岡田純良帝國小倉日記

気になる言葉(番外其之吾)――「どうですか、この知恵」。
7月23日
気になる言葉(番外其之吾)――「どうですか、この知恵」。
 「吉行淳之介対談 浮世草子」[集英社文庫]
 さらに小沢昭一(1929-2012年)の続々編。
 小沢さんのご自宅は代々木上原の駅前にあった。獄中で苦労して帰国した頃には、小沢さんはまだ「東京人」にも寄稿をしていたし、「小沢昭一的こころ」は逝去直前の2012年の暮れまでまだ放送されていた。TBSで「小沢昭一的こころ」開始前に放送されていたのが向田邦子(1929-1980年)が脚本を書いた「森繁の重役読本」。向田邦子がTVに転向する前。だから、「小沢昭一的こころ」は古い。
 亡くなった翌年の2013年に、俺は小沢さんのお宅を訪ねてみた。モスクのある辺りから駅前に降りていくと、ぐるりをブロック塀で囲った小さな二階建ての家がある。小沢という表札は出てはいなかったが、小沢昭一の家だった。
 池波正太郎(1923-90年)の家は掛け値なしの路地にあって、これも驚いたが、小沢さんの家は、本当にフツーの木造モルタル造りの昭和の住宅だった。ずっと前に身内の家へと引っ越していたのかも知れない。誰も住んでいなかったからだ。
 小沢さんが生涯語り続けてきたことと、遺された家に齟齬が無いことだけは確認できた。こういう事実は、家を目の前にすると打たれるものだ。家を見に行くのはそれだけでも、一つの体験になる。
 David Bowie(1947-2016年)が思春期を過ごした家を見に行ったことも重要な体験だった。PunkとのMissing Linkがあんな閑静な郊外の住宅地にあったのだということも同時に知ることができた。David BowieとSex Pistols――もう、何もかも分かったような気になった。

「昭和藝能東西」本橋成一(小沢昭一監修)より(1)。.jpg

 晩年の小沢さんは怖いくらいの目付きをする人だったが、遺された家を見ると、質素な家の佇まいがちっとも不思議ではないなと感じられた。昭和の4年生まれで軟派な麻布中学からの海軍兵学校入学組。敗戦後、死ぬまでオカミに怒り続けていたのだ。
 小沢「関西には、早朝売春というのがある。早朝の列車で着く客が相手だ。これがまごうかたなきBG」
 吉行「目的は、やっぱりカネか」
 小沢「そうでしょう。もっと小遣いがほしいという……。なかには、シンから好きなのもいるかもしれない」
 吉行「好きなんだね。でなきゃそんなに早起きできるはずがない(笑)」
 小沢「しかし、早朝とは考えましたね。親は夜遅くなると心配するけど、朝早く出ていくぶんには『会社を掃除して、課長さんの机に花でも飾ってるんだろう。感心な娘だ』としか考えませんからね。どうですか、この知恵。関西ははるかに文明度がたかいなあ」
 5月の連休の間に、「悪い仲間」の何人かが集まった。その話は別稿に起こす予定だけれど、30年以上経って仲間で歩く下北沢には戦後の影が薄くなってしまっていた。駅前の暗いバラックも小沢さんが足早に昇っていった下北沢駅の古い階段も地上ホームも、きれいさっぱり消えてしまった。
 「どうですか、この知恵」
 晩年はそういう話こそオクビにも出さなかったが、小沢さんは上方落語を愛し、文楽を愛し、門付けを愛し、民間芸能人類学とでもいうべき業績を遺した人だったのだけれど、その筋の痕跡も残さずにきれいに消えてしまった。粋だけれど、ちょいと、寂しいぜ。

追記
今日も早めに出立。暑くて身の危険を感じるくらいだから日が昇り切る前に移動は済ませたい。
この暑さでエアコン君が段々神々しく見えるようになってきたよ。エア大明神とかエア権現なんて考えていたら、エア不動王とかエア龍神まで現れて、なぜか最後にはエア菩薩に収まったのよ。恵みと有り難みが女神って感じだからか。というわけで3年前に新規交代したエア菩薩には誠に世話になっております。有難いなあ。
| 9本・記録集 | 05:25 | comments(0) | trackbacks(0)
関西町人学者の矜持――谷沢永一。
7月22日
関西町人学者の矜持――谷沢永一。
 「完本 かみつぶて」[谷沢永一著, 文藝春秋]
 谷沢永一(1921-2011年)センセイ、快調、快調。一日600字で原稿用紙2枚。中々難しい。それをずっと続けた人で、中身の粗密は別にして、江戸期の「千日講」ではないが、親近感を感じる人だわいねえ。
 読んでいくと分かるけれど、何だか、ちょっと、羨ましい気がする。本の虫。浪花の町人文化から生まれた学者が好きなんやねえ。

20180719 夕食 (2).JPG

 今東光(1998-1977年)にも「百日説法」があるが、これはヤクザだねえ。坊主のクセにガマンが足りん。足りんでも、大僧正じゃけえ、何も心配せんでもええんやで、そこのアンタ。
 こちらが我がことを思えば、全然、徹し切れなかったわいねえ。反省するのはサルでもできるけえ、わしはしかも人間様じゃけえ、反省しないけれど。オホホホホホホ。それでも、ま、Rock 'n' Rollは、結構、自分なりにやった。
 だけど、もう、これからは心掛けて、少しずつでもまとめていければと想う次第。

  Shindig!.jpg
  この写真が如何に早過ぎたか、そうして、FBIの神経を逆撫でしたかという話は、
  他所では聞けんわねえ。Sam Cooke with Everly Brothers in "Shindig!"

