岡田純良帝國小倉日記

気になる本――つわものどもの夢の跡。
6月23日
気になる本――つわものどもの夢の跡。
「特攻隊映画の系譜学」[中村秀之著, 岩波書店]
 先日、東京湾上空を零戦が飛ぶらしいというニュースが流れ、夫婦の間でひとしきり見たいものだという話になった。中島飛行機製のOHV14気筒の音を聞きたかった。実際にはエンジンは使えず、Pratt & Whitney製のエンジンに乗せ換えてあるそうだ。
 夫婦は共に海軍軍人の子孫なので、艦艇にも航空機にも思い入れはある。軍人の家の笑い話としては、高齢の義理の祖母は、ある時、俺が病院に見舞いに行った時、
 「ほれ、横須賀の、横須賀の」
 と身内に言ったそうだ。カワサキと言おうとしたら、ヨコスカと出た。祖母も、また幼い時に職業軍人の父について横須賀海軍工廠の官舎で暮らしていた時があったから、つい「横須賀」という地名が口をついて出た。

ゼロ戦、突入の瞬間。.jpg

 「日本映画には特攻隊を回顧した作品が少なからずあるが、そこには自ずから映画としてある一定の見せ方、語り方の形式が出来上がっている。その型に従うことで、亡くなった特攻隊員たちに対する追悼の儀礼をしたような気持ちになれる。それが良いことか、困ったことかという判断と評価の問題がその先に残る」
 「実はこの書評を書いている私は、特攻隊が途方もなく多く出撃させられたあおの戦争の末期には、日本海軍の少年飛行兵として訓練を受けていた」
 「例えば実話をもとに自殺した妻のあとを追った特攻隊員を描いた『純愛』という映画について書かれている部分がある」
 「当時、観客にも批評家にも嘲笑されたという。実は私は見ていないし、カテゴリーに含めるべきでないとの見方もありうるというから、この本で取り上げられないと本当に忘れられてしまっただろう」
 「少なくともその作品は、特攻隊の映画の型を破ろうとしたのだ。特攻作戦自体が、忠義のために死ね、という型の志向の産物だったのだから」
 書評の論評を超えて評者自身を語っている。(映画評論家・佐藤忠男評、日本経済新聞)

Serious of Zero Fighter.jpg

「北海タイムス物語」[増田俊也著, 新潮社]
 「主人公の野々村巡洋はバブル真っただ中の90年、北海タイムスに入社した。全国紙の入社試験に落ち、働きながら大手紙や通信社の採用試験を受け直すつもりだった。なのに配属先は希望の取材現場ではなく、紙面のレイアウトを担当する整理部。さらに失敗ばかりで怒鳴られ続ける日々に打ちのめされる」
 「自身は2年で転職したが、その時の悔恨なども小説に織り込んだ」
 「(北海タイムス廃刊の)ニュースには心が痛んだ。大学で柔道に打ち込み、入社時に何も知らなかった私をかわいがってくれた年配の社員も多かった」
 著者はこの新聞社を忘れずにいたいと想っている。確かに、本州で「北海タイムス」を記憶している人はあまりいないだろう。俺は身内でこの新聞社の記者をしていた男があった。とはいってもその記者時代とは60年以上も昔のこと。東京の文化部の記者だったから映画全盛期の当時は試写会のチケットが回ってきた。野球のユニフォーム姿で大学に通っていた父親はジャンパーを羽織ったままで有楽町の映画館に試写会によく立ち寄ったそうだ。(『あとがきのあと』日本経済新聞)

追記
各紙に増田さんは現われていたのだったなぁ。
当地は社会全体が揺れている。ソウトウ波高し。色々手を打っているけれども頑として動かない。鼻っ柱強いだけに辛いところだろうが、ここでこれでは先が知れるぜ。孤立して、何かいいことはあると想えない。先様のことだが、こういう事態の時には我が身に引き比べてベンキョーになりますな。
| 9本・記録集 | 06:23 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――イギリス女、京女。
倫敦日記’17(第二十三弾)
6月22日
気になる本――イギリス女、京女。
「人はこうして『食べる』を学ぶ(First Bite)」[Bee Wilson著・堤理華訳, 原書房]
 原題は「First Bite」だが副題が付いている。そちらが「How We Learn to Eat」。邦題は 副題の方から取ったということになる。
 著者は有名なColumnist An Wilson(1950年-)がこれまたShakespeare研究者として知られるKatherine Duncan-Jones(1941年-)との間の第2子として1974年にOxfordに生まれた。料理記者となる前は雑誌のFood Writerから身を立てた女流。これまで寄稿した雑誌は主要な空港のラウンジに置いてある高級誌が多く、イギリス人だが、ヨーロッパ大陸でもファンの多い人だ。
 書評が概観してくれるので引きたい。
 「意外なことに、研究者たちの間で『食習慣は学習の結果』という基本部分は共有しているという。食に間する遺伝子は存在するが、遺伝よりも環境が食習慣を作るのに影響するとのことだ。例えば、特定の苦味の感じやすさには遺伝子が関わっているが、この遺伝子によって子供も大人も好き嫌いに差が出るわけではない」
 「一つには『単純触媒効果』が関係する。よく知っていることが好意のきっかけになる効果だ。食べる経験が多いほど、その食物を好きになる傾向がある。つまり、学習の結果のほうが、遺伝子よりも食習慣に影響しやすい」

著名な父(An Wilson)と娘(Bee Wilson)、近影。.jpg
  将来を嘱望されていたが、21歳で教師と一線を超えてオトッツアンになったのが
  著者のオヤジ殿。67歳と43歳の父娘。年齢の感じがビミョーなのはそういう背景。

