西郷隆盛との面談の前に我が官軍陣営を通行していく山岡と薩摩藩士の益満という男がいることを先鋒隊から聞いたので、(先鋒隊第1隊長の)桐野利秋と(第2隊長の村田新八は)急行したが追いつかなかった。斬り損ねたのが悔しいので貴殿を呼び出した、と言ったというのである。薩摩の“ぼっけもん”らしい。
  その気持ちも分かる。殺気充満の敵陣の中で山岡鐵太郎はズケズケと言うからだ。
  「主人慶喜をひとり備前に預けることは、けっしてあってはならないことである。
  なぜなら徳川恩顧の家士は承服できず、つまるところ、兵端を開き、空しく数万の
  生命を絶つことになろう。それは王師のすることではない。すなわち先生はただの
  人殺しとなる。ゆえに、拙者はこの条においては肯定できないことである」
  そこで西郷の言葉は殺気を帯びる。
  「朝命なり」
  「朝命なりといえども、けっして承服できない」
  さらに語気を強めて繰り返す。
  「朝命なり」
  村田新八は勝海舟と西郷隆盛の薩摩藩邸会談まで官軍側の事実上の護衛責任者だ。だから大男で目立つ鐵太郎はその後も何度も観ている。斬れず残念だったと詮無い脅し文句を言いたくなるほど図々しく聞こえたのだろう。これも6尺豊かな大男の村田は、西郷が面談している間、桐野と隣室に隠れて抜刀していたという説もある。
  ここで鐵太郎は言葉を改める。例え話に置き換える。
  「では、先生と私とでその立場をかえて論じましょう。先生の主人、島津公がもし
  誤まって朝敵の汚名を受けて、官軍討伐の日、その君、恭順謹慎の場合とする。
  先生がわたしの任にあって、主家のために尽力するとき、主人慶喜のようなご処置の
  朝命ならば、君臣の情として安閑として傍観することができるわけがない」
  「黙然暫くあり」
  西郷は、そこで「問答無用」とならない。これも禅者の呼吸か。
  「先生の説はもっともである。慶喜殿の処置は西郷が引き受け申した。先生が心痛
  することがないことを誓約する」
  この瞬間、隣室の桐野利秋と村田新八はどういう顔をしていただろう。交渉は満点だが溜め込んでいたエネルギーは無血開城で行き場がなくなった。南国薩摩は日本とは思えない純朴なところがあり、伺候した2名を含め全員が西南戦争で死んだ。西郷の下野は朝鮮側との交渉役を申し出たのに容れられなかったからで、死ななくともいい人が死ぬのが戦争とはいえ、西南戦争の死者は1万3千人を超えている。
 一方、幕臣は殺気を恐れぬ直言居士ではあっても、必ずしも一直線ではなかった。この2ヵ月後、鐵太郎は若年寄格幹事に大抜擢される。江戸っ子らしく洒脱で闊達な鐵太郎を高く買い、朝敵だった男を、手の付けられないほどの暴れん坊だった明治天皇の侍従になるよう説得した政府要路の者は西郷隆盛その人。


追記
選挙になって大騒ぎになりそう。
それはさておき。
好き好きでしょうけれど、こういうブツは各々それなりに旨かった。そこに至るまでに、結構な遠回りをするわけ。店の情報、市場の情報、タイミング、旬、価格……日本ならグッと味覚のレベルが高いから、そんなに苦労をしないのだけれどねえ。

The Old Bull and Bush 20170415 (2).JPG

Duck Duck Goose (5).JPG

Quiche Lorraine from Paris 20170415.jpg
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