岡田純良帝國小倉日記

気になる本――ニッポン、内外。
1月18日
気になる本――ニッポン、内外。
「二人の京都市長に仕えて」[塚本稔著, リーフ・パブリケーションズ]
 著者は昭和30年(1955年)京都生まれ。能楽師の家柄だった。阪大の法学部を卒業した後、京都市に採用され、秘書課長や市長公室長、行財政局長を経て、副市長。現在国立京都国際会館事務局長。この本、あの鷲田清一(1949年-)が推薦している。そこが俺にとってかなりインパクトがあった点だ。
 日経の書評を引く。
 「秘書課長という立場からみた桝本頼兼、門川大作という2人の京都市長の実像と、その市政を描いている。著者の公務員生活の第一歩が同和地区にある施設勤務だったためか、同和問題などについても真正面からふれている」
 今の京都は、随分改善されたとはいえ、まだ、同和行政が温床となった負の側面が残る。同和出身者の市役所への優先採用などがそれだ。役所のホームページにも今では「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」として掲げられ、こう前書きがある。

「二人の京都市長に仕えて」表紙。.jpg

 「長年の同和行政が、成果とともに負の側面を生み出し、これが市民の皆さんの同和行政に対する不信感として現れていることも事実であり、この不信感を払拭しない限り、同和問題の真の解決はあり得ません」
 京都でこうだ。オープンな時代になってきた。これまでの関係者の尽力の賜物。(『短評』)
「日本の原子力外交」[武田悠著, 中央公論新社]
 本書の出版社側の紹介を。
 「戦後日本は乏しい資源を補うために核技術を求め、1955年の日米協定によって原子炉・核燃料を導入する。だが軍事転用の疑念から規制をかけられ、74年のインド核実験以降、それは二重三重に強化された。日本は同様の問題を抱える西欧諸国と連携してアメリカと向き合い、10年近い交渉によって説得」
 1955年、日米原子力協定が結ばれ、CIAとの借款や技術供与に絡んで、正力松太郎(1885-1969年)や中曽根康弘(1918年-)のような男たちが暗躍することにもなった。この原子力協定の改定の中でも、1988年に結ばれた「包括的事前合意」は画期的なものだった。これによって非核保有国でありながら、核燃料サイクルの保有が可能になったのである。
 事実、インドの核実験成功後、アメリカは世界に対して核不拡散に転じていく。日本は粘り強い努力で核燃料サイクル保有をアメリカに認めさせた。

奄美ツアー 20180814 (古仁屋高千穂神社).jpg

 インド以前は、世界各国の途上国への支援の有力なメニューの一つが原子力であった。今頃、フィリピンやマレーシアやインドネシアなどで原子力発電所が運転されていても不思議はなかった。インドの核実験成功で世界のエネルギーの発展のシナリオが大きく変わっていったのである。インドは今でも米露両天秤。したたかな国だ。
 日本の場合は2011年の東日本大震災が起きた。そうでなくとも、核兵器にも転用可能な使用済み核燃料や余剰のプルトニウムを抱えた日本政府に対し、アメリカ政府の向ける目は再び厳しくなっている。
 昨年来、東京電力と中部電力、日立・東芝連合が画策されている。民間で原子力をやることには限界がある。核の問題は人類全体の課題だから、そこには必ず国際政治が重く絡んでくることは避けられない。これからの日本のエネルギー政策も核燃料サイクルをどう位置付けるか、俺は遠くから観ているぜ。呵呵呵。(日本経済新聞)


追記
イギリスから日本の原子力プロジェクトも逃げ出した。プロジェクトはこれからだったからまだ傷は浅いけれども、さて、工場はどうなるかね。今頃、泉下でサッチャーが歯軋りして、メイは目が釣りあがっているわい。イギリスの40年は俺の見ろところ、女で持ってる。男は揃いも揃ってクズばかりだ。

追記の追記
昨日は関東を右に左に。忙しくて忙しくてたまらんばい。本日はこれまた某所に。
| 9本・記録集 | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(肆)。
1月17日
雑誌記者、池島信平(肆)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 阿川弘之(1920-2015年)はどうだろう。
 池島信平(1909-73年)と十返肇(1914-63年)らは「文人海軍の会」という会を設立していた。源氏鶏太(1912-85年)、阿川弘之、豊田穣(1920-94年)、吉田満(1923-79年)といった面々を会員にしていた。
 池島「きょうは、二人とも海軍軍人ということで……。もっとも、阿川さんは大尉、ぼくは一等水兵。まこと雲の上のお方と同席するのは、畏れ多きことと存じます(笑)」
 阿川「……(笑)」
 池島「平たくいえば、大企業の部長さんと、二年目の新米社員。いやもっともっと偉いんかな。阿川大尉は……」
 阿川「そうはいいますけどね。毎年五月二十七日の旧海軍記念日にやる『文人海軍の会』……。あの有様は、何ですか。池島一等水兵、林健太郎上等水兵、源氏鶏太上等水兵というようなのが、床柱を背にしていばっているじゃありませんか。そばに坐ろうとしようものなら、『ここは、お前たちの来るところではない!』。怒鳴るんだから」
 池島「そりゃ、昔の恨みつらみが脈々として残っているからね。だって、われわれは絶対に大尉になれっこないんだから……。まことにおもしろくない。しかし、あの会も毎年よく続きますなあ(笑)」
 阿川「わりに盛会ですね」

1942年2月 シンガポール陥落直後従軍看護婦と語るインド兵(掲載).jpg 
  こちらは、1942年2月 、山下将軍の指揮下で一気にシンガポールを陥落させた直後の
  日本軍。その従軍看護婦らと語るインド兵たち。女たちも、当時を知らないこちらの
  イメージと違ってグーッと国際化しております。いまよりもグッと国際化してますな。
  腰に当てた手がいいわねえ。「気を落とさないでしっかりおしよ!」なんて言ってんだ。


