岡田純良帝國小倉日記

1964年――The Goldhawk Social Club(3)
8月11日
1964年――The Goldhawk Social Club(3)
 The Whoのファンで、同じ地区の先輩の永年の支持者なのがPaul Cook(1956年-)だ。
 1976年初夏、Londonを揺るがす人気が出ていたのにPaulが電気工の仕事を辞めたのは9月に入ってから。他の3人に定職は無かったがPaulは9月まではアマチュア。周囲の圧力で辞めた晩はヤケになってビールを飲み過ぎ、Drum Setからずり落ちた。
 「今日は俺たちはProfessionalsで出るんだよ」
 「知ってますよ」
 「そうかい。楽しみかい」
 初めて会った時、Paulは丁寧に話をして呉れた。2度目にすれ違った時にもPaulはこちらに親指を立てて親愛の情を示して呉れた。
 (ああ、この人は嘘を付けない人だな)
 再結成以降、最も険悪なのはPaul CookとJohnny Rottenの間という説がある。
 「PaulはJohnnyだけ特別扱いというのが嫌いでさ」
 消息通は言う。Johnnyはツアーでも取り巻きのBoogieと共に何時も別行動を取った。
 「そういう“何様”みたいな態度が大嫌いな男なんだよ」
 バンドの著作権は4人全員平等。それが彼らの取り決めだった。労働者階級の美徳を頑固に守るこの男、誰も気にも留めない小さなことだろうけれど、Pistols以降について想い出を幾つか引きたい。

       Sex Pistols at Oxford Street in 1977 (1).jpg

 1977年4月14日、Sex PistolsはAdrian BootのPhoto Sessionに応じる。Oxford Streetから入った雑居ビルにMalcolmのGlitterbestの事務所があった。ビルに向かうレンガ造りのゲートで撮影は行われた。今ではClarksがその空間に店を構えている。
 この日、Johnny Rottenは前髪を上げ、サイドを撫で付け、ドレス・シャツ。上にエドワード・ジャケット風で、光沢のある素材だが、着丈の短いジャケットを着ていた。
 この時、4人全員が偶然Levi'sのジーンズを履いていたこともあり、1998年夏にLevi's本社がアメリカの広告にこの時の写真を使った。メンバーの履いているタイプは501と502と思しきものもある。全員が濃紺のストレートのLevi'sだった。

Sex Pistols at Oxford Street in 1977 (3).jpg

 Paulは501の裾を2cmほど折り返し、George CoxのRubber Soleと合わせている。アッパーは青と黒のストライプで光沢のあるSeditionariesのShirtsを着て、ダブルの黒いライダー・ジャケットを羽織っていた。今も黒い革のジャケットは好んで着ている。
 Sid Viciousは豹柄のShirtsを着てシングルのヨレヨレのRaincoat。前から505ではないかと思っているのだが両膝がボロボロの煮しめたLevi'sを履いていた。これは丈が長く、裾を僅かに折り返し、Boots Cutの白いBasket Shoesをこの頃何時も履いていた。
 Steve JonesもRaincoat姿だがダブル。初夏にはJohnny Rottenもよく着たからこの時期、メンバー間で古着のRaincoatは人気だった。だが中のシャツはSeditionariesのParachute Shirts。Biker用のBootsを履いているのでジーンズは折り返していない。
 5月のGod Save the QueenのPhoto Sessionまでは変わらないが、7月の北欧ツアー前にSidは新しい501を買った。188cmの長身にツンツルテンのブルージーン。直ぐに黒いSlimのJeansとEngineer Bootsに乗り換えた。Nancy Spungenの影響は大きい。
 夏の「平凡パンチ」御一行とのPhoto Sessionとなると、今度はSidは紫色の極太のPantsで表れた。Paulのタックの2つ入ったパンツと色違い。とにかく目立とうという気持ちに溢れている。

Jeni and Paul Cook at their kitchen.jpg

 この時、Paul Cookは明るい青色のBARACUTA G9を羽織っていた。Punk Bandのファッションではない。何時も街場のスタイルだ。人目には付かないが、じっと見るとシャレた格好をしている。キャラクターと身に着けているモノとが一致して無理がない。
 今も丸首のトレーナーや薄手のセーターをよく着て歩いている。大金持ち風の装いはしない。節度を守って街に溶け込んでいる。だから行き交う人にも気付かれない。
 ドレッシーな時もシャツにネッカチーフ。20代で出会った連れ合いはCulture Clubのバック・コーラスだったJeni。黒人で有名な菜食主義者だ。
 歌手になった娘のHollyの名付け親はBoy George。96年の再結成ツアー時は10歳でPaulは娘を連れて歩いた。ある日、New Yorkで娘のために朝から美容室に行くとDavid Bowieがいた。Paulはこの日、午後からバンドのリハーサルだった。

