岡田純良帝國小倉日記

続・水出し茶。
7月20日
続・水出し茶。
 というわけで、本日も続く水出し茶。色々あるけえねえ、楽しんでおります。

   水出し茶 (5).jpg

 朝、一杯飲む時が至福の時間で、一歩外に出ると、駅まででぐっしょり汗で全身が濡れて、冷房車に乗ると冷えるわけだよねえ。若い頃にはそれはなかったのだけれど、気化熱で冷えるのが辛いところですわねえ。
 水出し茶は、そんな一日の始まりに優しい。

水出し茶(6).JPG
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P仙の「夏の栞」。
7月18日
P仙の「夏の栞」。
 日本全国で呑み喰いした店の箸入れはこうしてその時に読んでいた書籍の栞になるのだったぜ。ウハハハハハハ。
 神戸、大阪、名古屋、三河、横浜、虎ノ門、新宿、中野等々。よく呑んできました。
 まぁ、中でも面白いのは、今でも10年前に店を畳んだ東北沢の某家の領収書を持ってることかな。懐かしいな。
 昨夜は湯島某所にて一杯。ソロ活動也。こういうソロ活動も一体どのくらいやっていなかったか知らん。そういう気持ちになったのも、身内の死があったからかも知らん。
 何がなにして何とやらだけれども、気持ちの変化を楽しむことは、大切やねえ。諸兄姐から言葉を掛けて頂いて誠に有り難いことです。

P仙の「夏の栞」.JPG
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気になる言葉(漆)
7月16日
気になる言葉(漆)
「開高健全人物論集2 人よ、いざ」[潮出版社]
 同郷・浪花の先人、井原西鶴(1642-93年)についての論評も興味深いところだ。開高自身、大阪の生まれ育ちを意識しているのだが、普段はそこから伸び上がり、自分自身はどの土地にも属さない流れ者でありたいと願っていたように思える。しかしここでは相手が西鶴であるからか、故郷への思いが少し違う面で出る。
 「彼の資質の特異さは、早くいえば“西鶴”というよりは“サイカク”と読んだほうがピッタリくるといってもよいようなものであった。それほど彼は私にとってみずみずしく桁はずれなものに映った。これには一つ、私が大阪生まれの大阪育ちであるために、織田作之助が判定をくだしている西鶴の“大阪人的性格”としての諸特質がたいへんスムーズな親近感をもって自分なりに理解できたということも手伝っている。が、私の第一印象として“西鶴”を“サイカク”と読みたくなったのは、やはり彼の感性のタイプが日本の古典文学の感性の系列のなかに占める異質さのゆえであった」

「好色一代男」(1)。.jpg

 「わけてもあの膨大な規模で展開される『源氏物語』などのなかに流れているのとはまったく質の異なった時間意識が、西鶴のなかにハッキリ感じられた。それは私にとっては、やはり“西鶴”とか、“さいかく”などというよりは、サイカクと呼んだほうがふさわしく感じられるほどの性質のものとして映ったのである」(昭和34年11月5日『古典日本文学全集』第22巻付録2『私と“サイカク”』筑摩書房)
 「そういう気がしてくるのはもっぱら彼の文体からくる効果のせいであり、その文体のこめた精神の生理のためである。ひとことでいうと彼がその遊びの精神をゆだねた文体は節約されすぎ、結晶されすぎ、透明でありすぎるのである。おそらくそれは談林俳諧師――恐るべき師だが――として鍛えに鍛えぬいた彼の前半生のためである」
 この人は15歳でプロの俳諧師を目指したが、女房を30代で亡くして追善興行を行った。