 池島「残念ながら、阿川大尉がいちばん偉い。大半は、下級兵士の集まりのようなもんです。それで飲むうちに、兵隊のひがみ根性が現われてくる。阿川大尉は針のむしろに坐らされ……(笑)。まあ、軍隊がなくなったおかけで、われわれはほっとしているんですが、阿川大尉はくやしいだろうね(笑)」
 阿川「そんなことないですよ(笑)」
 この対談の中で、志賀直哉(1883-1971年)に連れられて、文藝春秋社に阿川青年の入社を掛け合いに行ったという話が出てくる。佐々木茂索(1888-1948年)は不在だったので編集長の池島信平が面接をしたという話だ。「舷灯」にも出てこなかったような話で、驚いた。
 阿川青年は小説を書いていきたいが、自分で生活するだけの自信もない。そこで勤める先を探した方がいいのだろうかと志賀直哉に打ち明けると、志賀直哉は「それじゃ、出かけよう」と言ったわけだ。昭和21年6月(1946年)とある。
ここでさらに驚いたのが、阿川青年がトイレに立った間に、志賀直哉は池島に対して、
 「池島君、彼はなかなかいい素質をもった青年だよ。しかし、小説がこれからうまくなるかどうかは、わからない」
と言ったことだ。だからあの志賀直哉が阿川青年を文春に売り込んだというわけだ。
 池島「重ねて言われましたよ(笑)。エラい先生だ。だけど、いまや阿川さんは、押しも押されもしない中堅作家……。立派なものです」
 阿川「あれから長い間、才能不足のうえに怠け者だから、貧乏しました。あのときから十年くらい経ったころでしたね。酔っ払った池島さんにいわれましたよ。『君は、あのとき<文藝春秋>に入ってた方がよかったんじゃないか』(笑)」
 ところが、対談の末尾に付けられている追悼文で、阿川は池島をやっつける。
 「『文人海軍の会』で、禿げ頭の上にチョコンと水兵帽をのっけた池島さんの、あの笑顔をもう見られなくなったのが一番残念である」
 酒席での池島信平の十八番はクリスマスの歌の替え歌。歌詞は週刊文春とはライバル誌だった週刊朝日の編集長だった扇谷正造(1913-92年)が暴露している。
 「信平さん 信平さん 魔羅立てて
 きょうは 信平さんの運動会 ホイ」
 夕方になると、しょっちゅう池島信平から電話があり、「どうですか、今晩、チクと」。
 志賀直哉(1949年:昭和24年)も阿川弘之(1999年:平成11年)も文化勲章を受賞した。阿川大尉にとって、東大文学部の先輩には、人生の要所で世話になっていたわけだ。中々含みのある追悼で、さすが「文人海軍の会」会員たちである。

追記
先日、某所で美しい「舷灯」の初版本(昭和41年だったか)を見つけて買おうと思ったのだけれど、阿川大尉の名作でも買い込んだら場所を取ることに想いが到りグッと購買欲を押さえ込んだ。ちょっと悲しかったなあ。「舷灯」は昭和のおとっつあんたちの家族への愛情が極めて抑えた筆致でたっぷり描かれているので俺は今も好きな小説だ。小説は、ああいうタイプの私小説がええわね。

追記の追記
これから駒沢方面へ術後検診のお礼参り。点眼薬も残り稀少に。困ったことにこの後はまたまた某地に小さな旅だ。しかも各駅停車の旅である。そして終われば取って返して都内某所で浪花の親分と密談予定。明日はまたまた当方の師匠筋の旦那との会談。その会談場所を決めたのは夕べの22時半になった。日中、まるで全体のスケジュール調整をまとめる時間が無いからだ。ああ忙しい忙しい。キンドーちゃんの気持ち。
| 9本・記録集 | 06:29 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(賛)。
1月16日
雑誌記者、池島信平(賛)。
「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 池島信平の福原麟太郎(1894-1981年)との対談もいい感じだ。
 福原「あのころに『文藝春秋』を六十万部も売っていたのだから、たいしたものですよ。その数字をいったら、イギリスのひとたち、びっくりしていましたね」
 池島「みんな、こいつはホラ吹きだといって……。ぼくは小さくなってました。実は、二年前のフランスでも、同じような経験をしていましたんでね。というのは、<ガリマール>の編集長に会ったとき、カミユの『ペスト』の原本を見せてくれながら、『これが日本で八万部売れたというが、ほんとうか』と聞くんです。『上、下二冊で計八万売れた』といったら、『パリでは八千も売れないのに、どういうわけか』。『日本の文化の方が高いからだ』といたかったけど、まさかそうはいえません。『日本人は、ほかに楽しみがないから、本ばかり読んでいるんだ』とごまかしときました。日本に出版物が多いことを、むこうの人はなかなか理解できないらしいです」

1939年3月、中支湖北戦線で高野部隊に捕縛された国民党軍女性兵士(掲載).jpg
   こちらは1939年3月、中支湖北戦線で高野部隊に捕縛された国民党軍女性ゲリラ。

