岡田純良帝國小倉日記

人は再評価され、「歴史も変わる」という話。
9月28日
人は再評価され、「歴史も変わる」という話。
 昨日の林洋子さんの講演の件で想い出したのが、歴史は変わるということだ。Punkも、再評価に次ぐ再評価で、そろそろ完全に歴史に定着されつつある、ということを俺は身を持って体験した。
 とりわけ今年はPunk40周年。様々なイベントがあり、こちらも憑き物が落ちたようにPunkも卒業できそうな気になっていることもあり――その概要を今一度考えてみたい。
 ようやくSex Pistolsの歴史的な評価が定まりつつあることが大きい。正確にはMalcolm McLarenとVivienne Westwood、そしてバンドとそのFollowerの再評価だ。Followerは2種類ある。取り巻きだったBromley Contingentと、同業のPunk Band。特にClashとDamnedは、Sex Pistolsとの関係において、歴史上で再評価されつつある。
 London Punkの成立過程も、ついに正確な史実に基づき評価される時代が到来した、と感じたことが大きい。
 林さんの講演時のメモを再度引きたい。
 
「(1)藤田嗣治人気
・藤田嗣治は(2013年)5月末現在、日本で4つの展示会(ブリヂストン美術館、日比谷図書
 文化館、金沢21世紀美術館、富士美術館)が同時に開催されている。まさに藤田ブーム
 であり、バブルのようでもある。
・画家は生年か没年で周年事業があるものだが、藤田嗣治はパリに生きた画家として渡仏
 100年。その意味では(2013年は)節目の年でもある。
(2)再評価の道のり
・(A)戦争画(作戦記録画)を描いたため、1990年頃まで大規模な回顧展がなかった。
・(B)未亡人が著作権裁判で法廷闘争をしており、実現し難い状況が続いていた。
・(C)未亡人の(旧姓)堀内君代が最晩年に国立近代美術館に多数の遺品を寄贈したこと。
・(D)1940年代〜60年代の日記と写真が東京芸大に収蔵されて分析が進んでいること。
・(E)2006年以降大規模な回顧展が開催されるようになったこと。
・(F)2009年以降旧蔵品が君代の死後市場に出回ったこと。
・以上のことから未亡人の君代の没後、相続問題も一段落し、藤田の画業が歴史化されて、
 ようやく相対的な評価がなされるようになってきたことが大きい」

Ron Watts@「100 Club」.jpg
 晩年のRon Wattsが、「100 Club」のステージ前で1976年当時の回想をしているシーン。
 こういう証言者が陸続として現れると多層的で立体的な時代の雰囲気が立ち上がる。

 林さんの視点をSex Pistolsの再評価に当てはめてみると、大よそ次のようになる。

・(A)ネオ/ハードコア・パンクの存在で、回顧される機運が90年代までなかったこと。
・(B)映画「Sid & Nancy」で流布されたイメージが強く、再評価され難い状況が続いたこと。
・(C)Sid Viciousの実母がそのイメージを支持し、多数のフォロワーがあったこと。
・(D)1996年にSex Pistolsが再結成し、Sid Viciousの実母の死去で状況が一変したこと。
・(E)当事者や周辺の関係者が当時の回顧本を執筆するようになったこと。
・(F)BBCその他で正確な史実に基づくドキュメンタリーが制作されるようになったこと。

 Sex Pistolsの場合には、ベーシストが代わったため、「前期」・「後期」とあったわけだが、世の中、(B)のステレオ・イメージが強く、「後期」がホンモノという雰囲気が強かった。(D)にある通り、再結成アナウンス直後にSid Viciousの実母が亡くなったことも、状況を打破するための大きなポイントになった。
 実際、(D)の再結成後にはSex Pistolsのメンバーの発言は、それまでのいさかいを根に持った感情的なものから落ち着いて、どんな関係者もそれなりにリスペクトし合うものに変わっていった。Johnny Rottenも再結成の前に書いた回顧録を一昨年には書き直した。

Damned Celebrates Their 40 Years!.jpg
 今年の春、Damnedは結成40周年のイベントについて発表をしたのだが、「100 Club」
 でのイベントも計画の中に含まれていたが、オリジナル・メンバーのBrian Jamesが
 この場所を先に予約していたという話も聞いた。彼らはビミョーな風が吹いてます。
 Captain Sensibleの意地悪キャラのせいだろうと俺は想っているんだけれどねえ。

