岡田純良帝國小倉日記

32年前の俺たち――「悪い仲間」。
4月27日
32年前の俺たち――「悪い仲間」。
 「Fujio & Makoto 1986 Session」
 ギター&ヴォーカルが山口冨士夫(1949-2013年)と鮎川誠(1948年-)で、ドラムがチコヒゲ(不明)、さらにギターで青木真一(1951-2014年)、ベースに中嶋一徳(不明)。
 ベースが軽目のファンキーさが持ち味の中嶋カズなのに――全体にリズムがバカに重い。若い人からは素晴らしいという感想を貰ったりしたけれど――俺は複雑な気分になった。ドラムは道産子のチコヒゲよりも神戸っ子の小林秀弥の方がずっといい。

Fools.jpg

 チコヒゲにモノ申すのも申し訳ない気がするのだけれど、スネアの叩き方がRock and Roll上がりの人ではないと想う。スネアの一拍の成り立ちが違う。
 「赤い雲」とか「Rock Me」のイントロなんか特にそうだわね。重く淀んでいて、曲の良さが死んでしまっている。
今にして聴くと、あの晩のリズムがあれほど重かったなんて。

  山口冨士夫とチコヒゲ.JPG

 この辺りの事情は、昨年11月にYoutubeに誰かが上げた古い音源を聴くと少し分かるか。1982年11月末に法政大学学館で録音されたFoolsのライブを聞くと分かるのではないか。リズム隊はオリジナルの佐瀬浩平(1957-2014年)と中嶋一徳で、山口冨士夫とは俺でも知る組み合わせ。後のTeardropsのリズム隊だ。
 しかもさらに残念だったのは、あの晩の山口冨士夫の喉も調子が良くなかったことだ。前日のゲネプロでもそうだが、声がガラガラになっている。MCでも普段と違って聞き取り難い。声が通っていない。
 (うーん!)
 1月の下旬に小倉の里に送られてきたCDを初めて聴いた時点で、「?」。
 (何か違う感じ)
 86年当時は、俺はまだ22歳で若かったから、興奮して何も覚えていなかったわけだな。情け無いことだ。
 ライブから32年も経っている。せっかく当時の記録がこうして正式に音源が発売されるというのに、立ち会っていた観客としてもリズムもヴォーカルも残された音は残念過ぎる。
 とはいえ、この頃まで少数のファンに囲まれているだけだった山口冨士夫は、鮎川誠とシーナ&ロケッツを追うファンが合流して、この晩は大きなうねりの真っ只中にいたわけだ。それまではどこか客席との馴れ合いがあったと想う。

Tumblings with 鮎川誠.jpg

 MCもどこか硬い。「鮎川誠さんが歌います」と言ってみたり、「マコちゃん」と呼んだり、「俺たちはホントのマブダチになったぜ」と客席に胸を張ってみせたり。やっぱり弱い人という感じが伝わってくる。
 21世紀になって復活したものの、「中部電力浜岡原発反対」なんて言うようになったのも淋しかった。元々、「Rock Me」で歌われているように、政治スローガンを叫ぶほど「ヤボなこと」などないと良く知っている人だったからだ。

 Teardrops (2).JPG

 ホンバンの「Gorilla Do」の5分20秒辺りから24秒。間違いなくJの叫び声が入っている。会場の歓声の後ろ側に、
 「武士!、武士!、武士!」
 と叫んでいる声が聞こえるだろう。さらに、「ビールス・カプセル」の5分36秒前後から5秒間ほど聞こえる指笛。あれも、Jの指笛だろう。
 「武士!、武士!、武士!」
 あれは、「武士!」と叫んでいるのではないのだ。
 「ブーシ!、ブーシ!、ブーシ!」
 であり、俺達の間の逆さ言葉の符牒で、「渋い⇒ブーシ」であった。「ブーシ」は20歳代の入り口にあった俺達にとって、この世のあらゆるものの上にある特上の誉め言葉であった。Jは山口冨士夫と鮎川誠が並ぶ一世の晴れ姿に我を忘れている。
 「Lazy Crazy Blues」と「ひとつ」のイントロで湧き上がる男の歓声。あの中に、俺の声も薄っすらと確認することができた。俺の32年前の亡霊が確かにあの空間に存在している。


追記
連休中にプチ「悪い仲間」が集まることになった。ピーチ辺りで「Fujio & Makoto 1986 Session」をかけながら武士武士言ってたら、そりゃ、俺たちかもね。ヌーン。