 河盛好蔵(1902-2000年)も。
 池島「この間、新宿のおでん屋で、東大の造反教師から二時間ぐらいお話をうかがったんです。まじめ一方で、ユーモアなどかけらもありませんでした(笑)。あるのは感傷、日本人特有のセンチメンタルだけなんですよ。若い娘が感傷的になるなんてのは、毒にもなりませんけど……。要するに、ものをつきつめて考える能力がない。つまり、正確にものを見ることができなくて、溺れてしまうんですね」
 河盛「自己陶酔していては、ユーモアもでてこないでしょう。それに、日本人というのは、まじめでさえあればいいと思っている」
 池島「いやあ、若いもののいうことだけを金科玉条のように考えて、自分の重ねた年齢に劣等感をもっている人がいますね。不思議ですよ、これは。老年の知恵ってのは、はかるべからざるものがあるはずでしょ。なのに、それを恥じている。おかしいなあ。戦争中から、そうでしたがね。いつまでたっても、成熟しないからなんでしょうか」
 河盛「そう。そうですね。」
 池島「若い者が阿呆なことをいうのは、ある程度しようがない。だけど、いい齢してそんなまねやっているのは、わかりませんねえ。われわれの年代は、戦前、戦中、戦後といろんな変化を見てきてます。人間性について、少しは知っているはずですよ。一面的な理屈ばかりいうわけがない。そういった点を、もっと強調していいんじゃないか」
 河盛「この間、林健太郎君と久野収君とが『朝日新聞』で安保問題の対談をしていましたね。久野君は、ふたこと目には『若い者はこういっている』とか、『若い者の考え方では』でしたよ。若い者なんてどうだっていい。あなた自身の意見はどうなんですか、と……」
 池島「そういうこと、大事です」
 河盛「」だからぼくは、論旨は別として、それだけで久野先生を軽蔑してしまったな」
 河盛は同郷で同窓の後輩・久野収(1910-99年)をそう観ていたのだったわい。敗戦後には「思想の科学」、晩年は「週刊金曜日」まで、すべからく、ことごとく、俺のような人間に容れられないことを書き続けた人だった。
 ついでに書けば、池島が新宿のおでん屋と言ったのは、安藤りかの経営する酒席「利佳」であろう。そうして、そこで話を聞いた造反教師とは折原浩(1935年-)のことだろうか。例の西部邁(1939-2018年)が中沢新一を東大助教授に推薦した時に、これに強行に反対し、西部が東大を辞任するきっかけを作った男である。「大学を解体せよ」と叫んで、潮目の変わった後には東大に定年になるまで居残った男である。


追記
安藤りかの経営した「利佳」については別稿を記すからこれは読物でありんすよ。しかし折原浩。カッコ悪いオトコ。こういう人が居場所を見つけられたんだから、安藤さんの度量は広うござんす。

追記の追記
London is Burning.....だから言ったのに。まぁ、身から出た錆。しかしイギリスの議員たちというのも、国家的な存亡の危機にあっても火中の栗を拾おうとしないわけで、日本と同じく、無責任な人たちがまことに多いわけだよ。汚い手を使って駆け引きをする場合ではないのに。
この票差は国民投票の無意味さを改めて想起させる。結局、喰いモノにされるのは我々のような民草というわけだ。しかしその草莽もパンクだナンだといいながら、勲章一つで尻尾を振っちまう。まぁ、ダメだということよ。とても自由な国家だなんて俺は思わないけど、その民草も情け無い。なぁ、Sir, Michael Caine(1933年-)。
| 9本・記録集 | 06:11 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(弐)。
1月15日
雑誌記者、池島信平(弐)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 石川達三(1905-85年)との対談では、闇市のヤミ料理屋の話が良かった。
 石川「新橋から田村町のほうへちょっといった横のトンカツ屋でね。そこで菊池さん、佐藤観次郎と会う用事があったんだ。というのは、<大映>の永田さん(雅一氏)が、菊池さんのパージのことでたいへん骨を折っていたんです。そのことについての話だった。『君も、こないか』といわれて、ガタガタのぼろ自家用車で連れていってくれた。僕と佐藤観次郎はトンカツを食べたな。菊池さんは『ぼくはこの間トンカツを食べたから』といって、ほかのものをとってた。あれから、先生はおなかをこわしたらしいね」
 池島「あのころ、獅子文六さんも胃潰瘍をやってたんです。なにしろ、ヤミ料理屋ってのは、トンカツ、刺身、天ぷら、鰻といっぺんに出してきますからね。それで胃を悪くしたんですよ。文六さんは。菊池さんはその口です(笑)」
 大男の獅子文六(1893-1969年)は、日本の歴代文士の間で抜きん出たグルメ・グルマンと想うけれど、食欲が旺盛で、こういう悪食に近いような喰い方をもしていたのだと想うと、ちょっと笑ってしまった。
 獅子文六の回想していたフランスの田舎の家庭料理ってヤツは、長い間、俺の中で妄想の一皿となっていた。殆ど味まで思い浮かべられるようなほどレシピも幾つか知っていたし、ずっと喰いたかった。
映画、「ヘッドライト」でJean Gabin(1904-76年)演じるトラック運転手がむしゃむしゃ喰っているような田舎の鍋料理だ。

1938年4月、中止戦線で捕縛された国民党軍女性兵士・成本華(24歳)(掲載).jpg
   上記は1938年4月、中支戦線で捕縛された国民党女性ゲリラの成本華(24歳)。