 イギリスで暮らしていると、イギリスで育った人たちが、英仏海峡から揚がる対岸と全く同じ食材をどうして生かさないのか哀しくなる場面が本当に多いわけだ。つまり社会が彼ら彼女らの味覚を育ても殺しもするということになる。
 著者は若い頃に雑誌に学校給食についての連載をしていた時期があり、ここで給食が子供に与える様々な影響について考察した。このような体験が食生活について考えるバックボーンになったのだろうか。最強の教育システムの一つである英国とアメリカ合衆国で高等教育を終えているが、この2カ国の給食の水準はG20でも最低・最下層。かいばか?と思わせられるものが今でも出されている。因みに明治期に網走刑務所で囚人に出していた監獄食さえ、ずっと両国の平均的な学校給食よりもましなものだ。これ、本当の話。(サイエンスライター・内田麻理評、日本経済新聞)
「京女の嘘」[井上章一著, PHP研究所]
 井上センセイの前作ベストセラー、「京都ぎらい」は20刷26万部だと3月30日付け讀賣新聞書評欄にあった。そうすると、重版するとしても1刷1万部というところ。20刷というその回数が出版社(朝日新書)の厳しい経営姿勢を感じさせる。
 「東京出身の同僚が、職場でミスをした京都の女性から『かんにんね』と謝られたことを自慢げに話す場面を目撃し、『女性の京都弁には、他の地域の男性を浮き立たせる上げ底効果がある』と気がついたそうだ」
 我が家は父親が東京から西で育ったため、北関東では、日常会話の中で、謙譲・尊敬・丁寧語があまり使われないことが印象的だったと口癖のように言っていた。関西ではへりくだりは人間関係のベースにある。関東の人間にとって、敬語がちりばめられた会話は新鮮で、「かんにんね」でシビれてしまう男もあるわけだ。
 そもそも井上さんは一筋縄ではいかない洛外男。洛中男へ抱く複雑な感情は京都外の人間にとってそう簡単に分かるものではない。相手が女となればなおさらだろうなぁ。京女がイギリスの給食を食べることがあったらどんな顔をするだろうな。その表情を井上先生はどう見るだろうか。評者は京都総局で渋い記事をモノしていたと想ったら、大阪文化部に転じていた。(大阪文化部・木須井麻子評、讀賣新聞)
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Sicilian Mafia and Partisan――無縁だったはずのToscanaだが。
6月21日
Sicilian Mafia and Partisan――無縁だったはずのToscanaだが。
「最後の特派員」[衣奈多喜男著, 朝日ソノラマ]
「梟の朝」[西木正明著, 文春文庫]
 引越しの余禄でこの辺りのヨーロッパ大陸の関係書籍も出てきた。嬉しいことに今は同じヨーロッパにいるためか、目に入る地名がまるで違って映る。そういうものだ。
 第2次大戦中、Italiaをはじめヨーロッパ各国で暮らしていた邦人の暮らしが分かる,歪日新聞ローマ支局長だったジャーナリストの回想録。最高の活劇譚だ。

      Toscana 関連資料 (1).JPG

 例えば、在Romaの大日本帝国大使館員・駐在武官らが連合軍の進撃でローマを閉鎖することになった。この時、著者はRome-Perugia-Ravenna-Veneziaというルートを辿り、愛車・Fiat 1100を駆って800kmの長距離を走破している。
 それだけでなく、Normandyの連合軍の上陸を、大陸側からドイツ軍将校と共に目撃、命からがらParisへ舞い戻る。(ここだけドイツ軍のMercedes Benz Open)
 さらに戦況がさらに悪化すると、Parisからも脱出し、Berlinへ突っ走る。この全行程を愛車・Fiat 1100と共に著者は走り抜けているのだ。ヨーロッパを縦横無尽、「ガソリン乞食」と自嘲しながら一所にはじっとしていない。
 著者の衣奈多喜男(1910-88年)さんは敗戦後、昭和22年(1947年)6月、「ヨーロッパ青鉛筆」の題でこれを書いた当時は37歳だった。だから筆に勢いがあり、人物描写も簡略だが、謦咳に接した人の鋭いスケッチで強い臨場感がある。
 △Italiaの駐在武官の戦死の実話を軸にした小説仕立てになっている。小説よりも事実の方が興味深い。ネット上でも英語、イタリア語、さらに戦死した光延東洋武官(死後少将特進)の遺族の関係者によって戦死前後の武官の様子が詳しく解説されている。

        光延東洋大佐(少将).jpg

 Mafiaつながりで言えば、ここからほど近いPratoは、今やToscana Mafiaの中心となっているのだが、元々繊維業の街。だから中国からの労働者が多く、香港三合会と小競り合いで凶暴な事件が頻発しているという話も聞く。
 だが武官の遭難したAbetone峠が急にクローズアップされて、またまたにわかにFirenze-Prato-Abetoneの辺りに興味が湧いてきた。2冊を読み比べてみると、△任蓮機密情報を入れたカバンを抱え、山中を疾走して来る車両の前に、予め鉄菱をまいてパンクさせて停めたとある。この時副官が応戦して銃撃戦となり、武官が援護射撃をして副官を逃がそうとしたので、Partisanが武官を撃ったという話になっている。
 だが当時現地にあった人の回想の,蓮鉄菱ではなく、四隅を上に折り曲げた鉄板が道路に敷き詰めてあったとあり、一斉射撃で銃弾を眉間に受け、シートに座ったまま瞑目したとされている。また、副官は射撃の直前に車から飛び出したので一命をとりとめ、窮地を脱したとされている。
 何れの書でも同行した副官の名前が伏せられているが、副官は山仲伝吾中佐であり、正式には駐在武官補佐官で、実はこの時、中佐には次期駐在武官の発令が出ていた。
 現在までに明らかにされた事実を整理する。1944年6月6日、光延武官に対しスイス大使館への異動発令が出たため、翌7日、後任の中佐と共にNapoli北方のMonte Cassinoのドイツ海軍司令部に新旧交代の異動挨拶に行った。翌日8日午後5時頃、当時、Romeから移転していた北イタリアMeranoへの帰途、AppenniniのAbetone峠でPartisanに襲われたということになる。

