岡田純良帝國小倉日記

いよいよ展示へ大詰め。
2月19日
いよいよ展示へ大詰め。
 1978年に買ったSeditionariesの「DESTROYシャツ」。横尾忠則センセイのシルクスクリーンの一品、「ナイフの男」。とうとうこれらの作品は日の目を見ることになったわけだ。
 Seditionariesのシャツは、他に「Blind Queen」もあるのだけれど、暫く前にガラスが割れてしまい、もう一度あのシャツを引っ張り出して額装するかどうか迷うところ。
 「Cosh the Driver」さえ、V&Aに収蔵(http://collections.vam.ac.uk/item/O211650/jamie-reid-archive-t-shirt-reid-jamie/)されている。
 あと何年眺められるか知れないのだから、まぁ、愛でるに越したことはないわけだわい。

    20180217 いよいよ展示へ。.jpg


追記
能城さんから。とうとう35周年。

トラメの最新作「まがいもの」が、エレックレコードより、2018年4月12日に発売されます。最新作発売とトラメの結成35周年を記念したライブのお知らせをさせてください。
《トラメ結成35周年&最新作
『まがいもの』発売記念ライブ!! 》
・日時 2018年4月15日(日)
    開場/開演 17:00/18:00
・場所 横浜セブンスアベニュー
 http://www2.big.or.jp/~7th/
・料金
 前売/当日¥3000/¥3500
(出演)
 トラメ
(SPECIAL GUEST)
 鮎川誠(シーナ&ザロケッツ)
 大森隆志(ex.サザンオールスターズ)
 吉野大作
『まがいもの』プロデューサー
 六川正彦
★最新作にゲストで参加いただいた鮎川さん、大森さん、そして大作さんが駆けつけてくれるスペシャルなライブです。
★メールにてご連絡いただけますと、前売券を受付にて取り置きます。是非とも、遊びにお越しください。お待ちしております。
トラメ一同
| 8音楽 | 16:49 | comments(0) | trackbacks(0)
「Fujio & Makoto 1986 Session」
2月6日
「Fujio & Makoto 1986 Session」
 新橋でスカ線を待ってるところだ。随分聞き込んだけど、リズムが重くてねえ。とっても残念でした。ダメなのは、やっぱり、ダメだ。

Fujio & Makoto 1986 Session
| 8音楽 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0)
今年のバースデーケーキ。
2月3日
今年のバースデーケーキ。
 クレイジーじよん子様のジョン・ライドン様へ贈るバースデーケーキ。毎年おすそ分けを頂いております。

            クレイジーじょん子のバースデーケーキ for John Lydon 2018.jpg

 昨夜は、人呼んで、おかっち鴨スキーな俺なので、鴨でお祝いして頂きました。浜松の花の舞19度まで合わせて貰って感激。

鴨と花の舞.JPG

 これから品川、五反田、新宿。ケッコー、忙しいっす。
| 8音楽 | 12:08 | comments(0) | trackbacks(0)
The Dynamaites! Live at the "Go Go ACB"1969
1月25日
The Dynamaites! Live at the "Go Go ACB"1969
 音が悪くてなぁ。ここまで音質の悪い音源だと、さすがにちょっとライツだ。だけど、Van Morrisonの歌も大好きだったってことは伝わってくるわねぇ。

The Dynamaites.JPG


追記
昨夜は眠れなかった。起きたけど、眠りから覚めずにそのまま起き出した感じ。むむむむ。
| 8音楽 | 06:48 | comments(0) | trackbacks(0)
届いた1枚――1986年5月6日、渋谷「Live Inn」。
1月24日
届いた1枚――1986年5月6日、渋谷「Live Inn」。
 昨晩、山口冨士夫が鮎川誠を招いて青木眞一、中嶋カズ、チコヒゲと渋谷「Live Inn」で演った音源が届いた。表のジャケットにはフライヤー通りにあの写真が使われている。俺も写ってら。
 32年も経って、あの夜の音が今頃になってこうして出てくるなんて、言葉が出ない。ムリにひねり出そうと想えば時代は回るということか。あっという間に終わったけれど、この頃がニッポンのRock 'n' Rollの一つの到達点でもあったんだろう。
 だけど、「風街ろまん」だとか「タイムマシンにお願い」とか、50年近く前の楽曲が昨今もテレビで使われるけれど、こちらの山口冨士夫と鮎川誠のカップリングはLiveにしか残っていないと俺は感じる。
 これからじっくりと聴き込む予定。