追記
先週、某所から、第2次天安門にかなり関係の深い人物について、売込みがありました。そろそろ辞める時期、だが、その識見とネットワークはあまりに中日にとって惜しまれる――そんな立て付けになっているわけよ。ヌーン。だがしかし。

追記の追記
船橋の向井敏(1930-2002年)の終の棲家に行ってみるかどうか。あまりにも暑くって、考えるだけでぞぞけ立っちゃうけんども。

追記の追記の追記
夏見台オークホームズ。ヌーン、今行ってもヌーンだなぁ。遅かったぜ。
| 9本・記録集 | 13:58 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(番外其之肆)――「頭だけジュズつなぎになっている」。
7月22日
気になる言葉(番外其之肆)――「頭だけジュズつなぎになっている」。
 「吉行淳之介対談 浮世草子」[集英社文庫]
 小沢昭一(1929-2012年)の続編。
 これはまだ小沢昭一も30代の頃だから「小沢昭一的ココロ」ではなくて、野坂昭如(1930-2013年)の「エロ事師たち」で演じたスブやんっぽい言い回しで読むと楽しめる。
 小沢「個室床屋。現にあるんですよ。床屋さんだってだんだん女の人がふえてきたでしょう。だから、つぎに床屋じゃないかな」
 吉行「耳の穴なんかくすぐるわけか」
 小沢「個室だから、耳の穴ばかりじゃなくて、どこをくすぐってもいい。頭刈っても刈らなくてもいい。床屋でヒゲだけ剃って出てくる人もいるんだから」

      小沢昭一。.jpg

 吉行「個室写真屋だっていいわけだ。レンズのハケでチョイチョイやるか」
 小沢「床屋にも写真屋にもハケはあるから。どうも吉行先生はハケが必要品らしい」(笑)
 吉行「大阪はむかしとまるっきりおんなじだってね」 
 小沢「むかしのまんま。そりゃ向こうのほうがはるかに文明度が高い」
 吉行「座ブトン売春ですか」

男子理髪(台湾)。.jpg

 小沢「じゃないのもある。初島はむかしなつかしき二丁目スタイル。ただどこの店もうるさいからってカーテンしめて、路地は真っ暗。中に煌々と明りがついて、女がいるんですよ。そのカーテンのはしに、上から下まで三センチぐらいのすき間がある。そこからのぞくわけだ。タテに長いすき間だから背の高いやつは上からのぞく。低いやつは下から。いちばん下には、地べたにはいつくばってのぞいているやつがいる(笑)。上から下までタテにずっと頭だけジュズつなぎになっている。この図は嬉しかったな。これは、二丁目から一歩踏み出した新スタイルだと思ったね」
 吉行「いい女いますか」
 小沢「これが、なかなかいない(笑)」

美容理髪(上海)。

 ここで一旦話を切る。
 小沢昭一と吉行淳之介(1924-94年)の口からは、床屋売春、座布団売春、ハケ、BG……好きこそモノの上手なれ。呵呵。
 小沢家に出入りしていた人を間接的に知っていて、小沢家では、一時、戸主の世間でのイメージでお子さんが苦労された時期があったと聞いた。昭ちゃんには溺愛する優秀なお嬢さんがいて、彼女が多感な時期のことだ。この対談でも、近頃は、テレビが主婦に迎合するのは悪い傾向だと小沢父さんは憤慨されているが、当時はPTA全盛期だった。
 「上から下までタテにずっと頭だけジュズつなぎになっている。この図は嬉しかったな」
 俺はこれまで買春の趣味は無かったけれど、「斯道」に燃えている男がいることはよ〜く知ってらぁ。スブやんはジュズつなぎになっている男たちに共感しているわけなんだな。これ、とっても昭和時代の男っぽい発言で、俺は懐かしい気持ちになるわねぇ。

