岡田純良帝國小倉日記

転がり出てきたモノ(40)――「ZOO」名物、「Japanese Hot Groups」。
12月13日
転がり出てきたモノ(40)――「ZOO」名物、「Japanese Hot Groups」。
 FRICTIONやY.M.O.は早かったが、元村八分の青木真一が加わっていたSpeed、P-Model、そしてSheena and the Rokketsが取り上げられるのが79年頃からになる。リザードやエックスなどもこの辺りから本格的に取材に応じるようになったようだ。
 そんな状況もあってか、23号(1979年8月25日)に至って、この雑誌で初めての「Japanese Hot Groups」というコーナーが現れた。相川和義さんの発案のように見える。その件は後ほど触れる。
 栄えある初回に取り上げられたのは千葉の「8・1/2」、新潟の「ドラッグ・ストアーズ」、鳥井ガクとも関係の深い東京の「螺旋」、所沢の「鉄城門」、同じく東京の「メトロ」。
 この23号までは、まだ、「読者コーナー」は設けられていない。だが巻末にある「編集後記」直下に「ライター募集」という呼び掛けと「ZOOアナーキー・ツアー」の告知がある。吉祥寺「DAC80」、渋谷「ナイロン100%」、西千葉「ベル・エポック」等で開かれていた。

 「ZOO」(1979年8月25日)(23号)(掲載2号)

 24号(1979年10月25日)では初めて「読者の広場」が登場する。それまでのオフ会と違って、誌上でのインタラクティブなやり取りが始まる。さらに「Japanese Hot Groups」コーナーの脇に手書きの「ローカル・ニュース」というコーナーが急遽設けられており、東京のシーンの最新情報が相川和義さんの名前と直筆で書き込まれている。
 「地方で活躍するパンク・ニューウエイブ系のバンドをおしえてください。ZOOのジャパニーズ・ホット・グループで紹介したいと思います。テープとメンバーの経歴等と写真を送ってください。気に入れば本に載せますのでどんどん送ってください。ZOO編集部(相川)まで」

「ZOO」(1979年10月25日)(24号)(掲載2)

 これでこのコーナーの主たる推進事務局長が相川さんだったと分かるわけだ。
 「気に入れば本に載せますので」というのがいい。御眼鏡に適わないと落とされる。
 24号の「Japanese Hot Groups」は第2回目で、町田の「不正療法」、スターリンを結成する直前の遠藤みちろう率いる「自閉体」、博多から「ムンク・ノイローゼ」。遠藤三千郎(と表記あり)は「みちろう&コケシドール」⇒「バラシ」⇒「自閉体」と変遷を解説している。

「ZOO」(1980年2月25日)(26号)(掲載2号)

 25号(1979年12月25日)では、東京の「コールドジャック」、和光の「アナーキー」、福島県いわき市から「J-UPS」。アナーキーでさえ、70年代の最後の最期になって駆け込んできたということになる。
 しかしそのアナーキーは翌26号(1980年2月25日)では記事に取り上げられている。「今だからこそ、俺達はナイフとチェーンなのさ」というタイトルで高沢正樹という人がレコード評を書いているのだ。そしてミチロウ名義で「Discommunication for Future」と題して「メタル・ボックス」評を寄せている。80年代の幕が開いたということだろう。
 この26号は、日本のバンド紹介では4回目になり、京都から「ノーコメント」、青山学院の学生バンドの「スキン」、そして博多「ダークサイドムーン」のミカが、出入りするバンドマンと組んだ「第4病棟」。伊藤エミが「80sファクトリー」を開ける直前。

  「ZOO」(1980年4月25日)(27号)(掲載2号)

 27号(1980年4月25日)では早くもみちろうが「みちろうの割れた鏡の中から」という連載を始めている。もうここに至ると、大阪の町田康の「犬」、同じく関西からソロの「Yoran(乱用)」、さらに東京キッド・ブラザースのメンバーを中心にしてメンバーが入れ替わる「三文役者」が取り上げられている。
 そして、これまたバンド紹介コーナーと別で、記事中に深谷の蔦木栄一・俊二兄弟の突然ダンボールが取り上げられている(高橋竜一、「ある種の孤高を持ったバンド」)。
 京都の「ノーコメント」の名は懐かしい。後に、書籍編集者になった元アントサリーの丸山さんがドラムを叩いておられた。俺がアメリカにいる頃に何度かやり取りをした。その後、どうしておられるだろう。
 こうして挙げて見るだけで、79〜80年(昭和54〜55年)には、かなり顔触れが揃っていたということが言えそうだ。昨年、相川和義さんが亡くなられてしまった。この名物コーナーの変遷を企画するスクラッチから語れる方がいなくなった。古い当時の読者の1人として触れておくのも意味はあるだろう。


追記
昨日はスネークマンショーで有名な「ホテルニュー○○○」周辺にて一日。疲れたねえ。
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転がり出てきたモノ(39)――1978年、Hugh Cornwell旦那の肉声。
12月12日
転がり出てきたモノ(39)――1978年、Hugh Cornwell旦那の肉声。
 大整理の跡を見返すと、「Jam」ではSex PistolsのJohnny Rotten(1956年-)、Sid Viciou(1957年-1979年)以外に、London Punkの一方の雄、Clashにも光が当てられている。この人選には創刊編集長の水上はるこの好き嫌いが多分に反映されているだろう。
 Clash組からはJoe Strummer(1952-2002年)のInterviewが掲載され、Mick Jones(1955年-)が黒髪のいい男にフィーチャーされているのだった。Interviewは取る気は無いが、黒髪のいい男。すっかり禿頭となった今のMickが見たら何と想うか。
 一方で、面白いのは、Ian Dury(1942-2003年)には大いに紙面を割いて、画家の合田佐和子まで引っ張り出してIan愛を綴らせている。往時の大和撫子女子オフ会のノリが濃厚に感じられて微笑ましい。
 それが、女受けしないバンドには冷たい。DamnedもJamも「Jam」創刊4号分ではあまり陽の目を見ていない。というか、殆ど、いるのかいないのか、目も呉れられてはいないわけだ。
 少なくとも、当時のシンコーの主力、「ミュージックライフ」の競合誌、「音楽選科」はJamもDamnedも応分に動向を報じていた。やはりシンコーの編集部内の上下関係か、水上はるこを筆頭とする女性陣によるアーティストの嗜好が誌面に色濃く出ていた。
 それで「Jam」に話を戻すと、日本でLondon Punkとされるバンドの中では、Stranglersが他のDamnedやJamと較べると図抜けて取り上げられていた。

Hugh Cornwell (1978)