Minogue, Bowie and Cook in 2002.jpg

 「だからDavid Bowieはアタシの相手をしてくれたの」
 Bowieは大ファンというHollyのためにグッゲンハイム美術館を案内した。Paul自身、若い頃からずっとDavid Bowieのファンだった。
 The WhoのModsの掟を引きずりつつ、筋を通して生きている。終末観で一杯だったPistolsの頃から、周囲の「Sex, Drug and Rock ‘n’ Roll」的な価値観とは違っていた。
 イギリスの階級制度はイヤなものだ。言論の自由こそあるが、階層は固定されている。この息苦しい社会の中で労働者階級に生まれて、それでもあらまほしき生き様があるとするなら、Paul Cookのようなセンスと暮らし振りというものだろうか。一つの賢者のあり方とでも呼べるものが、この人の佇まいには感じられる。


追記
今月、藤田嗣治の家を訪ねられれば行きたい。ランスの礼拝堂よりも、終の棲家。そんな時間がもう許されているか知らんけれど。どうやら素晴らしいらしいねえ。父上が奉職した陸軍から依頼されて戦争画を描き敗戦国を追われた芸術家なんて、最高だ。彼も江戸っ子だったわけだから、元々、明治維新の後の国造りさえ信じていたのかどうか。ニッポンのような国を追われた人が、最後に辿り着いた場所。コイツは渋いねえ。泣いた赤鬼の気分になりそうだ。

追記の追記
Paul Cookの娘が感じの良いいい子だったからDavid Bowieは美術館に連れ出すことを言い出したわけでしょうから、両親がしっかり子供に向き合って育てていることは伝わっていたわけですわね。この辺りも感じいい話だと思う。
SohoにあるCarnaby StreetでもMods系はやっぱり本流だけれど、その後から生まれたPunkもGlamも、その前にあったRockersもないわけですわね。
厳しい掟のあるModsってのは、労働者階級のマゾっ気にフィットするのかも知れない。Kentの櫛を買って帰ります。オホホホホホ。諸兄姐、さらば。お元気で。
| 8音楽 | 07:11 | comments(0) | trackbacks(0)
1964年――The Goldhawk Social Club(2)
8月10日
1964年――The Goldhawk Social Club(2)
 Londonで暮らして1年半が過ぎ、ようやく言葉が形になって出てきた。The Whoの存在は、Beatlesとも違うけれど、イギリスの労働者階級の歴史の中では極めて大きな意味があると感じる。労働者階級を社会に対して背負った初めてのバンドという感じか。
 1950年代にはEddie CochranだとかGene Vincentを真似た黒ずくめのRockersはLondonにもいたけれど、このRockersは、所詮アメリカのRockabillyの真似だった。戦後のアメリカのYouth Cultureのデッド・コピー。
 Sex PistolsのSteve Jones(1955年-)のオヤジはこのRockersだったそうだ。Rockabillyが好きで、オートバイも好き。丁度時代の流れだったわけだろう。
 60年代に入り、BeatlesはMersey Beatsの流れで出てきたが、彼らは売れ過ぎて、イギリスという国も超え、アメリカ市場で凄まじい人気を勝ち取った。あっという間に現象はUniversalなものになり、ある種、無国籍の存在になってしまった。
 ところが、その少し後に出てきたThe Whoは、強烈に色濃く、イギリス階級社会を背負っている。笑わない、ギラギラした目付き。服も、顔も、風体も。
Whoは、強烈に色濃く、イギリス階級社会を背負っている。笑わない、ギラギラした目付き。服も、顔も、風体も。
 Modsというグループができて、社会現象になったのは彼らの歌詞を聞けば分かる。
 「黙って俺に付いて来い」
 「俺のファッションを真似ないと時代遅れだぜ」
 と高らかに宣言した男たちなのだ。
 Modsのコートは、NATOを通じてヨーロッパ各地に駐屯した米軍の放出品だった。編み上げブーツもそう。安く、ハードで、喧嘩にもってこいだったからだ。
 前身だったHigh NumbersのシングルB面の「Zoot Suit」を一部引いてみよう。