追記の追記
本日連休直前で某から呼び出し。なーんと、俺まで出頭予定。さて、申し開きはできますかどうか。相手が悪いか。
| 8音楽 | 06:12 | comments(0) | trackbacks(0)
SardiniaにPunk魂はありや?
4月19日
SardiniaにPunk魂はありや?
 昨夏、CJ RamoneがSardiniaをツアーした時、前座はSardinia南部の州都Cagliari地元のPunk Band、The Colvinsってのがやったの。The ColvinsはPVまで作ってYoutubeに上げている。島ではそれなりの顔らしい。

CJ Ramone with Marky Ramone.jpg

 この小さな島で島の北西部を根城にする建設業の男とちょっとしたトラブルになった。武士の情けでヤツの名は秘すが仮にMarioとでもしておくか。Marioは中々味のある男で、トラブルの数日後、Marioの自宅を訪れると、屋外で老母がレースを編んでいて、大きな犬と子猫が足元をウロウロしている。如何にもイタリアのマンマだ。
 (きっと、こいつもいいヤツなんだろうな)
 書類にお互いに必要事項を書き込んで取り交わした時に、IDを見ると1963年の12月とあった。隣に身内のMillan支局がいて通訳してくれる。
 「俺とお前は日本で言えば同学年だ」
 「え?」
 Marioは俺のIDを見て言った。
 「ビールで乾杯しようよ。俺、取ってくるわ」
 俺たちは書類を交わした記念に乾杯した。隣でマンマが目を細めて嬉しそうにしている。我々はアフリカの移民問題を語り合い、Marioは中国には困ったもんだと慰めてくれた。最後には一杯喰わされたような顔してたっけ。そりゃそうだよな、トラブルを持ち込んだのは俺だものさ。アハハハハハハ。

CJ Ramone and the Manges.jpg

 内心は、Sardiniaで建設業界といえば100%“あっち”だから、この島ではトラブルのカタは付けられねえと俺は観念していた。ところが、Millan支局の手引きで、この後で、島で一番デカイ街、Cagliariにある事務所に話を持ち込むことになったわけさ。
 「Cagliariは北の街とはあんまり関係ないよ」
 その事務所の窓口がバンドのベースで、Alessandro Zだった。
 Alessanndro Zは夜こそコワモテのPunk野郎だけど、オテント様の高い昼間はカタギだ。髪を短く刈り込んでいても、そこはそれ、キレイ目のパンツ・スタイル。空港から至近の某ギョーカイ事務所に勤務していた。

   Sardinia.jpg

 その時にちょいとAlessandroと話になった。ナニ、話はPunkだものシンプルなものさ。
 ヤツのスマホケースが「RAMONES」のロゴマークだった。
 「お?、これどうよ」
 俺の待ち受けは、その頃、Paul Cookと肩を組んでる写真だった。
 「やや、Paul Cookだなぁ?」
 覗き込んだAlessandro。それまで硬かったのが嬉しそうな表情に。
 「俺、Punk Bandやってて、CJ Ramoneの前座やったばっかりだよ」
 今度は俺にヤツがCJと肩組んでる楽屋で撮った写真を見せた。
 「なーんだ、お前、Punkかよ」
 「あんたもPunkかよ」
 「Punkもシノギはキツイよな」
 「大変だよ」
 その時、俺たちの間には、建設業のオヤジとのトラブルが横たわっていたわけだ。

The Colvins.jpg

 Sardiniaの話はそれで終わり。
 あれから半年の年月が飛ぶように過ぎて、俺は遠く遠くアジアの果てのニッポンに帰国してしまったわけだな。この間、Millan支局が粉骨砕身してくれて、とうとう約款通りにトラブルでかかった経費の全額を取り返した。
 「え?、マジかよ!」
 忘れていた。
 CagliariはMarioたちとまた違う勢力が仕切っているらしい。これ、掛け値なしの実話。
 いやぁ、Mario、テメエでは一銭もかかってねえから屁のカッパだろうけれど、負担した金を俺たちが全額取り返したと知ったらどんな顔するかなぁ。昔の人は言ったね、待てば海路の日和ありって。ありゃ、ホントだ。
 しかし、SardiniaでMafiaとトラブって支払った費用を全額取り戻した日本人は俺たちくらいのもんだろう。Millan支局の実力に脱帽。さすが日本の大企業の社長・会長の日伊通訳を務めるだけあるわい。以後、Millan支局はシモネッタ女史と名付けよう。
 しかし詳しく裏の話を聞くとまたまた仰天。
 「Alessanndroんところで書類が止まってたらしいよ」
 SardiniaにPunk魂はありや?


