岡田純良帝國小倉日記

転がり出てきたモノ(6)――海軍さんのピクニック。
10月23日
転がり出てきたモノ(6)――海軍さんのピクニック。
 こちらは昨日とは時代が前後するが、純良の帰朝前、古き良き倫敦時代のイベントの写真になる。あまり暗い話だけをしていると、明るく屈託の無かった時期もないように誤解されるのも癪だ。全員が大笑いしているいい表情なので紹介する。
 これは2000年頃に在英の日本大使館等で行われた両国政府の共催イベントでも展示されて使われた1枚だそうだ。事務局からの礼状と共に他の写真も同封されている。
 「57 Imperial Japanese Navy Office Outing(海軍の遠足)」
 ファイルに整理のためのタイトルが貼り付けられている。「57番」というのは写真展の通し番号だろう。
写真はB5サイズの大判に引き伸ばされていて裏に純良自身の丁寧なキャプションが付けられている。せっかくの情報だから俺の判読できる範囲で以下に引用する。

20171008 伊藤慶子さんからのデータ (1)

 祖父の付けた写真のタイトルは「事務所一同ピクニックにて」、とある。
 「前列右より廣瀬嘱託、上原中佐、久間書記、山間技手、小生、石田書記、桶川技手、兼松主計中佐、石川機(=機関)中佐」
 「後列右より江口技師、バス運転手、出石中佐、福田主計少佐、日立出○のコック(?)、塩山造船少佐、山本中佐、藤田大佐(武官)、運転手(武官)、武官令嬢、令息、ミスター・ヒューズ、武官奥様、廣瀬嘱託令嬢、浅井嘱託、鹿目中佐、ミスター・ドッジ、宇田機中佐、瀬川機中佐、川畑技手(イタリー助手)」
 運転手を除いて、男性はスリーピースに帽子。江口技師はダスターコートを着ている。 塩山造船少佐と山本中佐は両肩を抱き合っている。桶川技手と石川機関中佐が撮影時に動いてしまっているのだけが残念だ。シャッターを押す係りだったのかも知れない。
 コックの名が記されていない。「日立出」と読めるのだが、次の文字は判然としない。「身」とは読めないようだ。
 また、名前が省略されているが、嘱託の場合には他の軍人のように2年乃至3年での交代はないので名前も分かる。1939年の日本人会名簿では、廣瀬昌司、浅井一三という名があり、この御2人だろうと特定できる。
 何時かネットでこれらの方々のご遺族が自分の祖先を発見することもあろうかと想う。恐らくは1936年に撮影されたもので、80年以上の時間が経過しているので、歴史的な意味合いも帯びている。ここに、そのままナマの情報を記録しておきたい。

20171008 伊藤慶子さんからのデータ (掲載2)

 また、この大判写真には、写真店のゴム印らしきものが押されている。
 「Photograph by IMAI, 65, Ebury Street, S.W.1. Telephone Sloan 3995」
 日本語で言えば「今井写真館謹製」ということなんだろう。この住所は市内には今でも65 Ebury Streetというのがあって、場所はVictoria Stationの直ぐ裏手に当たる。
 St. James Parkの海軍事務所から近い。事務所の行き帰りに立ち寄ったのではないか。
 彼らの通常の任務は軍縮議論の動向調査やロビイング、また、海軍の発注した艦船や兵器の製造に関する管理監督全般である。イギリスの国内各地の造船所や兵器工場を訪問しているのは見学ばかりではない。顧客としての監督業務が主務だったはずだ。
 29名の乗ったバスは、多分、Hampstead Heathの丘を喘ぎ喘ぎ登った。他の写真で、丘陵から市内を見下ろす一同の姿があって、俺も何度も散策した丘の形で見当が付く。市内を一望する丘の頂上で、サンドウィッチの詰まったバスケットを拡げ、蓄音機まで持ち出して浮かれ騒いだのだ。
 イベントを承認したのは間違いなく藤田利三郎大佐(当時)だ。御家族総出の参加は、それだけ楽しみが少なかったということもあるだろう。運転手、コックまで入れて全員納まったこんな幸福そうな写真が残ったのは日本人として誇りに思いたいところ。また、藤田利三郎の遺徳とすべきだろう。敗戦時は中将で東北方面の責任者として戦後処理に当たったと聞く。苦労されたことだろう。
 この5年後に真珠湾を皮切りに太平洋戦争が勃発するわけだが、ここに集まった人々が、心底から「鬼畜米英」と想ったのか、大いに疑問がある。こんな表情で笑い合った人たちがまなじりを決することになったと想うと哀しい。憎しみ合っていい話が生まれることはない。「戦わずして負けない」ことに尽きる。