追記
昭和50年代には、この床屋売春がアジア各国で栄えていた時期があった。今も、当局の網の目を潜ってお盛んなのは当時は堅く門を閉ざしていた○○人民共和国だそうだ。最も「男子『純』理髪」なんてのが残っている台北の看板は、往時を偲ばせてあまりあるわい。どこの国だって、「そういうもの」だわい。世間を見てくると、「人類皆兄弟」という競艇番長のセリフを思い出しますわい。
| 9本・記録集 | 07:02 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(番外其之賛)――「年とってからのマスはお茶漬けの味だ」。
7月21日
気になる言葉(番外其之賛)――「年とってからのマスはお茶漬けの味だ」。
 「吉行淳之介対談 浮世草子」[集英社文庫]
 殿山泰司(1915-1989年)を前にすると、吉行淳之介(1924-1994年)はすっかり腹を見せた犬のように気を許して甘えている。
 殿山「だいたい男って、そうじゃないですか。すぐ手ェつけるのもいるのかなあ」
 吉行「いや、天才的なのもいますよ。年少のころから、どんどんやるお方がいる。いやなやつなんだ。こういうやつはあまり話すに足らないと思う。いま殿山さんが親分になっているグループは、小沢昭一とか、ほかにだれですか」
 殿山「ぼくは親分じゃないけど、西村晃とか、文学座の加藤武、北村和夫」
 ここで殿山はオヤブンではないと言うが、元は川島雄三(1918-63年)の率いた「教養を楽しむ会」の流れだ。川島雄三は1963年(昭和38年)に亡くなったので、川島亡き後は、というか、そもそも健在の頃から殿山泰司は最年長であったのだが、川島が「斯道」修行の唱道者であったということだろう。お座敷に芸者を呼ぶお大尽遊びではなくて、ポン引きに頼み込んでブルー・フィルムの上映会をするだけでは済まず、男だけでシロクロ・ショーの真似事をやる。麻布の同級生、小沢昭一(1929-2013年)やフランキー堺(1929-96年)まで末席に連なる時もあったはずだ。
 吉行「あの人たちはなかなかの人物ですね」
 殿山「××のやつはヒマがあるとひとりでしている」
 吉行「それは変わってるね。やってはいるんでしょう」
 殿山「やってはいるけど……」
 吉行「味をかえてるわけですね。年とってからのマスはお茶漬けの味だ。なかなかイキなひとだな」
 殿山「しかも、手を使わない。いろんなところにこすりつける(笑)」

川島雄三と織田作之助。.jpg
 「還ってきた男」の織田作之助とその映画を撮ってデビューした川島雄三。俺にとっては、
 こんな大好きな男たちの組み合わせはないという夢のツーショットだ。しかもコテコテ。
 オシャレで線が細い。まぁ、似たもの同士ですよね。2人は共鳴し合ったというのはよく
 分かる話なんだけど。世間はその辺りをあんまりご理解ない。メクラ千人。

 本書は融通無碍と言うよりは人によってボリュームがまちまちだ。大山倍達(1922-94年)は徹頭徹尾喧嘩の話なのだが、たった3ページだ。一説にはマス・大山が吉行の軽薄なC調に怒り狂って出て行って対談は中止になったとか。ところが殿山泰ちゃんは10ページ。対談の達人と言われた人だが、相手によってノリの良し悪しはあるだろう。
 また小沢昭一の「藝能東西」の話になる。本橋成一に撮らせたモノクロの組写真が記憶に残っている。ある時、大久保の待合にゲイ・ボーイが集まったイベントを撮った一連の組写真が掲載されたことがあった。
 和風の旅館の大部屋の中に敷かれた布団と枕の壮観な絵柄。望遠で撮った旅館の玄関に吸い込まれていく男たち。翌朝の大部屋には寝乱れて散乱したままの布団と枕。浴衣は皺くちゃに棄ててある。
 組み写真全体から浮かび上がる想いは隠微な感じとはまるで離れたものだ。まず常人の知らない世界があるという驚き。大人数の好事家向けに仕立てられたこのイベントは、これまでの積み重ねがあって、粛々と始まるが、激しい息遣いとわななきの後で、弛緩した安らぎの時が訪れ、再び無言で都心に散っていく流れが分かる。
 どこか検視写真っぽさがあり、ハードボイルドな緊張感を感じさせる組写真であった。小沢昭一は写真館の倅であったから、写真表現の狙いに通じていた。東武線の隅田川の土手下で和服の女性が尻を端折って小便をしているスナップがあり、昭和の風俗を切り取った一種の傑作だと俺は想う。
 だから若い有望なカメラマン(本橋は『太陽賞』を獲ってまだ数年)に厳しい条件の写真を撮らせるなぁと感じたことを覚えている。
 「年とってからのマスはお茶漬けの味だ」
 修行の道は厳しい。「斯道」に邁進した皆さんは殆ど鬼籍に入られた。立派だったなあと想う。


追記
これからチャリに乗って役場まで。戸籍謄本と印鑑証明。こういうことのために役場まで行くことは、もう少し後になるだろうなあと潜在的に想っていた。考えてもみなかったことだが、ヤジオは、世間の2017年の平均寿命を僅かに上回って亡くなったことになる。我が一族では初のケース。俺はそうはならんと想う。暑い夏だが、夏ってのはいいもんだねえ。
| 9本・記録集 | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(番外其之弐)――「好きな女には手をつけないで」。
7月20日
気になる言葉(番外其之弐)――「好きな女には手をつけないで」。
 「吉行淳之介対談 浮世草子」[集英社文庫]
 殿山泰司(1915-89年)の回を続ける。泰ちゃんの盛んだった時代は戦前の話。戦後は新橋駅前で汁粉屋をやっていて酔客のオーバーを剥いで古着を集めるような連中と知り合い、それが浅草寺境内脇に昭和時代に開業していた古着屋の源流になった。その頃の話か。
 吉行「殿山さんの三十代は、口あけて寝ころんでいると、タナから女が落ちてきたほうでしょう」
 殿山「いや、努力しましたね。でも、女ができるときって不思議ですね。女を待っている間にできちゃうことがある。服部(銀座四丁目)のかどで待ち合わせして、女がちょっと遅れると、ほかの女に話しかけて、それでできちゃったりしますね」
 吉行「女ができるときって、ほんとうに不思議なくらいできる。あれは何ですかね」
 殿山「潮の満ち干きと関係あるんじゃないかな(笑)」
 吉行「できないときは、どんなにやってもダメだ。ものほしげになるからダメなのかなあ。もててるときは、おっとりして、女なんか……という顔をしているからいいんでしょうね。二十代の男が女性のおしりをなぜると、自意識過剰で、『なぜてます、なぜてます』という感じになるでしょう。ところが四十代は『どうでもいいや』という感じで、虚実皮膜のあいだでなぜる。なぜられるほうは、軽い安心感があって、そのくせ刺激される。そこでうまいことになっちゃう。考えてみりゃ、若いころすいぶん惜しいのを逃してますね。そういうことないですか」