追記
っちうわけで本日もクソ忙しい。何で?
| 8音楽 | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0)
鮎川誠ちゃん。
4月18日
鮎川誠ちゃん。
なにもつけくわえることはnasigoreng。そんな夜もアリューシャン列島。

20180415 トラメ35周年 (鮎川誠).jpg

追記
今週もサンハウス40周年の2枚組みのスタジオ・ライブ録音とシナロケと山口冨士夫を聴いている。合間にJohnny ThundersとChuck BerryとLittle WalterとHigh Numbers。暫くEtta James系を聴いていない。どうせ、また近い内にそっち系のブームが俺に降りて来る。
まあ、いい。鮎川さんのギブソンがまだピカピカ光っている頃から観ているんだから、こちらも歳を取ったわけだ。
| 8音楽 | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0)
久々に観た、大森隆志。
4月17日
久々に観た、大森隆志。
 トラメのゲスト、元サザンの大森隆志。すごい12弦ギターを弾いたんだそうだ。大森さん、いいギターを弾いて、嬉しそうだったぜ。俺もちょっと嬉しかったね。
 
20180415 トラメ35周年 (大森隆志).jpg
| 8音楽 | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0)
Yokohama's Burning?
4月2日
Yokohama's Burning?
 先日、野暮用でヨコハマまで行き、帰りにdiskunionに立ち寄ると、客層はもう、グッと高いわけですわ。イギリスをはじめとしたヨーロッパとは違った傾向で、ヨーロッパはアナログの板に若い世代が飛び付いている。
 日本は彼らと比較すると、もう、高い年齢層の人たちが残ったアナログ盤に群れている。俺はどちらでもなくて、CDを仕方なく買い集めてきたわけだ。
 ところが、6月初旬までに家のゴタゴタが終わるので、そうすると、アナログのプレイヤーも物色することになる。アナログ・プレイヤーが復活するとなると、30年ぶりに聴く音源なんかもどこからか引っ張り出すことになるわけ。

diskunion@横浜.jpg
| 8音楽 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0)
遠くなる昭和末――山口冨士夫と鮎川誠(下)。
3月26日
遠くなる昭和末――山口冨士夫と鮎川誠(下)。
 昨日の続きになる。
 あの時代、クサをやっているのは決まってミュージシャンばっかりで、一人がパクられ、ゲロして芋蔓式にパクられるのが相場だった。ジョー山中は口を割らずに立派だったとか、そういうどうでもいい話が訳知り顔な街場のフリョーの話題だった。
 法政大学学館でパクられる前、84年秋には鮎川誠さんと山口冨士夫との間にはある種のケミストリーが生まれていた。
 「“ザワザワした気持ちを抑えながら、『一緒に…』と言いかけたときである」

「渋谷ライブイン」(1986.5.6)フライヤー(掲載).jpg

 「それが、1984年の秋。翌85年は修行空間で時間を無下に過ごし、その年の終わり、12月17日に約1年振りにシャバダバっと世間に戻って来るのだった」
 そう、その冨士夫がシャバダバっと娑婆に出て来たのが1年後の85年の暮だったことだ。
 84年の法政学館は悪い仲間の拡大版で、この日は北関東某所や南関東各地からも仲間が集まってきていた。しかし、俺は徐々に彼らとは縁遠くなっていったのだから、84年ならまだ関東広域で盛んに群れていた時期だから話は合う。
 整理して身の回りに起きたことを考えてようやく平仄が合った。学館の84年の11月は“偉大なるわが女房”も見に来ていた。彼女はまだ日本にいてヨーロッパに飛ぶ前だった。1年間収監されて出て来た山口冨士夫と鮎川さんが一緒に始めたのが翌々年の86年。86年前半なら彼女はまだ帰国していなかったから「渋谷Live Inn」に来られるはずもない。
 「1月30日〜2月1日の3日間の渋谷ライブインでのライブの後の3月、間髪入れずにレコーディングへの参加の依頼がロケッツ側からはいる」
 「それらが終了した、3月29日『タンブリングス』び単独ライブをクロコダイルでおこなう。ある程度は予想していたのだが、押し寄せた客はそれ以上で、前売りのない店には入り切れない客が出るほどの事態になる。久し振りの『タンブリングス』だったこともあるが、イカれた与太公とはかけ離れた少女や少年たちも観に来たのであった」
 そうだった、俺が追いかけていたのは1984年の晩秋までだったのだ。