「渋谷ライブイン」(1986.5.6)(掲載).jpg


| 8音楽 | 06:22 | comments(0) | trackbacks(0)
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・下)。
1月20日
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・下)。
 冨士夫はシーナ&ロケッツを通じて世間に広まっていったところがあったかも知れない。
 「あくびしている神に祈るよりも何も知らない俺でいたい」
 そう歌った冨士夫も、少しずつ変わっていった。時は80年代真ん中辺り。
 この晩は、上映されるビデオの画面の隅の方に自分らしい男の背中が写っていたりして、上映中ずっと落ち着かなかった。だが、あの場に立ち会った興奮が蘇って、あの瞬間には何かが始まるような予感さえあったことを想い出した。しかし何かが起きたわけではない。
 この頃起きたことで覚えているのは、高崎の「暴威」が「BOØWY」となって売れ続けていたことだった。それでも、解散する1987年には、渋谷や新宿駅のチケット発券機に「BOØWY 1987XXXX #BOOWYXXXX」と刷られた小さなステッカーが貼り付けられた時期がある。前衛美術家のハプニングでもなく、ゲリラっぽい告知をよくやったものだ。それでもああいうことを公然とやっても、摘発されたと聞かなかったから、まだまだ「BOØWY」さえ一般には知られた存在ではなかったのだろう。

山口冨士夫&鮎川誠1986 Session (掲載).jpg

 そういう時期の山口冨士夫である。俺は悪い仲間と肩を組んでしょっちゅう観に行ったわけだが、我が家でも、“我が偉大なる女房”は一度も観ていない。法政大学学館でスカされたのが最後だった。
 「観てみたい」
 それで“我が偉大なる女房”もこの日ははるばる下北沢にやって来た。
 その後、この夜は様々な時代の映像が流された。80年代半ばの映像だけではなかった。シーナ&ロケッツにも有為転変があった。昔ローディーだった渡邊信之がサイド・ギターで参加していたステージでも冨士夫が絡んだ。ギブソンのレス・ポール2本。バンドの音はすっかり重戦車のように変わっていた。
 ジョニー吉長と穴井二吉がリズム隊を担当した90年頃のビデオでは、鮎川誠が大きく「@」と胸に描かれたTシャツを着ていた。冨士夫は、80年代半ば頃とは違っているように見えた。何かが違っていたが、それが何か、俺にはよく分からない。
 「画像が粗くて、分からなかったよ」
 この日の客は誰もがそう感じただろう。

「渋谷ライブイン」(1986.5.6)(掲載).jpg

 80年代半ば頃、俺達は冨士夫のマイクを奪った晩がある。信じられないかも知れないが、「Route66」のようなクラシックなナンバーだった。荒っぽい反応には、冨士夫は嬉しそうにニヤリとした。無精髯を生やしていて、やさぐれたドカチンみたいに見えた。
   「ヘイ、ハニー ほんとはちっともわかってなんかいないんだろう だからどんな顔して
   いいのかさえ解らないんだろう 見せかけだけの愛なんてもう要らないぜ」
 90年代は、冨士夫は薄化粧をしてステージに立った。俺達から離れて、マイナーを卒業してメジャーに去った。俺達もとうに学校を卒業して、散り散りになっていた。冨士夫の歌い方は変わってしまっていた。「宝島」に連載したエッセイで、伝説に尾ひれがついた。
 晩年、ゲンパツ反対運動に加担するように再び現われた冨士夫を俺は一度も観ていない。観たくなかったわけではないが、変わり果てた姿は見たくないという恐れが先に立った。死後、映画で最晩年の姿を観たが、後悔はしていない。
 メジャーと契約した後の活動はSex Pistolsの第1期と第2期のように違っていた。Bromley Contingentが追いかけたのは凡そ第1期に相当する1976年。80年代の半ば頃、第1期の冨士夫を観ておいて、つくづく良かった。「悪い仲間」にはそう報告するつもりだ。