 Mont Saint-Michelの街道筋のレストランは、可愛らしい田舎の農家造りで、少なくとも20世紀の始め頃から営業していそうな店だった。そこで喰ったLe Pre Saleは満足した。
 話はどんどんそれていくが、今はとてもいい本が出ていて、「フランス人が好きな3種の軽い煮込み」というタイトルで上田淳子さんのレシピ本が出ていて、最近、重宝している。
 この本は手を掛けた料理人のレシピではなく、「ソテー」、「フリカッセ」、「スープ」という3種だけをフライパン一つで調理してしまうという趣向。一種のレッスン本でもあるのか。しかし、手軽で、短時間でできるざっかけない家庭料理で、もう俺の妄想がそのまま写真になっているような一冊だ。
 文六先生はフランスで暮らしている頃に米の味が分かったと書いている。俺も、簡単に味噌汁も頂けない淋しい海外暮らしで、しみじみと日本の家庭料理が懐かしくなったことがあった。それでも、俺の場合、米飯の匂いでも、日本のジャポニカ米、うるち米だけでなく、タイ米もあれば、獄中の蒸した米の匂いにも郷愁を誘われる。
 しかし米の味が分かったと書いた文六先生も、一旦、飢餓線上の焼跡闇市時代となれば、トンカツ、刺身、天ぷら、鰻をガツガツと喰っていたわけだもの。どうでもいいのよ、楽しく美味しく頂ければ。
 この人には「バナナ」という小説がある。最近、復刻されたらしい。獅子文六の面目躍如、食い気と色気と儲けが三つ巴に絡まって、獅子文六の獅子文六たる世界が拡がっていく。俺の方は、今暫くの間はフランスの田舎料理を楽しみたいと想っている。


追記
昨日までは寒くて凍えておりましたが、野暮用を延々やっておりました。昨年までの仕掛かっていた案件も概ね終わり。今日からは永年の懸案事項について着手しようと思っています。目論見は無いと言えばないのだけれども、「俘虜記」の原稿を抱えて焼跡闇市の日本を縦断して上京した大岡昇平の心境。ウッフッフッフ。

追記の追記
今週は、木曜日には浪花の大将、金曜日にはディレッタント提督と、将官の皆さんとの宴会が続くのだった。今日はその手配をせねばならん。どちらさんも大変でっせ。アンジヨウタノンマツセ。
| 9本・記録集 | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(壱)。
1月14日
雑誌記者、池島信平(壱)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 1974年(昭和49年)、池島信平(1909-73年)が亡くなった翌年になって、追悼対談集2冊揃いで「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]が出版された。「新刊展望」[日本出版販売]に「池島信平連載対談」(1969年1月〜73年3月)と題して連載されたものを速記原稿から再構成したもので、元の連載とは違った追悼編集版である。
 今、上巻を読んでいるところなのだが、池島信平は現役社長のまま、64歳で亡くなったことを併せ考えてみると、この対談での池島自身の企みが浮かんでくるような気がする。対談期間は1968年(昭和43年)暮から死亡直前までだから「諸君!」創刊の頃になる。
 「雪の原に人一人あり田を鋤きてあり」として、井上靖(1907-91年)との対談では、日本の大学紛争の世相を慨嘆している姿が強く脳裏に甦った。
 2人はゲバ棒を振り回す学生とそれを許す教授陣を慨嘆しているのだが、一方で、戦争が始まる時には、自分も共犯者だという意識がどこかにあったと共に告白する。明治の末に生まれた彼らは、開戦当時は30代の新聞記者と雑誌記者であった。

1942年2月16日 山下奉文とArthur Percivalの会談翌日の記者会見(掲載).jpg
   上記のシャシンは本篇と関係は無い。1942年2月16日 大日本帝国陸軍の山下奉文
   大将と英国の将軍Arthur Percivalの会談翌日の記者会見の様子である。英軍は
   敗戦を受け容れ、永く苦しい捕虜生活が始まった。この時、山下は敗戦の将軍に
   敗戦の弁を語らせる軍人の礼儀を守っている。緒戦で勝って、打ち切れば、まだ
   滅亡しなくて済んだのに、どこにもバカが溢れていて今に到るわけだ。しかし、
   報道の現場なんて、今も昔も変わりは無いでしょ?

 2人のモラリストは戦後日本社会の浅薄さを嘆く。対談した1969年(昭和44年)の乱れた世相の幾分かは自分にも責任がある気がする、とも言っている。正直な人たちだ。
 だが、対談で想い起させられたのは大学生の方でなく、思い上がった中学生や高校生の姿だった。都立高校の卒業式で、卒業証書を破っている姿をメディアが報道し、しかも連中は大学に進学するわけである。うつけ者のやりそうな話である。
 この調子で、相手に合わせて世相を嘆きつつも、学生には知性が無い、二言目には「若い者は」と若い者の言葉だけ引用して自分の考えを言わない教師もいれば、学生側の吊るし上げに屈せず団交をやり抜いた教師もいる、だが、そもそも真剣に教師が点数を付けたなら今の学生の8割は落第する――殆ど、戦後世代には罵倒の連続であった。
 この中で、芹沢光治良(1896-1993年)の戦後小説論が面白かった。
 芹沢「くだって、戦後出てきた人たちとなると……。たくさん好きなように書いていて絢爛としてはいるけれども、何か虚しくて」
 池島「同感です」
 芹沢「たとえば、戦後の人で、三、四人、国際的な評判になっていますね。こちらから読んでみると“芯”が薄弱で訴えるものが少ないんです。気がぬけたようで、もどかしくなりましたよ」
 池島「それでいながら、レッテルはきれいでしょう」
 芹沢「豪華ですよ。この調子では、六十歳や七十歳まで創作をつづけられるのだろうかと心配になりますね。みずから虚しくなって、筆を折るのではないでしょうか。だから、散文芸術の運命、小説の運命は、もうそろそろおしまいではないか。不安を感じましたね」
 池島「それは世界的な傾向といえるのではありませんか」
 芹沢は「人間の運命」を書いた人だから、歴史は文学である、という視座の人だったろう。
 喰えない人物は「同感です」なんて相槌を打つ聞き手だ。当時、文藝春秋社の社長だった池島信平は戦後出て来た書き手には、もっと書けとけしかけるし、どちらが本音なのか分からないようなところがあった。池島信平、編集者魂の面目躍如。