 水上はるこのStranglers愛が偲ばれる。3号の表紙はJean Jack Burnel(1952年-)で、トップ扱いのInterviewがあることは記憶していた。今回、見直してみると、創刊号で早くもHugh Cornwell(1949年-)旦那からもInterviewを取っていた。
 今ではSony Musicの大幹部となった宇都宮カズ(一生)が聞き手。当時は「在ロンドン本誌特派」とある。78年までSONY本社でClashの担当をしていたが、いよいよ辞めて渡英し、Virginに入社する直前の頃だろうか。
 このInterviewで、Hughは、幾つか印象的なコメントをしている。
 「アメリカにだっていいやつもいるけど、好きな国じゃないね。行くたびに汚染されて、機械的な国になっていく。サンフランシスコだけはヨーロッパの国のなごりがあっていい」
 「ほかのバンドのプロデュースをするということは、自分のバンドのバリエーションを求めていることかな。今、イギリスで僕が手がけているのはポップ・グループというティーン・エイジャー・バンドだ。それに、僕らと似た音を出す、ジ・エッジというバンドもかなりいい」
 2人の間はいい雰囲気になったようで、San Franciscoのバンド、Tubesとの友情にも言及している。
 だが、Hugh Cornwell旦那の言葉だけに騙されてはいけないのだった。London北部Kentish Townの実家には、様々な音源のコレクションがある。近年は家のことも隠さず語るようになった。

「Jam」(3)

 「オヤジはクラッシックの大ファンだったけど、俺の上のアニキはジャズにはまった。Mose AllisonとかArt Blakey and the Jazz Messengersが好きだった。別のアニキはHendrixとCreamを家に持ち込んだ。これはいいけどあれはダメとか、俺の音楽の旅が始まったってわけさ」
 この人の父親はVictor Cornwell。戦時はRoyal Air Forceのエンジニア。Kentish Townの地主でもあった。
 息子は料理も得意。特に魚介料理がお手の物だ。健康管理も気を遣う。典型的な中産階級で、お座敷がかかれば、Ox/Bridgeの文士様たちのサークルに加わることもある。
 Stranglersから脱退したのは1990年。その後、残ったオリジナルのメンバーたちに脱退を非難された。本人とバンドの関係は修復していないこともあって、あまり一目に出るところには現れなくなった。脱退は階級特有の考え方の違いを感じさせる。
 3人は決めたら一生やり通す方を重視する。偉大なるマンネリズムを是とするのだが、Hughは飽きたら次の世界へ進んでいく。ここは良し悪しよりも、考え方の違いだろう。Hugh旦那は典型的な地主階級の4男坊主と考えるのが分かりやすい。


追記
昨日は尼崎ダンナ来来。三角公園と飛田新地の最近について取材。来年は久々に通天閣下集合、三角公園に参る方向にて決定。倫敦の野球旦那が来賓予定。ウッフッフッフ。本日これから武州某所に。忙しいねえ。
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転がり出てきたモノ(38)――「サンフランシスコ 旅の雑学ノート」。
12月11日
転がり出てきたモノ(38)――「サンフランシスコ 旅の雑学ノート」。
 これまで振り返ってきたように、高円寺の「ZOO」は、77年の夏から78年までは断続的に、その後は80年初頭まで定期購読で編集部の黒田義之さんに送ってもらっていた。
 その間にも、心斎橋の「Rock Magazine」のような雑誌は、西新宿か渋谷の輸入盤屋で気に入った号が出てくると註文していた。
 ところが79年以降、「ZOO」の後継含みで期待していた「Jam」は僅かに4号までしか買っていなかったことまで今回の整理で確認することができた。
 78年まででLondonのPunk Sceneに飽きて見限っていたことが最大の要因だった。Sex Pistols以外はPunkだと自己申告したとことで偽者に想えたのだろう。彼ら以上に社会からの圧力を受けるバンドは絶対に出ないだろうと感じていた。
 そして、79年になると、Punk出現前の75年辺りと変わらない感じもあったこともある。つまり、「Hotel California」に逆戻りだ。西海岸のヒッピー文化を礼賛する声が、再び大きくなってきたような雰囲気があったわけだ。
 事実、Los AngelsからThe Knackが「My Sharona」で出てきた。これはLondon PunkのMarketingの手法をそのまま西海岸風にパクっていた。
 BerkleyはSan Franciscoと共に、67年のSummer of Love以降は、Pistolsがのた打ち回っていた1970年代半ばから後半は、文化的に停滞し、沈静化し、惰眠を貪っていた。
 Eaglesの「Hotel California」は当時の大ヒット曲で、ヒッピーの感傷的な懐古趣味で染め上げられていたのに、また大手レコード会社の巧みな手腕で、The Knackのようなバンドが粗製乱造されていた。

    「サンフランシスコ 旅の雑学ノート」初版。

 その17年後はどうか。そんな経緯はすっかり忘れられていた。
 CaliforniaでもBay AreaはBerkley出身のGreendayは、Pistolsからツアー参加を打診されて最も激しくPistolsを非難した後進のPunk Bandになった。だが、ある種の後ろめたさもあったように感じられる。
 GreendayのBilly Joe ArmstrongとMike Dirntは10歳からの幼馴染で、共に72年East Bay生まれ。極めてCalifornia的な事情で、死別か離婚で、互いの家庭には難しい事情があった。親の周囲には音楽とドラッグが溢れていた。そんなCounter Cultureは生活に入り込んでいたが、それが社会を変える雰囲気は皆無だった。
 再結成の頃は、LondonではPunkは遠い過去ではあったけれど、Londonの街の中は浮かれているような気分が感じられた。DamnedもBuzzcocksもSex Pistolsの再結成騒ぎに続いて浮かれたように再結成するという話が出回った。
 「俺はずっと演りたかったぜ。演る権利があると思っていたからさ。ピストルズ以降、俺には100%打ちこめるバンドは見つからなかった。エキサイトしているけど、少し不思議な気分だな。一緒にやっていたは昨日のことみたいだからさ」
 Steve Jones(1955年-)が再結成の仕掛け人だったことは風の噂になっていた。
 Bay AreaとLondonはCounter Cultureの都会では近しいところがあるようでいて、実は、遠い。HND/SFOで8,300km、HND/LHRで9,600km、HND/JFKで10,800km。それがLHR/SFOは11,800kmもある。距離は気持ちと似ている。時間も近い。あればあるほど、経てば経つほど、何時の間にか疎しくなっていくものだ。
 Greendayに声を掛けたのはSteve Jonesだろう。昨年、自伝が出て、Billy JoeやMike以上に悲惨な家庭に育っていることがようやく広く知られるようになった。そして、子供の生まれたBilly Joeは家族と共に納まった写真で、「Sex Pistols Filthy Lucre Tour 1996」のOfficial Shirtsを着て、若気の至りを悔いた。遅かったが、それでいいのだ。