The Who Plays at the Goldhawk Social Club in 1965 (2).jpg

    I'm the hippiest number in town and I'll tell you why
    I'm the snappiest dresser right down to my inch wide tie
    And to get you wise I'll explain it to you
    A few of the things that a face is supposed to do
    I wear zoot suit jacket with side vents five inches long
    I have two-tone XXXX yeah you know this is wrong
    But the main thing is unless you're a fool
    Ah you know you gotta know, yeah you know, yeah you gotta be cool
    So all you tickets I just want you to dig me
    With my striped zoot jacket that the sods can plainly see
    So the action lies with all of you guys
    Is how you look in the other, the other, yeah, the other cat's eye
    Well don't you see, well don't you see, well don't you see now
    Well don't you see now, come on baby, 'cause don't you see now, oh baby


        The Who at The Gold Hawk Social Club  (1).jpg

 イギリスでは男は装うことには時に命を懸けるというのが19世紀初頭のWilliam Archerの頃からのDandyの伝統。当時、Peter Townshend(1945年-)は19歳。
 「インチ幅の細身のタイ」
 「サイドベンツの長さは5インチ」
 21世紀の今もFred PerryはMods御用達だったポロシャツだけでなくMods Coatを作っている。Mods必須のアイテムだし、やっぱりイギリスの労働者階級の少年流で、お金を掛けない精一杯のオシャレのわけだろう。
 「The Whoの再来――Guitarは下手だけど」
 1976年の春先、Sex Pistolsはこんな書き立てられ方をした。1976年当時、Pistolsのライヴを体験したライターは、The Whoの初期の雰囲気も知っている世代だったから、これにはある種の真実がある。
 実際、彼らは初期にSmall Facesの「What Cha Gonna Do About It」をCoverしたが、76年の夏前には捨て、代わりにThe Whoの「Substitute」は捨てずにCoverを続けて、Liveでは必須の作品だった。

Sex Pistols 1976.jpg

 Paul Cookは各方面からドラマーで声が掛かるから忙しい。その一方で地元出身のThe Whoのコンサートには、若い頃と変わらずに律儀に足を運んでいる。それだけでもThe Whoの存在の重さが伝わってくる。
 Paul CookはHammersmith育ちとされているが、Shepherd Bushの裏手にあるPhoenix High SchoolでSteve Jonesと出会っている。Goldhawk Social Clubのあった205 Goldhawk Roadまでは学校から800mほど。Paul Cool少年には帰り道に当たっていたはずだ。
 Glen MatlockはGoldhawk Social ClubからShepherd Bushの坂道をHolland Park Avenue沿いに登って1kmちょっとくらいのところに今でも暮らしている。街場を行く彼らは、誰も気付かないが、何時もちょっとシャレて歩いている。
 大金は無い。だが精一杯に装い、精一杯に突っ張る。The WhoからSex Pistolsへ。階級特有の暗喩――Sex PistolsもThe Who以来の伝統を深く受け継いだのだ。


追記
Paul CookセンセイはHammersmith育ちで、家族と今も住んでいるってのよ。Sharksで同じメンバーだったToshi Ogawaさんの話だそうだから間違いない。ともかく、結構、歩いてるわね彼は。2kmくらいは平気で歩くんじゃないのかな。俺のいる間にまた街場で会えるか知らん。
諸兄姐、というわけで、さ・よ・な・ら、って、クドイほど言っている通りですけえね。さよなら三角また来て四角というわけですら。俺の体にも、ちょっとだけ、イギリスが入った。それでヨシだ。
| 8音楽 | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0)
Island Record Studios.....
8月9日
Island Record Studios.....
 このスタジオは現在取り壊されてはいないが、外側のファサード部分を除いて建物の中身がリノベーションされ、新たな区画に変わりつつある。

Ireland Studios(Basing Street Studios) (掲載).jpg

 70年代半ば、事実上、射殺されかかり、亡命したBob MarleyがWailersを引き連れてやって来たし、Jimmy Cliffが「Vietnam」を製作し、名盤、「Struggling Man」を吹き込んだのもこの場所だった。