追記
諸兄姐に質問です。
昨日観た「My Generation」(邦題の副題は「ロンドンをぶっ飛ばせ」は過去への案内人は撮影当時84歳だったMichael Caine(1933年-)なんです。
映画の冒頭からずーっと誰かに似ているなあと思っていたんです。それが、日本人作家のあの男だと気付いてからは、もう、そっちの話で頭が一杯で、誰かに言いたくてたまらなくなりました
ご覧になれば、深い教養と広大な知識をお持ちの諸兄姐でありますから、恐らくあのカーディガンを着たあの男だとは直ぐにお分かりになろうか思います。
ところが、どうにもこうにも違うところは伴侶のことで、イギリス労働者階級出身のの彼の奥さんは二度目とは言え半世紀近くも連れ添ってきた、同業の、小柄でエキゾチックな島の女です。
しかし、カーディガン紳士の方と言えば、先日、功労賞を受賞しておられた立派な方とは言ってもそれ以上の言葉が出てこない。
ともあれ、案内人の冷酷なスパイだったMI6のあの男は、背丈こそ違いますが、ヒョロリとした姿格好は、晩年のあの男にクリソツになりました。お楽しみに。
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魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(拾壱)
1月13日
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(拾壱)
 高官の安っぽい想い付きのような作戦の真実を虚構によって逆転させようとする島尾に手を貸したのが、まさに“行かず後家”のミホであった。彼女にとって島尾隊長は許嫁に捨てられた冴えない前半生を転換させる千歳一遇の男であったはずだ。
 だから、ミホは、戦後米国統治となった奄美から、闇船に乗ってまでして九州に渡り、神戸の島尾の家にまで押しかけて女房になった。「奄美と朝鮮お断り」と店の入り口に張り紙がしてあるような神戸に居座ったのだ。
 当初は夫の忠実な妻であったつつましやかなミホは、夫の浮気を知って逆上し、精神に異常を来したが、その狂気のエネルギーを夫をなじることへと転換し、その後、何枚も、夫に絶対服従の誓約書を書かせることになる。
 夫はその妻を観察し、怒りや悲しみを腑分けして物語を紡いでいく。最初の「死の刺」はまだしも、昭和30年代から40年代に書き続けられた「死の刺」は、ミホの検閲があった。そう知れば、その虚構の物語に加担し、虚構のスケールを極限まで拡大していったのは、敏雄でありミホでもあった。

奄美ツアー 20180811 (オットン蛙).jpg

 しかも、加計呂麻まで来ると、さらに島の社会全体がそれを加速させたことが伺える。加計呂麻までのフェリーの出る奄美側の古仁屋には高台に高千穂神社があり、ここに参拝すると、皇紀2673年(平成25年)建立という石碑を見つけた。石碑には君が代が彫られ、その脇に窮屈そうな四文字熟語が四つ。
 「聖寿万歳 世界平和 国家安寧 皇国日本」
 右翼だとか考えるよりも、鹿児島は家々に皇室カレンダーが貼ってあるような土地柄で、とりわけ加計呂麻はさらにノロの護るシマなのだと改めて想わされたことだ。
 皇国日本を護るために九州からやってきた特攻隊長には御歌を捧げ、歌い踊るべきだと小学生が先生から教わったらどうなるか――名瀬の「島尾敏雄記念室」で観たビデオには、ミホの年老いた教え子たちが出ていた。

奄美ツアー 20180811 (アマミサソリモドキ).jpg

 負担の多い離島政策に悩む鹿児島県や島にとって、島尾夫妻は英雄的な存在でもあり、奄美の伝説を黙っていても宣伝してくれる観光大使のような存在でもあった。司書の資格など後からでいい――奄美分館の館長をお願いします――島尾敏雄が熊本で司書の研修を受けるのは就任後数年経ってからだ。
 震洋基地のあった場所に島尾敏雄文学碑があり、さらにその奥まった所に、「島尾敏雄・ミホ・マホ、ここに眠る」と彫られた墓碑がある。ミホの執念は人を戦かせるものがある。幽明境を異にする霊魂より、俺には生きている人間のやることの方が怖い。
 「私がいびつにした妻やこどもの精神をもとのものになおし近づけることのほかに私の生きる道はなかったかのようだ。そのためには、私は家庭を留守にして旅立ってはいけない。いつも妻子のそばを離れずにより添って気持ちを注ぎ観察するのでなければ、いったんひずみを与えたにんげんのこころにもとのすこやかさをとりもどさせることはできない。そのとき私はたぶんこの先、旅行に出ることなど望めないと考えたはずだ」

奄美ツアー 20180811 (奄美大島北端用岬(笠利崎)).jpg

 書いた本人は女性関係や夫婦の虚構を、ここまで暴かれるとは書いた当時は予見もしていなかっただろう。だが、もう、死人に口無しである。これからは暴かれるばかりだろう。
 葬儀後、夫の骨は、焼き場から持って帰った当夜、形のいいもの以外の遺灰を、ミホはもう一つの骨壺に入れさせた。福島県相馬市小高の敏雄の母親の代々の墓所に収めるべく、息子の伸三がもう一つの骨壺を持って行かされた。
ミホは一体全体何が面白くなくてそういう狂気に突き進んでいったのだろうか。愛する夫だけではなく、娘まで、なぶりものにした。マホは、母親の狂気の中で狂っていったと伸三は書いている。
 夫はある時点から、そういう存在であると自分を割り切って役割を演じていた節がある。ミホの要求を殆ど全て受け入れ、最期は、心の片隅に少しだけ死を意識して蔵書を階下に運んでいたのではないだろうか。
 哀れでもある一方で、私小説家の末路には必ずこんな嘘が隠されていることをようやく俺は知るようになった。また、こんな共犯者のような夫婦が他にいることを俺は体験的に知っている。気の毒なのは、何時の世も、そんな親に育てられた子供たちである。