「無理心中日本の夏」スチール。.jpg

 殿山「ありますね。そのあいだ、女郎買いばっかりしてたんですけどね、好きな女には手をつけないで」
 吉行「女性に対して、理想主義的なところがあったんじゃないですか」
 好きな女には手を出さないで修行に励む辺りが面白い。赤線廃止前と廃止後との日本の社会の最大の違いというものではないかと想う次第。また、人間関係の希薄化も平成で加速度的に進んだ。“気の利いた人”なんてことは誰も気にしなくなっている。
 往時は、即物的なナニは味などなくて、口説きも口説かれも共にプロセスを味わうのが楽しみだという点を強調する男性も多数あったが、今では化石扱いされる時代になった。
 殿山の泰ちゃんと離れるが、ディック・ミネ(1908-91年)との対談を読むと、やはりこのディック・ミネ自身が一種の人格者であることが伝わってくる。父親が立派な教育者で、その信念が息子に直伝されているという感じがある。 ま、ここではそれは引かない。
 ディック・ミネは厳しいオヤジ殿から勘当されても通った立教大学時代の話が良かった。2学年下にいた面白い不良仲間の話が出てくる。吉行のエッセイではお馴染みの人物だが、「黒メガネのオジサン」である。
 さて、彼の本名が出てくるのは吉行の遺した作品の中でもこの対談だけではないかな。おじさんの実名を作家自ら口にする。吉行謙造。黒メガネに着流し姿で、岡山を旅する安岡章太郎(1920-2013年)と行き会うのは高度経済成長期だ。還暦過ぎても、どう見てもカタギには見えなかったそうだ。立教には立教特有の不良の系譜があって、この人も、そういう雰囲気を色濃く持っていたようだ。

追記
殿山の泰ちゃんくらい古くなると21世紀に物心のついた若い人が詠むと隔世の感があるだろう。人間関係の距離感が劇的に変わってしまった。しかし男子諸君はそれほど変わってもいないもの。慨嘆しても詮無いこと。
泰ちゃんには「日本女地図」という傑作があるけれど、小沢昭一は泰ちゃんのこの書に触発されて「美人諸国ばなし」で向こうを張った。谷沢永一でさえも別格扱いのタレント・永六輔に、「みだらまんだら」と「極道まんだら」の2冊あり。まずはこの辺りの聖典でも読み、徘徊老人永井荷風さえ聖書「性書」と日記に記していた如く、さらに人類有史以来の古典に触れて、人間探求の醍醐味に進んで当たっていくのも良かろう。邁進あるのみやでぇ、男子諸君。ウッフッフッフ。
| 9本・記録集 | 06:45 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(番外其之壱)――「ラーメン運んでる女のコとか、ああいうの」。
小倉日記’18(第二十二弾)
7月19日
気になる言葉(番外其之壱)――「ラーメン運んでる女のコとか、ああいうの」。
 「吉行淳之介対談 浮世草子」[集英社文庫]
 斯界の巨匠・吉行淳之介(1924-1994年)が昭和40年(1965年)から4年ほど続けた対談を集めたもの。そも「斯界」って何よ、どうなのよ、と突っ込みを入れたいところであるが、そう書く俺も、昭和時代に角川の「軽薄対談」を買って吉行のこの手の随筆は玩味した。手元にあるのは1982年(昭和57年)だから学生時代に買ったのだろう。
 これは徳間書店で今も続く週刊誌、「アサヒ芸能」に昭和40年(1965年)10月から約4年、200回近くの長期連載となった対談だ。元々「人間再発見」というタイトルだったと知るとズッコケる。対談のテーマは、例外はあれど殆ど吉行の振る下ネタ一本槍だからだ。
 連載当時は、講談社から第一、第二、第三まで「軽薄対談」と題して文庫で出ていた由。手元の角川版は15名分しか掲載されていなかったが、実際は200人弱と対談したわけで、だから角川版は選びに選んだ対談集だったということになる。
 本書は角川版に遡ること僅か2年、1980年(昭和50年)に出ていたもので、何と48人の対談が掲載されている。10年ほど前に買い込んでいたが、直ぐに「軽薄対談」と重複した内容だと早合点して書棚奥深く放り込んでいたら我が家のリフォームで転がり出て来た。感慨深い。