追記
昨日はファイルを5冊バラし、ボックスを2つ開けて、それだけで終わっちゃった。ゴミはファイルで4つ分かなぁ。進捗は悪いよね。だけど自分自身ののダイエットをしている感じ。疲れましたが、かなりのブツが出てきたのよねえ。
ウッフッフ、そこのアンタ、意味明白了?
選挙速報を久々に見ていましたが、池上さんは小泉ジュニアが好きなんだろうなあ。そうでなければ考えられないけどあれではアンフェアだろう。悪しきテレビの害毒のど真ん中に池上さんもいるということでなければ説明がつかない。結果は小池と前原と細野に鉄槌という、とっても小気味良いものだったけど、小池がまだやるなら、政界の女イチローというお言葉をお付けさせて頂きたいですらあ総統閣下。
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転がり出てきたモノ(5)――古い純良の軍装姿。
10月22日
転がり出てきたモノ(5)――古い純良の軍装姿。
 純良の2枚の軍装の写真が出てきた。ここ数年は、伸び伸びとした倫敦時代の純良の表情しか見ていなかったので、表情の厳しさにドキッとさせられる。
 1枚は呉の官舎前だろう。
 手札サイズの写真の裏に、「昭和十六年四月廿九日天長の佳節に第一種軍装をして家を出る所」と青い万年筆で書いてある。当時、純良は36歳になったところだろう。しかし、倫敦駐在時代と違って、もう、厳しい日本の海軍軍人の顔に戻っている。
 身内が振り返る。
 「呉時代のことだが、阿川弘之の軍艦物、「戦艦陸奥」だったか「戦艦長門」の中にあったと思うけど、戦前は呉の町中で職工さんと思われる人が平気で英語をはなしていたと、それは海軍工廠の技手とかの人が英国のグラスゴーに長期に出張していた人が多くいたことを示していたと」
 祖父はその伝では、呉にいれば、その末席に連なるところだったのだろう。

   呉官舎前の純良 (掲載1)

 「皆が集まるとバラ寿司を大きな桶で女性陣が作っていて子供らに大きなおにぎりにしてこれを食事前に貰って美味かったね。帰る時に四つ道路まで父さんが酔っ払って軍歌を放吟しながら帰ったことを覚えている」
 厳しい表情だが、相変わらず呑んでいたということだ。
 そして、もう1枚は豊川の海軍工廠内だろうか。何も裏書はされていないので特定はできないのだが、表情はさらに厳しさを増している。開戦後、直ぐに豊川に転勤になり、一家は揃って海軍工廠内の官舎に引っ越した。
 「小学校1年生で張り切っていたところに父さんの転勤ということになった。丁度その日に、学校で渡り廊下の釘が出ているのを走り回っている拍子にそれを踏み抜いて、引越しで二等車に乗ったのはいいが、足裏が化膿して熱はでるは散々だった」
 「豊川に着いて直ぐに海軍病院に行ってそこを治療して1週間ぐらい寝ていたと思う。豊川時代の最初は豊橋の郊外の小坂井という村の昔医者をやっていたところを借りて住んだと記憶している。村の小学校に転校して1年もいたかなあ。学校の頃の記億は特にないが、正月に父さんが若い人を呼んで酒盛りをしたときにお客の一人が声色で「豆、豆、豆のおかわり」と母さんにいったのを家じゅうで覚えていてよく笑った」
 身内は、ここで最も充実した生活をしていたと回想するのだが、それはそうだろう
 「その後で、豊川の官舎に移って今度は牛久保小学校に転校した。これ以降はよく記憶している。朝行く時は官舎に住んでいる小学生はみんな工廠のバスに乗って学校まで送ってもらった」
 当時の官舎内の子供たちはガソリンか木炭かは知らないが、バスで小学校や中学校に通っていたのだから、他の日本人が聞いたら恨まれそうな話だ。

   豊川海軍工廠内の純良(掲載2)

 「豊川工廠大空襲は当時マル秘事項で世の中にはあまり伝わっていなかったがそれはすさまじいもので人的、物的な被害は甚大だった。被害特に人的被害が多かったのは工廠長が避難命令を出すのを遅らせたからとの秘かな声があったことを記憶している。
 正門からずっと土手が続いていたが、その土手に皆俯せの空襲に備えての姿勢のまま全員が爆風でやられ、死んでいた人がズッと続いて何万人とかのオーダーだったとの兄貴の話、俺は官舎周辺をうろうろして工廠の中に入ってないので分からない」
 「官舎周辺は海軍士官集会所があって緑の芝生に囲まれた立派な施設だった。官舎では集会所で夜映画がかかってよく観に行った。当時最新映画で、記憶に残っているのは、「海軍」とか「姿三四郎」とか「新雪」、その他時代劇の大河内伝次郎や坂妻も覚えている」
 昭和20年(1945年)8月7日の豊川空襲は今日でも様々な説がある。少なくとも、死者は3千人近い。特に勤労動員の旧制中学校生・高等女学校生・国民学校児童の犠牲者は500名近い。工廠に動員された人員の数は、完全に把握されていないのは関連書類が敗戦時に焼却されて消えていることなどもあるだろう。
 祖父は末期には佐官となり、工廠の経営に深く関わった。豊川は呉と違い機銃の量産工場であった。5人の子供たちを抱えてその日その日を生きたのだ。倫敦時代ののんびりとした暮らしとはあまりに開きがある。戦争の罪悪を想う。
 数千人の犠牲者を出した豊川時代のことは、祖父は語らなかった。国民学校生の身内は防空壕に3時間も身を潜めたと記憶しているが、実際の爆撃は30分ほどだ。こちらが歳を取ったからか、生き残った彼らが空襲で負った苦しみを考える。


追記
本日も延々と整理中…台風は迫るし、参っちゃうねえ。
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転がり出てきたモノ(4)――水交会申込書。
10月21日
転がり出てきたモノ(4)――「水交会」加入申込書。
 これもビックリした。こんなブツ、どうして手元にあるんだろう。
 余白だらけで何も書いていないようだが、薄っすら下手糞な金釘流の鉛筆書きがあるだろう。俺がどうして引き取って部屋を辞したのか、どうしても流れが飲み込めない――あれはもう7年ほど前のことになるか。
 鉛筆書きは某氏による手書きだ。あの時、俺たちは某氏の事務所のある○○室で向き合っていたのだ。
 「祖父が海軍軍人でした」
 「そうか」
 「しかし敗戦後は、軍人は一族からいなくなり祖父も亡くなりました」
 「君は水交会には入っていないんだな」
 「そうなんです」
 「そうか、では、僕が推薦してやろう」
 予期せぬことを言うなと驚いた。
 頼んだというより、話の流れである。だが、本人は如何にも俊敏に動いた。
 「兵学校、生徒、77期、9月20日退職」
 スラスラと全く淀み無くそこまで書いた。本当は、申込書には77期の書き込みの後にカッコ書きで生徒番号まで付してあるがアシが付くので消してある。推薦して呉れたご当人は、もうこの世にいない。そういうこともある。