Fujio & Makoto 1986 Session.JPG

 ライナー・ノートでは冨士夫が鮎川さんとバンドを組もうとする時の逸話が披露される。爆笑した後、やがて寂しくなる話だが、ここでは引くのは止めておく。粕谷さんはまた、中嶋(カズ)一徳のことを紹介していて、母親がダンサーで父親がドラマーだと書いている。これも気になる話。オヤジはジャズ・ドラマーだったのかな。
 佐瀬浩平を冨士夫に紹介したのはカズだったとある。しかし、そもそも、Foolsがまるでバンドマンのインキュベーターみたいだった。ワラワラとバンドマンが入れ代わり立ち代わり出入りした印象が強い。佐瀬浩平を観たのは何時が最初だか俺はもう忘れている。
 1986年は昭和61年。もう昭和時代には3年しか残された時間は無かった。いよいよ、我が方の記憶も薄らいできた。山口冨士夫と鮎川誠の組んだあの瞬間さえも。


追記
柴山俊之さんはお元気そうな様子でひと安心。6月9日にお目にかかりたい。
| 8音楽 | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0)
遠くなる昭和末――山口冨士夫と鮎川誠(上)。
3月25日
遠くなる昭和末――山口冨士夫と鮎川誠(上)。
 1月22日は大雪で首都圏の帰りの足は大混乱に陥った。翌、1月23日は11℃まで上昇、一気に雪は減ったが、夜になると冷え込んだ。
 某所では、寿司をつまみつつ、冒頭こそは悲憤慷慨したが、その後、種々名古屋方面のフィリピンの実態について体験談を拝聴。中年男の話は下るものと決まっている。夜半、足元の雪にびくびくしながら帰宅するとテーブルに封書。
 CDが封入されていると一目でわかった。前日に版元の「good lovin」(レコード会社)から発送したとメールで連絡があったからだ。開けてみると、例の「悪い仲間」が写り込んだLive写真をジャケットに使った「Fujio & Makoto 1986 Session」。まさか自分のツラまで写ったシャシンがCDのジャケ写に使われるとは。

Fujio & Makoto 1986 Session.JPG

 1986年5月6日の「渋谷Live Inn」の音源がメインの2枚組セット。もう1枚はメインの5月6日に向けたゲネプロ(Generalprobe)の音源も。
 さらにここに本番当日のリハーサル風景を撮影した未公開映像を収録した特典DVDRというものまで挟み込まれている。DVDRは12月8日に下北沢の「Garden」で流していた映像と同じもののように想える。ちなみに収録曲は4曲( 1.Lazy Crazy Blues 2.ブンブン 3.Rock Me 4.My Girl)。
 ざっと聴き流してみると、リズムが普段よりも遅い。多分、チコヒゲのリズムだからか。12月8日のチコヒゲのナマ音も、とても重かった。Rock and Roll上がりのドラマーとはスネアの扱い方が違うようだ。
 当時、冨士夫のマネージャーだった粕谷利昭(1955年-)さんが、ブログ「山口冨士夫とよもヤバ話」( http://toshiakikasuya.tumblr.com/)で綴られている内容だけでは、前後の関係が俺にはハッキリしなかった。だが、粕谷さんの本CDのライナー・ノートで、長年の謎が氷解した。俺が冨士夫の収監の期間を勘違いしていたのだ。
 「1986年は冨士夫にとって、人生の分岐点だったように思う」

        山口冨士夫。.jpg

 「誰しもが『頑張ってください』と遠巻きに声をかけてくれるのだが、決してそれ以上近づいてこようとはしないのだ。冨士夫が歌う『ピッカピカ・ダイヤモンド』ではないが、ライブに来るのは一発狙いのカメラマンや、イカれた与太公ばかりだったのである」
 「悪い仲間」とは、冨士夫や粕谷さんに言わせるとイカれた与太公だったのか。まぁいい。それまでは、与太公ばかりしか来ていなかったのは事実だと想う。
 冨士夫がパクられたのは法政大学学館の11月の学祭当日。これが1984年だったこと。前座がTumblingsでトリはシーナ&ロケッツだったこと。そうだったのだ。
 「“こりゃぁ何かが起こるかも知れないぞ”ザワザワした気持ちを抑えながら、『一緒に…』と言いかけたときである。冨士夫は夏の終わりの蛍のように、また姿を消して」
 パクられた時、ガックリしたんだったっけ。
 その頃、俺は西池袋の立教裏にあった印刷会社で配送のバイトをしていた。朝日新聞の社会面に山口冨士夫の写真が出ていた。
 (終わったな)
 冨士夫は娑婆から消えてしまった。