     屋台のラーメン屋に扮した一条さゆりと小沢昭一。.jpg

 「夢まぼろしの極北の地」というタイトルで殿山泰司(1915-89年)と対談した「アサヒ芸能」(昭和41年5月24日号)掲載の対談から。
 吉行「女がきたならしく見えてきた、その話をうかがいたい」
 殿山「きたならしくみえるまえは、ラーメン運んでる女のコとか、ああいうのがいいと思ったですね。顔なんかどうでもよくてね」
 吉行「ちょっとよごれているところがいい」
 殿山「たくましい足をしててね。そういう感じはないですか」
 吉行「あります。ぼくはそういうのが好きでね。ドブ板踏んでる感じが。いちばんおさかんだったのはいくつごろですか」
 殿山「やっぱり三十くらいですね」
 吉行「そのころはプロとアマとどっちが多かったですか」
 殿山「同じくらい。昼間はシロウトで、夜は女郎買い」
 吉行「シロウトはマチネーだな(笑)。そのころは、女性に対するはっきりとした好みってありましたか」
 殿山「ぼくは小さいんでなきゃダメなんです。別に荷風先生の影響じゃか¥ないけど」
 吉行「いえ、これはほんとうに小さいのがいい。それで顔はクシャクシャッとして……」
 殿山「つまっている感じ。それでもたまにはモノが悪いのもいますけど、相対的にいいですね」
 この中で付け足しておきたいのは泰ちゃんが嬉しそうに語る「ラーメン運んでる女のコとか、ああいうの」に絡む女好きの話である。
 昭和40年代の後半、小沢昭一(1929-2012年)が「藝能東西」で取り上げている。小沢昭一、ストリップの女王・一条さゆりと共に、ラーメン屋の夫婦に扮して、御茶ノ水かどこかの高架をバックに並んで夫婦写真を撮っている号があった。
 「ラーメン運んでる女のコとか、ああいうの」である。ドンぴしゃで焦点が合っている。
この対談のリライトはまだ30歳過ぎの長部日出雄(1934年-)が担当していたそうだから、味わって読まなければなるまいよ。というわけで、明日も殿山の泰ちゃん。


追記
ここで語られるドブ板踏んでいる感じ、という下りは、80年代の末頃にBariに行った時、ゴム草履の小指と薬指とが地面にしっかり喰い込んでいるアジアの島の女たちを観ていたから、初読の時にああと想ったことだった。とすると吉行の軽薄対談はその後から読むようになったのか、初めての時は気付かなかったのか。ともあれ、ゴム草履の足先はグッと左右に張り出していて、小指が脳の動きとは別に常に土を捜し求めているようなアジアの女が好きだ。

追記の追記
これから出立。アジアの夏はキツキツですよ、マジマジよ。
| 9本・記録集 | 04:53 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(玖)
7月18日
気になる言葉(玖)
「開高健全人物論集2 人よ、いざ」[潮出版社]
 浪花が出てきたからちょっと神戸まで足を伸ばす。開高健(1930-89年)にとっては兄貴格、島尾敏雄(1917-86年)である。
 「(『神戸は大阪とちょっと違うよってな』という言葉を受けて)そう。“ちょっと違う”。微細で繊鋭な日本では町が一つ違うと、不良少年までが違ってくる。彼らこそ神経の最先端だから町の気概をもっとも濃く反語的に体現する。三ノ宮や御影あたりをアパッシュめかして歩いているやつらは“バラケツ”と呼ばれ、ナンバ、梅新あたりを傲然としのび足で歩いているやつらとは、おなじ傲然、おなじしのび足、おなじソフィスティケーションの口ぶり、身ぶりでも、大いに微細に異って、それはなかなか言葉に替えにくいが、この道に挺進したことのない私には、うまい分析ができない。しかし、島尾さんの作品の或るものにはバラケツ気質と思われるものの一端がクッキリと覗いているところがあって、ナルホドと思わせられることがある。ロマン派ダ、ジツゾン派だというまえに批評家は一度神戸へいって不良少年を観察したほうがいいのではないかと、私には思える」(昭和43年5月1日『文藝』『流亡と籠城』)
 ワシもそう想うでぇ。

「島尾敏雄とミホ」表紙。.jpg

 神戸のバラケツと浪花の不良は違っているだろう。喧嘩の時の切り口上が違っているし、そもそも言葉が違っている。バラケツには獰猛なクマみたいなところがあるが、浪花の愚連隊にはしなやかな豹みたいなところがある。
 さて、お次は、もうこの描写だけで小説として出来上がっている、というほどの下りで、一読してビックリしてしまった。
 「小岩の家に一度だけいったことがある、商店街や町工場のあるごみごみした低湿地帯の小さな、薄暗い家だった。たしか真夏のギラギラした日だった。私が手土産に持っていったウィスキーを氏はカンカン照りの縁側に立膝をしてすすった。それもグラスではなくて、氷金時などを入れる、赤や青の色のついたあの安物のガラス皿に入れてすするのだった。その後私は無数の場所で酒を飲んだが、皿でウィスキーを呑む人にはまだ出会ったことがないのである。あれはどういうことだったのだろう。氏が不精してコップをとりにいかなかったのか、コップもないほどの惨苦に陥ちこんでおられたのか。私は自身に憑かれすぎていたので眼に力がなく、耳もおぼろだった。何を話したのか、どうにも、いま、思いだせない。おぼえているのはギラギラ射す夏の午後の日光のなかで氏が立膝をしながらガラス皿でぬるいウィスキーをすすり、なぜか、ぼそり、
『人まじわりしたら血がでる』
とつぶやいた声である」(同)
 島尾敏雄とその一家にとって、最暗黒の小岩時代の姿を描写している。サラリーマンの開高健は日々の暮らしに疲れきっていた。だから島尾家の惨状を知っていて訪ねたとは思い難い。
 昭和27〜29年(1952〜54年)頃の最暗黒期の島尾家で、それでも、開高は島尾の苦悩の本質を観ている。こういう人が作家になるのだろう。