Billie Joe Armstrong and His Own Family!
 ガキができて、守るべき家族ができると、さて、Billy Joe Armstrongの顔付きは
 何と弱々しくなったことか。それが人間。アホロートルから闘うお父さんへと脱皮
 したわけだ。Pistolsの再結成には間に合わなかったけれど、俺が許しちゃるけん。
 彼の着たT-Shirtsに気付いた時には、俺はちょっと貰い泣き。

 1979年初版の「サンフランシスコ 旅の雑学ノート」[枝川公一著, ダイヤモンド社]が出てきた。もう、何年持ち続けているだろうか。著者の枝川公一(1940-2014年)はこの頃はまだ30代。
 章立ては3つ。「霧」「湾」「通勤者」、本書は、1970年代に書かれてはいるが、San Franciscoと周辺の暮らしの変わらぬ良さを伝えて、不朽の名著に数えてもいいだろう。枝川さんにはお会いしたかったが、果たせなかった。残念だが、諦めよう。


追記
本日は某所からアンちゃん来来で尼崎呑み。尼崎呑みはキツイけどオモロイでえ。わてらまたまたアンさんと来年には通天閣下の某所で集合してから、三角公園で百円シチュー喰いながら旅の芸人の出しもんにケチ付けてチューをキューっと呑む積もりなんやけどな。これはサンフランシスコとは段違の楽しみやねん。言うたらアジア呑みやなあ。

追記の追記
明日から寒くなるそうなんやけど、部屋は温かくしとくことに決めてまんねん。冷えはわいのこの身体にはあかんそうやしなぁ。
| 10随想 | 06:37 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(37)――Creation Records Statement。
12月10日
転がり出てきたモノ(37)――Creation Records Statement。
 1996年の夏に行ったLondonには、悪い意味で、まだまだ1970年代の英国病の残り滓がそこここに残っていた。
 どの店でもコーヒーが不味かった。KensingtonのHiltonのコーヒーの不味さは今も忘れられないほどで、煮込まれ過ぎて、黒い液体が焦げていた。
 ビールがぬるかった。パブに集まる白人イギリス人たちはそこらで唾を吐いた。

    The Phoenix Festival 1996  (3)

 店の白人店員も客に愛想笑いをしない。ガイジンが自分たちより大金を持っていると想わない。ガイジン相手の商売が金に化けると感じていない。
 連れのスコットランド人がギネスを頼むと、店員のイングランド人は、客のスコットランド訛りを聞き取って、スコットランドから来たのかと聞き返した。
 「スコットランドだが?」
 「一体、何年ここに住んでいるんだよ」
 スコットランド訛りが抜けてないと嗤う。
 「俺はスコットランド語に誇りを持っているのだ」
 連れは俺に向けてそう言ったが、表情はこわばっていた。それが彼らのゲームで、イギリス連邦全域で、自分たちで勝手にふて腐れていじけていた。
 だが、いい意味では、古き良き音楽産業がこれまた酒瓶の底の澱のように残っていた。 Notting Hill Gateの駅でも、Victoria and Albert博物館内でも、アクビ娘と父はバンド公式の黄色のNever Mind The BollocksのT-Shirtsを着ていたら声を掛けられた。
 ディジタル時代に入っていても、音楽産業はまだモノとしてCDで取引されていて、目には見えないネット上で行われる取引と違って、形態が直接的だった。
 Phoenix Festivalの公式パンフレットには、Virgin Megastoreが大きな広告を出して、Sex Pistolsの「Filthy Lucre Live」の予告広告が掲載されていた。レコード会社が大きなFestivalの資金支援をする古典的なシステムは変わらなかった。

    Sex Pistols Filty Lucre Tour Japan 1996

 だから市内でもOxford StreetからPicadilly Circusにかけて、Tower Records、Virgin Megastore、HMVなどの巨大旗艦店がひしめいていた。今は、旗艦店は跡形も無く消え、店のあった空間はFootlockerなどの別の業態に変わってしまっているのに。
 Sex Pistolsの再結成を観ることを目的に家族でLondonに行った時は、まだClashのJoe Strummer(1952年-)も生きていた。彼は44歳だった。
 Phoenix Festivalの前、7月12日の「New Musical Express」以降、3週間に渡って、Creation RecordsのAlan McGee(1960年-)が全面的に再結成を祝う「Creation Records Statements」を主要音楽誌に載せた。
 その後、John Lydon伝の序文もAlan McGeeが寄せている。
 「何れこの200年のイギリス史の、英雄として記憶されるようになるだろうけれども、俺たちがこの土地にしがみついているために、正当な評価をされる前に、Johnnyはこの世から消えていく宿命にある」

Creation Records Statement(1996.6.27) (2)

 「Lydonは俺のことを今の俺にしてくれた。そして、あらゆる世代の人間をその人間らしくさせてくれた。Lydonはポップ・スターではない。Lydonは最高の宗教であり、俺たちのJesus Christなのだ。Lydonが死んだ時、初めて世間は彼を理解するだろう」
 日本を出るまで、Sex Pistolsの再結成に関する人々の受け止め方は否定の嵐だった。成田から逃げ出すような気分で飛行機に乗った。俺は同世代のイギリス人に救われた。家族総出のPistolsのLive体験は、随分後になるまで引いて、俺の中にEnglandへの強い興味として形を変えて残った