水交会入会申込書(掲載)

 当日、冒頭、ある学者の話になった。当人と机を並べた海軍兵学校の末期77期生だった方についての世間話だった。
 「彼は真面目にやってきたからな」
 高名な学者として、その折も盛んに著作をモノにして気を吐いていた。
 「俺は実業の世界に移ったから」
 学者の道を諦めてからは、俺はあまり本を読まずに来たので、今頃、そのツケが回ってきたと言って笑った。戦中から戦後は随分と人文書を読んだ。でも、どうも腑に落ちないところがあってね。日本は負けたのに負けたと書かないし、負けたと書く者の文章は卑屈でイヤだったな。
 「本が出たら必ず送ってくるんだけど、読まない」
 本をもてあそびながら、そんな話をポツリポツリと言った。
 もう、ここまで書いたのだから、僕だと分かるはずだ。事務所に電話をするから、後は君が宜しくやって呉れたまえ。
 電話をかけると、受話器の向こうから、「○○センセイのご推薦なら申込書をお送り頂ければそれだけで結構ですから」、話はあっという間に付いた。
 「後は私が記入します」
 「そうか、タノム」
 そんなやり取りをして、「兵学校、生徒、77期(○○○○)、9月20日退職」という本人しか知らない情報を記入した状態で俺が引き取って帰って来たのだろう。
 それがこうして手元に残ったわけだ。ツラツラ考えて、あの頃のやり取りを想い出した。大柄で頑固なあの老人に、俺は気に入られたようだった。よく呼び出しがかかった。
 「皇居を引き払って京都に戻ればいいのにな」
 ある時は、皇居を見下ろす部屋でそんなことを言った。恐ろしいことを言うなと想ったことだ。
 だが、今になって考えると、この人も軍人としては中途半端に終わり、戦後は、キリスト教に入信して大学で研究者になるはずだったのが、大きな世の中の流れで路線が変わって行った。
 俺のことを「水交会」に入会させた理由は分からない。例えは失礼かも知れないが、俺が、今日なおPunk / Sex Pistolsについて考える癖が抜けないのと同じように、彼ら16歳で敗戦を迎えた軍国少年にとって、太平洋戦争と国体は、死ぬまで彼らに取り憑いていたということなのだろう。


追記
重金敦之さんが「マリ・クレール・ジャポン」に書いていた古いクリッピングに、「第二次大戦まで、食うや食わずの時代で、つねに飢餓の恐れをいだいていた」とあるのにはちょっと立ち止まってしまった。往時貴顕紳士淑女の毎朝晩の食卓にどんな銀食器で西洋料理が並べられていたかなどというのはさておき、京都の織物問屋で何が食卓に出ていたのかということは、今西錦司の家の記録で知ることができる。米の品種改良などが進んでいなかった東北以北では、「つねに飢餓の恐れをいだいていた」ことがあったかも知れないが、世間一般はそうでなかったと俺は想っている。
重金さんが今でも敗戦前が暗黒時代だったと考えているとは想わないのだが、この辺りは気になることだ。敗戦前=暗黒論は、それこそ、敗戦国民教育の賜物に俺には想える。鬼畜米英の二国で見聞した実体験から、そう、感じる。
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転がり出てきたモノ(3)――Carl Zeissの双眼鏡。
10月20日
転がり出てきたモノ(3)――Carl Zeissの双眼鏡。
 1930年代製のCarl Zeissの6×18の小型の双眼鏡が出てきた。戦後はロシアによる東独政策で共産圏に取り込まれたJena Telita製のものだ。
 1971年に純良が亡くなり、その後、形見分けで俺が貰ったものの1つ。これは古くて、海軍時代に祖父が使ったもので、
 「ドイツで買うたもんなんよ」
 祖母ののぶえが解説してくれたことを思い出す。

純良の使った双眼鏡(Carl Zeiss JENA) (3)

 しかし度重なる引越しと手入れの悪さで、レンズにはかびが付着し、双眼鏡としての機能は不全となった。25年ほど前にカメラ屋に持ち込んで、再生不能と烙印を押されて以降、さらに現在の持ち主によってぞんざいに扱われてきた。
 左側のCarl Zeiss / Jenaは読めるが、右側に刻印されたTelitaのロゴとSerial Numberは、錆と塗料の剥落のために判読不能になりつつある。これは形見分けをして頂いた俺の手落ちである。少なくとも純良とのぶえ祖父母には申し訳できないことだ。
 それでも時代は変わってきた。製造番号は「1604856」と読めるようだ。もしそうなら、オークションへの出展情報等を勘案すると、多分、1935年以降のもののように思える。製造番号が「16XXXXX」になると、年代は1940年代に移るようだ。
 純良が英国に渡ったのは1935年後半だから、やはり、大づかみにはなるが、間違いないところだろう。これも本国ドイツだけでなく、英国やアメリカ各国の人々で活発に売買がされる時代になった恩恵だ。

Carl Zeiss Jena Telita(3)


