岡田純良帝國小倉日記

「巻頭随筆」拾い読み――(肆)
5月23日
「巻頭随筆」拾い読み――(肆)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 本日も、今では歴史の秘話となっている辛亥革命前夜の日本海軍と革命党軍との謀略について続けたい。
 革命党海軍総司令の王統一は神戸高商に留学し、以前から日本には広くネットワークがあった。あの日露戦の大殊勲・海軍軍務局長の秋山真之(1868-1918年)も了解していた。それがため、王は気が緩んだか、軍令部参謀の八角三郎(1880-1965年)に漏らしてしまい、結果、案は潰される。ということになっているのだが、それがどう潰されたのかさえも、今となってはハッキリしていない。
 このような話は敗戦後に台湾国軍を育てた帝国陸軍中将・冨田直亮(1899-1979年)率いる「白団」を想わせる。80名に及ぶ「白団」は、元々密出国・密入国をして台湾本島に渡った。この山中峯太郎が手記を書いた1960年当時も、「白団」は台湾に存在している。元首相の石橋湛山(1884-1973年)が周恩来(1898-1976年)と台湾攻撃はしないことで合意した。
 このため、台湾海峡は一時小康状態を保ってはいたが、台湾の人々には、国軍の制服は頼もしいもので、60年代前半さえ、テレサ・テン(1953-95年)のような少女歌手でも、軍人慰問にキャンプを訪れるのが主要な任務であった。

         「行動学入門」表紙。.jpg

 革命当時は中国人になり切っていた山中峯太郎。革命に身を投じたことで陸軍大学校を中退になった。敗れた孫文が日本に亡命した時点で山中に見えている世界地図は後世の日本人と全く違っている。だがこれは、54歳の俺は骨に沁みて分かる。
 引かれ者の小唄を歌わされた者にも、作秋帰国して以来、かの地からは熱烈歓迎の声。十年も連絡を取っていなかった若者らが、ラインで俺の顔を見た途端、「嗚呼、岡田純良先生!」。老いた俺の顔を見て即座に姓と名を叫んだのには泣かされた。
 俺は孫文同様理想主義者だ。親戚のように付き合っている身内で、敵方袁世凱の権勢を引き継いだ段祺瑞(1865-1936年)の係累もある。詳しく書けない貴種流浪譚もあるわい。何時の間か知らず、北軍・南軍何の何れも、かの地の者と深く関わってしまった。
 我是無論「没有浅」。味方の総大将は、孫文(1866-1925年)でもなければ、敵は袁世凱(1859-1916年)でもない。明明白白。難攻不落のあの組織である。彼らはますます強く、我々は益々老いていく。
 Hollywoodがあちらに尻尾を振るのはご随意にと嗤うべきことで、腹の底は不愉快千万この上無し、だ。それでも、あの手合いには、金はあっても骨は無い。
 老いて何をなすべきか。なお次代に善をなし、徳を積むことはできるだろう。「巻頭随筆」、恐るべし、であろうよ。如何であろう、諸兄姐。例え路傍の石であっても、やがて礫になることもある。他人や時代のせいにしたくない。その矜持は喪いたくないわな。
 そこで若者に問いたいのは山中峯太郎の働きぶり。勝負だけなら、秋山真之は当たり、山中峯太郎は外れたに過ぎない。彼らは面前でそう言われても、莞爾として頷くだろう。命懸けの仕事に当たった人物はそういうものだから。ニッポンの冒険男児諸兄の冥福をここに俺は祈念したい。合掌。


追記
立憲民主党、国民民主党、共産党の合同ヒアリングは自画自賛しているのだけれど、もうそろそろ立憲の国会対策委員長のような人種まで国税で食わせる余裕が無いことを選挙で知らしめないとダメなんじゃないの。昔の最もひどい時代の社会党の爆弾議員みたいな子供じみたはしゃぎぶり。また高転び寸前の窮地にいるのに気付いておられない。選挙区の有権者の見識が問われますぜ。はよ引っ込めや。

追記の追記
名古屋方面からは、はよいりゃーよ、はよいりゃーよの連呼。どない?
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「巻頭随筆」拾い読み――(賛)
5月22日
「巻頭随筆」拾い読み――(賛)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 昨日からの続き。山中峯太郎(1881-1966年)の「変態革命の回想」(60年8月)から。
 「中国人になっていた私は、やはり日本に来ると、『亡命記』を中国人の名まえで『中央公論』に書いたりした。『没有銭』で一杯の天どんを亡命の四人で食う、そこに原稿料というものが送られ、ありがたさが身にしみて、これを動機に私は、ものを書くことを始めた」
 つまり孫文らが負けなければ、開高健(1930−89年)の言うところの少年文学の最高峰、山中峯太郎は存在しなかったということになる。そもそも、孫文側には「没有銭」だから、金の無い軍勢に付くというところが、山中峯太郎は大バカモノである。
 世間胸算用ではないが、大抵の事業は金がきっかけ。金に集まるより、金が無いことで、困って始めた事業の方が、実は長続きするもの。山中峯太郎の場合も同じことだろう。