追記
一昨日からまだ三十代半ばだった山口冨士夫の姿が離れない。俺、凄ーく、冨士夫が好きだったことを思い出したんだろうねえ。好きさ加減は骨絡みだもんなあ。
アメリカ人の親なら、差別は受けても、一家離散の可能性があっても、親父の国に引き取りはあつたかも知れないな。だけど、イギリス人なら奴隷扱いされるだけだから、テンから親にはそんな考えはなかったかも知れない。冨士夫は、気の毒だったな。人の親になり、異国にも暮らして色んなことが旅した後で分かって、俺は酒飲みながら冨士夫の親になってやりたかったなんて思った。不思議なことさ。
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転がり出てきたモノ(36)――築地にカリフォルニア・ワインの「日本の父」ありき。
小倉日記’17(第八弾)
12月9日
転がり出てきたモノ(36)――築地にカリフォルニア・ワインの「日本の父」ありき。
 2020年には東京オリンピックがやって来る。
 俺は、ずっと「江戸城天守を再建する会」(http://npo-edojo.org/)の会員として10年近く奮励努力してきたが、昨年の渡英直前に脱会した。
 これも、2020年までに天守を再建し、世界中からオリンピックを観に来る善男善女に、富士の高嶺を旧江戸城天守から観て頂きたかったということも自分なりに考え、それがどうも間に合いそうに無いと見て取って諦めたというのが実態だった。
 様々な地域で工作を行ってきて自分なりに体得したことは、大掴みにプロジェクトを見て、最大限のアドバンストと最小限のリスクを取ることが成功への最大の近道ということだ。最大限のアドバンスは国民世論を得ることと、最小限のリスクは住民の許諾を得る(つまり、天皇皇后のご了解を頂く)こと。
 ところが、創立時から、会の根幹には、運動は民間の浄財と寸志だけで賄い、政府に働きかけることはしないという大方針があった。
 江戸城は、現在天皇皇后の居住する皇居であり、これは宮内庁の管轄である。そして天守跡のある土塁を含め、建築物や遺構等は文部科学省の管轄する歴史的建造物である。そういった建築物や関連施設が集中しているのに、政府への働きかけを避けて、全てを民間主体で進めようというものだ。
 これは俺から言わせれば大変に筋の悪い考え方だ。宮内庁も文科省もウンと言わせて、幾ばくかの国のお墨付きを貰った上で、国民運動に昇華させ、浄財を募るなら、民間も拠出しやすいが、国のお墨付きは無いのに、政府の管轄する土地に民間の財源で巨大な構造物を建設できるわけがない。
 ところが帰国して気付いたのは、会は穏やかに2派に分裂して、この会を割って外で新たな団体を作った勢力があったことだ。そうなると、本来の会の方向性は変わったか。新しいHPを見ると路線転換で、事業主体が一般財団から公益財団を目指すとある。
 つまり、これまでの市民運動とCSV 企業・団体とが一体化するということだ。この事業主体が政府に働きかけて、2016年からは正式に政府から許認可を取り付けるための事業計画を作成して実行していく、という手順を踏むとあった。
 理想論が先走っていたところを、国土交通省、東京都まで含めて、大きく政府対応で構え、働きかけるという方向に舵を切ることになった。ロードマップが掲げてある。
 (うーん、随分、実現可能な方向に変わってきたなあ)
 一度は見限ったはずのプロジェクトだが、加入のお誘いもあり、悩みは尽きない――俺の得意とするところだし、是非、貢献したいところだが――
 1964年(昭和39年)は前回の昭和時代の「東京オリンピック」だった。先日触れた「Studio V Cafe」が1980年代に入っていた建物が、前回のオリンピックで選手団の施設として建設されたコープオリンピアだった。
 地階には、当時「Studio V Cafe」を出していた。地階に上る穏やかなアプローチがあり、階段脇に同じ系列の花屋があって、地下のヘアサロンに降りる階段も贅沢な空間だった。俺にはA君という年上の友達がいたので、店にはしょっちゅう顔を出していた。そこで知り合ったのがNさんだった。
 Nさんは苦労人のたたき上げだと仰っておられたけれど、昭和一桁の世代で、高校を卒業して遠洋漁船に乗って西海岸に密航した口だった。西海岸では鉄条網をかい潜ってメキシコに渡ったり、散々なめに遭ったりして、飲食店を数軒経営するようになった。日本に帰国して、日本への輸入業務を本格的に真剣に考え始めていたのだ。
 「カリフォルニアのワインを入れようと想ってね」
 プラザ合意の頃だった。
 赤坂東急ホテル(現:赤坂エクセルホテル東急)に小部屋を借りて、Nさんはワインの試飲会を催した。役人や調理人などを入れて、中々面白いメンバーを集めた会になった。Nさんはたゆまずそういう会を開き、カリフォルニア産のワインへの先入観を払拭する努力を重ねていった。
 当時、Nさんの事務所は、今は「江戸銀」[築地4丁目5番1号]や「すしざんまい奥の院」[築地4丁目5番12号]や「新喜楽」[4丁目6番7号]のある辺りにあった。
 「娘はアンタと同じ齢でさ」
 その言葉を聞いて、俺は逃げ出したのだったっけ。
 アホロートルは、ここでも勝負に出ることをせずに逃げ出したのだった。今にすれば、彼こそ、日本のカリフォルニア・ワインの父だと想う。洒脱な人で、とても懐かしく、近頃しきりに想い出される。


追記
富岡八幡宮で刺殺事件がおきるなんてねえ。今、若様侍シリーズとか、半七捕物帖とか、ちょいちょい拾い読みで、ニッポンと東京に慣れようとしているところなんだけれど、日本橋、赤坂、上野、浅草、両国辺りの古地図を勝ってベンキョーするかな、なんて小さな発心してもいる。有り難いことに、同じことは2006年の北京でやっていたから、勝手は分かっているし。

追記の追記
冨士夫の姿を観て、久し振りに俺がどれほど冨士夫が好きだったか、思い出した。好きでしたねえ。好きだったな。だけど何時も裏切ってくれたからねえ。愛憎半ばする昔の女みたいじゃないの。こんな人、日本人では他にないよ。
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転がり出てきたモノ(36)――「オイラの酒速三○本、サンハウスをブチ壊せ!」。
12月8日
転がり出てきたモノ(36)――「オイラの酒速三○本、サンハウスをブチ壊せ!」。
 日活アクションのファンの間では蔵原惟繕の脚本・監督した「風速四○米」[石原裕次郎、北原三枝、渡辺美佐子、川地民夫、宇野重吉等](原作・松浦健郎)が北海道大学工学部の人気を高めたことで知られる。 
 北大の学生でエンジニアを志望する学生役の裕次郎。北アルプスの山中で不良学生に襲われそうになった北原三枝を助け出す。1958年(昭和33年)という年は、これだけでオッケー。ワンゲルとアプレゲールの美女は合い矛盾するものではなかった。
 10年ほど上の占領期に青春時代を迎えた世代は悲惨だ。究極の住宅難であったから、春期発動しても自宅もどこも人目があるものだから、皇居の二重橋前の広場に行った。二重橋前の朝は使用済みのコンドームと懐紙を回収するバタ屋の狩場になっていた。
 占領期から35年も経って、時代も下ると、昭和も終わりの頃になる。戦中派から焼跡・闇市世代、裕次郎や三枝の子供や次男三男の世代になると、随分と風俗は変わっていた。野蛮な親と違い、シティー・ボーイ化して、「ディスコ」で娘狩りをする世の中になった。

Son House at 日比谷野音(1983.9.23)