 折り畳みの双眼鏡は小さな渋茶色の皮ケースと皮ストラップが付いていたようだが、そんなものは1971年に手に入れた時から一度も見たことがない。しかし買った時には美しい吸い込まれそうな黒の光沢があったことが分かる。
 (この黒はどこかで見たぞ)
 Hugo Boss(1895-1948年)の手になるゲルマン第3帝國親衛隊の制服で使われた黒だ。
 (ははぁ『愛の嵐』か)
 (『地獄に落ちた勇者ども』の世界でもあるか)
 この黒には、どう表現すれば見当も付かないが、何とも呪術的な魅力がある。
 祖父は大陸側への出張で、Berlinの国際競技上で行われたオリンピックの開会式にも行っている。観客席の最敬礼の瞬間を後列からカメラに収めている。日本軍人はドイツ第3帝國の制服組に、遠くからではあるが、敬礼はしなかったことは銘記しておきたい。
 (ついでに言えば、SohoのSex Shopの世界だな)
 最近では第3帝國というと、Sohoの倒錯した性の世界を連想するようになった。
 Sex Pistolsがどうしてあんなバンド名を名乗るようになったか、Sohoの夜を歩いてみれば薄っすらと感じ取れるだろう。1967年にはDavid Bowie(1947-2016年)がLindsay Kemp(1938年-)からパントマイムの手ほどきを受けていた。
 1970年代初頭のRoxy Musicの表現していた世界は、Sohoのネオン街を1人彷徨うピエロのような男の哀れな姿でもあった。この辺りはイギリスの男や女にはたまらない美の世界でもあって、だから今日でも手を変えて繰り返し再生産されている。

純良の使った双眼鏡(Carl Zeiss JENA) (2)

 後のSex Pistolsのメンバーは、毎朝、Sohoに配達されていた牛乳を盗み呑むような暮らしをしていたから、そんな美の世界にはおよそ遠かった。バンドを結成する前には、Ron Woodの出した「I’ve Got My Own Album to Do」からでも「I Can Feel the Fire」を選んでコピーするような嗜好の人たちだったのだ。
 Johnny Rotten(1956年-)が加入して、ヤケッパチのバンド名を名乗り、本当ならDavid BowieやBrian Ferry(1945年-)の体現していた世界を表現したかったのかも知れないが、時代の流れで、世間に抗い、観客席を睨み付け、暴言を吐き、殴り合いになった。
 政治的な歌詞は後付で、これはMalcolm McLarenが付けた浅知恵でもある。音楽の指向も他のメンバーとJohnny Rottenとではまるで合わない。多分、音楽面のリーダーだったGlen Matlock(1956年-)がもし我慢したとしても、本人が言うようにアルバムは作っても2枚が精一杯だったろう。
 祖父の双眼鏡からSex Pistolsに話が飛ぶ道筋が自分でもよく分からないところだが、これもLondonに暮らした2年弱の体験による変化でもある。重い双眼鏡は昔から文鎮代わりに使ってきた。これからも世界各国から持ち帰った石と共に俺の座右で愛玩してやりたい。


追記
雨の利根川を渡り上野に。台風が接近中。
芝浜案件、勃発。さらに味坊での再会案件も。うーん、満州、人間関係濃ゆいからねえ。
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昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(3)。
10月15日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(3)。
 昨日の映画の話、「この世界の片隅で」の続きである。あまりに素っ気ない。
 一般的に敗戦前を知っている世代は、御本人が考えているほど価値観や考え方は次の世代に伝わっていないことをご存じない。
 とりわけ日本では、敗戦の後は戦争を語る時に後ろめたさが拭えないようになった。
 「映画についてお前が言ってきているのは分かりますが、小生にとってはそんなもんだというだけです。戦中派と戦後派の違いかもね。以上です、またメールします」
 身内は身内の気安さでそう書いてきたのだが、ここには重要なものが隠されている。映画で描こうとした当時の呉市に生きていた当人にとって、映画は所詮作り物と見える。映画が架空の物である以上、ある程度、それは仕方が無いことだろう。
 だが呉の街は大変懐かしいものがありましたと言わせた。偏屈老人に「大変懐かしい」と言わせたのだから、映画は企みに成功したということでもある。
 「時計屋さんに嫁いだお義姉さんのお話は母方の○○のお姉さんのお話の様なもので」
 これまた、結局のところ、映画の企みに乗ったということだろう。

 倫敦の純良(1935-37年) (掲載10).jpg
 この店の経営者はその後、どうなったのかということなどは、結局、あまりよく
 分かっていないのではないか、帰る家のあった者はまだよいが、移住した者には
 移住先と母国との戦争は地獄だ。

 身内にとって敗戦前の呉のあらゆることは自明のことで、しかし息子にとって想像を絶するものがある。当たり前のことだが、敗戦後に生まれた世代にとっては、敗戦前の庶民の普段の暮らしは分からない。身内は呉で尋常小学校に入学して、その後、転勤となった純良について豊川の海軍工廠内の官舎で過ごした。
 豊川大空襲では、官舎の八畳間には燃えないで落ちてきた焼夷弾が突き刺さっていたということ。さらに別の日、グラマンのF4F Hellcatから機銃掃射を浴びて、搭乗員の顔を見たことがあるそうだ。
 「それでも進駐軍に『ハロー、ギブミー・チョコレート』だからなぁ」
 本人は自嘲気味にそう言ったことがある。
 「豊川時代は、物質的には一番恵まれていたかも知れません。小学校低学年時代で何もわかっていない頃です」
 先日、そんな連絡があった。