       「男色大鑑」。.jpg

 「吉田精一氏が『一代男』を評してその本質をロマン・ピカレスク(悪漢小説)だとしたのは、“すこしヘンチキ論”だという自戒の評語にもかかわらず抜群の鑑賞眼を示した批評だと思われる(河出書房版・国民の文学・西鶴名作集・解説)」(昭和46年10月15日『カラー版現代語訳日本の古典17』『才覚の人、西鶴』河出書房新社)
 「現代の若い作家とちがって西鶴は密封された高原の住民であったから、外国物を下敷にして書いたというウソ寒さを感じさせず、好きなままに着想奔出して筆をすすめていったものと読める。形式としてそれは『源氏物語』のパロディーである。ただし、中国の文人や詩人の詩句の引用がよくあることに注意すると、中国文学はこれまた古代からとめどないロマン・ピカレスクの天国であったから、西鶴もまたその何かを読んで踏襲しようと考える気になったのかもしれない」(同)
 実際、西鶴には冷んやりとした手触りがあって、削り落としたハードボイルドみたいな感じがしたものだが、そう読んでいる人たちも昔からあったのだと知って嬉しかった。西鶴にはとかく虚無的なところがある。
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気になる言葉(肆)。
7月14日
気になる言葉(肆)。
 「開高健全人物論集1 人よ、いざ」[潮出版社]
 昭和33年(1958年)夏、まだ20代の開高健(1930-89年)は、きだみのる(1895-1975年)に初めて会った。
 開高「ぼくはきださんのものをずいぶん読んでる。『気違い部落』が、はじめてでたとき、あれは昭和二十二年ころでしょう。ぼくがおそらく(旧制)高等学校に入った頃でしょう。食うものも食えず、世のなかは乱れ放題だったし。ぼくは絶望していて、食うためにパン焼工をしたり旋盤見習工をしたりしてました。日本の小説はワラジムシみらいなのが多かった。何にも精神の爽快というものがなかったときに、『気違い部落』が出たのですよ。あれはいささかペダンチックな趣があるけれども、けっして軽薄ではなかったし、実に爽快、胸のなかを風が吹きぬけるみたいでしたね。明晰そのものなんだ。日本でうけいれられない最大の文学的美徳は明晰という美徳ではないでしょうか」
 きだ「そうそう。明晰がないために、日本はいろいろとややこしい」

  「漂流怪人 きだみのる」表紙。.jpg

 開高「ちょっと日本をかじった外人に会うと、きまって四十からうえの日本の知識人は何をしゃべっているのかわからない。謎みたいだといいますね(中略)。四十からしたもそうかもしれない。ぼくらもそうかもしれない(中略)。きださんの『気違い部落』を読んだときは何とまァ、明晰珠のごときかと思いました。おまけにじつに余裕綽々とやっているのだな、あの文章の作者は。食うものも食えない時代に古代ギリシャや中世フランスに思いを馳せたりしていて、それに文章がまったくいぎたなくない。その頃いろいろな言葉をおぼえかけていて、≪精神の貴族≫とはこういう人のことかと思いました。その後ずっとそうだ」
 きだ「あれを『きだみのる』と書いて発表したら林達夫が読んで、あれはお前か渡辺一夫の仕業だろうっていったのをおぼえておるね」
 開高「なるほど」

   きだ・みのる(2).jpg

 それから17年後、きだみのるは逝去する。
 「言動がいつも不遜で傍若無人だったので、鼻持ちならぬアクのきつさを氏に感じて敬遠する人が多かったと見うけるが、たまたま身辺で観察すると、優しい心づかいや、ひりひりと繊毛のそよぐデリカシーなどを巨躯のそこかしこに分泌していらっしゃることがよくわかるので、その不撓不屈のヒッピー暮らしはある洗練された感性が逆立ちしただけのことなのだろうと、のみこめるのである。あるとき、自分の書いたものが活字になるとはずかしくてはずかしくてジッとしていられないが、こういう病気は何というんだろうね、と呟かれたことがあったが、そういうときの目は極度に収縮してしまって、少年のような羞恥でチカチカと光り、うたれたことがあった」
 現代の編集者なら、きだみのるの選集を編んだら、日本のブコウスキーとかレッテルを貼るんだろうか。こういうタイプの不羈奔放なインテリ居士が消えて何十年も経つので、何だかこちらは読んでいて焦燥感を感じることもある。奄美大島の出身だが、謎が多い。開高の惜しむ通り、自伝を書かずに消えたのは、まことに惜しまれる。
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東欧某国のクマちゃん。
7月12日
東欧某国のクマちゃん。
 東欧某国のクマちゃんなのだ。もう、二度と会わないかも知れないのだった。この国では2度ほど国民投票で勝負。2度負けた。舐めちゃいけないんだよ、あの国の力を。ぬーん。