Toscana 関連資料 (3).JPG

 今ならFirenzeからはBolognaまで高速が走っている。Bologna経由なら何も急峻なAbetone峠を走って道を急ぐことはなかったかも知れない。地図上ではMeranoからMonte Cassinoは800km。東京・広島間に匹敵する距離。ゲリラがうようよしている箱根か鈴鹿の細い峠道を先を急いで走り抜けようとして難に遭ったということか。
 △旅子として山本五十六はロビイングと諜報の重要性を確信しており、光延東洋はその腹心だったとされる。事実、海軍軍縮会議でLondonにも随行していたとある。ここで我が祖父との接点が出てくる。つまり光延東洋は雲の上の佐官だがLondonで31歳の使い走りの海軍技官だった祖父と挨拶くらいはしただろう。
 Toscana州にあるAbetoneは、スキーヤーとサイクリストの聖地のような峠の小村だ。峠は1,300mほどの岩山で、冬にはスキー、夏には自転車好きの人々で賑わっている。
 武官は家族を帯同していたが武運つたなく欧州戦線で初の日本軍人の戦死者となった。20年ほど前に遺児らが遺骨を持ち帰ったそうだが、遭難時、駐在武官一同が望んでも果たせなかった遭難地での追悼に赴かなければバチが当たる気がして来た。
 Partisanは峠でドイツ海軍の襲撃を主な目的にしていたから、日本海軍の軍装に当惑したという話もある。光延さんと山中さんは第1種軍装であったはずだ。軍人は何時死ぬか分からぬからと言い、常に軍装で身を固めておられたという。
 観光地で、戦争と無縁に想えるToscana地方。しかし考えてみると、「ブーべの恋人(La ragazza di Bube)」もこの辺りの貧しい家庭で育ったPartisanが主人公だった。殺されなくともよかった人を殺さなくともよかった人が殺すのが戦争だ。Toscanaも戦場になった。無縁だったはずの土地だが、ここは一つ両軍のツワモノたちの冥福を祈りに参ろうかと想う次第。さて、間に合うか知らん。


追記
19日の○○○「クロ現」で官房副長官が隠蔽メモを暴露されて吊る仕上げを喰った揚句往生した話を聞いたけど……テレビ・カメラの前で人民裁判みたいなことを演っているんだねえ。だけど、そんなことやったら、誰も出演しなくなるぞ。記者の風上にもおけない。後出しじゃんけんだわな。信義誠実の原則を自ら破って、それでよくもまぁ国営放送で威張っていられるなあ。信じられないようなことをするわね。衆人環視の中で人を陥れるなんて……
| 9本・記録集 | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0)
編集者が一番――文藝春秋ものがたり。
6月19日
編集者が一番――文藝春秋ものがたり。
「近代政治家評伝」[阿部眞之助著, 文藝学藝ライブラリー]
「昭和怪物伝」[大宅壮一著, 角川文庫]
「文藝春秋ものがたり」[非売品]
 平成10年(1998年)、文藝春秋社が創立75周年を迎えた。この時、非売品だが書店を中心に配布したのが「文藝春秋ものがたり」。コイツが引越しで出てきて読み直した。
 小冊子には、本誌から掲載が落ちてしまった座談会、「歴代編集長大いに語る」というまことに貴重な読みものがある。
 田中健五(昭和47〜52年)、安藤滿(昭和54〜57年)、岡崎満義(昭和57〜59年)、堤尭(昭和59〜63年)、白石勝(昭和63〜平成3年)の歴代編集長が5名で、当時の編集長の平尾隆弘がこの座談の進行司会を務めた。

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 この中で、田中健五と安藤滿の間が飛んでいるが、ここに半藤一利が入る。田中健五とは同期入社で、半藤は田中からバトンを受けて編集長を務めたことになる。
 田中健五は池島信平編集長時代の「天皇陛下大いに笑ふ」(昭和24年6月号)を紹介した。辰野隆、徳川夢聲、サトウ・ハチローの3人が昭和天皇に拝謁した。その後で鼎談で天皇の素顔を語り合い、これが読者に受けて、文藝春秋の読者賞を受賞した。

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 「当時は左翼全盛でね、天皇に関心をもつというのは必ずしもマスコミの主流じゃなかったんです。東京裁判のあと、ソ連の強硬な追及もあって外電は天皇退位を流していたし、論壇では天皇の戦争責任がしきりに叫ばれていた」
 「新聞やテレビがマスコミだとしたら、それと少し距離をおいたところにマガジンの存在理由があるんですね」 
 「『文藝春秋』風呂敷論。カバンだと仕切りが合って、決まった容量しか入らない。風呂敷って形がないからね、何でもつつめる」
 「ソニーの盛田昭夫さんだって、筆者としては新鮮でしたよ。『学歴無用論』から始まって『アメリカよ猛省せよ』まで。時時の重要な、かつ意外な発言の舞台は『文藝春秋』ですよ。経営者の実学に裏打ちされた発言にも、頁を割いてきた」
 安藤滿は、さだまさしの「30歳以上の方の為のコンサート」というタイトルで、3時間という長丁場のコンサートのさだまさしの発言を全文掲載(昭和54年11月号)した。
 「何が入ってもおかしくない。政治家の堅い論文が入ってもいいし、おしめの改良記事が入ってもいい」
 「しかし立花さんの原稿(『田中角栄研究』(昭和49年11月号))を最初に読んだときは興奮したな。文字通りに面白いんです。もちろん結果的に角さんは権力の座を失ったわけだけど、僕らは最初から“権力を撃つ”といった発想はなかった。ですから『好奇心でやった仕事である』と言ってたんです」

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 「で、僕はおためごかしじゃないけど、当時のインフレを何とかして収拾しなきゃいけないんだから、(辞職した田中角栄に)国家非常事態宣言ということで『文藝春秋』に出て下さいって頼んだんです。そこで、先月号の文春に載った記事に対して、自分にはこういう言い分があるんだと入れたらいいじゃないですかと」
 結果的に、田中角栄陣営からの反論は幻となって消えてしまう。もし反対論文が同じ雑誌に載ったのなら、言論の最高度の自由。痛快な話になったのだが、これも、内閣記者会か何かの差し金で実現しなかった。
 こうして読んでくると、,慮紊豊△入り、そこで大宅壮一が阿部眞之助を書いてもちっともおかしくないということがこの座談でよく分かる。