「日本番外地の肖像」表紙。.JPG

 さて、そこで話が一転して変わる。当時、革命党側で海軍総司令を務めていた王統一の関わった謀略である。
 「革命軍の海軍首脳に王統(一)氏がいた。夫人は日本美人、熱烈な恋愛結婚だという。日本語が私よりも上手で美男子だった。やさしい温和な顔をしていながら、おどろくべき機密工作の実行を私に打ちあけた」
 「少額で実効をあげる工作には、日本海軍の予後備水兵を約二百人、機密に動員招集して中国に送り、艦隊を深夜に奇襲して一挙に略奪する。司令官には僕がなって略奪艦隊に号令する。この水兵たちの動員名簿もすでに完成、約二百人の承諾も得ているのだと」
 「この謀略奇襲を実際に上海の岸の黄浦江に停泊していた艦隊へ、小舟と覆面と毒ガスとピストルで敢てした。あわてたのは日本の海軍省だったが、この国際的にも冒険だった暴挙も、今なお知られずにいる」
 「この随筆を今の中共の幹部諸氏が読むと、そんなのは変態だ、『革命』とは言えないと大笑いするだろう。だが、国父の孫文先生が買収難の辛酸を、つぶさに嘗めたのである。新中国の諸氏も多少は今昔の感なきを得ないであろう」
 彼らが海軍買収合戦を繰り拡げたのは1915年頃。辛亥革命時、まだ山中峯太郎は34歳。しかし小文が掲載されたのは1960年8月。60年安保が6月に自然成立した直後である。この回想を「文藝春秋」に寄せた時、山中峯太郎は79歳になっていた。
 当時のニッポンの世の中は、騒乱罪が適用されるかどうかの大動乱のさ中だ。ようやく60年安保の反対運動が樺美智子(1937-60年)の死の後、自然消滅して落ち着くかどうかという瀬戸際の頃。ハッキリ書けば、時代とズレている。
 後に尾崎秀樹(1928-99年)が山中峯太郎の伝記を書いたが、山中の小文は書かれた時期が悪過ぎた。言うなら、人類の歴史は所詮あざなえる縄で成り立っている。山中峯太郎の赤心も世の心ある人々の耳目に届かず、こぼれ落ちて行ったものと見える。

追記
樺美智子の死は未だに謀殺説が消えないのだが、生きていたら今頃は共産党の重鎮でうるさ型の衆議院議員のちゃんばあになっていたかもねえ。おっかねえなあ。娘の党歴を殆ど知らなかったおとっつあんとおっかさんの悲しみは、まことに深かったろうと想いますなあ。

追記の追記
忙しくてやれまへんわい。関東を東に西に、返す刀で明日は琵琶湖へ。
 
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「巻頭随筆」拾い読み――(弐)
5月21日
「巻頭随筆」拾い読み――(弐)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 第1巻〜第2巻の20年間を一般化すれなら、江戸期の建物が残っていた首都にも、槌音高く変貌を遂げていく影が押し寄せたという時代背景にあり、敗戦後の日本社会全体を決定付けた2つの安保闘争があった。
 そうしてこれらの結果、日本人は「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、経済至上主義に走っていった時代とも言えるだろう。だから、とりわけ前半の原稿が俺には面白い。
 この期間は俺にとっては大きい。明治の人々が世の中から退場し、代わりに、敗戦後に世に出た大正年代から昭和ヒトケタに語り部が入れ替わる時期にもなるからだ。
 しかも昭和から今日現在に至るまで、日本の雑誌の中で最も重要な「文藝春秋」のようなメディアに掲載されても、「巻頭随筆」みたいな小文は、全集の出る作家の作品集からも意外に落とされてしまっている。
 「巻頭随筆」は誰かの小さな印象を記した掌編が多いからか、同じ時代に描かれた小文を並べて店開きして概観すれば、時代と価値観の移り変わりがたちどころに掴めるという便利な随筆集でもあるのだ。昨日のやっつけ仕事とは、相も変わらず言い過ぎであった。
 目に付いた幾つかの小文を備忘録代わりに引いておく。
 先に記した通り、この時だいまでは、まだ敗戦前の日本人らしく堂々と大アジア主義を語り、自説を語る明治男が生きていた。

「植草甚一読本」表紙。.JPG

 敗戦前の少国民なら「少年倶楽部」の「敵中横断三百里」という少年小説を読まないわけにいかなかった。戦後ならホームズシリーズの翻訳者として記憶されている方もあるか。それが山中峯太郎(1881-1966年)であった。
 「変態革命の回想」(60年8月)から引く。
 「今は昔、一九一三−六年(大正二−五年)の間、中国のいわゆる『統袁革命』の渦の中に私は入っていた。暴虐なワンマンである大総統・袁世凱を討って民主革命の成果をあげようという、『中華国民革命党総理』孫文先生が、参謀長を委任する辞令書みたいなお墨付きを私にくれた」
 「(2つの勢力を南北にを分ける)揚子江上に煙をあげている艦隊はというと、北にも南にも付かず中立している」
 「ところが、袁大総統の方でも艦隊買収を交渉中との諜報が、互いに入りみだれている二重三重のスパイから急報してきた。しかし意外でも何でもない、当然きわまることだ、今は昔、『滔わすに利をもってす』ということばが中国には昔からある。今でも日本その他にあるらしい『贈賄』なのだ」
 「艦隊競売が始まった。最初は二十万元で交渉したのだが、だんだんにセリあがって、なかなか落ちない。とうとう六十万元に暴騰した。これには党の猛者連も頭をかかえた。領袖会議の口ぐせに誰れも彼れも『没有銭』という、金が無い。革命する者は由来貧乏なのだ。そこで考え出したのが、空拳で金を作る方法だった。紙幣を創造するのだ。決して偽造ではない」
 「資金の多い方が勝った。二千五百万ポンドを外国から借りた袁大総統を相手に、『没有銭』の革命党は当然に惨敗し、創造紙幣は紙くずになり果て、孫総理をはじめ幹部の多くが、ほとんど皆、日本に亡命した」
 孫文は空手形を乱発、満州を日本に売った売国奴と呼ぶ人もある。目的のために手段を選ばない人もある。まるで、「亜細亜の曙」か「敵中横断三百里」である。というわけで、本稿、明日も続けたい。