某国のクマちゃん .JPG
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駒場に闖入者あり(1985年)。
7月11日
駒場に闖入者あり。
 駒場の主だったあのUセンセイではないが、俺は、駒場の学生相手の理髪店で髪を切っていた時期がある。俺みたいな手合いにもオヤジは鷹揚に構えて髪を刈ってくれた。
 イクちゃんと俺はこの日、どうして駒場構内に行ったのかどうしても思い出せないけど、まぁ、今はどうだっていいじゃないの幸せならば。生きていれば、それでいじゃない。オホホホホホホ。

悪い仲間第3回駒場篇1983年12月.jpg
| 10随想 | 14:06 | comments(0) | trackbacks(0)
1985年の花見。
7月10日
1985年の花見。
 見ての通りだ。革の戦闘帽をかぶった男と若いのに禿頭の男が2人、満開のソメイヨシノによじ登って叫んでいる。これからのジンセイに恐れ戦き、叫び声を上げたのかどうか。
 我々の間に存在していたのは○○の問題で、今でも、だからこそ、課題になっているのだ。キツイ話だけれども、作家センセイはこういう話を直ぐに小説にしようとするけれど、それはこの時勢では間違っているだろうなあ。
 やはり、一人ひとりが翻って考えるべきことでもあるわさ。
 ってなわけで、これからのジンセイに恐れ戦き、叫び声を上げたのかどうか、そいでから、本人たちに確かめようにものう、

 「忘れたわ!」


 というわけだわい。ウハハハハハハハハ。

1985年花見 (掲載).jpg

 イギリスは政局になるのかどうか。いよいよ離脱交渉で内閣が分裂を始めた。一枚岩ではないから、あらゆる交渉が遅滞することになる。
 そこに付け込むのが誰かさんの仕事だったんだけれど、もう要らんという話になったわけだ。あれから1年も経っていないというのに、プロジェクトは遠く見えるところに来てしまった。

追記
時事電流れる。

【北京時事】中国の民主派作家でノーベル平和賞を受賞した故・劉暁波氏の妻、劉霞さんが10日、中国を出国しドイツに向かった。中国当局は、劉暁波氏の一周忌となる今月13日を前に劉霞さんの軟禁を解くことで、国際社会の批判をかわす狙いがあるとみられる。
 中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日の記者会見で、劉霞さんについて「本人の希望で病気治療のためドイツに向かった」と事実関係を確認した。しかし、出国を認めた理由に関しては「中国の出入国管理部門が法律に基づいて処理した。これは外交問題ではない」と外交上の配慮を否定した。
 劉霞さんは劉氏が獄中でノーベル賞を受賞した2010年以降、自宅軟禁状態に置かれ、昨年7月に劉氏が病死した後も、中国当局は劉霞さんの軟禁を継続。劉霞さんが精神的に不安定になっていると伝えられる中、ドイツを中心に欧米諸国から出国を含んだ解放を求める声が相次いでいた。
 中国の李克強首相は10日までドイツを訪問中で、9日にはメルケル首相と会談。この中で、劉霞さんの出国とドイツによる受け入れを最終確認した可能性もある。
 フィンランド航空関係者は10日、「Liu Xia」名の女性が北京発ヘルシンキ行きの便に搭乗し、午前11時(日本時間正午)すぎに出発したことを確認した。中国名の女性1人が同行しているという。 
| 10随想 | 11:59 | comments(0) | trackbacks(0)
戦後民主主義少年の後悔(番外)。
小倉日記’18(第二十一弾)
7月10日
戦後民主主義少年の後悔(番外)。
 日経で3月に「半歩遅れの読書術」を連載した岩○○人(1947年-)の続編である。
 これまた、強烈な印象のある一文であった、含んでいた口中の酒を吹きそうになった。しかし、その後、○大○羽烏と呼ばれ、経済学部長を務めていたことにも想いが到って、粛然となり、その後、ご本人の決意も伺われて、背筋を伸ばすことになった。
 恐らく1970年代と想われるが、ヨーロッパに赴任することになった時のこと。
 「現地で読むようにと友人から勧められたのが『美術の物語』(ファイドン)である。著者のゴンブリッチはウィーン生まれ。ナチズムを逃れて英国に移った美術史家である」
 学究は、現地でではなく、せっかちに機内で推薦図書を読み始めてしまった。
 「それまで私は古代エジプトの人物画を幼稚だと思っていた。横顔の中に正面を見据える片目が描かれ、前を向いた上半身に横を向いた手足がついている。その姿は不自然でぎこちない」
 「だが、古代エジプト美術は現代とは異なる『目的』をもっていたとゴンブリッチはいう。それは事物の『本質』をできるだけ完全に示すことにある。人物の場合、顔は横の輪郭、目と上半身は正面、手足は側面に本質がもっとも現れる。部分部分の本質を組み合わせることによってはじめて、完全なる人物が示せると考えていたのだという」