追記
島尾敏雄に会いに行った頃の開高健は向井敏に言わせると窮乏したアルバイト生活から抜け出して新婚家庭を持って生活が安定した時期である。しかし、「えんぴつ」も解散し、他の同人仲間との活動も雲散霧消して、リーマン生活が本格化し、東京進出で練馬の外れに社宅をあてがわれていた時期でもある。その後の開高健と大阪の実家との関係はどうにも分からない。仕送りを続けていたことは間違い無さそうだが、行き来は無くて、絶縁していたのかどうか。そんな境涯であったから島尾敏雄のような「VIKING」で世に出ていた先達に刺激を受けたくて会いに行ったのだろう。サントリー宣伝部では若いのに子供を抱えた開高健は、同僚から「おっちゃん」とか「おとうちゃん」と呼ばれていたという話は中々深い。家庭は開高健に何をもたらしたのか、ゆっくり考える必要はあるだろう。向井敏の遺した言葉の中にもそれらしいニュアンスがある。さて、これから出立。本日もまた汗まみれでぐっしょぐしょですな。3年ぶりのアジアの夏はキツイわあ。
| 9本・記録集 | 05:21 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(捌)
7月17日
気になる言葉(捌)
「開高健全人物論集2 人よ、いざ」[潮出版社]
 昨日からの井原西鶴(1642-93年)のことだ。浪花人の気質を開高健(1930-89年)が描くと、例えば棋士の坂田三吉(1871-1946年)の大崎熊雄戦でついた「角頭歩突き」を評してこうなるわけだ。
 「いかなる手段を尽しても勝とうとする男のことを“勝負師”というのならば坂田は勝負師ではなかった。勝てる気力が満々とあり、どうすれば勝てるかということがわかっていて、先の先まで読みぬいていながら、一挙にそれをひっくりかえしてしまい、あえて初心で未知に挑む行動に坂田はうってでたのである」(昭和46年10月15日『カラー版現代語訳日本の古典17』『才覚の人、西鶴』河出書房新社)

「王将」撮影現場の舛田幸三と三国連太郎(1962年).jpg

 「“大阪人”は新鮮の持つ不安を求めてたえまなく心がさまよっているので“いらち”と自身を呼ぶが、それもまた“才覚”のうちに入れることができるだろう。西鶴もいらちだったし、大塩平八郎もいらちだったし、坂田三吉もいらちであった。新手一生であった」(同)
 「性と生についての洞察力、寸鉄的なえぐりだし、連想の飛躍のたのしみなどがつぎからつぎへと波うっておしかけてきてこちらを佇ませ、沈殿させるということがない。一に押し、二に押し、押しに押しまくってくる。部分としては不備で強引で無茶なのに全体としては圧倒的な印象をのこす。小首をかしげながらも読後、タバコに火をつけ、やおら、やっぱり傑作かとつぶやきたくなる」(同)
 「エロティシズムはない。しかし、性は彫りあげられている。そこで“好色”はエロティシズムではなくてむしろ“華”のことと解すべきかと、思わせられる。ひらいた生、その一代男、その一代女、その五人女の生涯なのだと、思わせられる。ひとつひとつの作品に“好色”とつける必要はまったくないのだとさとらされる。それがそうでなくてストリップ小屋の看板みたいな題をつけたのは著者の意向もさることながら当時の出版社のおっさんのコマーシャルかと思われるが、マ、どうでもいいことである」(同)

「好色一代男」(2)。.jpg

 「同時代人の芭蕉が放浪と簡潔に生きぬいたように見えながら、じつは私生活、私感情の綿めんとした記述をのこして“謎”がさほどないことと思いあわせると、都会生まれの都会育ちの作家の含羞からくる自己抹殺と、田舎生まれの田舎育ちの秀才のぬきがたい自己顕示癖という、古いけれど現代でもなかなか知覚されることのない本質の対照をおぼえるほどである」(同)
 「西鶴から見れば芭蕉は偽善者にすぎなかっただろうし、芭蕉から見れば西鶴はハッタリストにすぎなかただろう。本来は両者とも、本質的には、一つの根から派生したもの。双生児だったかもしれないのに。シャム兄弟だったかもしれないのに」(同)
 坂田三吉は被差別部落の出身だと面白おかしく言う人もある一方、開高健は深い共感を隠さない。しかし伊賀の里から出てきた松尾芭蕉(1644-94年)には「田舎育ちの秀才」、と。ともあれ、これに近松門左衛門(1653-1725年)を加えれば近世文学は完成。3人の作品の版元は全て「大坂」である。浪花文化万歳。