血のメーデー(2).jpg

 この冊子は月刊誌と体裁は同じで、表紙を入れず中身だけで16ページの薄っぺら。San Franciscoで受け取り、川崎に戻り、その後、反日デモで揺れる北京を経由し、上海や香港、台北を旅して、今も処分できず、この度はLondonにまで持参した。
 それも理由がある。文藝春秋社は、98年10月、San Franciscoの自宅まである別の冊子を送るためにこの小冊子も国際郵便に同封して送ってくれたからだ。
 「日本をはなれてのお仕事は、本来のお仕事の外にもお気遣等の多いことと存じます。何よりもご健康で、お仕事はもちろん、実り多い日々をすごされますこと、祈念いたしております」
 封書に担当のKさんの自筆の手紙も添えられていた。文末に神無月1日とある。
 それをSan Franciscoで受け取った証に、10月6日付けのメールのやりとりがハンドアウトされて冊子に挟み込んである。よほど嬉しかったのだろう。
 20年近く前になったが、今では遠い夢のような気がする。


追記
フランスD-Day系のNormandy / Bretagneについて調査検討開始。さらにはToscanaでの追悼の旅について検討開始。
夏は忙しくなりそうだ。まぁ、人生最大3コーナーの追い込みだからショウガナイところ。

仕込みの旅ですな。


これとは全く関係ないんだけれど、BluetoothのSpeaker Systemについても検討中。コードレスな暮らしを指向開始。
| 9本・記録集 | 07:05 | comments(0) | trackbacks(0)
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(下)。
6月15日
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(下)。
 「昭和怪物伝」[大宅壮一著, 角川文庫]
 さて、阿部は子供時代に相当の腕白だったので、当時のクラス分けは男女別であったため女の子のクラスに編入させられたことがある。
 「そこから生じた屈辱感が転じて女性蔑視の思想を幼い彼の頭に生みつけたらしい。おまけに彼より一級下に、明治キリスト協界の先覚者内村鑑三の娘がいて、彼女の成績がズバぬけてよかった。かくて彼の女性観、特にインテリ女性に対する劣等感は天性に近いといえるくらいまで強いものとなった」
 大して面白くない。

児玉誉士夫をインタビュー中の大宅壮一(後姿).jpg

 長じて、神近市子へ恋慕のような気持ちを抱いたこともあったようだとか、典型的なフェミニストだとかいう大宅壮一の各説が御開帳されるが、キレは今ひとつだ。
 「毎日新聞に入ってまもなく、彼は現夫人と結婚した。この結婚は『見合い結婚ではなくて、さりとて恋愛結婚ではなく、さしずめ性欲結婚といったところであろうか』と彼はいっているが、これは彼一流の表現で、彼の夫人は今でもそうだが、若いころはさぞ美人だったろうと思われるところを見ると、とにかく彼の方で惚れて結婚したにちがいない」
 これなどちっとも面白くない。

       神近市子(「わが青春の告白」表紙).jpg

 「阿部家には子供がなく、猫を沢山飼っていて、近所で派“猫のアパート”と呼んでいる。そういう点は大仏次郎に似ているが、大仏家とちがって阿部家には、ペルシャ猫などは一匹もいない。みんな野良猫ばかりである。阿部の文章の特色はその書き出し、即ちマクラにある。突拍子もないところから筆を起して、いつのまにか本題に入っていく技術は天下一品である」
 残念だが野良猫とマクラとは全く関係が無い。こちらから見ると「藍より出でて藍より青し」とはいかない。
 面白く囃すなら夫婦には子供が無かったことだろう。恐妻家には重なる部分がある。周囲でそういう子供の無かった夫婦があり、これは仲睦まじく、俺の知る身内は常に犬を飼っていたからよく分かる。せっかくのネタをこねて引き伸ばせていない。
 これがトップ屋の限界か。昭和30年頃から爆発的に伸びた新聞社系週刊誌を中心とするゴシップ狙いのトップ屋稼業の仕事の典型のように感じられる。荒っぽく、読み返すほど考察が深くない。大宅組の誰かがゴーストライティングしたのだろうか。
 明治書生の成れの果てのような阿部眞之助の文章には、俺は大いに感じるものがある。彼もまた、大日本帝国が滅亡しなければ敗戦後の公職復帰も無いし、横綱審議委員になることもなかったろう。

 犬養毅と高橋是清.jpg

 つまるところ“蘇った明治男の良心”であり、そこに阿部の真骨頂があった。敗戦時、還暦を過ぎていた彼はお国の没落で蘇ったからこそ、老いた彼が一文字ひと文字書き遺した維新元勲についての容赦の無い月旦を今も楽しむことができる。維新の元勲も、彼に斬られて、初めて生身の人間として今に蘇ることができたとも言える。それほど面白い。
 ところが、大宅壮一の名で遺された阿部眞之助の評伝を読むだけでも、戦後、トップ屋を何人も抱え、月産何百枚も週刊誌の記事を量産した大衆向けジャーナリズムには、残るものが何も無かったことをしみじみ感じさせられる。大宅壮一しかり、梶山季之しかり。同じ頃、「週刊朝日」や「朝日ジャーナル」に書いた開高健の文章は違うものだ。
 文章の価値は、これくらいの時間が経って、自ずと明らかになってしまう。恐ろしいものだ。後世の人に笑われないようにと身を削って書いた不器用な明治書生っぽと、毎晩派手に銀座で飲み暮らしたトップ屋との違いは大きい。
ありもしない無責任な大衆でなく、阿部は、心は車夫丁稚に向けて書いたからだろう。そういう心のありようは、結局、来る時が来れば“分かってしまう”ものなのだ。


追記
明日はどうなりますか。分かりません。国がどうなるのか、ヨタヨタしていると付け込まれるし、内に怖い顔ばかりするとナウなヤングな若い人が伸びてこないからねえ。って。オホホホホホ。老い込むと先は短いわねえ。
| 9本・記録集 | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0)
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(中)。
6月14日
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(中)。
 「昭和怪物伝」[大宅壮一著, 角川文庫]
 まず、先輩の横顔を紹介してこうある。
 「常に野党的立場から氏一流の政治・社会評論を書き、エッセイストとして令名がある」
 結論から言えば本篇は阿部の自叙伝、「弥次馬人生」をベースにして書き飛ばしている。そういう文章が、また一世を風靡した“トップ屋親分”の大宅壮一らしい。
 今となっては阿部眞之助の風貌を語っている点では貴重な小文だからためすつがめす読んではみた。しかし、物足りない。俺は「昭和怪物伝」は随分前に買ったので大宅の阿部評を先に読んでいるが、阿部の文章を読んだ後で大宅の文章を読むと、あまりに薄っぺらで読み返すに耐えない。