「Struggling Man」(1973年)ジャケット。.jpg

 今月もまた、Notting Hill Carnivalが行われるが、今年は、もしかすると、久々に荒れるかもしれないという噂があるわけ。
 例の大火事のGrenfell Towerは至近。金持ちとそうでない者たちとの差異が、あの建物に象徴されていて、見える化されてしまったのだ。
 この近所に、Cookieこと、Paul Cook様の行き付けのCafeがあり、そのCafeの前辺りで、1976年のCarnivalで暴動が起きた。Clashの「白い暴動」の裏ジャケットがそれだ。

The Notting Hill Riot 1976.jpg

 その直ぐ裏手で翌年「Punky Reggae Party」が録音された。1977年夏のPunkで熱いLondonを歌った作品だった。この曲には多くのPunk Bandが歌い込まれているが、本家本元のSex Pistolsが出てこない。
 その頃、彼らは、その筋にコンサート会場から締め出され、出演が禁じられていたから、誰の眼にも触れる機会が無かったためだ。

「Punky Reggae Party」シングル盤ジャケット.jpg

 俺は、あの夏には、もう、Sex Pistolsのシングル盤を漁りに西新宿まで出没するようになっていたのだったっけ。坊主頭に剃り込み入れて。Skinheadsの連中と何も変わらなかったなあ。40年前のこと。
 そして、今日という日は、結婚25周年でもある。こんなところに来てしまったわい。Really Lovely Lovely......
| 8音楽 | 16:20 | comments(0) | trackbacks(0)
1964年――The Goldhawk Social Club(1)
8月9日
1964年――The Goldhawk Social Club (at Shepherd’s Bush)(1)
 昨年はPunk London#40だった。1976年のSex Pistols爆発から40周年だったので、その関係のイベントが目白押しだったわけで、丁度、Londonに暮し始めていたために、シーンの中心にいた当事者たちの貴重な証言を聞くことができた。
 しかし、Londonの街を一通り歩いてしまうと、当たり前のことだが、Mick JonesもPaul CookもGlen Matlockも歩いているわけで、まぁ、そんなものだと納得すると、じわじわと欲求不満になる。
 (うーん)
 どうして彼らが出てきたのだろう――もう少し古い歴史に触れたくなってくる。
 (Punkの源流は何だろう)
 例えばそういうことだ。
 (どうしてPunk RockはLondonで火が着いたのだろう)
 少なくともアメリカではない。New York Punkはあったが、New Yorkはアメリカと違うから。
 古くは貴族階級のGentlman’s ClubからR&B、Teds、Punkに至るまで、族社会と言われるイギリス。会員制の個人クラブがその発祥で、とりもなおさず階級社会による分断が背景にあるわけだから、どうしても自分がどの族に入っているのか、その属性が大切になってくる。
 我が家から歩いて15分ほどの場所にある何の変哲も無い一軒家。地番で言うと、「205 Goldhawk Road, Shepherd’s Bush London」になるんだろう。
 これがShepherd's Bushの駅からなら徒歩で10分くらいかな、この一軒家の入り口右上に1枚のBlue Plaqueが貼り付けられて数年になる。

        The Who at The Gold Hawk Social Club  (1).jpg

 「Legendary Shepherd’s Bush Rock Band, The Who performed here at the site of the Goldhawk Social Club at the start of their career」
 (シェパードブッシュ出身の伝説的なロックバンド、ザ・フーはここ、the Goldhawk Social Clubに出演し、彼らのキャリアをスタートさせました)

 The Whoが誕生する直前、1963年の後半から1964年の前半にかけて、Shepherd Bushの地元の荒っぽい若者相手に出てきたバンドはThe Detoursと名乗った。1963年夏にはまだ準レギュラー格だったのだが、直ぐにバンドは人気が出る。
 1963年は6月7日、7月5日、12日、8月16日、9月6日、10月25日、11月8日、22日、29日に出演していることは分かっている。ここまで、たった9回である。
 この後、バンドは安定しないドラマーの座を巡って様々なメンツに声を掛けたりしてオーディションをした揚句、最終的にKeith Moonが加入する。4人のメンツが決まる瞬間までの最も大事なRock ‘n’ Roll Bandの黎明期にレギュラーで出ていた場所がここ。
 つまり、モッズの本当の聖地ってわけだ。