追記
昨夜、向井敏の開高健青春の闇読了。とても良かった。こうして旧制高校時代からの友人が作家になっていったのかということが手に取るように伝わってくる丁寧なものだったわねえ。谷沢本も読まねばならんとしても、向井本の視座の素直さとは谷沢本の方は違うだろうと思う。一人の才能が世に出て、周りが巻き込まれて行った事実を考えると、古今東西の言い古された言葉を幾つも思い出す。谷沢との絶交の理由、合評会の牧羊子の姿(旧姓からすると、元は沖縄の人かと思う)と2人の馴れ初めの話は同人でなければ分からない証言でもあるし、ヒントを多々貰えた気がする。向井さんはこの本を書いたのでやったんやなあ、良かったなあと思います。彼らの遠くて深い友情には打たれました。
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気になる言葉(陸)
7月16日
気になる言葉(陸)
 「開高健全人物論集1 人よ、いざ」[潮出版社]
 昨日からの石川淳(1899-1987年)の続きだが、石川淳のこととは直接は無関係で、いわばアナーキストの番外編だ。
 「サン・ミシェル大通りはカルチェ・ラタンを貫通している大通りだが、去年(一九六八年)の六月は、毎日のように学生群と古風な中世風の楯をかまえた警官隊とが、透析、叫喚、殴打、遁走、催涙ガス、それといかにもフランス風なティミド(実弾ではないが凄い音をたてる威嚇のための銃)の轟音が並木道を占していた。私はその“革命”をキャフェのテラスにすわってペルノーをすすりつつゆっくり眺めることができ、サイゴンとまったく異ってのびのび足を組んでいられた。ただし、ガスは眼をチクチク刺し、涙がこぼれてこぼれてしかたなかった。左翼学生は“アッサンサン”(ひとごろし)と叫び、右翼学生は“プチ・コン”(ちびすけOMANKO)と叫びかえし、アナーキストの美少女は全身を皮服に固め、黒旗をふりかざし、若者たちの肩車にかつがれ、ほんとに毛をたて爪を剥きだしたヤマネコのように嚇怒し、いきいきとして“とことんやりな”(ジュスク・オ・ブー)、“労働者・学生・団結!”(エウーブリエ、レチユデイアン、リユニテ)と軒ごとのキャフェに向かって叫びかけつつ、一人の参加者も得られないまま、しかし、昂然と胸をそらし、顎をあげて、サン・ミシェル橋のほうへ、消えていった。華麗な孤独というか。いきいきとしたこだまというか。その後姿を見送ってから、河岸の安下宿へもどって、どこかで記憶した風景だと思ってまさぐるうちに、やっと、ふいに、石川淳の小説だ、と強く思いあたったのだった。よどみのない、いきいきとした彼女の辛辣さ、敏感に閃めく眼、そして何かしらその場に一瞬だけをのこして無一物のまま消えてしまうその退場ぶり。何もかもがそうだった」(昭和44年7月1日『文藝』『絶対的自由と手と』)

Malcolm McLaren & Johnny Rotten(1976).jpg

 「この二十年間、手は、もしくは足は、たえて議論の対象となったことがない。かねがねこのことが気になってならない。この二十年間にありとあらゆる思潮が導入され、議論され、おごそかにベスト・セラーになり、すみやかに忘れられていく風景を私たちは目撃したが、極左から極右に及ぶ広大なそれらが論じているのはことごとくアタマから発していて、手はまったく忘れ去られている。アタマで革命を論じ、アタマで挫折し、アタマで転向し、アタマで実存、アタマで孤独、アタマで断絶、アタマで失神、いったい手と足はどこへいってしまったのだろう。手が精神におよぼすひそやかで、微妙で、圧倒的な力、影響は、まったく忘れられてしまったのである。中国は政府と党の強制、領導によって≪知識人を農民に、農民を知識人に≫という大号令で人びとを下放、上放、大動員しつつあるが、昔から宗教と政治を問わずいっさいの革命は≪全なる人間を!≫と叫んできた。つまり、手と精神の結合を叫んできた。しばしばそれは単に強制か合言葉のみで終り、けっして手が精神に劣らぬほど微細、広大、必須の器官であることを痛切に教えてはくれなかったが、しかし、わが国のあらゆる派の、人間復活を呼号する運動が、ことごとく手を忘れ果てていることでは完全に一致するという風景は、じつに奇妙な現象である。おそらくそれは、運動者それぞれが、真に人間性の破損、欠落について感ずることがないからではあるまいかと思われる」(同上)

Bromley Contingent 1976.jpg

 最初に引いた部分のアナーキストの少女は、まさに、5月革命のParisに居合わせていた、あのMalcolm McLaren(1946-2010年)がSex Pistolsでやってみせたことだと思う。
 そして後から引いたものは敗戦後の日本のあらゆる人々に投げ付けた開高健の石礫だと感じられる。2つの文章は開高健の精神が石川淳から触発されたもの。想起されたものは全く質が違っているが、こちらの胸にじわじわと堪えるものがあった。
 「アナーキストの美少女は全身を皮服に固め、黒旗をふりかざし、若者たちの肩車にかつがれ、ほんとに毛をたて爪を剥きだしたヤマネコのように嚇怒し、いきいきとして“とことんやりな”(ジュスク・オ・ブー)、“労働者・学生・団結!”(エウーブリエ、レチユデイアン、リユニテ)と軒ごとのキャフェに向かって叫びかけつつ、一人の参加者も得られないまま、しかし、昂然と胸をそらし、顎をあげて、サン・ミシェル橋のほうへ、消えていった」
 1976年当時のSex Pistolsのイメージは、1968年のパリ5月革命に現れた皮服の美少女と完全に重なる。これほどバンドの姿を的確に現した文章にお目に掛かったことはない。Sex Pistolsはカフェテリアの観客がその言葉を理解する前に消えて行った。
 (これは、Johnny Rottenじゃないか)
 思いが到り、うーんと唸り、暫く、放心した。