追記
忘れとったわい。まー、あーせいこーせい言うてから、ブンブンブンブンうるさいヤツラじゃのう。オホホホホホ。
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「巻頭随筆」拾い読み――(壱)
小倉日記’18(第十五弾)
5月20日
「巻頭随筆」拾い読み――(壱)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 この2巻はアメリカから帰国した30代半ばに古書店で買い求めた。第1巻が昭和で言う43年(1968年)1月〜52年(77年)12月分、そして第2巻が同じく34年(1959年)1月〜53年(1978年)12月分の中から選ばれたもの。
 第1巻と第2巻は期間が重なる。しかしこの中で編集部がこれぞと感じる一文を選んで収めたもの。編集関係者なら、オヤ?、と想うところだ。期間が重なるということは、第1巻で棄てた原稿を第2巻で拾い上げているということ。編集で第2巻のカバーする期間を決める時に、かなり激しく議論を戦わせたのだと想う。第2巻で拾い上げられたものが誰の原稿か、明らかになってしまうから。
 挙げてみると、渋沢秀雄「親孝行」(74年11月)、芥川也寸志の「おかしな話」(67年8月)、團伊玖磨の「賤しい話」(73年2月)の3篇だけのようだ。
 ということは、第1巻(昭和43年〜52年)に対し、第2巻では約10年遡って昭和34年に始めたこと、さらに昭和53年の1年の間で書かれたものも玉稿が含まれているということでもあるだろう――と仮説を立てて抜書きしてみた。
 開高健「遅すぎた春」(78年6月)、宮崎勇「耳障りな言葉」(78年10月)、中村光夫「若い散歩者たち」(78年2月)、鴨井玲「私の村の人達」(78年1月)、長新太「『おなら』の絵本」(78年12月)、松下忠「ボウリングと坂本竜馬」(78年2月)、佐藤雅彦「韓国沖に沈んだ宝船」(78年2月)、北浜喜一「魚王フグの魅力」(78年3月)、

        「古本パンチ」[戸川昌士著]表紙。.jpg

 許斐仁「アメリカ人參」(78年9月)、小川真「海外のマツタケ狩」(78年1月)、黒江光彦「絵の裏のエピソード」(78年6月)、羽仁翹「誤訳と誤用」(78年7月)、松川道哉「ミュージカル・チェア」(78年3月)、矢島稔「電話相談室の十年」(78年7月)、藤本義一「岡潔先生のこと」(78年5月)、岩瀬義郎「大蔵省の我が同期三島由紀夫君」(78年5月)、二出川延明「プロ野球トレード第一号」(78年4月)、山川静夫「津太夫の涙」(78年4月)、中村新「ある日の牧野富太郎」(78年7月)、中上健二「科白の苦しみ」(78年2月)、吉川幸次郎「同姓名禍また弁妄」(78年4月)
 78年の1年間は手形乱発。第2巻は第1巻から掲載期間を1年間延ばした78年からは2年後の80年に初版。比較すると第1巻に玉稿が多く、第2巻はやっつけと思えてくる。
 第1巻と第2巻で語られる人々の言葉は、期間にすると約20年。我が家で言うと愚父が東京から都落ちをしたのが昭和33年(1958年)4月。LondonではPILが人前に現われてライブを行ったのが昭和53年(1978年)12月。この間に、明治男の祖父・純良が昭和46年(1971年)の3月に亡くなっている。
 どういうことか。いわば、東京に都(市)電が走り、首都高の無い東京しか父は知らない。祖父は戦前のヨーロッパをつぶさに見ながら万博と三島事件の翌年、何も語らずこの世から消えて逝き、俺が思春期のド真ん中に突入した時期でもある。


追記
昨日は都内各所に出没して、古書店、書店、洋品店、レコード屋、CD屋を訪ね歩き、散策しました。吉祥寺のdisk unionに入った時に軽い眩暈がした。1978年の「Sort It Out Tour」の海賊盤が店内に流れていて、曲は「In the City of the Dead」だったからだ。Hammer Smith Odeon(現Apollo)のコンサートだったんではないか。つい、去年の秋まで暮らしていた家と目と鼻の先。