The Who Plays at the Goldhawk Social Club in 1965 (1).jpg

 年の明けた1964年は2月28日にThe Whoとして初出演した。ここから3月6日、27日まではThe Whoなのだが、この後、4月11日、17日、5月8日、7月31日まで、Clubに残っていた会計名簿にはHigh Numbers名義で出演したことになっている。
 この64年7月3日、High Numbers名義で発売された作品に「I’m the Face / Zoot Suit」というシングル盤がある。
A面はSlim Harpoの「I Got Love if You Want It」のCover。歌詞が闘志満々だ。

    I'm the face baby, is that clear
    I'm the face baby, is that clear
    I'm the face if you want it
    I'm the face if you want it, dear
    All the others are third class tickets by me, baby, is that clear

    I'm the big wheel baby, won't you roll with me
    I'm the big wheel baby, won't you roll with me
    So many cats down the scene, honey
    XXXX hardly see

    Wear ivy league jackets, white buckskin shoes
    I wear ivy league jackets, white buckskin shoes
    So many tickets down the scene honey
    They're like to blow a fuse

 この話は、実は、当然、あのバンドにも繋がっていくわけだ。というわけで、明日も続けたい。

Sex Pistols Anarchy Tour at Cleethorpe, 1976.jpg


追記
いよいよ密談も佳境に入り、8月下旬から9月中旬までの日程が決まってきた。辛いことですが、中に自分のことも入っとんねん。ウハハハハハハハ。
| 8音楽 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0)
東の顔役――The Small Faces。
8月7日
東の顔役――The Small Faces。
 こちらに来て、パンク系でピストルズ、クラッシュ、グラムのボウイ、さらに、ザ・フー、そしてこのスモール・フェイセズと、好きなバンドの絡むスポットは随分行きました。
 シスコのフッカー、ジョプリン、ヘンドリクス、CCR、ロスのドアーズまで含めると、俺もかなり顔が広くなった。有り難いことだけれど、それで何が何して何とやら。しかしそれで自分への突っ込みネタには一生困らへんで。
 土曜は鎌倉時代から営業しているパブでシーメウーク。その後で、スモール・フェイセズがイアン・マクレガンをバンドに引っ張り込む直前まで根城にしていたパブでビールを1杯。


20170805 Raskin Arms  (掲載).jpg

 チャック・ベリーの遺作、「CHUCK」のジャケットがデンマーク・ストリートのサックス店のシャッター代わりの板に大書されていた。こういう追悼はカッコイイ。彼こそがRock 'n' Rollを牽引したのだ。ちょっとグッときたね。
 分かっているヤツがこの街にもおるわねえ。彼の生み出したRock 'n' Rollがこの世の中を少しずつでも変えてきたんじゃけえねえ。大した男なのよ、この男は。

20170806 Denmark Street to 100 Club (掲載).jpg

 日曜はテムズを渡ってサウスから帰ってきた。ボウイ、ピストルズ、スモール・フェイセズ辺りに関係の深い場所まで再訪して皆さんにお別れをした。スモール・フェイセズは北千住だな。フーは中野という感じかな。
 スモール・フェイセズは東の街からやって来たのだけれど、さしづめ北千住に相当する彼らのホームタウンは今や南インドのケララ系の移民の人たちで一杯になってしまっている。彼らのアジトだった「Ruaskin Arms」ではインド系のお客たちがスヌーカーを楽しんでいた。
 西側のザ・フーの根城にしていたホームタウンは今や中東・アフリカ系の移民で一杯になっている。スティーヴ・ジョーンズが育ったシェパーズ・ブッシュ及びその近くのマーケットは、以前はカリブ系の移民が多かったのだが、今では中東系で一杯。

追記
そろそろ朝晩はめっきり秋めいて来ました。八月だからねえ。
 
| 8音楽 | 13:44 | comments(0) | trackbacks(0)
南の島でサンハウス。
7月28日
南の島でサンハウス。
 便利な時代になったモノで、様々な情報やデータが飛び交う時代に、こういうブツまで密かに送り届けられるわけだわねえ。
 サンハウスが単独公演をやった44年前の記録が出てきた。ヤンポさんの関係者が持っていたものだと聞いたけれどこれまた貴重な音源だねえ。44年も経って、海賊盤のような音源が出てくるということが、やっぱり、このバンドの歴史的な価値を感じさせる。