追記
さて、これから渋谷の文化村に。「My Generation」を観に行くことにしているのだった。寒いけど、自分のためです。ドヌーン。
| 9本・記録集 | 09:20 | comments(0) | trackbacks(0)
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(拾)
1月12日
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(拾)
 きれいごとを言うのは大嫌いなので、俺なりに記すが、戦記文学にも種別があると想う。石川達三(1905-85年)の発禁処分を受けた「生きてゐる兵隊」だとか大岡昇平(1909-88年)のレイテ戦記系とかが戦争文学の代表例とされ、実際、 大岡昇平は30歳を過ぎたロートルで召集令状を受け、密林を這い回ることになった。
敗戦前には日本だけでなく台湾や朝鮮半島でも広く読まれていた火野葦平(1907-60年)の兵隊三部作などは、最近まで全く顧みられることがなかった。これもまた、ある偏向した考え方が強かったおかしな時代が長く続いたからでもある。
 また、同じ特攻隊所属でも、梅崎春夫(1915-65年)のように、暗号兵であったためなのか、戦争文学を書いても、特攻について一切沈黙を保って亡くなった人もある。もっとも梅崎春夫の場合、酒の飲み方は尋常ではなく、狂ったように泣いたそうだから、酒で苦しみを紛らわせていたところがあるのだろう。

奄美ツアー 20180812 (しまバス車内).jpg

 彼等とも違うのが京都大学の歴史学者、「アーロン収容所」の会田雄次(1916-97年)だろう。ルネッサンスの大家でも、収容所での実体験からか、イギリス人を蛇蝎のように嫌った。嫌う権利が俺にはある、という体験からの気概があって、俺などは好きな人だった。
 また、山本七兵(1921-91年)の「私の中の日本軍」なども十分に読み応えのある本だった。「空気の研究」は日本社会の最暗黒部を簡潔に指摘したストレートな社会啓蒙書でもあるし、これもまた、一兵士として従軍した体験が彼をしてこれを書かせたのだと想わせる気迫が感じられる。
 しかし、気迫なら、やっぱり、我ら日本人は「平家物語」の子孫だと想うのは、吉田満(1923-79年)の「戦艦大和ノ最期」には他を全て棄てても取り上げたい何かが込められているように感じられる。
 俺は「海行かば」を思い浮かべる。
    「海行かば水漬く屍
    山行かば草生す屍
    大君の辺にこそ死なめ
    かえりみはせじ」
 この短い歌の最後の行を代えた、「長閑には死なじ」の方が脳裏に浮かぶのである。

奄美ツアー 20180812 (フンドウテン あたりや醤油店).jpg

 その点、どう差し引いてみても気迫の感じられないのが島尾敏雄(1917-86年)の「出発はついに訪れず」。同じ戦時の記録文学としては「出孤島記」にも気迫が感じられない。特攻の志を果たせず終戦を迎えたわけなので、それはそれとして小説は成功しているのだろう。
 しかし、加計呂麻の基地の跡に立ってみると、薄っぺらい実体験が透けて見えるようだ。現場に立ったなら腹を抱えて笑ってしまうような陳腐な特攻作戦だった震洋の特攻作戦。これを小説に仕立てた島尾敏雄は太いヤツである。陳腐な特攻作戦を巧みに美化していくのである。あんまりである。隊員のことは笑えないが、作戦は笑止千万だ。あんな馬鹿な作戦があっていいものか。散々嗤った後で、怒りが湧いてくる。


追記
昨晩はモリオでブルースかと思いきや、なし川港南口ブルース。いいんだよ、いいんだよ、クジラのステーキ喰って、おっかないおっかさんにシャクなんかされたら後が怖いもんね。
昨日は午後になって世界中からメールあり。負け戦のポツダム宣言受諾の事実関係の確認だった。しかし最後になってまさかの超大物が大阪から飲みのご要請。うーん、飲みながらポツダム宣言受諾までの歴史を語らされるのも片腹痛いことですわい。仕方ないけどこれで我が一族三代の歴史も完結したわいね。笑って振り返る事にしよう。
| 9本・記録集 | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0)
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(玖)
1月11日
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(玖)
 田中一村(1908-77年)は50歳になる1958年から名瀬に移り住んだ。だから、同じ時期に名瀬の図書館長を務めていた島尾敏雄(1917-86年)と街で行き会ったこともあっただろう。
 しかしそのことはお互いに俺の知る限りでは書いていないようで、小説家と画家だから、お互い違う業界ではあっても、狭い街のことなのに、それが何よりも不思議な気がした。島尾敏雄側には田中を画家として認めないところがあったのか、あるいは、田中の方こそ島尾敏雄を軽んじたか。

奄美ツアー 20180812 (田中一村邸1).jpg

 田中一村の美術館で受けた最大の衝撃は座右の書として死ぬ日まで手元に置いておいた同業の先達が「Picaso」画集であったことだ。
 田中の愛したアカショウビンの姿だけは観られなかったが、可憐な鳴き声は幾度も聴き、浜辺のアダンも満喫した。マングローブの自生するジャングルをカヌーを漕いで通過し、リュウキュウシダの原生林を歩いた。政府が特別天然記念物に初めて指定した奄美のクロウサギも目の当たりに観た。
 そして震洋特攻隊の基地だった入り江にもアダンが自生していたこともよく分かった。だから、そのアダンを熱心に観察し、異様なまでに細密な画を描いた画家のことを、もし、島尾が知っていたら、交流がないとは想像できないから、田中がそうと名乗らずに沈黙を続けたのかも知れない。