追記
昨夜は夢を見ていて、「チキチキマシン大レース」に参加しようとして、ベルリンかウィーンのスタート地点に急いでいるのよ。向こうからカッコイイクルマが沢山走ってくる。俺だけスタートできてない。
「ナンバー105、あの懐かしいクルマは」
そこで男女のアナウンサーが声をそろえて、
「ゲンちゃ〜ん!」
「だけどスタートしてからそろそろ」
「5ふ〜ん」
(やばいぜ)
必死に急ぐのに、まだスタート地点が見えない。
「おお、残念ながら、あのゲンちゃ〜ん、タイム・ア〜ウト〜!」
トホホホホホ。参戦前に脱落。
| 8音楽 | 08:09 | comments(0) | trackbacks(0)
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・中)。
1月19日
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・中)。
 客電が落ちた。
 スクリーンに現われたのは1986年5月6日、「Live Inn」のギグの当日リハの風景だ。
 「レイジー・クレイジー・ブルース」。鮎川誠は長髪で髪の毛にボリュームがついていて頭が大きく見える。Gretschのような箱型のギターを抱えている。
 左手にフテ腐れたように立っている青木眞一の姿。黒いスニーカーにジーンズだ。白いストラトでローズネック。ストラトは珍しい。青木眞一のファイヤーバードは70年代後半、SPEEDを始めるに当たって、どうにかこうにか費用を工面して買ったものだそうだ。
 だが、この日は山口冨士夫がファイヤーバードを抱えている。SPEED時代の青ちゃんのギターはチューニングが直ぐ狂うので青ちゃんは敬遠するようになり、代わりに冨士夫が弾くようになったという話も聞いた。だが、冨士夫のファイヤーバードはテールエンドが違っている。別のギターだろう。メジャーと契約後、2人はレモン・イエローのレスポール・ジュニアと黒いストラトキャスターをとっかえひっかえして使い回していたこともある。

山口冨士夫&鮎川誠1986 Session (掲載).jpg

 この日の冨士夫は、出所し立てだからか坊主が少し伸びて螺髪のようにも見える。黒いジーンズに黒い先の尖った短靴。新宿のワシントンで買ったか、丸井で買ったか。
 青木正行が客席側に降りてGerry and the PacemakersのGerry Marsdenみたいにしてプレシジョンのボディーを水平に構えて弾いていた。
 冨士夫は腰骨にファイヤーバードのボディーをガッチリ抱え込み、腰を軸にして弾く。背筋を伸ばし、マイクに伸び上がるように歌う独特のシルエット。これが冨士夫の基本形。メジャーで変になる前の基本的なスタンスを久しぶりに観た。
 左のネックを一瞥もせずに伸び上がる。ステップは前に前に。膝から下の足先は、自然後ろ足で蹴るように動く。日本のギタリストでこんな動きをする人はまず観たことが無い。 左の指先は大きく開き、右のカッティングで、弦がブンブン揺らいでリズムを刻んでいる音がアンプからハッキリ聞こえる。
 「赤い雲」は、ジャズ・ギターみたいな繊細な緊張感が漲っている。だが、そもそも残すための記録ではないから、画面も音もお世辞にもいいとは言えない。そして、ホンバンはバンド全体の音が潰れてしまう。レス・ポールの音が大き過ぎ、冨士夫の音が聞こえない。
 しかも「Live Inn」にはモニターが無かったようだ。もし、彼らは自分の音を聴けずにあの演奏をしていたとしたら、お気の毒だったが、今日でもこちらの記憶に深く残るステージだったということは見事な腕だったとも言えるだろう。
   「またこれから新しいレコードも出るけん」
 ビデオの中で鮎川誠が冨士夫のことをそう紹介したら、ビデオを観ていた「ガーデン」の客席から笑いが漏れた。
 そうじゃない。あの頃、山口冨士夫は世間一般にとって行方知れずの伝説の彼方にいた。トラブルを起こし、とてもレコード会社が相手に出来る手合いではなかった。レコードが出るかどうか以前に、“動いている姿を観ること”が珍しかったのだ。