追記の追記
というわけで、またまた「巻頭随筆」を紐解いたわけ。馬齢を重ねると、若い時に読んだ書籍であれ、味わいがグッと変わってくるのが面白い。若書きで世間知らずなのは無論のこと、中年に差し掛かった辺りでは世間にゴマをすっていたりする文章なども直ぐに判る。それと歳を取って幾つになって書いたものでも、中途半端なシノギをやってきた人の文章には煤けたいやらしさが浮かんでいる。
そういうイヤらしさが少ないのが明治でも半ば位までの生まれの古い人の文章で、竹を割ったようなものでもそこに味わいがあるのが何とも言えない。小沢昭一の放浪藝モノに奥行きがあるのは、小沢昭一は芸人だから、同業者には入り込んでいくインナーの視点があることと、しかし、自分は所詮都会のインテリ芸人であることをじっと見詰めて彼らに厚かましい質問を放ち続け、自分も一緒にやってみて、録音をし続けた。エライ。
昭和時代には社会の隅っこに追いやられていたのだが、社会の底辺で生きた芸人やその周辺の人々の世界は、21世紀の現在の、法律だの正義だのマニュアルだのいった屁理屈なんか、およそ通用しないところで厳然と存在していた。しかし、そういう底辺とは、引きこもりとは違って、タテにもヨコにも拡がる立派な「社会」だった。
今は底辺の問題には、貧窮より、自ら壁を作って立てこもる孤絶があって、連帯も助け合いも社会鍋もへったくれも無い。河上肇(1879-1946年)のような人も、賀川豊彦(1988-1960年)のような人も、机上で夢想していた訳ではない。
今の問題は過去の底辺の問題とは別のところに根があるように感じるのは俺だけか。
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「危ない読書」に誘う危険な水先案内人は誰か。
5月15日
「危ない読書」に誘う危険な水先案内人は誰か。
 先日、ヨーロッパ線に5か月ぶりに搭乗するために3年ぶりに成田空港第2ターミナルまで行くと、「BRUTUS」の年末年始特集号(2017年12月13日号)で「危険な読書」が特集されていた。すでに861号になっていた。俺が買っていたのは高校から大学まで2ケタから精々200号くらいまでの時代。雑誌を買うことそのものが殆どなくなった。
 「たとえ一冊であっても、深く心に突き刺さり、常識がひっくり返るような読書こそを楽しみたい。今号『危険な読書』は、世の中にはまだこんな本があったのかという発見とともに、読了後にはこの世界の見え方や今後の人生すら変えちゃうかもしれない、そんな一冊に出会うための危ない指南書です」
 雑誌は高らかな宣言で始まっている。目次をめくると次のような文字が目に飛び込む。
 「ポリティカルな読書のススメ / 食べること、交わること、混沌とすること / 極限文学 /
漂流文学 / 怒りの文学 / 山の怪談 / 社会派出版社 / 活字中毒者の本棚」
 開高健(1930-1989年)らが60年代から70年代に語り続けていたようなテーマが示され、この辺りは50代も半ば近い俺にもストンと胸に落ちる。

20180222 「BRUTUS 危険な読書特集」.JPG

 さらに( )付きで紹介されるのが以下の5名の書き手であったりする。
 「平山夢明(1961年-)、吉野源三郎(1899-1981年)、町田康(1962年-)、今村夏子(1980年)、Donald Trump(1946年-)」
 吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が羽賀翔一のマンガで復刻され、大ベストセラーになったそうだ。他の顔ぶれと並ぶと座りが悪いようにも俺には想われるのだが、この並びこそが新しい視座で吉野源三郎が現代に甦ったということでもあるのだろうか。
 昭和時代に育った俺には「君たちはどう生きるか」の主人公、「コペル君」と「叔父さん」と聞いただけで、当時は「社会科」の授業で使われていた「教育テレビ」の「働くおじさん」が反射的に連想される。「タンちゃん」と飼い犬のペロ君というと、そこに「PTA全国協議会」が重なる。「日教組」との「馴れ合い」団体。両者の「お墨付き」の「安全パイ」でもある。
 本書復刻をいまさらながら糸井重里(1948年-)が持ち上げるのも怪しい。吉野は、岩波を今の左翼の牙城にした張本人のようなイメージが俺にはある。「世界」の初代編集長でもあった。漫画での復刻にはある方面の人たちの蠢きが感じられる。
 一方で、Aleister Crowley(1875-1947年)が「70年ぶりに降臨」というコピーで示される。オカルト世界の悪魔のようなオヂサンが今更ながら注目されるのも不思議な話ではある。だが、「陰陽道」は30年以上も日本で語られ続けているから、今日的なテーマなのだろう。

「巻頭随筆-」@某所ホテル.JPG

 「日本の分離独立を空想する」等は敗戦後見られなかった視点だ。「危険な本屋大賞2017」も現代的。出版業界は危機に瀕しているのだ。「『BRUTUS』、お前もか」、である。
 今、俺はこの日記を日本から遥かに離れた某所で、時差ボケに悩みながら書いている。「BRUTUS」に飽き足らない「危ない読書」をお求めなら、お勧めの水先案内本がある。
 文藝春秋編の「巻頭随筆」、特に気鉢兇鬚勧めしたい。「生きていた新撰組」、「明治天皇とアンパン」、「大正天皇の成績表」、「日本海海戦の無電機」、「周恩来首相のワルツ」、「変態革命の回想」等々、血沸き肉躍る系のネタと書き手なら幾らでも挙げられる。
 一方昭和の「PTA全国協議会」の雰囲気は「カタキウチ」で伺える。藤原てい(1918-2016年)。書いた当時の肩書は「武蔵野市教育委員長」でもあった。テーマと書き手が揃っている。一気に「危険な読書」のとば口まであなたを誘う何かが隠されているかも知れない。呵呵。


追記
昨日は墨東にて相撲観戦。久々に日本らしい、日本人らしい高揚感。若手の取的がすくすくと育っていて、噂の大鵬の孫の納谷君は見損なったものの、残る諸兄はじっくりと楽しみましたわ。好取組が多数。白鳳とフィリピンハーフ御嶽海戦も館内がどよめいた。昭和天皇が、二階の正面席から身を乗り出して観戦する有名なシャシンがあるので、それを見習って、身を乗り出して観戦しました。大変良かった。