 しかし、それはそれで応分にひ弱になっていて、「TSUBAKI HOUSE」の割引カードのところで触れたように、「新宿ディスコ殺人事件」のような事件が起こり始めていた。犯人は大学生だとか暴走族だとか言われていたが、乱暴目的に中学生を車で言葉巧みに誘拐して挙句の果てに殺してしまう。今に至るアホロートルの犯罪と通奏低音は同じ。
 アホロートルでも「TSUBAKI HOUSE」のNew Wave / Punkばかりかかる金曜日に通っていたのは、アホロートルの中でもマイノリティーだったと記した。1980年代前半、とりわけ1983年(昭和58年)9月23日に日比谷公園野外音楽堂で行われた「Crazy Diamonds サンハウスをブチ壊せ!」と銘打った一夜限りの再結成コンサートは尖ったマイノリティーたちも珍しく集結したイベントだったと想う。
 「あの頃には、サンハウスのイメージが誤解して受け止められているところもあった。暴力的だとかさ。だからそれに対するプレッシャーみたいなのがあったりしたけど」
 ヴォーカルの柴山俊之さんは、2010年の再結成ツアーでお会いした時に語っていた。
 確かに。野音に集まったアホロートルは、ナマで福岡・博多のサンハウスを体験していない世代であり、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読んでその存在を知った人も多かった。小説でSF的な怪物のイメージを増幅されて刷り込まれていただろう。
 だから「コインロッカー・ベイビーズ」のキクの存在をご本人に指摘したことがあった。
 「ふうん、俺はそんなこと、考えたこともなかったけどね」
 御大からは、もっともな答えが返って来た。
 そんな話をお聞きするようになったのは、歳を取ってから。アホロートルはとっくに卒業して「カタギになった」後。だから昭和の終わり頃には、アホロートルの悪足掻きで荒れてばかりいたのだ。
 柴山さんは、確かに学生運動が盛んだった時代特有のものが考え方の中にあったとは認めても、学生運動を背負ったりしなくて良かったとも言っておられた。

池ノ上疾風怒涛(3)

 アホロートル時代、「(お前のようなヤツは)カタギになれ」と言った美能幸三の言葉は言われた本人には大きな壁になった。後年、柴山さんと呑んでいた時、「サンハウス」が無ければ柴山さんが家業を継いでいたという裏話を聞いて俺なりに納得したと想う。
 もう有名な話になったが、篠山哲雄さんが柴山さんを電話で呼び出した時に、本人は断る積もりで出かけていくと、篠山さんの部屋には前から気になっていた鮎川誠さんが篠山さんと一緒に待っていた。
 「(こん人と)一緒にバンドするんやったら思い直そう」
 鮎川さんが前のめりでやる気満々だったこともあり、柴山さんは考え直した。
 大学と共にアホロートルをも卒業する積もりだった柴山さんはそこでバンドに本腰を入れることになったのである。覚悟が違っている。これが1970年(昭和45年)。
 それからも半世紀近い年月が経っている。親御さんとの関係もあったが、歳の離れたお兄さんには随分とっちめられたことを漏らされたこともある。他人とは想えない。
 1980年代後半には下北沢の夜の街でブイブイ言わしていたJの池ノ上のアパートでこうして「オイラの酒速三○本」を毎晩歌っていた。
 ついでに言うと、「風速四○米」の裕次郎は父親の土木工事会社に就職を希望していた。実家で働くというのは、楽をするという意味ではない。芸能者ではなくカタギになるという厳然たる一線が柴山さんの中で引かれていた。
 アホロートルはよく見ると、「Studio V Cafe」のT-Shirtsを着ている。「Studio V」はその頃、表参道のコープオリンピアで、地階には当時は「Studio V Cafe」を出していた。その折の話はまた別稿にて。。

追記
病院ナウ。運命の糸赤い雲捨て切れっこないさ。
ということで、本日、下北沢ガーデンにて、諸兄姐、シクヨロ。

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転がり出てきたモノ(35)――20世紀の終わり頃。
12月7日
転がり出てきたモノ(35)――20世紀の終わり頃。
 アニメ・「ルパン3世」は、イタリア人の大いなる勘違いのお陰で、とりわけ南部では、街行く殿方で、アニメ・キャラを刷り込んだT-Shirtsを着た人を幾人も目にした。
 「足もとに 絡みつく赤い波を蹴ってマシンが叫ぶ狂った朝の光にも似たワルサーP38 この手の中に 抱かれたものはすべて消えゆくさだめなのさ」
 時々、奥田民生ではないが、「ルパン3世その2」(詞:東京ムービー製作部)を叫びたくなることがある。さもありなん。
 先日、久しぶりだが、「浜草食堂」(幸区南幸町3-1-49, 4:30〜15:00, 日曜祝日休, 電話044-548-6029)の噂話になった。気に入った飲食店は長くは続かないというのが我が家の宿命。そういう話である。
 過去にはSan Franciscoでは1996年に開店し、98年には閉店した「陸羽軒 (China Village Restaurant)」( clement St. San Francisco)、95年に開店し、2004年には閉店した「Jasmine House」(2301 Clement St. (at 24th Avenue), San Francisco)、共に2つの料理屋は人気店でありながら、絶頂期に店を閉めた。賃貸料がどんどん上昇していったことが大きいと後になって聞いたことがあるが、如何にも残念なことだった。

浜草のメッセージ (2003年)

 帰国した翌年から通い始めた「浜草食堂」も、結局、長続きせず、俺が獄中幽閉中には店を畳んでしまった。いい店はどうしてか続かないねと噂していたら2003年の11月頃、お店から我が家に届いたメールのハードコピーが、今回こうして出てきたのだった。
 2002年の梅雨の季節から2004年一杯まで、2年半、ともかくも、何も無ければほぼ毎週末のどちらかは南部市場に通って、「浜草食堂」でブランチを喰った。
 春先のめごちの天ぷらから始まり、岩牡蠣、きす天、かつお、皮はぎ、石鯛、甘鯛、まとう鯛、真鯛、かます、アナゴ梅酢、鯵、秋刀魚、寒ブリ、殻付き牡蠣、ホタルイカ、やりいか、真蛸まで、赤海老、イセエビ、貝類全般に至るまで、喰いに喰い、ついでに日本近海の魚の旬も随分勉強した。
 その旬の勉強とは、市場で取り扱われている商品を眺めるだけではなくして、市場内の「浜草食堂」で、各々の旬の魚介を味わうことで体得するものだった。2014年頃には、南部市場は幸市場と名称も変わり、今は市場で「水喜」のある辺りに「浜草食堂」があったことを覚えている人は少なくなった。