追記
これを書いている頃から悪い仲間との連絡が再開。今では途切れなく何人かとしょっちゅう連絡を取っている。1人は安全指導、1人は人生指導の専門家。ジンガイとかシャバダバを相手に仕掛け作りをする選挙事務所のパシリみたいないい加減なのはいないのだった。ローリングストーンズとストラングラースとドリフターズとフィリピンパブと教誨師と空手とアルゼンチンとパリとフットサルと◯◯者と現場。

追記の追記
俺の中で胚胎しつつある厄介なものがあるようだ。一体なんだろう。
夢日記→自宅で熟睡。昨夜は息子の友達の髪の色の相談を受けていて半透明の紅色がいいだとか笑いながら酒盛りしていたのだ。
| 8音楽 | 06:56 | comments(0) | trackbacks(0)
通い慣れた道沿いに昔あった店。
3月24日
通い慣れた道沿いに昔あった店。
 1977年11月、いよいよ「Never Mind The Bollocks」の売り出し直前のVirgn Records Shopの様子。有名な写真だが、この建物は店子は何代も代わって、今でもこのサイズのお店がある。

Virgin Records Shop (Headquarters)November, 1977.jpg

 お隣はビブグルマンに選ばれて有名になった「POLPO」のNotting Hill Gate店。俺が昼間フラフラ歩いていたら、「POLPO」のどまん前でGlen Matlockにバッタリ会って、
 「どこに行くの?」
 と聞くと、
 「電球が切れちゃってさ」
 俺に切れた電球の玉をポケットから引っ張り出して見せて呉れた。
 通い慣れた歩き慣れた通りは、1977年の年末は、襲撃されてもおかしくないような緊張感も漲っていたんだろう。40年以上の年月が過ぎると、全ては歴史になった。

追記
成田到着。眠い。羊の木、再度、見直しました。不合格でした。田中眠が勿体ない。これから帰宅。
| 8音楽 | 13:02 | comments(0) | trackbacks(0)
映像から見えるもう一つの1983年――「Tumblings Live」。
3月9日
映像から見えるもう一つの1983年――「Tumblings Live」。
 某所で身内から受け取ってまだ我が家にあるDVD(CD)がこちらの「Tumblings Live」。2008年に発売されていたもので、かなり前から出回っていたわけだ。
 2008年は獄中から帰着してアメリカとの往来が激しい時期が続いた。海外に行く場合も仕事ではなく休みを取ってヴェトナムに通っていた頃かも知れない。
国内のロック・シーンの動向は柴山俊之御大と鮎川誠周辺を中心にウォッチしてはいた。しかし自ら広く情報を追っていたわけではないから、冨士夫の周辺の古い音源が出回っていたことも知らなかった。
 このDVDは1983〜84年に「渋谷屋根裏」、「新宿LOFT」で行われた「Tumblings」のLive映像とあるが、映像と音源は必ずしも合っていない。1曲の中で複数の映像を組み合わせて編集している。
     1. ROCK ME、2. 汽笛が、3. ひとつ、4. んっ!、5. ブンブン、6. DRIVE、
     7. NO SONG、8. 酔いどれ天使、9. 水たまり、10. JUMP SO HIGH、ボーナス
     音源として 1.ROCK ME (Unreleased Early Version) 2.ブンブン (Unreleased
     Early Version)。
 3曲目の「ひとつ」では、最初のサビで、誰か冨士夫のマイク・スタンドの脇に飛び出して来たなと想ったら、ハモっているのは伊藤耕だった。
 他の映像でも、「DRIVE」等では伊藤耕らしいサングラスをかけた男が舞台の袖に立って、ステージに向かってハープを吹き鳴らしたりハモっていたりする。
 「ややや?」
 途中でセンター街の夜景が写り込んだ瞬間があり、大きなディスコだった「Big Apple」のネオン看板が見えた。
 「東京ガールズブラボー!」
 思わず浮かんだのが岡崎京子のマンガのタイトルだった。