「BRUTUS バガボンド緊急特集」表紙一部。.jpg

 「私は興奮しながら飛行機を降りた」
 「『歴史』を学ぶことをも学んだからである」
 読書体験の中でも、これは僥倖と呼ぶべき幸せな出会いで、そこで彼はこう記す。
 「それは現代の視点から目を離し、その時代の人々がどのような『目的』をもって行動したかを内側から理解することに他ならない。そして、歴史は単線的には発展しないということも」
 吉川英治(1892-1962年)の「宮本武蔵」から傑作小説の普遍性を学んだことと同じように、美術史からも、同じように歴史の見方を学んでいる。経済学者で歴史がオンチというのは、決定的なものがあるように感じるのだが、どうか。
 あるいは、過去を振り返って、それまでのモノの見方を決定的に変えた読書体験を我々に追体験させている。古希を過ぎてもなお、半歩遅れどころか何十年も前の読書を振り返り、それを我々に提示してみせている。
 従来脳幹に擦り込まれた唯物史観に凝り固まっていたが、この「美術の物語」を通じて、エジプト絵画の見方が矯正された。その時の新鮮な驚きを想い出し、書き留めて読者と共有しようとしているように想える。これは態度としては立派である。
 畢竟するところ、自分の価値観が、どれほど狭隘で、どれほど他者への想像力に欠けていたか、という事実を敢えて開陳していることになるからだ。
 どのみち。
 友達に勧められた本は直ぐに機内で読んだのに、女房殿の勧める日本人作家の小説は、戦前の物というだけでダメ出ししていた。情状酌量というわけにはいかんわねえ。呵呵。


追記
話に聞いていたことがそうならない場合には人間の反応は色々あるのだけれど、ここを先途に踏ん張るか、諦めるか、性格が出ますわね。色々勉強になるところだ。臥薪嘗胆奮励努力。
| 10随想 | 04:36 | comments(0) | trackbacks(0)
関東某所にて。
7月9日
関東某所にて。
 テレビで有名になったのだが、それ以前から、映画のロケなどでは使われていた某所。所轄の警察署は建築基準法にモロに違反しているが黙認。
 刑事に聞くと、近年では山口組の進出でも大きな騒ぎにならなかったとか。昔はこの辺りは荒れていて、ヨコハマの関内辺を縄張りにしていた博徒と行き来があった。
 高校生くらいでは死人も出たし、少年院に送致される者もあった。その話は、何故か三河の某所・某バーで、先日大いに盛り上がった。
 この交差点から1kmほど東に行くと、線路を潜る地方道とぶつかるT字路があって、大昔、シンナーでラリった不良少年がT字路に真直ぐ高速で突っ込んで死んでしまった大事故があった。
 長い間、クルマの突っ込んだ跡が残っていたのだが、その内、反射板が貼り出されてしまった。その話をしたのが○○の従兄弟の▽▽だったそうで、それが何故か、「悪い仲間」の行き付けの店のママの□□だったのだ。
 ママによると、○○のアニキは昨年亡くなったそうだ。俺の単車を欲しいとねだられて譲ったのが○○のアニキ。今とは時代が隔絶しているから、久し振りに通ったが、最早、往時を偲ぶよすがは無かった。
 