    20171110 大森地獄谷某所

 「浜草食堂」は市場内のお店だったから、賃貸料で苦しくなることはなかっただろうが、過去に経営していた料亭を再興するには市場の商売を続けるだけでは難しかったのかも知れない。しかし我が家にとって、店が消えたのはあまりに大きく、「Chiba Village」、「Jasmine House」、「浜草食堂」と、97年からの10年ほどは、国をまたいで通った店を並べると、この3つの店に較べられる店はその後、1軒も見付けられていない。
 そして、一方で、身内になりかかった店も同じような運命を辿ったところがあった。大森駅西口の通称、「地獄谷」、正式には「山王小路西口飲食街」内にあった「アラスカ」。ここもその一つだろう。
 東口の大森飲食街とは、東海道線沿いに向かい合って並んでいるのだが、「地獄谷」は戦後の臭いの漂う一角で、店は10年ほど前まで所有者も代わって、「すなっく なを」と店の看板を変えて、それでも営業中だった。
 俺の知っていた頃の「アラスカ」のママはMさんで、波乱万丈の生い立ちだったはずだ。昭和15年(1940年)辰年の早生まれで、お父上は星港の貿易商、その裏で日本軍に徴用された「軍属」の顔を持っていた。母上は星港の華僑であったと記憶をしている。
 戦後、シンガポールでは日本人の子を産んだ華僑の娘はどのみち何かと厳しい環境に置かれることは自明であったから、お父上は、幼い娘と共に女房を連れて引き揚げ船に乗った――そういう話をMさん本人から聞いたことがある。


追記
昨夜は敦賀直送の魚を突ついて某所にて痛飲。こんな調子では壊れるなぁ。
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転がり出てきたモノ(34)――Mick Jagger on Seditionaries。
12月6日
転がり出てきたモノ(34)――Mick Jagger on Seditionaries。
 Lynn Goldsmith(1948年-)がアブラのノリノリだった頃に、Rolling StonesのAnaheim(Angel Stadium of Anaheim)のコンサートの楽屋裏をドキュメンタリー風に撮ったことがある。
 78年夏。この頃のAnaheimのコンサートの模様ならYoutubeにも上がっているので誰でも観ることができるだろう。7月24日のコンサートだ。70年代前半、Rolling Stonesのようなビッグネームは、スタジアム以外でコンサートをすることはなくなっていた。
 「アイツらは俺たちの手の届かない世界に行っちまったんだ」
 Johnny Rotten(1956年-)のようなLondonでPunk Bandを組んだ世代は1950年代半ばが中心だった。アメリカ人はそんな泣き言は言わないのだが、イギリス人は、10歳ほどの違いでもあり、近親憎悪も手伝って、Rolling StonesやBeatlesに対して僻んだ悪口雑言を吐いた。

Lynn Goldsmiths Roling Stones at LA(1978)

 手元の「Jam」(創刊号)はあの内田裕也(1939年-)御大が「俺の愛おしい兄弟たちよ!」とタイトルを打ち、コンサートを観たという構成で手記も寄せている。
 楽屋にBo Diddley(1928-2008年)やElvis Presley(1935-77年)、Gene Vincent(1935-71年) & the Blue Capsのモノクロ写真が引き伸ばされてパネルにして飾ってある。その前で、Keith Richards(1943年-)が楽器を抱えている写真が掲載されている。
 「俺にとってローリング・ストーンズとはなんだろう。俺はもちろん盲目的なファンじゃない。あいつらとは同胞、兄弟、親族、とにかく他人とは思えないのだ」
 内田裕也御大はStonesにビシれているのにMick Jaggerのシャツには言及が無い。Mick Jagger(1943年-)はこの時、Malcolm McLaren(1946-2010年)の店「Seditionaries」製の「Destroy」Shirtsを着ているのだ。
 78年の夏ということは、この半年前、San Franciscoで解散したSex Pistolsはもう消えていた。当時のInterviewで、
 「俺たちの悪口を言っていたけど、今、アイツらはどこにいるのかな」
 Mick Jaggerはそんな意地の悪い言い方をした。典型的なイギリスの下流中流階級の言い回しだ。
 「Glen Matlockは結構いいMelody Makerだと俺は注目してたけどな」
 Keith Richardsはそういうフォローアップを忘れない人でもある。
 「俺たちの悪口を言っていたけど、今、アイツらはどこにいるのかな」
 当然元メンバーたちは、それぞれこのインタビューを読んだはずだ。どう感じたかは言うまでもないことだろう。
 Malcolm McLarenはこのMick Jaggerの姿についてコメントは残していないように想う。だが――14歳の俺にとって、この姿は大きな衝撃だった。
 バンドが消えてしまっては、嫌味を言うこともできないのだと思い知った。Johnny RottenはJamaicaの旅から帰ってきて、Kensingtonのフラットに引っ越し、逼塞してバンドのメンバーを集めていた頃だ。バンドも無いのだから、人前に出られる時期ではなかった。

Mick Jagger at Anaheim (1978)

 1996年にSex Pistolsが再結成した時、賛否両論が渦巻いたわけだが、反対する人はこういう話を知っているだろうかと想う。考えたこともないだろう。
 バンドが解散したのはSid Vicious(19657-79年)のような益体も無いJunkieの存在もあっただろう。だが母国イギリスの社会から締め出されて、まともに演奏できなかったことが決定的だった。イギリス社会は、王室に牙を剥くと見るや何でもやる。
 口喧嘩の勝ち負けだけで見ると、1978年夏の時点では、Mick Jaggerの勝ちだった。結局のところ、やり続けなければダメだ。社会と闘うなら、腰を据えてやらなければと思い知らされた。あのままではガキの遠吠えに過ぎない。絶対に負け犬になりたくない――そう感じたことも確かだ。茂センセイの言い方を借りるなら、アホロートルからの脱皮を真剣に考え始めた頃だった。
 Nancy Spungen(1958-78年)を殺した容疑で逮捕されたSid Viciousの保釈金の一部をMick Jaggerが肩代わりした話も史実になった。涙もろくなったJohnny RottenはMick Jaggerのこの行為を有難がった。
 そうだろうか。Sex Pistolsが体現していた禍々しく攻撃的な何かを、Mick Jaggerが畏れた裏返しのように今の俺には感じられる。


追記
軍需工場跡を訪問。周囲の環境と比較して、中々興味深い眺め。帰途、富士山頂に吹雪が北から吹き上げているのが大東京圏を挟んで遠望できた。信じ難いが、そういうきれいな大気があった時代に戻ったのだと言える。半世紀近くかかったわけだが、大したものだ。あれほど赤茶けたスモッグだらけの東京の大気がスカスカになったのだからな。
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転がり出てきたモノ(33)――絶好調の頃のシゲル節炸裂。
12月5日
転がり出てきたモノ(33)――絶好調の頃のシゲル節炸裂。
 2009年6月に日本経済新聞に連載されていた鹿島茂(1949年-)センセイのエッセイ。この頃、丁度、このセンセイのエッセイを読んで膝を打った記憶がある。
 ここにあるアホロートルとはオオサンショウウオの変種、ウーパールーパーのことだ。子供の形(幼形)のまま、おたまじゃくしのような形で成熟した固体のことを指す。
 センセイのこの論で、「1975年頃から始まった」という1975年という区分がいまいち分からないのだが、オイルショックの後で、すっかり学生運動が静穏化した時代という意味ならそうかも知れない。
 