      阿部眞之助像(清水昆画).jpg

 小文では、恐妻家連盟の会長として自他共に認める恐妻家となるまでの経緯に焦点が当たり、勢い筆は下ネタまで及ぶことにもなるがどうもキレが悪い。ネタはいいのに調理法が悪いのだ。
 大宅壮一は阿部眞之助のことを兄貴分と見ていた節があるが、そうは素直に書かない。
 「彼は何時も第一線に立って活躍してきたし、今も現役のパリパリである。彼と会って話した人は、彼の若々しさ、特に感覚の新しいのに驚いている」
 「生涯を通じて、頭に主人をもたなかった。いつも民衆の一人として、民衆の興味とともに生きていたところに、彼のホルモン源があるのではなかろうか」
 そのホルモン説に大宅壮一の浪花っ子らしい性根を感じるところだ。大宅に倣いこの評伝に引かれた「弥次馬人生」の幼い頃の回想を紹介してみよう。
 「母が縫いものをしながら、お前は大きくなって何になるとたずねた時、人力挽きとなり、稼いだ金で、うまいものを買ってきて食うと答えた。大臣大将の答を予期したであろう私の母は、まあと呆れてしまって二の句が出なかった」
 これは母親を困らせようとした悪ガキの阿部眞之助の一面だと考えなければならない。
 「(民主党の首魁・西尾末広(1891-1981年)は)少年時代、大将大臣になろうと志した。やや長じて大商人だろうと思った。更に長じて鍛冶屋の見習い職人となり、一人前の職人になりたいと念願した。だんだん志は小さくなったが、これがすなわち人間の成長であるといっていた」

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 「西尾の説に従えば、大臣を夢みる母より、私の方が思想的に成長していたわけである。私は町では中流の家に生まれたが、好んで車挽きとか日雇い稼ぎの住む裏店の子供たちを交友としていた」
 因みに西尾末広は民社党を創設したが、元は社会党の事実上の創設者。1947年(昭和22年)選挙で社会党が衆議院第一党になった時、「そいつぁえらいこっちゃ」と本音を漏らした。芦田内閣で副総裁となったが、土建業界の菅原通濟と通じて、昭電疑獄で失脚した。しかし安保国会で岸信介の後任として福田赳夫から首相の打診を受けたが断っている。
 俺から言わせれば、西尾末広くらいの気骨が今の民進党の右派の首領クラスにあって、社会党を割って民社党を創設したように、新党を結成する位のことをすればいいのだ。今の民進党の執行部の言動を見ていると、もし政権がまた間違って社会党の出身者の手に渡れば、俺だって「そいつぁえらいこっちゃ」と言うだろう。
 阪神淡路の時と同じく、東日本大震災が起きた、それと同じことまで心配することになるわけだ。二度あることは三度あるものだから。
 阿部は大将大臣と車夫丁稚の例えで西尾末広の志について紹介した。巧まざることで、西尾のそれは阿部の路線でもあった。西尾末広は徹頭徹尾反共であったが、常に社会民主主義を唱え、しかも現実的な妥協策を模索した。
 阿部眞之助は、原敬や犬養毅と同じく、西尾末広を好いていたということは分かる。妥協を厭わない勇気は、社会の塵埃の中で最も尊いものの一つだ。


追記
眠いのは9km位歩いたからかな。歩くと眠くなるけれど、同時に食欲も湧きますな。Siciliaとくれば、ウッフッフ、
これから某所探訪の作戦会議也。次はネタの中心を戦争そのものにしようかなぁ。
| 9本・記録集 | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0)
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(上)。
6月13日
弥次馬人生――大宅壮一描くところの阿部眞之助とは(上)。
 「昭和怪物伝」[大宅壮一著, 角川文庫]
 こちらも先日の引越しの余禄で出てきた1冊だった。手元にあるのは昭和の終わり 昭和五十八年(1983年)版。奥付は十七版とあり昭和四十八年(1973年)から11年間で17回も版を重ねたのだった。昭和という時代でもあるが、昔の日本人は本を読んだ。 昔はどんな街でも本屋があったし、肉屋・魚屋と同じように本屋があった。
 前から俺の密かに恐れているのは、一般紙と呼ばれた朝日、毎日、讀賣、産経、東京、といった新聞に日経を加えた全国紙から書評欄が消える日が来ることだ。本が売れず、若い人が本を読まなくなっている。出版事情は最早刻一刻悪くなっているのは確かだ。

      阿部眞之助像(清水昆画).jpg

 さて、本篇。
 昭和30年代初頭に月刊「文藝春秋」で連載していた人気連載を単行本にまとめ初版は昭和32年(1957年)に出た。だから本書の出た昭和の終わりには取り上げられた人の中で、物故者がかなりいた。取り上げられたのは次の15名。
 「久原房之助、三木武吉、平塚常次郎、馬島繊藤山愛一郎、佐藤和三郎、水野成夫、阿部真之介、下中弥三郎、谷口雅春、東郷青児、勅使河原蒼風、岡本太郎、森繁久弥、石橋湛山」
 本書巻末の方で取り上げられている勅使河原蒼風、岡本太郎、森繁久弥辺りになると昭和の終わりには大御所だった。だから取り上げたおおよその人は「過去の人」だった。
 昭和の終わりには、まだ俺は大学生か駆け出しのチンピラだったから、もし当時この本を読んでも、多分、何も分からなかっただろう。
 たとえば、フジサンケイ・グループの水野成夫は取り上げられたが、水野の盟友で、昭和の終わりにトップだった鹿内信隆(1911年-90年)は取り上げられていない。同じ戦前の翼賛会のラインだから取り上げられてもおかしくない。俺は鹿内ジュニアには会ったことがあるが、この中の政治家も、政商も、誰ひとり会っていない。