追記の追記
忙しくてものを考える時間が余り無く、書く時間も無いという時期には、気になる諸兄姐のフレーズを写しておくと俺には後々にもストレスの解消になる。今、考えているのは昭和後半の時代には、大きな敗戦教育のタガが疑い無くはまっていたことだ。昨日も墨東の観覧席で出てのは「サンケイの記者上がりの」「戦車兵だったヤツ」の作品の偏向についてのネガティブな再評価であり、海音寺潮五郎のポジティブな再評価も同時に進んでいるという噂話になった。「西郷どん」は、まぁ、ご愛嬌で、という話にも。だから、敗戦後から半世紀ほどの日本で評価された主義主張と歴史認識の類は、一度、棚卸しして実地検分をやってみる時期がそろそろ来ているのだろうと想うわねえ。
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気になる本――頑張れディレクター諸君(下)。
5月14日
気になる本――頑張れディレクター諸君(下)。
 「インパール作戦従軍記 葦平『従軍手帖』全文翻刻」[火野葦平著, 集英社]
 こんな大著は売れるわけがないだろうと想う。出版不況の中で、気を吐いた企画だが、何もインパール作戦のような無謀な計画ではない。呵呵。
 今般の出版はNHKが根っこにあるだろう。2013年、NHKで火野の「従軍手帖」が紹介されたことがきっかけになり、2015年にはディレクターの渡辺孝(1966年-)がNHK出版から「戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち」という良書を出した。
 本書はその仕上げともいえるもので、6冊に及ぶ「従軍手帖」の全文をまとめたものである。だから本書の定価は税込5,184円。592ページという圧倒的なボリュームになった。

  インパール作戦(1).jpg    

 世に言う「インパール作戦」(作戦名:ウ号作戦)は44年3月8日に始まった。インド北東、アッサム地方・インパールへの攻略作戦である。火野が志願して、画家の向井潤吉らと戦地へ赴いたのが4月の末。33師団に随行して、師団と共にインパールへと続く密林をグルカ兵に追われて敗走する。師団は雲南に転じ、火野はようやく9月に帰国した。
 陸士陸大組の牟田口廉也(1888-1966年)の大愚行であった。火野の随行した第33師団長の柳田元三中将は5月10日解任、第15師団長の山内正文中将は6月10日解任、第31師団長の佐藤幸徳中将は7月5日解任。作戦に反対する師団長らを次々にクビにした。司令官の資質があったのか、この連続解任劇だけで十分に疑問である。
 作戦開始の前年、大本営で長らく南方攻略の研究をしていた同じ陸士陸大で恩賜時計組の小畑信良(1897-1976年)は飛行機で山地を実地に観てまで反対したが、誠意ある進言も牟田口は一切聞き入れなかった。参謀長として着任した小畑は早々と解任されている。
 「インパールも勝算はあったんよ」
 身内でも牟田口を擁護する人がいるのだが、この作戦はどう考えても、牟田口が悪い。陸軍参謀本部に長いと、こういう人間が生まれるのだろう。エリート意識が強過ぎて、死んだ時、部下が無能だったと主張するパンフレットを会葬者に渡させている。机上で空論を言い立てる人が作戦の指揮を執ったら、こういうことになるわけだ。

     インパール作戦(2).jpg

 敗戦時、小畑信良は奉天の特務機関長を務めていた。シベリアに十年以上も抑留されて辛酸を舐めた。ソ連と取引したと噂される参謀の瀬島龍三(1911-2007年)とは随分と違う。大阪の地主であった小畑兄弟は有名で、アメリカの大学を卒業して、後に「源氏物語」を英訳した薫良(1888-1971年)もいる。この人は外務省で憲法草案を翻訳して、吉田茂(1878-1967年)に可愛がられた。ワシントンの大使館に採用された現地採用組だったのに、敗戦後には外務省の参与まで進んだ。同じ兄弟でも属した組織でここまで変わるという好対照でもあろうか。
 本書に戻る。
 ノートは火野のスケッチした図版、向井潤吉の絵も入って立体的である。玉井一家の主。俺には畑中純の「まんだら屋の良太」の世界が重なってくる。俺の體に流れる九州の血が騒ぐわいねえ。俺にはベトナム・ミャンマー・中国雲南地区を歩く水先案内になりそう。
 渡辺孝は重松清(1963年-)とも仕事をしていて、俺と同世代。藤田嗣治(1886-1968年)の復活もNHKの近藤史人の奮闘が発端になった。定説に毒されずにリアルに人間を見詰めようという視点に共感を覚える。そういう視聴者はもっといるはず。ディレクター諸君のさらなる奮励に期待。(『文化往来』日本経済新聞、多摩美大教授・椹木野衣評、朝日新聞他)


追記
何れこちらの渡辺さんとも行き会うこともあるだろう。何しろ○○があの○○だったろうから。オホホホホホホホ。
リフォームのドサクサでドラマ未見なので落ち着いたら観る予定。ボチボチ参ります。本日は江東方面に。川向うというわけですら。

You May Dream.....jpg
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気になる本――頑張れディレクター諸君(上)。
5月13日
気になる本――頑張れディレクター諸君(上)。
 「インパール作戦従軍記 葦平『従軍手帖』全文翻刻」[火野葦平著, 集英社]
 書店に積んであるその厚みに仰天した。火野葦平復活の狼煙になるのだろうか。これは作家のナマの従軍メモである。朝日新聞記者として従軍した丸山静雄の「インパール作戦従軍記」[岩波新書]という作品もあるが、ともかく、火野のメモを丁寧に取り扱った本が今さらのように出たのは嬉しい。
 「糞尿譚」で芥川賞を受賞した火野葦平(1906-60年)は受賞を従軍中に知った。小林秀雄(1902-1983年)が中国の兵営まで行って芥川賞の伝達授与が行われた。小林が中国にまで行かなければ戦争作家と見なされたかどうか。そんな気もする。