山口冨士夫@赤提灯 (掲載).jpg

 冨士夫は「リゾート」や「タンブリングス」では、Van Morrisonの曲をカヴァーしたのだが、この日の晩、客席にThemやVan Morrisonを聴く人は、例えばどれほどいたろうか。
 (ちぇっ、チャライぜ)
 おっといけねえ、また僻目の虫が出た。あれから31年も経っているのだから、当時さえ知らない人が客席には随分いるはずだ。


追記
体調リョーフ。うーん、如何せん。
| 8音楽 | 06:38 | comments(0) | trackbacks(0)
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・上)。
1月18日
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(番外・上)。
 12月8日、雨の下北沢の「ガーデン」に。
 開戦記念日の夕方には雨が必ず振ると天気予報で脅されていたので、出掛けにMilanで買ったお気に入りの折り畳み傘を珍しくカバンに忍ばせていた。
 小田急小田原線を下北沢駅で下りると南口改札前は雨滴の今にも落ちてきそうな空気だ。「下北沢ガーデン」に行くまでに雨になるだろう。まずは腹ごしらえ。
 近所の広島風お好み焼き屋で、なぜか左右にハングル語に囲まれながら「イカ天そば」を喰った。この店、ソウルでは有名な店だそうだ。彼女たちはものすごい化粧が濃いのと、ものすごく白いので、日本人ではないことは一目で分かる。
 女たちは低い小声で話していたが、時折、男の客に目をくれるのだが、そこには強烈な目力があって、昔の70年代の銀座の女みたいでちょいとタジタジとなった。そういう女の感覚も嫌いではないけれど、俺には無縁の人たちだ。
 下北沢はごちゃごちゃして歩き難い。どうしてこんなに小さな店まで途切れることなく韓国人の若い女性観光客が来るのか俺には分からなかった。

山口冨士夫&鮎川誠1986 Session (掲載).jpg

 だが、考えてみると、こういう言い回しは誤解を受け易い時代になった。しかし、俺は国粋主義でもなければ、人種で人を差別するタイプでもない。しかし色々経験してみると、もう、50歳から先は、日本人の友達と付き合うくらいで十分にも想っている。
 同国籍でも難しいのだから、国籍が違う人との付き合いは難しい。歴史と文化の背景が違うけれど、皮膚の色や骨格が似通っている者同士はなおさら難しい。近親憎悪の感覚が自然に湧いて来るから恐ろしい。
 同じ肌の色をしているのに分からんか、と、互いに想い込んで違いがあっても譲らない。立て膝をすると半島人だと分かる。顔を洗う時には、水を受けた手の平は動かさず、顔を動かしたら中国の人だと分かる。料理を持ってくる時に片手を後ろに組むようにするのも同じ伝。
 それだけでも難しいのに、同じ国籍で肌の色が違っていたらどうなんだろう。冨士夫は、目の開いたメクラとか、合いの子とか歌い、自分で自分の黒い肌の傷をナイフで切開して、赤い粘膜をむき出しにする。俺はその自傷行為のような詞と曲が好きだった。
   「べつに遠慮なんかいらない どんなに生意気でも本当のことをいつもいつも
   言っていればそれでいいじゃないか たとえそれでお前の恋が終わったとしても
   いいじゃないか
   何を考えてるんだい いまさら昔に戻れない もうすぐさ 終わりがくるのも
   みんなに必ずその日はやってくるのさ それだけ それだけ それだけ」