奄美ツアー 20180812 (田中一村邸2).jpg

 それにしても、震洋のレプリカを基地まで行って見たが、自動車のエンジンを搭載したベニヤの船に250kgの爆薬を積みこんで体当たりするとは、もう、荒唐無稽でシュールと呼びたくなる。今なら高校性さえ「オジサン、そんなのムリ」と決め付けそうな中身である。
 こんな静謐な入り江に近在の旧制中学生たちを動員して、穴を掘らせてベニヤの船艇を隠すというバカバカしさ。島民は、当初、九州からやって来た特攻隊員たちのことを恐れ、遠巻きに見ていたという。真相は、バカではないかと想ったのではないか。

奄美ツアー 20180812 (田中一村邸3).jpg

 そこに大平ミホ先生が現われて隊員たちと交流し、子供たちは優しい27歳の島尾隊長によくなついた。そして先生は「島尾隊長の歌」を作り、子供たちに歌わせただけではなく、島尾隊の劇まで作って子供たちに演じさせ、隊員たちを慰労したのである。
 25歳の“行かず後家”のミホ先生から見れば、27歳の島尾隊長は光り輝いて見えたが、死ぬはずの島尾隊に出撃命令は降りても、出発の機会はついに訪れなかった。
 「大和」で坊ノ岬沖の特攻に参加した人たちと比べるのはどうかと想うけれども、実戦に参加して、多数の戦友を喪った人たちの戦後と、南海の離島で、毎晩、土地の女を抱いて、出撃命令を待っていたベニヤの船の特攻隊長が敗戦後に背負ったものとでは天地の開きがあっただろう。
 (俺は死に損ないにも値しない)
 島尾敏雄は、本音でそう感じていたのかどうか俺は知らない。


追記
久し振りに丸の内。2年振りにアフリカ方面から来た若者に合うもゆっくり話ができず。心残りのままで残念なことであつた。
| 9本・記録集 | 05:45 | comments(0) | trackbacks(0)
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(撥)
1月10日
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(撥)
 「狂うひと」を読んでみて、あらいざらい暴かれているわけだが、これまでは南洋文学の代表作として楽しんできた読者としては、それだけでは済ませられない気分にもなった。やっぱり加計呂麻で島尾夫婦や奄美の島社会の作り上げた虚構の本体を見たいと想った。
 そして――実際に足を運んでみると、明らかに作家の虚構が透けて見えるようだった。
 奄美大島一の都市・名瀬にある鹿児島県立奄美図書館。ここの1階には立派な「島尾敏雄記念室」がある。「昭和文学の極北」とか「巨星落ちる」とか、島尾に絡む形容詞はモノスゴイ表現があって驚いてしまう。

奄美ツアー 20180812 (島尾敏雄旧邸2).jpg

 また、徒歩51歩と島尾自身が書いた勤務先の元県立奄美図書館と図書館長家族用の官舎。これが半世紀以上前に建てられたとは思えないほど立派な鉄筋コンクリート造りの建物で、島尾一家が今から半世紀前に10年程居住していたことに、ある種の感慨が呼び起された。
 さらに海上タクシーで渡った加計呂麻島でも至る所に2人に関する発見があった。
 県道や町道での島尾敏雄関係の行先案内板の大きさ。巨大な道路標識として高々県道に掲げられている。加計呂麻島のような離島でも異様な大きさだから、震洋特攻隊のあった基地までは迷いようがない。
 その一方で、ミホが代用教員をやっていた押角小学校・中学校にはそういう標識はない。ミホの家のあった押角集落と特攻隊の基地との距離感。直線距離は600mといった所だが、間に大きな岬があり、峠で遮られている。その峠は今やトンネルが開削されて車で簡単に抜けられるが、戦中は浜辺には簡単には近付けなかったはずだ。
 ミホは峠道を超えて通ってくる敏雄との逢瀬のために養父を家から遠ざけ、自分の家で睦み合ったようだ。この時彼女は25歳。戦前なら、世の中では“行かず後家”と言われた年代になる。ここを理解しないと2人のその後の関係は理解できないかも知れない。

奄美ツアー 20180815 (震洋特攻隊格納庫前で).jpg

 巫女の家に生まれ育ったと自ら吹聴した島尾ミホ(1919-2007年)の素顔はどんなものか。
 長田という、これも巫女の一族に生まれたミホは、幼い時に生母を失った。実父は姉の嫁ぎ先で、これも巫女の家である大平家に預けたので、ミホの旧姓は大平であった。
 加計呂麻島の尋常小学校を卒業すると、女学校入学前に実父を頼って兄と共に上京し、秋葉原で父親が経営していた大衆食堂の2階で暮らしていた時期があった。これもまた、梯久美子が調べるまで、公には伏せられていた話である。
 この時、父親の経営する食堂にはいやいや寝泊まりさせられて、大平家から送金されたかなりの金額を親に使い込まれた。それでも自動車の運転教習に通ったり、映画を観たり、活発に活動していたが、それは後年の巫女然とした佇まいとは重なってこない。

奄美ツアー 20180812 (島尾敏雄旧邸3).jpg

 外せないのは、ミホには許婚がいたことだ。許嫁は従兄の長田俊一という男性だという。召集直前の昭和13年(1938年)には朝鮮の釜山まで俊一に会いに行っている。
 だが、俊一から
 「適当な人がいたら、その人と一緒になるように」
 と言われたため、結婚はそれ限りとなった。つまり、彼女は許嫁にふられたのである。
 前後関係は分からないのだが、俊一側にはよほどの事情があったのではないか。幸い、戦死はせず、戦後は佐世保に暮らしていたという俊一に今はもう話を聞くことはできない。