事務所ノ窓ヨリ国会議事堂ヲ望ム.jpg
 こちらは昭和11年の海軍武官事務所からのテムズ方面の眺めなのだが、下記の
 現在建設中のマンションと高低差はあれどほぼ同地点であることが確認できる。

 開戦前の海軍駐在武官事務所の住所が判明したことを知らせると、
 「ご苦労様。『The Feathers』に行って乾杯したいのは山々なれど、当面は如何ともし難いですね。何れにせよ無事に帰国されることを祈念します」
 連続しているはずの感覚でいる親側と、敗戦で断絶しているようにも感じられている子供の側とに、意識の連続性についての深い断絶がある。
 話は飛ぶが、ここ近年、気になって仕方のない丸山眞男の批判的な再評価ついても、戦後の左翼路線はこの動きをどう見ているだろう。
 とりわけ、「丸山眞男の敗北」[伊東祐吏著, 講談社メチエ選書]とか「丸山眞男の憂鬱」[橋爪大三郎著, 講談社メチエ選書]などは再評価(批判)の急先鋒の最右翼に挙げられる。前者は1974年生まれの文芸評論家であり、後者は1948年生まれの著名な社会学者だ。

Northacre 10 Broadwayから見る国会議事堂方面の今(掲載).jpg
 現在再開発の進むScotland Yardの跡地の区画では、高級マンションが建設中だ。
 この予想眺望図ではWestminster Abbeyは低層で遮られて尖塔がよく見えない。

 後者は前者の著作について好意的な書評を書いたが、あるいは息子世代の伊東祐吏の著作に刺激されて自分の丸山眞男を削り出したいという欲望に取り憑かれたのか。
 橋爪大三郎も伊東祐吏も戦後世代。とりわけ橋爪の場合、団塊世代として丸山眞男について胸にわだかまりがあっても、批判的に論評することは封印してきた。
 ここに来て、丸山眞男に対して下の世代が「No」と言い始めた。「戦後政治の総決算」は大勲位こと中曽根康弘の専売特許だが、ついに「戦後の政治思想史が磔にされる」時期が到来したのだ。俺もまた橋爪大三郎や伊東祐吏と同じ敗戦小国民であったことを改めて考えさせられる。

追記
本日からはVHSビデオカセットやDVDの山脈へ向かいます。これもVHSしか出ていない古いアメリカのテレビ番組などがあって、簡単には処分できないんだよ。しかもアクビ娘の子供時代のロールなんかもあるから、時間は掛かるがそう大量に処分できる見込みでもないわけ。達成感低そうだわねえ。

追記の追記
先ほど、ようやく本日のメドを付けて投了。本棚とソフトを入れている棚を2箇所。雑誌を分解して一まとめにする、VHSやDVDの中身をざっと確認して、廃棄するか保存するかを決めるといった地道な作業だった。8時過ぎから始めて、午後7時まで、間に1時間ほど昼食の買出しに出た程度で、残りは働き詰め。正味で10時間ほど。
しかし廃棄に回ったのはミックスペーパーで紙袋2つ、ソフトウエア系で紙袋1つ。しかし古いもので20年程前からの手付かずの棚などを中心に攻めたので、もう、タブーは殆ど無いですわな。
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昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(2)。
10月14日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(2)。
 昨日の話の続きで、桑港の話だ。
 “我が偉大なる女房”の一族で宮島から19世紀後半に桑港に渡った一族もいる。実際に除籍謄本には毛筆で「加州桑港市」という表記がある。1998年夏から3年ほど暮らしたが、この時、まさかその移民たちの末裔がアクビ娘の通った幼稚園を経営する教会に通っていたとは知らなかった。
 今月末にも、また、その一族が日本に来る話もあるようだ。一族は日本でも拡がりを持っていて、日本に戻った人が宮島や広島にいるだけでなく、今や、名古屋、東京にも散っている。しかし交流の裾野がこうして広がるようになったのは遠い過去でもない。
 戦争に負けなければ、こうした一族の行き来は細々でも途絶えることも無く、もっと世界的に拡がり、民族や人種の血もさらに混じった一大ファミリーが交流を続けたかも知れない。そういう一族が増えてくれば、日本人の意識も変わってくると想うのだが。

倫敦日本人會 (1950別)
 こちらも倫敦日本人會の敗戦後の室内の様子で、フランス人所有になった1950年頃の
 写真だが、風呂以外は往年の倫敦日本人會の室内の様子を残していたそうだ。

 敗戦で価値観の転換が起きる時、世代間には意識と価値観の断絶も起きることを俺は身を持って体験した。
 2016年作品で、公開直後から大ヒットし、ロングラン上映中の「この世界の片隅に」。昭和20年の広島市と呉市が舞台の映画なので、我が一族は無関係ではいられない。
 俺は、日本のアクビ娘から2度観たと言われて驚いた。同じく呉の生まれ育ちで俺と同年の澄田健まで絶賛しているので、これまた驚いた。
 映画は機内で何度か観た。俺の実感として、銃後にあった庶民にとっての「太平洋戦争」として、丁寧に、よく描かれているということだった。主人公のすずは、美形でもなく、要領も悪く、おっちょこちょい。しっかり者というには程遠く、嫁いだ後も実家の親に心配されるような娘だ。
 嫁いだ先は広島市内ではなく、軍港の呉で、夫には嫁いだ姉がいて、この女の性格が悪い人でないにしてもキツイ。廣島県立呉第一高等女学校(ケンジョ)の典型のキャラで、見ていて笑ってしまった。
 広島の人たちから見れば、呉の人は何事に付けて武張っていただろうし、数年前に、四半世紀ぶりに会った身内からもそういうことは言われた。
 「母方は呉の士族じゃいうて西条の平民の父方の家は小さくなっとったし」
 威張っていなかったかも知れないが、威張っているように見えたのかも知れない。
 日常、スケッチし、デッサンすることが何より好きだった彼女が気の毒なのは爆撃で姪っ子を失い、姪っ子が握っていた右手首から先を吹っ飛ばされてしまったこと。
 広島地方の皆さんそれぞれの想いで観て、概ね感想も良好だったようだ。だが、呉で昭和10年(1935年)に生まれた身内からの感想は意外なものだった。