サンケイ・スワローズのオーナー水野成夫と金田正一.jpg

 成人したばかりの男には、政商とか怪物とか言われても、しかも物故していればなお興味の持ち様がないところだ。
 ところがこちらも50歳くらいになると、歴史という過去の事跡の中に必ずやややと感じる失敗談があり、ははあと納得できる生き様を見出せるようになったから面白い。なぜ政商になるのか、なぜ黒幕になるのか――それは面白いからだ。
 しかも、政商になりたくてなれるものでもない。金が掛かるし命も賭けることもある。そういうことが分かってくるには時間が掛かる。そして渦中に飛び込んだ人となりに触れると、その呼吸が楽しいのだ。
 とりわけ、五十年前だろうが、百年前だろうが、ずっと昔の人の中に、極めて近しい友情に近い感覚を抱ける人物があることに気付いた。三百年前になると口伝の世界でちょっと難しいけれど、百年くらい前なら、時空は今の俺に全然問題にならない。
 その伝では阿部眞之助(1886-1964年)は、その評伝を通じて近しいものを感じる人だ。彼が晩年に「文藝春秋」に明治以降の近・現代の政治家の評伝を連載して第5回の文藝春秋読者賞を授与されたのが昭和28年(1953年)。読者投票での最優秀賞を受けた時、賞とは無縁だった生涯で最も嬉しかったことだと阿部は受賞の弁で述べている。
 その数年後、ジャーナリストとしては後輩の大宅壮一(1900-70年)は「怪物」列伝として人物月旦を連載して、今度は生臭い政治家の間に、そう語った大先輩の阿部眞之助を取り上げたわけである。普通、面白いに決まっているはずが、面白いかと聞かれれば、ちょっとそこは回答に窮するところがある。
 ということで、尻切れになったが、本稿、明日も続く。


追記
文藝春秋社、キツイなあ。15年も前からライバルの週刊新潮のカンニングを続けていたそうで、現社長も前には週刊文春編集部の編集長だったそうだから、これは社として言い訳不能。キツイねえ。しかしインテリジェンス問題とか言って現編集長は認めていないんだってね。
これはヤッタことよりももっとキツイなぁ。日本のメディアの本質が問われているわけなんかね。調査報道とか色々言うけれども、キツイわなぁ、これは。
ジョーシキ的に言って、言い訳できんことよ。哀しいことだけど、狭くってちっちゃな市場を取り合っているから、こういうことになるわけで。もっと広い視野で、芸能人や政治家の下ネタスキャンダル以外の方面に新境地を拓いて頂きたいですわ。
フランスの新大統領に嗤われまっせ。「君たちには他に『前進』する道は無いのか?」って。オホホホホホホホ。
| 9本・記録集 | 07:21 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――劇作家が総理大臣を動かすと。
6月11日
気になる本――劇作家が総理大臣を動かすと。
 「舞台をまわす、舞台がまわる」[御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出編, 中央公論新社]
 久しぶりになるが、鹿島茂先生激賞の一冊。「オーラルヒストリーの一つの金字塔」と。
 本書は、駆け出しの劇作家時代に、声の掛かったフルブライト留学の顛末が語られているのが興味深い。
鹿島茂はこう記している。
 「学者か戯曲作家かという岐路に立たされたとき、そうした中間的存在を探していたフルブライト委員会から留学の誘いを受け、イェール大学に留学」

1968年、東大安田講堂別 (2).jpg
 昭和43年、俺は4歳で、敦賀に住んでいた。東大と京大と連日のようにNHKが報道して、
 大学は「バカ」が行くところだと直感的に感じていた。その頃の刷り込みは大きいよ。
 独学自修さ。誰に指導なんかされるもんか。俺はガッコー出たけど誰にも指導なんか
 されてねえやい。考え方も狭く、とかく世界の狭い人が多かったな、教員にも。

 フルブライト委員会から声が掛かった事実に1960年代半ばの時代の空気を感じる。本人に、いきなり委員会から申込書が送られて来る。語学に不安を訴えると、ハワイでの語学学校研修が提案される。さらに迷っていると、留学生は研究者扱いになって奨学金が引き上げられる。1964年夏に山崎はアメリカにわたった。一本釣りの留学は、この時代にあった。
 「帰国後は『中央公論』の粕谷一希が組織したリベラル知識人のサロンで高坂正堯らと知り合い、論壇に進出するが、同時に大学紛争に巻き込まれる」
 鹿島茂はこう続ける。帰国して中央公論の粕谷一希のサロンで高坂正堯と知り合うというところで再びピンと来るのは、高坂もフルブライトの留学生であったことだった。

       「舞台をまわす、舞台がまわる」表紙。.jpg

 鹿島茂の筆を引く。
 「首相秘書官の楠田實から連絡が入って総理官邸に呼び出され、佐藤栄作のブレーンに加えられる。京極純一、衛藤瀋吉らと話しあううち、ショック療法として東大入試中止のアイディアが出る。『それでは演出も必要だろうと、安田講堂攻防戦の終了後(一九六九年一月二十日)、佐藤さんに作業服を着せて、長靴を履かせて、安田講堂の前を歩いてもらいました』」
 ここに戯曲家・演出家としての山崎正和の仕掛け人の一面を見るわけだ。
 「『その上で『東大入試をやめる』と出したら、一発で山が動きました』」
 これで、1969年の東大入試は消えてしまう。
 「当時、東大一年生で全共闘の一員だった評者にとってビックリ仰天の証言であるが」
 鹿島茂は入学していたからいいだろうけれど、これでしくじった人たちは心穏やかでいられないだろうなぁ。知人の何人かの顔が浮かぶ。
 世間で言う陰謀論とはやや違うが、一連の話を知ると、俺はアメリカ政府側の日本に対する戦後政策の影を感じざろう得ない。
 古いCIAの公開文書に高坂正堯(1934−96年)の名前があると聞く。京都学派として、高坂正堯は山崎正和(1934年-)に目を付けたか。あるいは誰かから紹介されたか。
 東大時代の粕谷一希(1930-2014年)は反全学連の学生勉強会で佐々淳行(1930年-)らと「土曜会」で一緒だった。粕谷一希は中央公論の編集者だったのに、どうして「リベラル知識人のサロン」を立ち上げられたのかねえ。謎は謎を呼ぶが、自由主義陣営が若手の人材を育てようとしたわけだろう。