       「インパール作戦従軍記 葦平『従軍手帖』全文翻刻」表紙。.jpg

 敗戦後、戦争作家とされ、敗戦後はパージされて冷や飯を喰った作家だが、「糞尿譚」はそもそも善良な市民と街を牛耳るボスの喜怒哀楽を描いた風刺小説であったと今は想う。
 風刺小説は精神に余裕が無いと書けないし、読む方でも読み方が試される。俺などは、若い頃はヒドイ読み方をしていた。小説の末尾は、糞尿と夕陽で黄金色に輝く主人公・彦太郎の姿が描かれる。
 三島由紀夫(1925-70年)の遺作、「豊饒の海」全4巻の第2作、「奔馬」の主人公の飯沼勲とダブってしまい、少年の俺の脳裏では、右翼少年の全身にもべったりと人糞が付いた姿が浮かんで仕方が無かった。呵呵。
 あるいは、「別冊マーガレット」に掲載されていた高丘千栄子の「象山先生」のワンシーン。糞尿が教室に溢れて全てを流し去ってしまう。あのイメージは火野の「糞尿譚」からか。

    火野葦平@若松球場。.jpg

 ユーモアとペーソスの作家であり、人物であったのに、火野葦平は誤解され続けてきた。俺は「九州文学」の同人で、火野さんの後輩だったUさんという方と若い時に付き合いがあった。ダダイストの詩が好きな人だったから、まぁ、不良である。20歳の俺に酒食をたかるような人だった。
 考えてみると、俺は、ギリギリ昭和の元不良少年たちに可愛がられたクチかも知れない。だから、今の言論統制のような日本社会には馴染めない。政府を言論統制だと騒ぐ人の方が、「子供」だとか「目指す」だとかいう言葉を狩っている。
 「ワシは玄界灘の玉井組じゃ、ちうて」
 普段は旧制一高中退らしく、文弱で気弱な人なのに、火野葦平の話となると、すっかり玉井一家の乾児になってメートルが上がったものだ。

火野葦平負債銀婚式(1955年).jpg

 火野に沖縄出身で沖縄料理屋を経営している愛人がいたことだとか、ライオンを自宅で本当に可愛がっていた話だとか、傍にいた人ならではの逸話を二十歳の頃にくどいほど聞かされて親しみを感じていた。
 「面倒を見る人が多過ぎて、ノイローゼになって死んだんじゃ」
 Uさんはそう言って、突然、男泣きに泣いたことがあった。大の男、古希に近い老人が肩を震わせて泣いた。火野葦平はそれほど好かれていたのだ。死んで四半世紀近い時が経っていたが、火野葦平が悪どい男とは俺には思えない。(『文化往来』日本経済新聞、多摩美大教授・椹木野衣評、朝日新聞他)


追記
昨日、アド街ックで南阿佐ヶ谷を取り上げていて、荻窪周辺の文士会がちょっと出てきた。外村繁に混じってちゃんと火野葦平が紹介されていたのには隔世の感あり。若い世代が20世紀の日本をしっかりと再評価しつつあるのだと心強く感じた次第でありんす。佐藤慶のエロ絡みだけれど台北の読者から連絡があったのは驚いたわねぇ。俺の脳味噌は世間からトッ外れてタガまで無いから、周辺隣国の諸兄姐には不愉快なことも書くだろうなと思うところあったわけだが。極東アジアというと、今も手元の袋に新刊本の書評が束になって突っ込んであり、某国の本土に持参する予定でいる。まぁ台北か台中かいずれまた再訪するので、その折に密談しまつしよい。

追記の追記
喉はダストで炎症を起こしたまま治らない。風邪薬ではダメて、それなら何がいいのかなあ。荒れて痛くてかなわん。飴は瞬間的な対症療法。痛い、誠に、痛い。これも修行と諦めて参りますか。
| 9本・記録集 | 05:47 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――藤田嗣治と林洋子(拾)。
5月11日
気になる本――藤田嗣治と林洋子(拾)。
 「藤田嗣治手しごとの家」[林洋子著, 集英社新書ヴィジュアル版]
 ド素人の俺が言うのもなんだけど、敗戦後の日本画壇からは全く人が出なかった。
 特にイデオロギーの嵐が吹き荒れていた1960年代までは、もう、本当に枯渇したように誰もいない感じ。
 「New Yorkから太平洋を見ると、San FranciscoのGolden Gateはあるけど、その間は何も見えないわ」
 それ位、誰もいなかった。アハハハハハハハ。
 60年代に横尾忠則(1936年-)のような人が商業アートの世界から出て、当初は頑なに日本画壇は認めなかったが、New YorkのMOMAで特別展示が行なわれたりして、ようやくしぶしぶと受け容れるようになった。あるいは、海外各地のヴィエンナーレで日本人が高い評価を受け母国に逆流するか。
 とにかく、保守的なムラ社会は海外からの逆流には弱い。批評的にもまことにひ弱で、無批判にそういう逆流者を受け容れることになる。それはそれで、問題を孕んでいると思うけれど、ここでは本意ではないので省略する。
 敗戦後、「日本美術教会」の事務局で権勢を誇った内田巌(1900-53年)のように、戦争中は翼賛下にいたのが、一転、共産党に入党して藤田嗣治(1986-1968年)に戦争責任者としてGHQに出頭せよと最後通告を付き付けた人物はいた。