山口冨士夫@福生ハウス(掲載).jpg

   「どこへ行っても同じことさ 見抜けた世界で道化しても
   嘘の言葉模様がうつるだけ 言葉で全てをわかろうとは 言葉で全てをわかろうとは
   いくらけだるさ感じていても そこまで言葉なんかにゃ 惚れていない
   たとえお前が正しくても 俺の命は俺のものさ
   たとえお前が正しくても 俺の命は俺のものさ
   濡れた頬であの日の事を 濡れた頬であの日の事を 思い出すのは悲しいから 
   涙を隠して笑うのさ」
 地下の会場は身内もいるし、他には知った顔もちらちらと見えたが、目立たない場所に陣取って、場内にかかる曲を聴いてみた。
 建物入り口で「Live Inn」の時の「赤い雲」の音源が流れているのが聞こえたからだ。だが、次は先祖返りして、村八分のこれまたライブを2曲ほど――その後、さらにGS時代にまでワープ。そしてダイナマイツのオンパレードだ。「マイ・ガール」、「ジュディのごまかし」、そして「トンネル天国」。
 流す曲が無いのだろうかと思いきや、ダイナマイツは瀬川洋さんの活動に刺激されて、オリジナル・メンバーが再び杉並周辺で蠢いているのだそうだ。だが、ダイナマイツにも、村八分にも、冨士夫の心の底に移った姿を映す曲は無かったように想う――こちら側も、何か、きっかけをつかみたいと想って悪天候にも関わらず下北沢にやって来た。


追記
最近、一気にお蔵入りさせていた靴を出して履いているのだ。15年程前に今のような体制にしたのは、世界的に靴が尖ってしまい、暫く様子を見ようかと想ったからだ。今、再び、20世紀の伝統的な靴のデザインが復刻され始めて、ようやく安心して引っ張り出したもの。流行ってなんだろうと想うわね。もう、色々な流行が繰り返して回ることを見ているから、そう想うんだろうなぁ。
| 8音楽 | 06:24 | comments(0) | trackbacks(0)
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(吾)。
1月7日
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(吾)。
 俺の「悪い仲間」の風貌を言えば、例えばBo Gumbosのどんとみたいなタイプが多かったかも知れない。どんとは62年生まれで、大垣東高校のクラスメートが俺の大学の同級生にいた。ブルーハーツ辺りになると、「屋根裏」で幼馴染がタイバンでつるんでいた。
 例えば、Bo Gumbosの「トンネル抜けて」。冨士夫が初めてプロ・デビューしたグループ・サウンズのザ・ダイナマイツの「トンネル天国」からタイトルをインスパイアされている。そういうことは、特別話をしたことはないが、「悪い仲間」内では暗黙知として知っていた。
 どんどのローザ・ルクセンブルクとタイバンを張っていたヤツもいた。だから、後年、Bo Gumbosが冨士夫と演った時にも、違和感は無かった。どんとは若くして亡くなったが、京大に進んだ辺りが同世代のひねくれ者という感じもある。ゼルダのメンバーと結婚したのには驚かされたが、世代の感覚としては観ていたものが少し上だったかも知れない。

Gibson ES-335(1963).jpg

 Bo Gumbosのドラムの岡地曙裕さんは57年の生まれで、俺には少し世代が上だ。後にブギ・ボーイ・イクトと一緒に演っていた頃に話し込んだことがあった。ブルース系の人で、北から南まで、ミシシッピー河沿いの音楽なら何でもござれのドラマー。その岡地さんは、冨士夫はギター侍のようなギタリストだったということを言っていた。
 確かに、ギタリストのあり方として、行く先々でバンドマンを調達したChuck Berryに似ていただろう。固定したメンバーなどいなくとも一向に平気だった。
 ギター1本さえあれば、そのギターがアコギでもエレキでも、何でもできると思っていた節がある。タンブリングスは曲順も曲の構成も曖昧模糊としていて、その日その場で顔を見合わせて決めていたし、間違うこともしょっちゅうあった。
 強引にギターをかき鳴らしながらバンドを転調させたりして、例えばブギを弾きつつリフが何時の間にか変わって別の曲に転じるのはよくあるが、冨士夫の場合、ブレーク後、バンドがそのまま再びビートを刻みそうになるところを、ガシャガシャっとギターをかき鳴らし、突如、ゆったりしたバラードに転じたりした。当たりの日と外れの日があった。
 だが、それは、山口冨士夫グループのステージであって、客演する時には違っていた。一つ付け加えておきたいのは、渋谷ライブインで鮎川誠のロケッツに客演した時、冒頭、紹介されて出てきた山口冨士夫は、ちょっと恥ずかしそうに恐縮しながら出てきたことだ。借りてきた猫のように見えないこともなかった。
 (何も遠慮することなんかないのに!)
 大学のオール・ナイトではあれほど自信満々でギターを弾いていたのに、ライブインで小さくなって出てきたのは少し悲しかった。忌野清志郎のラジオ番組の出演でも大人しく静かにしていた。
 今になると、何となく分かる。