 「アホロートル
 一九七五年頃から、若者が知的な過層に入ることを拒否し、遠方指向性を失うようになったが、それは同時に成熟することの拒否でもあった。ようするに、大人にならず、いつまでも子供のままでいたいという願望が潜在的なものから顕在的なものに変わったのだ。オタク化とは、こうした成熟の拒否の具体的な現れにほかならなかったのである。
 しかしながら、それでも、バブル崩壊の前までは、成熟を拒む若者は少数派であった。記号学でいうところの『有標』、つまり少数の『目立つ』存在であったのだ。だからこそ、オタクなどというネーミングが生まれたのである。
では、なぜ、オタクは少数派にとどまっていたのか?
 社会に、子供を一気に大人社会に組み入れる通過儀礼(イニシエーシヨン)が存在していたからである。入社試験とそれに続く新入社員研修制度である。
 とくに、現業部門を持つ企業は、エリートとして採用した社員も現業部門から研修をスタートさせたので、か弱だった新入社員も、現業部門の古参兵的な社員によって鍛えられ、徐々に大人になっていった。いいかえれば、自分の利益のためにだけ働くのではなく、同僚のためにも仕事をするという価値観を身につけていったのである。
 この企業による通過儀礼は想像しているよりもはるかに「若者の大人化」に貢献していた。
 それは、戦前の兵役制度に等しかったとさえいえる。戦前に軍隊が果たしていたイニシエーションの役割を戦後は長らく会社が引き受けていたのである。大学はといえば、こちらは戦後一貫してイニシエーション機関となることを拒否してきた。学生運動がその役割を部分的に演じていたにすぎない。軍隊を所有しない平和国家ニッポンにあって、唯一会社が軍隊の代替物として機能していたといえるのだ。
 ところが、バブル崩壊とそれに続く十年不況によって、会社のこの機能が徐々に失われていった。なぜなら、バブル崩壊で人員削減を至上命令とすることを余儀なくされた企業はどこも正規雇用を減らし、派遣社員を増やすと同時に、現業部門をアウトソーシングせざるをえなくなったからである。つまり、国民の『成人教育機関』としての役割を放棄する以外に会社が生き延びる道はなかったのである。
 だから、一概に、企業を責めることはできない。資本主義社会では『会社をつぶさない』ということが第一の綻だからである。
 この意味では、責められるべきは、戦後、通過儀礼の役割を会社に押し付けてきた歴代の政府である。政府は、成人式という絵空事を除けば、社会にとって一番大切な若者の通過儀礼というものを重要視してこなかった。そんなものが必要だとすら思わなかった。黙っていても会社が代行してくれていたからである。
 だが、バブル崩壊後、会社が通過儀礼の役割を放棄したことで、この大切な役割を演じるものがだれもいなくなってしまった。その結果、通過儀礼を経ないで子供の価値観にとどまるオタクが増加し、少数派どころか多数派になったのである。
 いまの日本人は、幼形成熟する両生類アホロートルに似ている。そう、『一億、総アホロートル』の社会が出現しつつあるのだ」

経文・経典。

 しかし企業は企業で狡猾で、教育を放棄して、ディズニーランドで入社式をやった。新入社員にゴマをする一方で、派遣社員を戦力にカウントしながら、一切の社会保障は拒んできたわけだ。
 その結果、第二新卒が常態化して、異動の辞令を拒否することが珍しいことではなくなった。そういうアホロートルに話を聞くと入社面接のハウツー本を丸暗記したような紋切り型のことは言うけれど、それだけ。
 「それで?」
 そう聞くと、絶句してしまう。
 昨日のUセンセイのような奥行きなどは感じられない。自分で思索するようなことを、根底から放棄している。それでも何とか学校を卒業できるようになってしまったわけだ。学校の教師も酷いからな。全部、「お願いします」だと、後になって親が泣かされる。

鹿島茂「アホロートル」(2009.6)

 「悪夢のSF社会
 日本人全員が成長することを拒否して、幼形成熟の両生類アホロートルになるとしても、それが果たして社会に損害をもたらすのか?むしろ、会社人間のような大人ばかりの社会のほうが抑圧的なのではないか?
 こうしたアホロートル肯定論がありうることは私も十分に知っている。しかし、それは、あくまで、アホロートルが社会の少数派に止まっていると仮定した立論にすぎない。アホロートルが多数派になった社会というのは、やはり悪夢的なSF世界である。
 そのシミュレーションをひとつやってみよう。
 まず、アホロートルは外見こそ大人であっても、心は子供のままだから、我慢や自制心というものを知らない。しかも躾(しつけ)のいい子供ではなく、我がままなガキである。だから、なにかムカッとすることがあると、すぐにそれを表情に出すばかりか、ただちに行動に移す。これをものすごくわかりやすい表現でいってしまえば、『気に食わない奴はブッ殺せ!』ということになる。つまり、衝動殺人が日常茶飯事となる社会である。
 第二にアホロートルは子供であるから、面倒くさいことが嫌いである。ところで、面倒くさいことの筆頭は労働である。労働こそはアホロートルが最も苦手とすることだ。朝早く起きて満員電車に揺られ、会いたくもない同僚と会って、やりたくもない仕事をしなければならない。アホロートルはできるものならこれを拒否したいと思う。そして、親のスネをかじればそれが可能だと知るや、ただちに労働をやめてしまう。かくして、親の存命中は引きこもり、親が死んだ後はホームレスという人が多数派を占める社会が到来する。
 第三に、アホロートルは子供であるから、異性とかかわりのあること、すなわち、恋愛や結婚ということが何よりも恐ろしいと感じる。なぜなら、それは自分の王国に他者を招き入れ、共同統治を承諾することだからだ。これは、アホロートルにはとうてい受け入れがたい。ゆえに、アホロートルは恋愛せず、結婚もしないで、二次元の恋人で満足することになる。理の当然として人口は減少し、社会は崩壊する。
 と、ここまで書いてきて、これは何も未来社会ではなく、平成日本の現状の記述ではないかと思えてきた。日本はすでにアホロートルが多数派となった悪夢のSF社会に半分くらい足を突っ込んでいるのである。
 では、日本をかつてのような大人社会に戻すことはできないのだろうか?
 残念ながら不可能だと答えるほかはない。
 なぜならば、アホロートル化した息子や娘を抱えて悩む親たちが生活の資を得ている会社の多くは、アホロートルが増加してくれないと業績が伸びないような構造になっているからである。日本のほとんどの会社は、社会が重厚長大の第二次産業から抜け出して、サービス業を主とする第三次産業に移行した頃から、アホロートルの消費にその利益の大半を依存するようになっている。いいかえれば、お父さんお母さんが子供のためを思って一生懸命に働けば働くほど子供たちのアホロートル化は加速してしまうという絶望的な状況が生まれて久しいのである。
 アホロートルの増殖は国民の総意による。なんという逆説であろうか!」