Son House Show@福岡明治生命ホール 1973.3.12(掲載).jpg

 1973年3月と言えば、オイルショックの前だ。まだ、日本は右肩上がりに成長して行くことを信じていた。
 俺はまだ小学校の3年生で、担任は小野恵子先生だった。社会全体にまだフレッシュな雰囲気が溢れていた。
 2008年の北京オリンピックは東京オリンピックの時の社会情勢に近かったから、丁度、今の北京は1973年の東京の感じになるのかも知れないぜ。
 今では考えられないことだが、モノ凄い悪たれで、もう、あのままで成長すれば10代半ばで喧嘩とか事故で死んでしまいそうな餓鬼だった。
 小学校3年生でも、当時の俺は、息苦しくて仕方なかった。可能性を求めていて、しかしそれは本や映画の中にしかないようだった。俺が福岡在の餓鬼だったら、この福岡明治生命ホールで催された企画には裏木戸から侵入したかも知れない。
 鮎川さんのギターは今の太っといサウンドとは違うけれど、若い鮎川さんの繊細なリフも素晴らしい。あの頃のCMだとかあの頃の雑誌広告を覚えているから、このコンサートのMCも、「William Tell」の流れるオープニングもすでに物心ついていた俺には分かる。
 だから、44年前のサンハウスのコンサートのライブ音源が前後まで入れて全尺入ったのは意味があることだわね。彼らは「遠い昔から来た。そして遠いところに行くのだ」(by 白戸三平)


追記
こちらは暑さでぶっ倒れそうなほどの勢いで気温上昇中。34度とかいうけど、38度くらいの感じ。ウウウウウウ。
| 8音楽 | 16:04 | comments(0) | trackbacks(0)
1970年代末のLondon――Brian Setzerもあの一角に住んでいたとはねえ。
9月12日
1970年代末のLondon――Brian Setzerもあの一角に住んでいたとはねえ。
 11日にLondonでコンサートをやったBrian Setzer。彼はこのアパートに駆け出しの頃に暫く住んでいたのだそうでこの隣の区画にはMalcolm McLarenがVivienne Westwoodから逃げ出して押しかけダンナになっていたガールフレンドだったHelen Wellington-Lloydのアパートがあった。
 そこに78年から79年まで、Paul CookとSteve Jonesが住んでいて、確か、階下に住んでいたのが、London Fashion Schoolに通っていた後のBananaramaたちだったんよ。
 この頃は、まだ撮影した「Rock and Roll Swindle」の編集作業にまだMalcolmが夢中になっていた。Sex Pistols関連のあらゆる法的な権利を独占していたからね。
 この頃、Johnny RottenはChelsea側、Themes河畔近くのフラットにSid Visoiusと暮らしていたHamstead Heathから引き移っていた。Sid ViciousはPaddingtonの駅裏のフラットにNancy Spungenと移り住んでいたわけだ。
 後に法廷でJohnny Rotten及び他のメンバー(+Sid Viciousの母親)たちと争ってかなりの部分を剥奪されるわけ。ということで、1978年には、もうバンドのメンバーは市内各所に点在して散って、会うことはなかったわけだねえ。

     Brian Setzer Old Apartment in London  (5).jpg

 さらにその2つ隣の筋のアパートには78年から80年まで、Joe Strummerが住んでいて、Slitsのメンバーたちも近くの同じ長〜い長屋的な造りのアパートの一角に住んでいた。
 俺、Brianの古いアパートの前を1年半、毎朝毎晩通って歩いていたんだよねえ。目の前が小学校なんだけれども、時々、ハッパの匂いが立ち込める。今もそんなに家賃は高い一角じゃない。ナンだか親近感が湧いてくるわねえ。
 こちらは昨日、Brian Setzerの撮影した翌日、慌てて雨になりそうな曇り空の下、傘を手にして撮って来た写真であります。ってことは、こちらのゴミ袋は撮影の合間に居住者が出したみたいね。
 こうして、時が経って風化していくわけだけれど、まぁ、それも良いではないか。面白かったよ、あの時代はね。ガキが世間を引っくり返すってなところの一歩手前まで行ったくらい揺れたんだから、この街も!