1968年、東大安田講堂別 (1).jpg
 「中核」と「核マル」とセクショナリズムが激しくなり、70年代に内ゲバが立て続けに起き、
 連合赤軍のリンチ殺人事件があり、浅間山荘事件が起きた。小学校低学年で、何となく、
 山は俺には気味が悪くなったわけよ。あの時代の記憶が刷り込まれているからだ。ナマ
 言う学生は俺はその頃から大嫌いだ。ココロから軽蔑してまっせ。理屈は死んでるぜ。

 1964年暮、産経新聞記者だった楠田實(1924-2003年)を佐藤栄作が秘書官に抜擢した。山崎正和がアメリカに向かった年。フルブライトは別にしても、粕谷一希のサロンは官邸の機密費辺りだろうさ。
 先日、亡くなった与謝野馨がこの前年、東大を卒業して日本原子力発電に入社した。この後で原子力基本法を推した中曽根康弘の秘書になっている。この人も、最初からその筋から目をかけられていた人だろう。
 この年、不惑の楠田はJFK政権を真似た「佐藤オペレーション」で、当時の世の中から丁度彼らのような、昭和1桁を中心に若い逸材を引っこ抜いて一本釣りしていった。
 粕谷一希は後に「東京人」を出版する都市出版を創業したが、元々、民主党政権時代の例の「事業仕分け」で露と消えた「外交フォーラム」を出版していた。外務省の省内報のような雑誌でもあったけれど、こちらが若い頃は随分勉強になった。
 これら一連の活動は機密費でなければアメリカ側が支援していた可能性もあるわけだ。1960年代の日本はそれほど揺れた。赤化しても不思議はないという危機感があったということだろう。関わった学者は御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出。いい流れだ。世代の橋渡しもやっている。その点、赤い方は人材払底。聞くべき対象もいないのか。古い共謀罪相当の聞き取り調査になっちまうからか。(仏文学者・鹿島茂評、毎日新聞 / 日本経済新聞)


追記
帰宅しました。3駅で100段近い階段があるわい。困ったことにねえ。オッホッホッホ。暮らし難くなつたかな。
| 9本・記録集 | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――どう再評価するのか。
倫敦日記’17(第二十二弾)
6月10日
気になる本――どう再評価するのか。
 「評伝 森恪」[小山俊樹著, ウエッジ]
 不良少年とビジネスマンと政治家という3つのキャラクターが入り混じっていたのがこの人、森恪(もり・つとむ、1882-1932年)。
 この恐ろしい人物の評伝が今頃出ることが、時代が変わってきた証左でもあるだろう。
 満州事変で張作霖を爆殺し、犬養毅を暗殺した五・一五事件にも関わったと俺などは認識してきた。三井の財力をバックにして、帝国陸海軍へのフィクサーとして、犬養内閣を支えるべき書記官長の立場にあったにも関わらず、である。
 「森は軍部を取り込むことで統制を試みた。時には『満座で軍人を怒鳴りつける』こともあった。しかし軍部の台頭を背景に、五・一五事件によって政友会内閣は崩壊する。この年、失意のうちに森は亡くなる」
 書評にこうあるが、それ、ホントか。

       「評伝 森恪」表紙。.jpg
 「セシル・ローズ」って誰か分かって書いてんのかな。南アフリカでローデシアなんて
 口にしたら碌なことにならない。そういう超人種差別の大悪党のことだぜ。イギリス
 人は隠しているけどな、それを。何が「セシル・ローズ」だい。

 五・一五事件で殺されたのは首相で、これを聞いて、今なら官房長官格の森は会心の笑みを浮かべたと言われているのに。
 犬養毅といえば「話せば分かる」で知られる。どちらかというと銃口を向けた青年将校たちに向けて落ち着くよう必死に制した、というニュアンスで語られる。
 だが犬養は阿部眞之助の評伝で、事件当日の一連の態度を、生前の本人を知った者の目線で読み、コレは大物と見直した。幕末の動乱を潜っている。
 食堂で家族と共にいた犬養は、賊来襲の一報を聞いても逃げなかった。
 「こっちに来い」
 わざわざ一撃を失敗した三上卓を応接に通し、本気で説諭しようとした矢先に第二の賊が現れた。阿部は至近距離から老人に向け、部屋が破壊されるほど弾を撃ちながら、当たった弾は2発だけと青年将校を揶揄している。
 「弾は中々当たらんのよ」
 元気な頃の美能幸三が身振り手振りで話をした時には、洒落にならないと感じたが、震えて当たらんのよ――そうも言った。そういうものだろうと今は想う。
 「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」
 撃たれた後も犬養はそう言った。
 生前の犬養毅は、普段からそういう人間だったそうだ。こんな男を殺した賊の群れの金庫番だった森はどうか。こちらにはそういう想いもある。

犬養毅と高橋是清.jpg

 本当のところが伝えられていないとは想うのだが、伝えられる逸話が色々ある人だ。素行が悪く、慶応の幼稚舎から普通部さえ進めなかったという伝説がある。これまたにわかには信じ難い。
 これがもし真実なら同じ慶応の幼稚舎で最低の52番の成績だった岡本太郎とか51番だった藤山一郎よりも本質的に悪い。付属校では「そこは何とか」が通用するはずが、こうなると、素行というよりか、教師への態度だとか、協調性がまるでなかったから、普通部の教師連が「拒絶」したのだろう。他人とは思えないが。オホホホホホホホ。
 森は様々な伝説がある。バルチック艦隊の艦影を打電した逸話が伝わるがどれほどのものか知れない。中国を舞台に商社で大活躍したが、生来大阪弁で言う“イラチ”で、「大陸浪人の成り上がりの巨魁」という辺りが正確な見方だろうと俺は想う。
 「この年、失意のうちに森は亡くなる」とあるが、喘息に加えて肺炎まで併発したのは7月だ。犬養毅暗殺の寝覚めがよほど悪かったのだろう。
 本書の紹介文では、「東洋のセシル・ローズとまで呼ばれた」とあるが、Cecil John Rhodes(1853-1902年)とは、アングロサクソンのHitlerのような人物であったのに、「だから悪党」という意味では使われていないようだ。何なの?(学習院大学学長・井上寿一評、日本経済新聞)