 これにもう少し加えるなら、男女雇用機会均等法以降、アホロートルのことを猫撫で声であやす声の大きな女性が将来の女性リーダー候補に選別されていく時代でもあった。
 だから、女子リーダーたちにはアホロートルの増殖に加担してきたお調子者が多い。アホロートルの垂直統合で自画自賛のサイクルが出来上がった。結果的にそうなるよう、企業や政党でも、仕向けて、煽ったところがあるだろう。
 我が家はマイノリティーだからか、日本で叫ばれていた裏付けの無い女子の過保護、リーダーの育成に女子連が反対してきた。今、日本の各界で育った女性リーダーは世界標準から見ると厳しいものがある。
 例えば、フランスから出てくる女性リーダーのたくましさ。5人くらい子を産んで、育てながらバリバリやっているのはザラにいる。
 日本では子育てママの味方ですなんて言って、宅弁辺りと乳繰り合うセンセイがいる。そしてその毒婦が再選される。これ、我々の血税。世が世なら、天誅モノだ。


追記
本日は坂東太郎を渡って某所へ。寒いけれど、まぁ、楽しい。色々ありますが、これからのことを考えてのものだ。忙しいのと隊長とのバランスを考えないといけんのだけどねぇ。
| 10随想 | 06:23 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(32)――Uセンセイの名刺、語録メモ。
12月4日
転がり出てきたモノ(32)――Uセンセイの名刺、語録メモ。
 もう何年も前に亡くなったUセンセイ。仲のいい友達だった。教養学部で仏門専攻。後の学長殿に卒論の指導を受けた人物。
 センセイの周辺には映画業界に進んだ人が何人かいた由。けれど、センセイは映画の世界には進まなかった。
 「いやぁ、僕には向かないでしょう」
 Uセンセイはそういう言い方をする。
マンションで孤独死していたそうだが、亡くなったのは10年近くなるかも知れない。センセイの生前の名刺が突如、友人たちの名刺の山から出てきた。
 そして、同じ日に、センセイの語録を書き付けたメモも出てきたので引きたい。
 「U語録
 1)小説評
  「会話が多くてスカスカしていてさぁ、空白が勿体無いよね」
  吉行淳之介の「暗室」や「砂の上の植物群」を読んだ感想がこれだった。
  この発言の真意は、「あんな会話、要らねえよ」なのである。脳内で意訳しなければUセンセイの意図するモノは伝わらないのだった。
  それが、Marcel Proust(1871-1922年)の「失われた時を求めて」になるとこうだった。
  「いやぁ、読みましたよ、私ゃぁ。20世紀の仏門としちゃぁ、読まんといけん」
 2)川柳川柳の話
  「あれ、いいよね」
  川柳川柳(1931年-)が師匠の三遊亭圓生(1900-79年)の自宅玄関前に脱糞したという有名な話。圓生は後にテレビで弟子が自白するまで事実を知らなかった。晩年の金子光晴(1895-1975年)が「小川宏ショー」で告白した川柳川柳を好いていた話の流れ。

    Uセンセイ語録メモ

  Uセンセイは泥酔すると昏倒したようになって眠り続ける癖があった。酒に酔って脱糞する人物は犯罪性向が高いということは、法務省の古くからの見立てでもある。
  川柳川柳師匠は今も健在だが、敗戦後のニッポン社会には珍しい、最期の無頼派という感じがあって、俺とUセンセイの間では話題になりやすい人物だった。
 3)大浴場事件
  「いやぁ、僕ぁ、その輪に加担していたかどうか」
  1987年、某所の寮で俺はUセンセイと出会った。この頃も嵐のように荒んでいて、さもしい浪人風だったのだろう。歓迎会の席で、先輩に仕組まれて、俺は大浴場に投げ入れられたことがあった。
  先ほどの川柳川柳の脱糞事件では、圓生師匠の机の上に褌を置き忘れたという話があるわけだ。さもしい浪人風だった俺は、Uセンセイに「同じことやりかねない」と言われたことがあった。遠い昔の話だ。
 4)温泉旅行で
  「タバコ、見付かった?」
  Uセンセイは俺とはタイプが違っていたが、読書をしながら猛烈なピッチで洋酒を1人で飲んでいた。玄関には東京の書店から郵送されたダンボールが積まれていて、本とVHSが友達のようだった。品行方正なタイプでなく、マイノリティーだから、俺たちは地元の親善組織に入らされて、週末になるとよく行事に借り出された。
  どこかの温泉に行って、バーをハシゴして温泉宿に帰る途中、タバコを無くした。
  翌朝、目覚めると、開口一番、Uセンセイはそう言った。
5)我が家で
  「本が少ないよね」
  我が家に来たUセンセイ、本棚を一瞥して言ったのは、2001年だったかと想う。
  市立図書館を利用して、本を買わないように我慢したが、それもその後で挫折した。今では買った本をまたドえらい時間を掛けて売り飛ばしているのだから世話は無い。そこで、吉行淳之介の話になって、「スカスカしている」という話に戻るわけだ」

    「酩酊船」[森敦著](復刻版)
    Uセンセイのお気に入りだった森敦の「酩酊船」。この手の幻想的な小説にイカレて
    おられました。それでそのまま逝かれました。そういうギャグが好きな人だった。

 つらつら顧みて、Uセンセイと俺は付かず離れず、20代から四半世紀近く付き合った。怪人・怪物・犯罪者等に憧れを懐きつつ、俺とは違うからね、という醒めた所があった。それなのに、最晩年は大量の飲酒であたら命を縮めることになった。
 死んで、彼は怪物の系譜に位置付けられるようになったのだ。想えば、Uセンセイは不思議な人物だった。誰とも較べられない。芸術作品世界の中に惑溺して酔生夢死したDilettanteという感じがある。


追記
徐々に片付いてきたのだけれど、最終的には収容する収容スペースそのものを変えてしまおうというのが今回の狙いでもあるので、3〜4畳分は荷物はとっ散らかったまんまだ。キッチン系は5年暮らすために買い込んだ調理器具と鍋釜で引き出しも何もかもパンパンでおよそ倍の物量が突っ込んである。いいのか悪いのか分からんわい。

追記の追記
富士正晴の戦争モノ、面白いなあ。今まで読んだ中でイチバン面白い。洒落のめすと怒りと哀しみが伝わってくる。これは浪花の人でないと厳しい。関西人の逆説やん。関西が気になっている師走でありんす。
| 10随想 | 06:38 | comments(0) | trackbacks(0)
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