「Tumblings Live」ジャケット。.jpg

 ステージの上も暗いが、客席側はもっと暗い。テクノカットの男の子たち。大きな縁の大きなメガネをかけた女の子。
 今は無い「Big Apple」のネオンを見た瞬間、時代相がリアルに重なってきて、それだけの時間が流れたことに気付かされる。使っているのはFenderのStratocasterだった。
 (うっ!)
 ステージの上の冨士夫はthe Stranglersの「Rattus Norvegicus」のT-Shirtsを着ている。襟ぐりはだらしなく伸び切っているが、間違いない。
 「冨士夫がStranglersとはねえ。考えられねえ」
 「Bowieも入ってるよ、この人は」
 「Jump So High」はDavid Bowieの「Stay」(Station to Station収録)のリフだと指摘するのは“我が偉大なる女房”。なるほど、「Stay」か。確かに結構が同じ。
 誰が撮ったものか知らない。まともに見ていると頭がクラクラしそうなほど画像は荒く、撮影も編集も酷い。それでも、昨年暮れに下北沢Gardenで流された映像よりはマシだったかも知れない。
 マネージャーの秘蔵映像という話も聞いたが、山口冨士夫という人物には四国に有名なコレクターがいるそうだから、もっと音源だけなら四国に眠っている可能性はある。
 昨年、伊藤耕も月形刑務所で死去した。葬儀は高円寺北の平安祭典で執り行われたが、ビデオが撮られた83年は、その直ぐ裏手にその頃付き合っていたオンナの家があったっけ。1983年の夏――俺には失恋の夏でもあったぜ。ありゃ、打ちのめされたねぇ。
 「東京ガールズブラボー!」
 大きな声じゃ言えないけど、ニッポンの女が元気で強くなり始めたのはあの頃からだ。小さな声でしか言えないけどよ。


追記
一先ず遠征は終了して、またまた旧市街のホテルに夕べ遅く戻ってきた。パテの店に行こうと話していたが、店は閉店寸前で諦め、そぞろ歩き。21時近くでも往年の博多天神辺りの賑わい。湧いてくるように善男善女の群れ。さんざめくあちこちから聞こえる嬌声。夕べは世界女性デーで、女たちだけのグループが取り分け気勢を上げる姿が目立った。
結局のところ某国の白人の所有する白人相手のジュークジョイントでビールを飲みながら地元ならではのサラダ類を。6年前も今ひとつだったが、今も今ひとつのサービスと、今もここにくるしかない、といった風情の今ひとつの白人。ビールは出てこないわ、注文してもオーダーをすぐ持って出てこないわ、こういう店でも6年も続けられるのが現在のこの街という訳なのだ。街の年齢、盛衰も、見えてしまうようになると、それはそれで良いのか、はたまた夢も希望も無くなったのか、よく分からんところがあるわい。
友達の行きつけのストリートの散髪屋で散髪の後、耳かき。 ベトナムでは十数年ぶりか。モロッコ以来の街場の床屋。結果は驚きだつた。本稿もまた別途、取り上げるかどうか。あんたの声がよく聞こえるとだけ、言っておくぜ。
| 8音楽 | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0)
トラメと俺。
3月1日
トラメと俺。
 この話もちゃんと書いておかなければならんですわね。トラメだけではなくって、バンドマン系の話をだわねえ。
 昔から、バンドマンよりもタチの悪いのは、有象無象の取り巻き連中で、如何に俺が誰に近かったとか、そういう自慢をするんだね。
 俺がガキの頃は、そういうファン系の、チャライ感じでバンドをやってる子がとにもかくにも嫌いだったわいね。そういう話は、俺達が思春期の17歳前後によくしたわねえ。これは、キツイかも知れないけど、俺は今も変わらないところがあるよ。
 だから、今でもお前のバンドも嫌いだし、お前の音楽なんて認めねえよ――
 よく言うわねえ、お仕着せの受け売りの癖に――心の底では思うわね。
 これ、どういうの――矜持ってのか、何んてのか、知らないけど、今でもありますわね。高校生位の頃からだね。
 能城さんやトラメ諸兄とも35年位のお付き合いになる。永い付き合いになりました。高校生であんなツッパリで、諸兄ともぶつかるところもあったわね、35年前は。

Johnny Rotten and TORAME
| 8音楽 | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0)
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