20170929 Westminster Abbey (別別々)
 こちらはWestminster Abbeyのバス停付近から撮影したテムズ川方面で、祖父が80年
 前に撮影した写真と、ビッグベン、Westmkinster Abbey等がほぼ似通った距離にある
 ことが分かるだろう。つまりWestminster Abbeyのバス停の後ろ、Scotland Yardの
 ビルの跡が、やはり武官事務所のあったところと推論できる。

 「先日、お前たちがおすすめの映画『この世界の片隅で』を○と○と3人で見ました。涙滂沱たるものだと聞いていたのだけれど、小生には面白くもなかったですね。隣のおばちゃんとお姉さんはハンカチが幾らあっても間に合わない風情だったようですが、映画はアニメ。少女趣味と言ったら身もフタもないですが、絵の描くのが上手な主人公が広島の海岸の生家から呉に来て色々と苦労をした様子です。但し映画の中で呉の街とか大変懐かしいものがありました。また、話の中に出ていた時計屋さんに嫁いだお義姉さんのお話などは母方の○○のお姉さんのお話の様なものでした」
 「結局広島の原爆の話をベースにした庶民のお話で、それから完璧な広島弁と呉弁との触れ込みである種の期待がありましたが、大したことないなあとの感想です、映画の語りと主人公はNHKの朝の連続もののアマちゃんでした。矢張り無理ですね」
 身内は呉で暮らしていたはずなのに、ともかくあまりにも素っ気ない。さて、こんな話だけれど、本稿、ダラダラと明日もお付き合い願いたい。


追記
昨日は朝から晩まで色々あって目の回るような忙しさだった。ま、それでも、汗をかきかき忙しそうな顔をしても、実は楽しんでいるわけで。これで2年位も汗をかくかなあ。師走には10年ぶりの中国の土地を踏むことになりそう。ま、北京じゃないけえ、官憲の目を潜り抜けられるでっしょい。オホホホホホホ。ざまぁみさらせ。
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昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(1)。
小倉日記’17(第一弾)
10月13日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(1)。
 先日来、Billy Childish(1957年-)の「My Boy Friend’s Learning Karate」の銅鑼の音が耳に残響として残っている。
 「チャララララ、チャチャチャー」
 お約束通りの中国風のジングルの後で、
 「ジャーン!」
 銅鑼の音が鳴り響く。そして場面は一転して、Thee Headcoateesの演奏と歌が始まる。
 「アタシのジョニーは空手に夢中」
 「彼氏はもうアタシの家には来てくれない」
 その後で、コーラスが入り、
 「Say Sayonara〜!」
 サヨナラを言うわ、と続くので、こんな結構を持った曲は耳にこびりついて離れないのも避け難い。

倫敦の純良(1935-37年) (赤の宣伝@Hyde Park Corner)
 祖父の手書きのキャプションには、「赤の宣伝」とある。いよいよ社会主義化しそうな
 かの国は、80年前からこんな調子で、モスクワとは仲良しこよし。

 銅鑼の音に中国ジングルで「空手」である。発音は「カラティ」で、楽曲の途中、元彼のジョニー君が悪役と戦う時に発する気合が入る。
 「×○△%$*!!、マッシュ・ポテ〜ト〜!」
 だとか、
 「ミッキー・マウス〜!!」
 とか、如何にもいい加減で笑ってしまう。
 1980年代から90年代前半は、イギリス人は中国と日本の違いなどはよく分からない。実際にHeadcoateesを率いるBilly Childishには「Jackie Chan does Kung Fu」という曲もある。こちらは香港映画を下敷きにしている。
 沖縄由来の「空手」も福建の「功夫」がその源流と言われるが、そんな深い歴史を知って2曲を書いたはずもないことは明らかだ。元々、古くは1950年代のアメリカのGarage Bandの楽曲にはこの手のAsian Tasteが散りばめられている。
 太平洋のど真ん中の孤島群を舞台にしているが、往年のテレビ・ドラマ、「Hawaii 5O」(ハワイ・ファイブ・オー)にもそのアジア人と文化を盛り込んで“それらしさ”を出す演出の意図は濃厚に感じ取れるだろう。
 ストリップ劇場や売春婦を置いたラウンジが並ぶLos AngelsやSan Franciscoでは、よくこの手の曲が使われていた。Quentin Tarantinoの「Pulp Fiction」ではテーマ曲にまでフィーチャーされた「Misirlou」はこのジャンルを代表する作品で、Dick Dale & His Del-Tonesの代表曲だ。

倫敦日本人會 (1950別々)
 1950年頃の倫敦日本人會の建物。内部は当時とそれ程変わっていなかったそうだが仏人が
 所有していたそうだ。日本人からは没収ですからねえ。