  Brian Setzer Old Apartment in London  (4).jpg
| 8音楽 | 14:48 | comments(0) | trackbacks(0)
Michelan掲載のPubとJohnny Rottenの古いアパートの距離。
7月3日
Michelan掲載のPubとJohnny Rottenの古いアパートの距離。
 我が家の前の道をテムズ方面に南下して約3km歩くと1978年からJohnny Rottenが暮らしていたアパートの前を通ることになる。
 そこから僅かな距離の裏通りに、それほど珍しいものではないけれど、一応、Michelan掲載のPubがあってさ、この店が古いPubの出し物と違って、ちょいとイケるものを出す訳だ。
 こちらは蟹(ほぐし身と味噌)の甲羅とサラダ、パン、ポテト添え。アッサリしているから、テーブルに出してある塩と胡椒で味を調節するといいだろう。

Chelsea Harbour  (6).JPG

 こちらはLemon Sole(カレイの一種)のムニエル。アスパラガスとズッキーニをソテーしたのが添えてある。先月はズッキーニの花の季節だったのだけれど、もう、終わってしまったのは残念。日本の冬瓜の季節に丁度重なるかな。
 店は、渋い選曲で、Etta Jamesも、Frank Sinatraも、Eddie Cochranもかかった。イギリスよりもアメリカだったかも知れないね。そうそう、Animalsがかかったのは珍しいことだった。
 この街は不思議なところがあって、Londonっぽい人たちなのに、KinksだとかSteve Winwoodみたいな人の曲は殆どPubではかからない。
 店のオヤジは何系か分からないけれど、少し中東系が入っているかな、大柄で、だが出してくるお皿はオイリーなソース・ベッタリのものは少ないようだった。

Chelsea Harbour  (7).JPG

 というわけで、腹一杯喰ってから、Johnny Rottenに敬意を表して立ち寄って参りました。
 この建物上側、確か、2つのフロアをJohnny Rottenは所有していたんじゃなかったかな。
 1978年の初夏のこと、Sid ViciousとNancy Spungenが、Johnny RottenたちのPartyの最中にアパートのドアの前に現われた時、ラリっていたSidは仲間から階段の上から蹴り落とされたんだった。
 色々考えることはあるけれど、Glen MatlockやらPaul Cookなんかと近所で遭遇する環境にある今、当時のことを、Johnny Rottenが後悔しても詮無いことだと想うわね。ヤク中は友達を喪うもの。古今東西の真理だものさ。
 そういえば、そのJohnny RottenのアパートからPubまでの距離は200mほど。

Chelsea Harbour  (8).JPG
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「Rock and Roll is back in Me」――Peter Perrett、復活か。
7月2日
「Rock and Roll is back in Me」――Peter Perrett、復活か。
 数日前にPeter Perrettの新譜が発売されたらしい。信じられるか、生きていたなんて。
 「the Guardian」にはインタビューまで出ているのだ。ヘロインとコカインの両方の重度の中毒で、コカインで肺をかなり痛め、ステージでは酸素吸入器無しでは歌えないと言われてきた。
 何十年にも渡って警察による逮捕と治療生活の繰り返しを続けてきたのだが、この5年はヤクは一切やっていないということだ。「How the West was Won」はYoutubeに上げられたばかり。
 できることなら一度だけでも観てみたいものだ。記事ではJohnny Thundersにも喩えられていたわけだが、この人も薬物で40年近くの時間を「無駄」にした。

      Peter Perrett's New Album on the Guardian.JPG

 奥さんがもう半世紀近く連れ添っていて、彼女無しでは生きていられなかっただろう。彼の率いたバンド、The Only Onesは、今ではOne Hit Wonder的に扱われてしまっているから、あまり知られずにいる。
 それでも、あの声と詞とメロディーは、一度でも聴くと、ちょっと病みつきになってしまうところがある。どうも近所には目撃説があるようだから、その内、すれ違うこともあるかな。