追記
柴山さん、70歳おめでとうございます&ピーズ武道館、おめでとう。洗ったパンツカバンに詰めて、これから羽田。
諸兄姐、種々、有難う。
| 9本・記録集 | 05:38 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――やっと出た評伝。
6月5日
気になる本――やっと出た評伝。
 「Paul McCartney The LIFE」[Philip Norman著・石垣憲一訳, KADOKAWA]
 先日、2016年にRon Howardの製作した「Eight Days a Week」を観た。面白かったのはWhoopi Goldberg(1955年-)やSigourney Weaver(1949年-)らのInterviewで、彼女たちが何れも無名の多感な少女時代に彼らはどういう存在であったのか暑苦しく語っていたのが印象に残った。
 Sigourney Weaverは裕福な家で育ち、Hollywood BallのBeatlesのステージを観た。一方、Whoopi Goldbergは貧しい家庭で育ち、母親に懇願したが、却下されたのに、結局、親が密かにチケットを買って呉れて、サプライズのプレゼントになったという、聞いていても楽しい話だった。彼女たちの世代には、とても印象的な出来事だったということが伝わってきた。

The Beatles (1).jpg

 ちなみにWhoopi Goldbergの生年は55年としているが、以前は49年だった。この辺り微妙で、Sigourney Weaverと同年でTeenagerで観ているのか、まだ9歳位で母親に連れられてShea Stadiumで観たのか。
 当時のNew YorkはNew Jerseyの黒人女子たちのGirls Groupの全盛期であった。9歳の黒人の女の子がそれほどまでにBeatlesを観たいと母親に泣き付くかどうか。俺にはちょっと「?」だ。
 それでも、アメリカでは息苦しい60年代前半にバンドの機転の効いたコメント等が如何に若い世代にとって救いになったのか、ということが伝わってくる。結果的にであってもStadium Concertを始めたことで黒人の観客も白人と同じように観に行くことができるようになった。
 1949年生まれ。日本で言うとBaby Boomerの団塊世代がBeatlesの音楽や生き方に最も大きな衝撃を受けたと改めて理解できた。日本でも同じだ。鮎川誠(1948年-)が「ジェット」のInterviewで、Chuck Berryの音楽は、Beatlesを通じて知ったと語り、同じくBruce Springsteen(1949年-)はChuck BerryをKeith Richards(1943年-)を通じて知ったと答えている。
 世界中が一斉にBeatlesの体現した価値に熱狂したのだと感じられる。そして実際に彼らがTourを止めてしまったのは、Privateなゆっくりできる時間が無いことと、余りに観客が熱狂して行く先々で暴動が起きること、そして貧弱なPA Systemしかない当時、自分たちの演奏を聞きながらステージを続けることができなかったから。
 「武道館は最低だった」

The Beatles (2).jpg

 「前のメンバーの腕の動きを見てドラムを叩いていたんだ」
 いくら演奏が好きでも、自分の楽器の音が自分に戻って来ないのでは続けられない。自分の叩くドラムの音さえ聞こえないほど客が騒ぐ状況では、楽しくはやれないはず。気の毒だと想ったが、一方で、彼らの才能は、知れば知るほど、考えれば考えるほど、同業のどのRock Bandも足元に及ばない「抜群」の天才集団だったと感じられる。
 先日、我が家で、Beatlesの話になって、彼らを凄いって皆さん言うけど、どれほど凄いか解って言っている人はどれだけいるかという話になった。それほど彼らは凄い。だが、それを感じさせないほど粋だった。本書は、幸い、評するべき人が評している。

The Beatles (3).jpg

 「なぜポールの本が少ないか、それは、自らが大ベテランで、歴史に名を残している特別な存在だという自覚が極めて薄いからではないか」
 「音楽家であるということは現役であるということだ、とポールはずっと思っていて、そのために過去に対して語ることに積極的になれない、あるいは語るよりそのことを音楽にするほうがいいと考えているのではないだろうか」
 「ジョン・レノンを生涯最高のヒーローだというポール」
 「ジョンの死のショックを長い時間をかけて乗り越えたポールは、『あいつは死んで伝説になったけど、僕が死ぬときはただの老人だよ。(ジョンには)かなわないね!』と冗談を飛ばせるようになったという」
 評伝の対象の本人が自分の凄さを考えるより現役のままでいたいという。こんこんと音楽が湧き出す人にだけしか浮かばないセリフだ。ジョンへの想いも泣けるわねえ。稀有な力のある人が集まった。だけど感覚が何時までも若い。Beatlesの魅力はこの言葉だけでも伝わってくる。(音楽評論家・湯浅学評、日本経済新聞)



追記
Paul McCartneyがLondon Plympicの開会式で歌ったのは「Hey Jude」なんだけど、俺は、丁度その頃、1970年代にこの曲をアマチュアバンドで何度も歌っていた男から歌の二重の意味を聞いたことがある。彼はその頃、学生で、非合法だった独立運動に参加して命懸けで闘っていたのだった。
John Lennonが好きだったけれど、死後、さらに神格化されて暫くBeatlesからは遠ざかっただなあ。昭和ですわな。
巨人、大鵬、卵焼きと口が裂けても言えないタイプなので、皆さんがお好きならどうぞだったわねえ。今は、彼らの姿が、とにかくまぶしい。4人は若く、その溌剌とした姿を観ていると、胸が苦しくなるわねえ。20世紀後半に、若いある年代を国際的に性別や肌の色を問わず結びつけた最初のアイコンだったのではなかったか。
偉大だけど、才能はそれを上回ってしまっていて、多分、あと100年もしたら、彼らの音楽的な才能に関する客観的な論評がようやく出てくるんだろう。
| 9本・記録集 | 06:52 | comments(0) | trackbacks(0)
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