追記
昨日は密談中に約束無しである人が俺を訪ねてきた。たまたま寄ったので、という話だったのだが、わざわざ虎屋の羊羹まで持ってきていたのだ。5分でも相手をしていてくれと言っておいた若者が代理で応対をして呉れたのだが、とっとと帰ってしまった。慌てて飛んで返したのだが、姿も形も見えず。
昔から素っ頓狂な白河の人だったのだが、還暦も過ぎて、何やら俺に言いたいことがあったのだろうか。分からないことだが、新年の挨拶にしては不思議なこともあるものだ。よもや引退の挨拶かとも想う。21世紀にもなって古風なことをする人もあるもので、とり急いでおっつけのメールを出しておいたのだが、まだ、尻の辺りがむずむずする。
さてはて。
| 9本・記録集 | 06:22 | comments(0) | trackbacks(0)
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(漆)
小倉日記’19(第二弾)
1月9日
魂を売り渡した男・島尾敏雄と奄美諸島(漆)
 昭和の作家の中では吉行淳之介(1924-94年)には随分親しんできた。文学史的な分類では島尾敏雄(1917-86年)のような私小説作家の系譜の作家ではない。
 学生時代、「悉皆屋康吉」を書いた舟橋聖一(1904-76年)とか「競馬」を書いたオダサクこと織田作之助(1913-47年)の文体には夢中になったのだけれど、同時代の人ではなかった。
 その点、吉行はこちらが読み始めた時にはまだ50代で同時代の伯父さん世代ではあった。だが、そうかといって、吉行淳之介の小説作品はあまり好みではなくて、当時は多数出ていたエッセイと対談をかなり読んだ。

奄美ツアー 20180812 (ヨシユキ反応).jpg

 つまり、小説の方は島尾敏雄と同じく、俺は吉行のよい読者ではなかった。
 「腿尻三年、胸八年」と放言し、銀座のホステスを相手に、世の介気取りのドンファンで、昭和40年代の後半位からは一種伝説化された、華やかな芸能人のような存在になっていたように記憶する。
 しかしニッポンにもかつて棲息していた斯道の達人の箴言に触れて、世界中であれこれ見聞すると、吉行の「修行」への疑念がむらむらと湧いてきた。ここ20年ほどのことだった。晩年の20年間の渡辺淳一(1933-2014年)にもそんな雰囲気があった。

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 ある時点から、この稀代の艶福家には、売り物にできるほど女修行はしていなかったし、実は大していい女を相手にしていかなったではないかという、ご本人には大変に失礼だが、面目丸潰れになるような疑念が消し難くなっていったのである。
 吉行の女修行不足の疑念については、じわじわとこちらの中で一つひとつ謎が解されて、今では、ほぼ吉行の謎は解体され、卒業したような気分でいる。例えば「街に顔があった頃――浅草・銀座・新宿」[新潮文庫]では開高健(1930-89年)を相手に得々とした語り口で女を語る。だが、実は開高の方がずっといい女を相手にしている。そういうことは、こちらも修練を積み、読んでいる内に、おおよそ分かってしまうものなのだ。
 吉行は、売春婦、ホステス、それとアイドル。開高は、研究者、編集者、それと外人。嗜好は真逆というほど違うが、確実に言えるのは、開高健の方が、相手に求める出会いの条件が高いことだ。吉行淳之介の方が女に求める条件は低い。

奄美ツアー 20180812 (しまバス車内).jpg

 別の言い方をすれば開高の方が女性への期待が大きく、吉行の方が期待をしていない。吉行は古い民法、あるいは封建的な目線で、開高健の方が敗戦後の民主主義的な目線で、より現代的でもある。
 しかも、吉行自身の修行不足は、吉行の自覚の無さ、認識の甘さにあるだろうけれど、悪気は無いわけである。吉行が悪いわけではなく、その程度の人物を有り難がった読み手、つまり畢竟するところ、日本の風潮がそうだったということなのだろう。
 吉行淳之介は当時有数の対談の名手で、話術も巧みな人であった。友情に篤く、同業に留まらず、異業種の仲間との付き合いも広汎で、こちらも随分知的な刺激を受けてきた。だからあまり悪くは言えないのだが、本分の女体の修養では甘さはあった――今ではほぼこれは確信に変わっている。
 敗戦後のニッポン社会は、この程度の女修行しかしていない人物の書いた売買春小説をまことに有難がって読んでいたわけで、まるでおめでたい時代でもあったわけだ――そう理解もしている。
 塩辛い話になるが、日本では世界に通用しないサッカー選手がプロでメシを喰え、翻訳されることのない小説を書く人たちがメシを喰える。この辺りには、時々、やりきれないような気分にさせられることがある。


追記
昨日のランチはチキンの香草焼きでありました。喰ってしまい、腹がドツンパで午後は集中力が落ちたワイナリー。チキンはとても柔らかく、付け合せのポテトのマッシュしたソースも大変美味かったのだが、大いに深刻な話だったわけで、「美味い!」を連発する訳にいかず、静かに押し殺して喰っていたわけだ。深刻な話ではあったが、前向きな話でもあった。俺はチキンではないけど、台湾風に言うと「らいららいら、こっここっこ」である。ウッフッフッフ。

追記の追記
書かれたことの無い人生というのは無数にあり、描かれたことの無い真実もまた無数にある。先日、日経新聞の書評面に、 大意、「私の30年の作家生活の全てを注ぎ込みました」という林真理子のセリフと共に新作の広告が出ていた。人生はそんなに薄っペラではない。書き手がその程度だから書かれたものはそんな程度でもある。
| 9本・記録集 | 06:39 | comments(0) | trackbacks(0)
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