追記
向井敏(1930-2002年)の「開高健 青春の闇」好調ですな。谷沢永一もそうだけど、開高健グループの切れ味は素敵だ。往年のパンクロックの匂いがありますな。お前を斬ることは自分を斬ることでもあるという、平手造酒みたいでさ。俺はこういうのが好きだねえ。小林秀雄グループにいまひとつ乗れなかったけれど、開高健グループは日本文学では俺の嗜好・感覚・傾向に最も近いかな。
| 9本・記録集 | 07:41 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる言葉(吾)
7月15日
気になる言葉(吾)
 「開高健全人物論集1 人よ、いざ」[潮出版社]
 もう1人忘れてはならないのが石川淳(1899-1987年)である。開高健(1930-89年)が語る相手が見当たらないと感じた時、アナーキストの生き残りで反私小説を貫いてきた石川淳が、群れず、属さず、ジワジワその佇まいが眼前に浮かび上がったようにも見える。
 ここでも石川淳の小説を引くわけではないので恐縮だが、人物について、開高の描いたスケッチを長々と引く。
 「某人物がいつか教えてくれたところによると、石川淳氏は文体から浮かび上がるとおりの人物であるという。たいへんオシャレの紳士であり、カンシャク持ちで、酔うと男に向かってはべらんめえで面罵してはばからず、女に向かってはとてもしらふじゃ聞いちゃいられないキザなせりふを連発して正面から口説きにかかる。どういうタイプの女が好きなのかは研究不十分であるが、ちょっと見たところでは手当たり次第といった風情がある。相手に身分の知られていないようなバーではけっして“文士”とか“小説書き”などとは名乗らず、もっぱら“将棋さし”といって打ってでる癖である。そのほうがモテると先生は漏らしておられた」

          石川淳(1)。.jpg

 「しかし先生が本気でモテたがっておられるのか、その場かぎりの精神の運動をたのしみたがっていらっしゃるだけなのか、そこのところはよくわからない。しらふで先生と対談したってダメである。先生はポツリ、ポツリと言葉をお漏らしになるだけであり、とても速記にとったところで意味をなさず、およそ“対話”から遠い。和漢洋のとてつもない学識に通じておられるのであるが、精神がもっとも活溌な運動を起すのが側近者の肉眼にもありありと映る場所、たとえばその一つはせせこましいバーでもあろうが、そこで男を相手に喋るときは先生の言葉はほとんど象徴詩的に短く、深く、閃光的であって、三次元的水準で意味と意図を追跡することはとうてい不可能である。そこをウダウダ、もだもだと野暮に追求にかかると、先生はたちまちカンシャクを起し、だまりこむか、そっぽを向いて女を口説きにかかるか、そうでなければやにわにどなりつけるかであるから、よくよく用心すべきである」
 この某とは「職業はマスコミ関係、しかし文学雑誌関係者ではないとだけ記しておく」とあるので梶山季之(1930-75年)か谷沢永一(1929年-2011年)の顔が浮かんだが不明だ。

        石川淳(2)。.jpg

 谷沢永一は開高の耳元で今西錦司(1902-92年)のことは「会ってみたらええやないけ」と唆したと想われるし、そう唆した人間がいることを今西との対談で含ませている。この石川淳の場合にも、黒子で谷沢の推挙があった可能性も高いようにも想う。
 「じっさいに会ってみると、石川淳氏は鋭敏だが優しい紳士であった。某の観察と一致していたのはオシャレという点であろうか。帽子、背広、ネクタイ、一ミリのすきもなく、けれどそれぞれをらくらくと着こなし、デュポンのライターでタバコに火をうつし、何かのはずみに体がうごくと、ダンヒルの紳士用香水だろうか、深い香りがほのかにゆらめくのである。若者の着そうな柄の縞のシャツを淡白に、上品に着こなしておられる。そして某は誤っていたと思えるのであるが、話をはじめてみると、氏は意外な簡明さと優しさでテーマのタテ糸、ヨコ糸を紡ぎはじめ、しばしばカンシャクの暗影が額のあたりをかすめはするものの、話はけっして“閃光”的ではなく、非三次元的ではなく、ことに絶対自由主義(アナーキズム)の心情と現実政治の背反の関係を述べ、絶対自由主義者が莫大な純潔を寄与しながらもむざむざ葬りさられていく運命についてふれるときは、諦観と哀惜がよく浮かんできた」
 さて、石川淳は、若い頃にはアナーキストの運動に関わっていたと記した。
 「絶対自由主義者が莫大な純潔を寄与しながらもむざむざ葬りさられていく運命」
 当然、話はこれで終わらない。というわけで、本稿、明日も続く。


追記
ホテルはメディアで一杯、民家はボランティアで一杯。もう、広島は一杯一杯で受け入れられん。
NHKではボランティア志望者を煽っとる。国営テレビが被災地の足を引っ張ってどないすんねん、
この、タワケ!

| 9本・記録集 | 06:56 | comments(0) | trackbacks(0)
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