「How the West was Won」[Peter Perrett]ジャケット。.jpg
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これぞLondon。「土曜の夜と日曜の朝」――友よ行け。
6月25日
これぞLondon。「土曜の夜と日曜の朝」――友よ行け。
 東京から還暦過ぎの大先輩が来て、俺がホテルに迎えに行ったんだけど、結局、先輩は1人だけだったんだな。
 「どうします?」
 「そのスペイン系の店がいいなあ」
 そいで店に電話入れたら21時まで待ってくれたらテーブルが空くってわけだ。
 「ふざけてますよ、21時って」
 「うーん」
 先輩は考え込んでしまった。手元の時計はまだ17時。
 「んじゃ、生のオイスターとか喰いに行きませんか?」
 「当たると面倒だあ」
 「そんなの大丈夫でしょ」
 「前に一度当たったんだよ」
 渋る先輩を車に乗せて某所まで。店は鉄道の大きな地上線の線路脇にある。付近は殺伐とした工場とCouncil Schemeが交じり合ったような所だが、その一角だけは静かな穴場だ。
 「うん、なんか、ここいい感じだねえ」
 真っ黒なペンキを厚塗りした典型的なPubは元は鉄道乗降客のための食堂兼旅館だった。19世紀半ばから営業してきた古い食堂は、90年代半ばに経営者が変わって店の名前も変わった。
 「んじゃ牡蠣喰いましょう」
 「おっ、いいねえ」
 俺はラガー、先輩は黒ビールを注文する。
 巨大なSeafood Plattterが出てくる前に、まずはビールを1パイントで暖機運転だ。
 「Boogie!Woogie!」
 突然、静かな店にブリブリのBass Soundと太っといBeatが響き渡った。
 どっひゃー、the Stranglersの「Go Buddy Go」。1977年のシングル盤だ!!!!
 Counterの脇に小さなJuke Box。還暦近いような姿格好の背の高い男が立っている。ピッタリしたTシャツの胸にはRaven Ringerのマーク。


     Hugh Cornwell of the Stranglers in 1978.jpg
  1978年頃のHugh Cornwell(1949年-)御大。この頃、まだ20代。もう、ぶち壊れた
  感じがビリビリ来ますなあ。Kentish Townの地主の倅。バカになりきれなかった人。
  後年、Cricket愛を隠さないようになって、ようやくその価値観が理解されるように
  なったという感じがある。「脳膜剥離」な感じの人物だわねえ。


 容赦の無い強烈なSoundで曲はVocalを乗せて突き進んでいく。この曲は、普段の楽器を持ち替えて、メインのVocal LineはJean Jacques Burnelが歌っていて、強烈なBass Soundは、実は親指のスラッピングでHugh Cornwellが弾き出しているのだ。

 「少年少女はこぞって踊れ
 オールナイトで踊りまくれ、このクレイジーなサウンドで
 こいつはロンドンの最新ヒットだぜ
 喜べガキども

 言っとくぜ
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け
 
 俺はボブと一緒に楽しんでんだ
 スピードをキメて上機嫌
 ボブは踊らねえ
 しょぼい女をじっと見てら

 言っとくぜ
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け

 Yeah boogie now Dave...

 Elbow rooming his way around the floor (oh)
 You can see him he's sitting by the door (oh)
 All the chickies they wanna see him dance some more
 (One) Two! Three! Four!」

 Go Buddy Go Buddy Go Buddy Go Buddy, Go Go Go

 言っとくぜ
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け
 俺今何て言った
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け
 言っとくぜ
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け」

 概略はこんな曲で、1977年のロンドンの狂騒が感じられるキチガイじみた曲でもある。だが、シリトーの「土曜の夜と日曜の朝」みたいな狂った夜を歌った曲でもある。
 この曲は、英語表記した所でHugh CornwellにMain Vocalが渡り、転調してブレークする。
 「(One) Two! Three! Four!」
 シングルでは大音量にすると聞こえる声が、ライヴだとマイクの前で怒鳴る決めのカウントになっていて、当時はそれがライヴの興奮の頂点になった。
 彼らにとってはガキの踊れるチューンを一曲くらい入れておこうというくらいの考えだったんだろう――。
 この日――Pubのカウンターにはオヤジばっかり群れていて、女連れは外に出ていた。
 問題のブレークする箇所で、一瞬、店内が静かになった瞬間、
 「Two! Three! Four!」
 カウンターに張り付いていたオッサン達全員、口の中で呟いていたから――お互いに顔を見合わせた。
 「Cheers!」
 「Cheers!」
 「to the Stranglers!」
 「to the Stranglers!」
 こういう瞬間は、Londonにあって、最高の瞬間だと想った。それどころじゃないぜ、ジンセイの最高の瞬間の一つでもあったかも知れない。永く記憶に残るだろう。

 言っとくぜ
 友よ行け、友よ行け、友よ行け。行け、行け、行け、行け
| 8音楽 | 16:32 | comments(0) | trackbacks(0)
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