Gibson Firebird(1965).jpg

 鮎川誠にはシーナがいたが、山口冨士夫は孤独に見えた。その肌の色と生い立ちからか、冨士夫は、ブルースのドロドロの桶に全身を浸かって生きてきたところもあっただろう。彼の楽曲には公安系を嗤った精一杯強がった詞もあるが、ぞっとするような内面を歌った詞もある。
 一昨年の暮れに出たタンブリングス時代のライブ「Jump So High」には、「愛の子」というタイトルを付けられた6分近い曲が収められている。
   「真っ暗闇のくらくら闇に 真っ暗闇のくらくら闇に 生れ落ちた
   どんな女神が 俺を産み落としたのか
   辱められた乙女から 暗闇からのメッセージ 覚えてるかよ
   俺の名前は 性器の合いの子」
 耳に手を当てたくなるような詞だ。
 同世代の鮎川誠も柴山俊之も、家があった。同じようなブルースを、同じように聴いて育ってきたはずだが、冨士夫は全身ブルースという感じだった。青木眞一や伊藤耕などと一緒にいても、内面に孤独を囲い込んでいる人だった。ブルースを聴いて育ったと言うと言葉の遊びで、冨士夫自身がブルースだった。存在の本質がブルースだった。


追記
放出品のドタ靴買ってしまった。我が家では娘がドクターマーチンを、“我が偉大なる女房”がトリッカーズを、ずっとドタドタと履いていて、元々、アメリカのハードボイルドが好きで、超厚底のフローシヤイムを何足も履いていた俺が「元祖」なのに煽られてムラムラしていたところだった。
乙仲の皆さんとは今回は方々でよもやま話し込んだ。来年に予定されているラグビーのワールドカップを当て込んだマンション、ホテルの建設という側面もあることも理解した。

追記の追記
横尾忠則の自伝を神戸で読んでもあんまりピンと来ない。横尾さんが神戸に長い間はいなかったからなのだが、あの立派な美術館まであるのに、何となく違和感が。しかし日本人の自伝としては無類に面白い。70年代前半くらいまで横尾さんのエージェントをしてたら最高だったろうなあ。
| 8音楽 | 08:50 | comments(0) | trackbacks(0)
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(肆)。
1月6日
80年代真ん中辺り――山口冨士夫素描(肆)。
 俺が冨士夫を観たのは、83年から87年の春先までだったろう。大学時代に当る期間だ。当時はまだまだディスコ・ブームが席巻していたし、MTVの影響は大きかった。
 PVなるものが大流行で、メジャーのレコード会社はこぞってPVに力を入れた時代だ。あのRamonesさえ89年にPet SemataryでPVを撮っているほどだ。そういうチャラい時代である。
 山口冨士夫はそういう時代にあって、すでに過去の人だった。83年に20cm EPの「Ride On!」が出た時にも、報道したメディアは殆ど無かった。今日ではSNSがあるけれども、当時は、雑誌メディアが報道しなければ「存在しない」ようなものだった。
 冨士夫のギターを聞いてみると、「誰かおいらに」や「水たまり」では、アメリカの南部で歌われたカントリー・ブルースと遠く離れて、シカゴの電気増幅された黒人のブルースが感じられた。Rolling Stonesを通過してきたブルースだったかも知れない。