 映画で取り上げられるまでは、怪しいコンピレーションに収められていても、誰も、まともに取り合おうとしなかった。Dick Daleの怪しい叫び声が効果音のように入っている。こんなGarage Songが生まれ、倫敦のSohoや今の歌舞伎町と同じく、中華街と境界を接する性産業エリアのストリップ小屋で客寄せにかかっていたわけだ。
 (そうか)
 一時は世界最大の中華街と言われた「桑港」を忘れていた。
 19世紀、アメリカ大陸を横断する鉄道の敷設工事のために中国から工夫が集められたことが中華街の源流にある。 Jack Nicholsonの初期の代表作、「China Town」はLos Angelsが舞台だが、昨日まで、東京、北京、倫敦と顧みて、3年も暮らした桑港こと、San Franciscoを何も書かないというのも如何にも手落ちだなと思い直した。
 桑港については、岡田一族として面白い話が、倫敦にインド洋〜地中海経由で渡った純良が、帰国ではカナダのナイアガラ瀑布から入り、最後は桑港から出国して太平洋を渡っていることだ。1937年のことで、大日本帝國海軍は北米の軍港調査を強化していたのだろう。
 “我が偉大なる女房”の話になるので、本稿、ひとまず本日はこれにて。

追記
広告代理店だけが大儲けする選挙の季節がやって参りましたが、どの党でも相変わらずヒドイ選挙キャンペーンですなあ。メディアの選挙予測までバラバラで、ちっとも票が読めないねえ。困ったことですワイ。
| 10随想 | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0)
景気良く行くぜ。
10月12日
景気良く行くぜ。
 都内で酔心の薦被りの二級の樽酒を飲めるなんて考えもしなかった。嬉しくなっちゃうねえ。

某所にて

 安倍ちゃんどうなるか。政権交代したらぶっ飛びそうな話はゴマンとあって、俺もそんなプロジェクトに五年も絡んできたけれど、日本に戻ったら憑き物が落ちた。
 これからは心機一転仕込み弾込めの後に古い仲間とゴロマキをやろうかなと思う次第。大阪方面の古い仲間がいるから今度帰朝報告と共に密談予定。うっふっふっふ。

   刺身三点盛、酔心2合と高清水1合
| 10随想 | 17:02 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(下)。
10月12日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(下)。
 この奥野信太郎という人は、中国語でいう、それこそ破落戸(無頼漢)のところがある。親の財産を蕩尽したという意味では、金子光晴(1895-1975年)や獅子文六(1893-1969年)と通じるところがある。
 数え年12歳で熊本の連隊に転勤となった両親と別居し、それまで山手の暮らしだったのが、浅草の下町文化に触れ、陸軍士官学校も旧制一高の入学試験もしくじり3年間の浪人暮らしを送る。
 この間に浅草オペラの常連となったと本人も振り返っているが、実際には旧制中学でオペラに熱を上げ始めていた。
 「校長は三島由紀夫の伯父さんで、顔の恰好から眼の澄みようまでかれにそっくりで」
 「ただちがうところはいつも眉根に八の字をいかめしくよせているところである」
 「そのしかめっ面が割引き以降のオペラの小屋で、実に苦々しい視線を向けて、教え子の狂態ぶりを監視しているので」
 この校長とあるのは、開成中学の校長の橋健三(1861-1944年)。三島由紀夫の母方の漢学者だった。
 金子光晴はことさらに悪ぶるし、獅子文六は、なるたけ話をはぐらかそうとするが、奥野信太郎は常に真正面から記憶の対象にぶつかっていく。奥野先生のカッコいいのは、どうせ持ちつけない親の資産で身を持ち崩したところで、そんなもの、知れたものだということが腹にしっかりと入っているところだ。筆者も、還暦を過ぎた頃だからなのか、文学者の妙な韜晦と自慢が無いのが素晴らしい。

倫敦日本人會 (1919年改装時のフロア・プラン掲載)

 そんなことを考えながら、俺の倫敦を想う。先に書いたように、俺の倫敦とはSohoから中華街の20世紀の想い出なのだろう。
 1970年代末のDenmark Street のJohnny Rottenでもあれば、60年代末に全盛期を迎えたSex ShopをうろつくRoxy MusicやDavid Bowieでもあり、1930年代の半ばにManette Streetにあった「Tokiwa Restaurant」でご機嫌の祖父にも連なる。
 さらに、もう一つ忘れてはならないのが、Soho最寄のTottenham Court Road Stationから1駅だけ西のOxford Circus Stationに行くなら敗戦前の日本人らが集まっていた「倫敦日本人會」があった。英国日本人会(http://www.japanassociation.org.uk/)の前身。
 
倫敦日本人會
3 Cavendish Square, London W1(G0LB)  
Telephone : Langham 1258

 日本人が渡英すると、世話になったのがこの組織と施設で、各種の談話室があった。
 「本會は在英同朋紳士諸君唯一の社交機関にして御来英の諸君は是非御入會の上左記の便利なる設備をご利用あらん事を希望致します」
 当時の惹句通り、英国式の玉突室、食堂の牛鶏豚肉鍋、特別宴會室、支那料理宴會、ゴルフ教室、さらに泣かされるのがカード室、酒場、理髪室、私書箱、そして浴場まで設えてあったことだ。
 「5階建てのGrade2の歴史的建造物です。1919年にJapanese Clubが設置された」
 今、この建造物は大改築中で、新たにオフィス用の商業ビルとして貸し出されるのは来年になる。

倫敦の純良(1935-37年) (掲載4)