       「歌声よ起これ」内田巌。.jpg

 しかし内田巌だけが藤田追放を仕組んだわけではない。ハッキリしたことは、内田巌は主義者の思想に凝り固まって、その筆先が曇ったことだ。内田の作品は、1960年代まで、「歌声よおこれ」、「ラ・ぺ」といった作品が戦後の日本画壇史の中に佇立する作品として必ず取り上げられた。それが今では、殆ど展覧会でも選ばれず、いよいよ歴史からすら消え去ろうとしている。時間が淘汰したということになる。
 日本画壇は内側にこもり、海外からは眼を閉じ、自分たちで画壇のレベルを上げて行く努力もしなかった。老害を浄化する自浄作用も無ければ、新しい潮流に対して積極的に摂取していこうという気概も無かった。
 それで想い出すことがある。中学時代の美術教師は揃いも揃って日教組の組合員だった。1人はGustav Klimt(1862-1918年)が被っていたような薄汚れたスモックを着ていて、態度が悪いと言っては、よくクラスメートの前で殴られた。
 もう1人は角刈りで、見かけは職人タイプだが、気が弱く、これまた直ぐに生徒に手を上げた。俺より柔道が弱いので俺を恨んでいたが、突っ張って黒帯を締めていた。
 実は権威主義の塊のような人間たちなのだが、彼らはそれに気付かない。鈍感であった。そんな2人は、駅前で並んで何時も熱心にストライキ決行のビラを配っていた。昭和の後半は“主義者でなければ知的でない”と見られるようなイヤな時代でもあったのだ。
 60年代の美大の雰囲気がどんなものであったか俺は知らない。2人の教員の行動様式を想い出すと、それでも、知的刺戟は薄かったろうと感じられる。
 そんな背景もあって日本の画壇を殆ど憎んでいたのかも知れない。俺の知らない好みの画家を知ることは自ら求めなければ知ることはできなかった。主義者の主義的な作品で、展覧会から弾き出された才能があったわけだから。
 20世紀後半の日本は、主義思想にガンジガラメになった人々が社会のあらゆるところに跳梁跋扈していたが、彼らもそろそろ歴史の彼方に淘汰され、消えていこうとしている。お調子者は何時の時代でもいるわけだが、内田巌に代表されるある種の人たちは、畢竟、自分自身が無かったのだろう。想えば、お気の毒ではあった。

追記
昨夜は某所でチヤプリましてん。後ろのテーブルの妙齢のネーサン方は全員コツテコテの大阪弁やってんな。わいらは怪しい中国語使うとつたさかい、獄中の東北人思たんやろうけど、身の上話を互いに散々話しとったで。浪花女はどんなことが気になるんか、興味深い話が聞けたわい。
昨夜聞いたセリフでな、いちばん面白かつたんは、

そら、ウチのパパに言うたるわ。

やった。浪花の女も可愛いやないけ。
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| 9本・記録集 | 06:33 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――藤田嗣治と林洋子(玖)。
5月10日
気になる本――藤田嗣治と林洋子(玖)。
 「藤田嗣治手しごとの家」[林洋子著, 集英社新書ヴィジュアル版]
 先日も引いたが「絵の中の散歩」に掲載されている車谷長吉の「洲之内徹の狷介」をここでさらに引用したい。。
 「洲之内の方法は、一枚の絵画を、その絵を描いた人の運命として捉えることだった。『絵のなかの散歩』で言えば、「佐藤徹三『赤帽氏平山氏』や関根正二『魚』」等に典型的にそれが現れている」
 そこで関根正二(1899-1919年)の画風を紹介するのではなく、関根の逸話が紹介される。先輩の画家・上野山清貢(1889-1960年)への敬意が嵩じて、天才なら肺病でならなければならないと想い込み、先輩の肺病病みの女房・女流作家の素木(しらき)しづ(1895-1918年)の使った茶碗で飯を喰ったりしてついに目的を達したというアホな話である。
 「『こういう話は普通、作家の年賦などには入っていないし、入れようもないだろうが、案外、歴史の真相というものは、こういうものなのではないだろうか。いずれにしても、天才といい、肺病といい、なにか大正という時代の体臭を感じさせるような話である』」
 洲之内は夭折した関根正二については、そんな愚かな逸話を拾い上げて見せるのだが、林洋子(1965年-)の藤田嗣治の話も見立ては人間に対する興味で、同じように感じられる。

藤田嗣治「自画像」。.jpg

 東京滞在時代、二科展に出品した「自画像」の大作で背景に使われていたのは大きな暖簾であった。藤田は端切れも着物も全ては画業のためで、やはり根っからの絵かきだった。
 それを知る林さんは、これだけ大きく大作に取り上げるお気に入りなら、藤田は、その性格から、きっとその後も、大切に日本から持ち出して使い続けていたのではないかと仮説を立てる。
 彼女は美術史学者であり、現在は文化庁の芸術文化調査官でもある。だが立てる仮説は凡百の学者にはできない飛躍があり、筋は通っているが、その仮説は大胆だ。
 2013年の春から初夏にかけ、「ブリジストン美術館」で「日本人が描くパリ1900-1945」というシリーズで3回目に登場した彼女のレクを受けたことがある。静かに藤田を語り、その人となりを考えることが本当に好きだという感じが伝わった。学者だが、こちらと同世代の研究者は、近親者のように身近に理解されているようにお見受けした。藤田の暗部もひっくるめて受け容れているのだろう。それがしみじみと伝わってきた。
 だから彼女は決して諦めない。本書では1960年に撮影された「ヴィリエ・ル・バクル」の終の棲家の写真の中で、玄関ホールの壁にタペストリーのように掛かっていた暖簾を「発見」するのである。その時の喜びは如何ほどであったろう。俺はちょっと泣かされた。
 俺が藤田嗣治の研究者なら気になる目線で、藤田のあらゆる遺品を見ていらっしゃる。何時からかSex Pistolsのことを考える時は、仮説を立てて彼らの足跡を辿っていく癖がついていた。だから林さんの姿勢に強く共感を覚えるのかも知れない。