Gibson Firebird(1965).jpg

 その一方「捨てきれっこないさ」や「さびた扉の向こうから」のようなパーカッションとのアコースティック1本の曲もある。パーカッションと言っても、まるでCubaのCajonのような牧歌的なリズムと合う曲も書いた。スローなバラードも持ち味だった。
 これが、ティアドロップス時代の「瞬間移動できたら」のようや派手目の曲では、シーナ&ロケッツとのコラボレーションから刺激を受けた部分があるだろう。チョーキングなら、この頃の「うまくだましたつもりかい?」で日本人離れした凄いチョーキングが聴ける。
 Syl SylvainがMark Bolanよろしくステップを振りながらかき鳴らしそうなブギで、だが、増幅されてくるリズムはカッティング鋭く揺らぐ。ステージから放射されて、鉈のように音圧がこちらの體にガツンと来た。
 シーナ&ロケッツのライブに参加した冨士夫の様子は「キャプテン・ギター&ベイビー・ロック」で聴ける。残念ながらその重たい音の感じが再現されていない。むしろYoutubeに上がっている録音状態の悪い音の方が、冨士夫のブギのリズムが分かるだろう。

Gibson ES-335(1963).jpg

 「スィート・インスピレーション」でも、「プリティー・リトル・ボーイ」でも、冨士夫のカットするリズムが太く、怒ったサイが突進して来るような激しく重い音場になっている。鮎川のGibsonに対抗するため、Gibsonのピックアップをフル・オープンにしていたのか。
 Etta Jamesの人指し指光線のように、冨士夫はギター1本で曲を転調させた。力技だが、冨士夫のサウンドは主張があった。数年前のフールズ系のファンク色は一掃され、シーナ&ロケッツと絡み始めた頃は8ビートでゴリゴリ押していた。俺たちは熱狂した。
 80年前後のめんたいロックとは違う。同じゴリゴリの8ビートでも冨士夫の8ビートは揺らぎとタメがあった。同じRolling Stonesのカバーでも、タイトで軽いルースターズと違っていた。
 数年前には関東でも周縁部のキャンパスで、オール・ナイトの学園祭のようなイベントにしか声が掛からなかったマイノリティーが今やライブインで1枚看板。誇らいような気持ちだったが、ハコが大きくなるにつれて、冨士夫が遠くなっていったことも事実だった。
 昨年の暮れに、丸ノ内線の古い車両がアルゼンチンのブエノスアイレスから戻ってきたという話があった。あの車体を観た時に、80年代半ばの東京は、丸ノ内線、銀座線では、敗戦期を思わせる古い車両が走っていたことを想い出した。駅に入る前に、車両は火花を散らしてギリギリと軋み、交直の切り替えで室内灯が灯った。
 先日、古いファイル箱を整理していたら、2冊の大学ノートが出てきた。83年と84年に鮎川誠とロケッツのメンバーが表紙にサインをしてくれた日記だった。
 80年代には、彼らの宗家のようなものだったKeith Richardsは、クネクネとした無駄な動きをステージの上でやるようになって、ハッキリ書けば、金満家のバカおやじに見えた。ステージの冨士夫の姿は俺には救いだった。マスメディアで売れるものだけが正義だった時代に、冨士夫も鮎川誠も、カタギではない異形で、俺達には魂の救いだった。

追記
昨日は氷雨の中を帝塚山から阿倍野近辺に。
アマから阪神なんば線で近鉄奈良線方面に乗り換えて難波から南海高野線の各駅で帝塚山。周辺をぶらついてから、阪堺電軌上町線で難波に戻りあべのハルカスで鹿児島黒豚のロースとんかつを喰った。
帝塚山周辺辺りから買い物に来ていたらしい上品なお母さんに連れられていたボクをからかって楽しかった。東京にああいう男の子はいない。今の東京は街場で副交感神経が活発になれない。人との駆け引きが無いから男の子さえも子供らしい目端が利かない。ところが浪花の男の子はオレとチャラチャラと目線で笑い合って、口パクで会話したりできるわけやな。おっと、そんな野暮な話はどうでもええか。
阿倍野区役所まで歩いた。辻調まで観に行ってそこからさらに足を伸ばして北田辺の開高健の育った家まで。彼は、牧羊子母娘にはめられて(?)開高家と生き別れになったようなところがある。これは俺にとっては第2の秘密だわい。
さて、そこから近鉄南大阪線で難波に戻り、心斎橋経由で梅田。
| 8音楽 | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0)
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