20180707 某所にて。.jpg
| 10随想 | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0)
南洋随想――人虎伝説と中島敦。
7月9日
南洋随想――人虎伝説と中島敦。
 ここ10年ほどの間で、時々、南洋系のネタになると中島敦(1909−42年)に絡んだことを書いていたことに気付いた。
 「光と風と夢」(「中島敦全集1」[中島敦著, ちくま文庫]に掲載)について歌人の小島ゆかり(1956年-)が40年近く読み続けている。これは、Robert Louis Stevenson(1850−94年)のサモアでの晩年の暮らしを描いた小説だ。ここから我が家の親戚と中島が繋がり始めた。
 中島敦は持病の喘息で夭折してしまったので書き遺したものは多くはない。帝大を卒業した後、当初は横浜で高等女学校の教師を務めていたが、喘息が悪化して休職、ある日、文部省の教科書編纂掛として南洋・パラオ島に転じてしまった。喘息持ちには南洋の気候・風土がいいという見立てがあったのかどうか。

将棋を指す中島敦。.jpg

 拙宅には大正期に旧制高梁中学に通った親戚が使っていた日本地図が保存されている。紐解けば、台湾と朝鮮の地図の後に北海道が掲載されている順番には驚くだろう。当時の台湾と朝鮮には日本列島から夥しい航路が伸びている。
 また、主要都市の市街図の中に京城市街図と台北市街図が含まれている。京城と台北の道路網・鉄道網は札幌や仙台よりも整備されていた。日本にとっては極めて重要な拠点であったことが分かる。
 中島が南洋に暮らした昭和初期には、6百万人に及ぶ日本人が、朝鮮半島から中国大陸、南洋諸島に散って暮らしていた。国家の経営上、重要なのは地方の多様性を認めながら、国全体としての統一性を併せ持つことだ。具体的には教育と言語が重要になる。
 高梁中学を卒業した親戚は、その後、師範学校に進み、小学校の教員の免状を取った。テニアン(北マリアナ諸島)、ヤップ(現:ミクロネシア連邦)の尋常小学校で教師をしていた。地図を見ながら夢でも見ていたのかと俺は想像する。
 ヤップ島からもう少しだけ南下すればパラオ島。もしパラオ島の尋常小学校に赴任していたら、そこで文部省の官員として働いていた中島敦とも知り合いだったはずだ。親戚は子供が好きで、日本人や現地の子供たちと一緒に教室で撮った、心温まる1枚が60年後にFloridaの娘の家にあった。
 今日も、往年の南方政策を悪し様に言う人は、南洋諸島の社会は階層社会で、日本人を頂点として、沖縄人、朝鮮人、島民、という順に序列と差別構造があったとよく言う。
 今でも、例えば、Brussels辺りでは、差別構造があると嘆く人はいる。大使を頂点に、日本人商工会の序列はそのまま女房殿の序列になり、日本人学校の子供たちの序列になる、と。何時の世でもそういうことを言う人はいるものだ。それで何かいいことがあるのかと語り続ける人の顔をじっと見詰めてしまうことになるわけだが。

  碁を打つ中島撫山(敦の祖父)。.jpg

 「山月記」は南洋各地から中国南部にかけて拡がっている人虎伝説から材を取ったもので、「唐人説薈」中「人虎伝」を下敷きにしたと書いている。詩人志望の青年が職を棄て、妻子を棄て、ある日発狂して、その変身した虎と旧友が山中で再会するという物語になっている。
 開高健(1930-89年)は中島がFranz Kafka,(1883-1924年)の「変身」をすでに読んでこれを意識していただろうと指摘している。その実際は知らないが、儒者の家に育った中島は、幼い頃から東南アジア各地から遠くインドまで拡がった人虎伝説に親しんでいたはずだ。そんな育ちから「山月記」は書かれたのだと考えることの方がずっと楽しいように想う。
 「一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった」
 「山月記」の舞台は現在の広東・珠海の北部にある嶺南地方。この南嶺山脈に生息する虎は華南虎(アモイ虎)で、「虎骨」は不老長寿の薬として珍重される。今や絶滅の危機に瀕しているが、同時に俺の好きな様々な緑茶が栽培されている魅力的な地域でもある。儒家・中島の教養をして、嶺南にかつてあった彼の地の真・善・美が描かれたのだ。
 近々、「山月記」を手渡してやるべき友の顔が浮かんだ。きっと喜ぶだろう。


追記
西日本豪雨災害で廣島系は大ワーヤの騒ぎになったけんども、NHK辺りで体育館に集められたインタビューでも、廣島のもんはよう喋りおるわいねえ。呆れるわい。オホホホホホホホ。
| 10随想 | 07:38 | comments(0) | trackbacks(0)
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