 「今と同じく5階全ての改造が行われたのがこのClubが置かれた時ですね」
 9月末、「John Lewis」の裏手の「倫敦日本人會」跡地を訪ねると、建物の全体に足場が組まれ、ビニールシートが掛けられて改装中だった。
 「私の祖父がここに80年前に通っていて」
 こちらが名乗ると、昼飯の時分だったからか、工事業者のManagerが改修事務所にしている部屋に招き入れてくれた。大きなA3のファイルをキャビネットから取り出し、過去の「Japanese Club」時代の写真を見せてくれた。
 「建物入り口で撮った古い写真を送りましょう」
 翌朝、Managerから、写真を受け取った、18世紀半ばに建設された歴史的な建物をできる限り大切に改修する旨の心のこもった返信があった。互いに知らない人の手から人の手に、記憶が手渡されていくのだろう。


追記
来年の一般参賀の話になった。待ち合わせ場所を決めて一族で参ります。どうなるかねえ。その後は三笠?、大和?
ってな会話ですわい。
| 10随想 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(上)。
10月11日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(上)。
 奥野信太郎(1899-1968年)還暦過ぎの随筆、「女妖啼笑」[講談社文芸文庫]を再読開始。
 本書は昭和34年(1959年)刊の初刊単行本とその後の全集を底本としている。実際に19世紀末に生まれた人が古い想い出を開陳しているから古い話ばかりだが、胸に迫る。
 渡英前に、丁度、奥野先生の「浮卋くずかご」[講談社]で綴られる敗戦後の風俗描写を愛読していたこともまだ記憶に鮮明にあり、手にとって見る気になったのだろうか。
 麴町、清水谷周辺の古い明治末頃の思い出などが綴られる。この記憶は筆者の祖父が、幕臣で安政の大獄で粛清された橋本左内(1834-59年)の弟で、後に陸軍軍医総監・子爵となった綱常であることもあるだろう。
 「その家には土蔵があって、そこに以前から幽霊の画の額がかかっていたというので、みんな気味わるがり、一年そこそこで移転したという」
 赤坂見附上から麹町に抜けるプリンスホテルの前の通りに面していた由。幽霊の画は、当然、洋画ではない。そもそも、奥野先生が実際に生まれた明治30年代末の事実より、さらに微 妙な古さがその記憶の中にない交ぜになって渾然一体となっているのがいい。幼い頃から漢学者に素読を習ったこともあり、奥野先生の場合、これ即ち江戸に連なる記憶でもある。
 最早、根絶したものでもあるから、倫敦のSohoに隣接する中華街の様子も重なって、こちらの胸に迫ってくる。
 それは、俺の思春期の記憶にも重なってくる。1978年末、「JAM」創刊準備中だった水上はるこが、Sex Pistolsを解散して行方が知れなかったJohnny Rotten(1956年-)にインタビューをしたことがある。
 インタビューは翌1979年の2月号の「JAM」(第2号)巻頭に掲載された。昨年、そのインタビューの行われた辺りを歩いて色々考えたこともあるだろう。
 「(1978年)秋には、デビュー・シングルの「Public Image Limited」が出て、年末のChristmasとBoxing DayにはRainbow Theatreで連続公演をやった(中略)。海賊盤は1979年春には新宿に出回ったので、直ぐに買った。「Theme」、「Low Life」、「Belsen Was A Gas」、「Annalisa」、「Public Image」、「Religion」、「Attack」、「Public Image」が収録されている――San Franciscoで消えた後、人前に公的に姿を現した初めての機会だったので――腰を抜かした」
 Sohoを歩きながら大略そんなことを綴っている。
 水上はる子とのインタビューが行われた時、Johnnyは、もうHampstead Heathのフラットを抜け出して、Kensingtonの外れのフラットに移住していたのだが、指定したのはSohoの外れの日本料理店であった。
 そういうJohnny Rottenの想い出が重なって、奥野先生の北京の故事も、忌まわしい21世紀の共産党が破壊し尽くすオリンピック前の北京の記憶は少しずつ薄れ、遠い昔の北京の想い出になるように記憶そのものが変質してきた。
 北京の庶民の料理は上海の魚食米食文化圏と違って、肉食餅食文化圏であり、さらに南の東南アジアの各国へ繋がっていると感じるよりも、北の遊牧民族に連なる食文化が想起されるものが多い。
 とりわけ、質素な白菜を使った砂鍋はうら悲しい胡同の暮らしを想い出させられる。2005年1月に俺の出した歓迎会の希望は、古い北京料理を喰わせる店であった。その晩、後に数少ない同志になった仲間は漢人1人、鮮人1人、日本人1人。
 「昔の北京は11月になると『山積みの白菜』が見られました」
 白菜は安い野菜で、近在の農家が白菜を馬車に引かせた大八車に載せてやって来て、辻々で放り投げ、方々で白菜が山積みになった。砂鍋はその白菜の漬物(酸菜)を使って、これにたっぷりその日ある肉を放り込んで頂く、満族の庶民料理だった。
 大して旨いものでもないのだが、これにたっぷりの薬膳にもなるような木の実などを加え、羊肉、鶏肉などを加えて煮立てる。そこに白酒でも安酒の代表格、紅星二鍋頭を合わせて宴会をやる。今では絶対に考えられない貧しい宴席だろう。
 奥野先生の記憶でも、美食・高踏の許された豊かな漢人の文明を下敷きに、実際には貧しい北京のインテリの胡同の暮らしが綴られる。共産党の牛耳る北京との違いなどに胸が迫る。
 「10年は行くな」
 北京への出入りを禁じられてもう10年以上が経過した。
 あの晩、歓迎のために集まってくれた3人はその後、北京を離れ、今では北米某地と日本に渡っている。俺の記憶も美化されるのもむべなるかな。


追記
これからまたまた出立。関東を行ったり来たり。いやはや。
| 10随想 | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0)
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