追記
昨夜は某ビル地下で密談。季節外れだが別離の酒宴でもあった。〆があさり炒飯。期待していたのだがガックリだ。上海で冷凍食品に泣かされたと同じく、冷凍が高級食材だというナウナヤングの中国人の調理人の笑顔。この落差に泣かされるというわけだ。昭和時代の後半、高度経済成長で、日本中の近海が汚染されているという悲観的な報道で震えていた頃を想い出させる。ともかく、美味いモンにありつくのは容易なことではないわねえ。
| 9本・記録集 | 06:44 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――藤田嗣治と林洋子(漆)。
5月9日
気になる本――藤田嗣治と林洋子(漆)。
 「藤田嗣治手しごとの家」[林洋子著, 集英社新書ヴィジュアル版]
 今日は久しぶりに藤田嗣治(1886-1968年)絡みの話に戻る。
すでに日本の美術史で明治期の東京美術学校で教員であった黒田清輝(1866-1924年)の権威主義的な弊害が指摘されている。藤田嗣治(1986-1968年)は黒田を嫌っていたため、黒田も文展では藤田の作品を全て落としている。
 「(パリの)家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」
 藤田という人はそもそも、そういう骨っぽい人物である。
 東京の滞在時代、江戸時代まで使われていた革羽織、極上の着物多数、端切れ、布地の類に至るまで九尺箪笥二竿が一杯になるだけ集めたそうだ。1949年(昭和24年)に日本を追われた時に泣く泣く処分をした。藤田の目に適った着物や生地はどんな織物でどんな染物なのか観てみたいが、今となってはかなわぬ夢だ。
 藤田のジンセイを考える時に、世界を3周したとうそぶいた旅人としての藤田、世界のあらゆる異文化を貪欲に吸収しようとしたエトランジェの蒐集家という面があるだろう。しかも、画家だから、彼自身の真善美のフィルターを通じて布地から箪笥まであらゆる面白いと感じられたものを蒐集した。
 東京に至る前には、メキシコに滞在した時期があって、麹町に屋敷を建てて移る前には、メキシコ風の家を愛人のマドレーヌのために建てていた。しかし彼女が日本で急逝したために、あまり日を置かず、今度こそ日本人の女房を貰って彼女のために家を建てるということには平気だった。
 また、渡欧して以降は、仕立て屋の真似事をしたり、家の隅々まで大工仕事をしたり、果ては染色や作陶までやったり、DIYの明治男という一面もあったろうと想う。意外に知られていないが、明治男はマメな人が多いというのが我が家の通説だ。

      「気まぐれ美術館」[洲之内徹著]表紙。.jpg

 祖父の純良は毎朝洗面所を30分占拠してグルーミングに余念が無かった。別な明治男の祖父は靴磨きが趣味で、孫の靴を磨くのを楽しみにしていた。
 藤田の場合、東京在住時代には、パリでは不要だった額縁制作にも精を出した。東京に帰国すると、パリで気軽に額縁屋に頼んでいたようには気に入る額縁は手に入らない。そこで藤田は額縁を自作する。誰にも頼らない不羈奔放なところが俺はとても好きだ。
 麹町のアトリエの藤田嗣治を若き土門拳(1909-90年)が撮影したポートレートがあった。背景に写り込んだ鏡を嵌めた額は、敗戦後、日本脱出の先のNew Yorkで描いた代表作、「カフェにて」の額装に使われていた。新しい発見を、著者は丁寧に読み解いて見せる。
 本書では戦争画の問題には触れられていない。それは彼の男性的な面だから、この本は藤田嗣治の女性的な部分に光を当てたと林さんは書いている。
 男性も端切れに胸が鳴り、陶器を持つと電気に打たれたようになることもある。だから、この本が藤田嗣治の女性的な面を中心に取り上げたという言葉には少々違和感がある。人間が精神的に貧しい生き方をしていなければ、藤田のように森羅万象に興味を抱くということなんだろう。明治の男は平成の男より、ずっと豊かな精神世界を持っていたということでもある。


追記
Iggy Popの映画が立て続けに出て、前回はショーデイツチで観たが、今回は新宿だつた。ラモーンズも今頃になって、評価される。ロックンロールもR&Bと同じように、マイナーポエット系の評価軸を作っても良いのじゃないかと思う。そうなると多分プログレとパンクがドドっと殿堂入りするんだろう。どちらかというと2つはともに自意識と思い込みの激しい私小説みたいなところがあったからなあ。Johnny ThundersとRichard Hellも評価の定まっていない人たちで、これから歴史の審判を待つているわけだ。では日本ならどうなるか。松尾和子の家に行って胸にくるもんが俺はあったなぁ。ムード歌謡は英米のラウンジミュージックとロックンロールの関係にに重なるところがあるんだけど、松尾和子観にトサカを立てたパンクなアンちゃんは来ないわねえ。

追記の追記
雨の朝は嫌だなあ。しかも雑件多数あり、日々の暮らしに追われている状況で、熟読玩味したくともそんな余裕が無いのだった。精神修養と肉体鍛錬足りんワイナリー。果報は寝て待て。
| 9本・記録集 | 06:17 | comments(0) | trackbacks(0)
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