 さらに、(F)のような番組になると、“Punk Rock Historian”こと、John Savage等が客観的事実から証言するようになった。そして(B)のように、名声を得た「後期」より、助走期間の「前期」の方がMovementにとって重要であると明言され、さらに「後期」は音楽的に停滞し、新作が殆ど無くなっていた事実が第3者によって証言されていった。
 一昨日、London Punkの最も重要なPromoterとなったRon Wattsに触れた。彼の2006年に出した回顧録「100 Watts」の序言は、Glen Matlockが書いている。Glenだけが、当時、Ron Wattsにはバンド関係者で連絡を取り合っていた人物だったからだ。
 本書は、1976年の春先にSex Pistolsを観てMangerのMalcolm McLarenに声をかけ、春からバンドを「100 Club」のRegularに押し込んで、5月の定着後、直ぐにFollowerが出始めたことが当事者の言葉で証言されている。
 Ron Wattsが結成したばかりのClashを7月4日にSheffieldの「Black Swan Pub」に、Damnedを2日後の6日に「100 Club」に、どちらもSex Pistolsの前座として組んだこと、この史実がLondon Punkの歴史的な相関関係の根本にあると考えていいだろう。彼らはSex PistolsのFollowerであった。
 ClashもDamnedも、生き残ったメンバーは、史実を否定するような年齢ではないから、当時を知らない後世の人が混乱するような、感情的な言い方や口から出任せのコメントも出てこなくなったことも大きい。
 だから、2007年のSex Pistolsの再結成ツアーでRon Wattsはバンドから特別ゲストとして招かれることになったのだろう。結局のところ、上記のような(D)(E)(F)が起きた結果、Sex PistolsのメンバーもRon Wattsを再評価したということになる。
 そうして、本人たちも、「後期」でなく「前期」があったればこそ、自分たちの今があるという史実を受け容れることができるようになった。お互いにリスペクトするようになって欲しいと願っていたが、生きている間に実現するとは想わなかった。長い道のりだった。
 嬉しいことだが、そろそろ、俺もSex Pistolsについてはやることが無くなってきた。Punkは卒業だなぁと感じる背景には、かような40年近い世の中の変遷がある。


追記
ウッフッフッフ。さっき、勝負、あったなあ。しかし、ま、この話は、あと半世紀位すると、何となく漏れるか。
誰も分からんでしょう。俺も分からんもんねえ。あほらしいことですわ、せやけれども、数千年も前から、人間は、誰の情報が早く正しいか、観ております。ちなみに、南北アメリカの話ではないよ。とんでもないことですけどね。とんでもないことが、意外に、知らない間に、淡々と決まっておる訳よ。苦衷に満ちたお顔の後で晴れやかな笑顔。

追記の追記
今日はLesser Trade Hallに行ってくることになっとんねん。城の近傍の某所で一杯ひっかけてワイン買って空港へ。ツライわねえ。旅が続いておりますわい。しかし、任せときんしゃい。次回こそ、バッチ来いじゃけの。
| 10随想 | 06:25 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の気になる本――日本人のルーツ、そして人物の再評価。
9月27日
今週の気になる本――日本人のルーツ、そして人物の再評価。
 久しぶりに書評を読んだ。昨年の秋から溜まっている日経、読売、朝日の書評は、紙がすっかり変色して黄ばんでいるが、5cm以上もある。近々、そのままゴミ箱に放りそう。
「日本人はどこから来たのか?」[海部陽介著, 文藝春秋]
 評者は国立科学博物館人類史研究グループ長の著者の冒険についてこう書き出すのだが、本当のところはどうなんだろうか。
 「この夏、ちょっと残念な知らせが届いた。3万年前の公開の再現実験が失敗したのだ。当時大陸と陸続きだった台湾から沖縄に渡った祖先の旅を草舟で追体験しようとしたが、黒潮に阻まれたようだ」
 「沖縄の島々で発見された旧石器時代の人骨には豪州のアボリジニーに共通する特徴を持つものもあり、彼らがヒマラヤの南から南半球に下った集団の子孫であることを示唆していた」
 「今回はその実証研究第一弾だった。著者は黒潮変動史や移住者シミュレーションなど新たなアプローチも加えて次の渡航に備えているという」
 このような旅は、すでに武蔵野美術大学教授の関野吉晴さんがグレート・ジャーニーでとうに実現していることのように思うのだが、どうもよく分からない。日本社会特有の目に見えないアカハラの壁があるのか知らん。最相さんが関野さんをご存知なかったか。(『売れてる本』、ノンフィクションライター・最相葉月評、朝日新聞)
「藤田嗣治 妻とみへの手紙1913-1916 上 下」[監修・林洋子、校訂・加藤時男, 人文書院] 
 ブリヂストン美術館の土曜講座で20世紀前半の「巴里の日本人物語」をテーマに通っていたのは2013年。あの5回通しの講座はすべて聴講したが、当時京都造形大で教鞭を執っていた林さんの回が最もジャーナリスティックで面白かった。記憶に残る林さんのレクの一部を端折りながら引きたい。

      Reonard Foujita.png

 「『狂乱の時代』(Les Années Folles)ではなく、『重層化するパリ・イメージ 藤田嗣治」と改題されていた。京都造形大の林洋子のレクチャーだ」
 「幾つか章立てで分類してあるのではなくて、藤田嗣治の詳細な年賦がA4レジュメ1杯に記されてある」
 「『結婚5回、第1次大戦開戦から大戦間のパリで暮らし、80年の生涯で半分をフランスで過ごした』。彼女にはその稀有な生き方そのものが興味の対象なのだ。『第1次大戦でパリにあってつぶさに見聞したあれこれの経験が、日本帰国後に戦争画を描いて前のめりに取り組んだことに繋がっているように最近は感じている』
ここにもヒントがあるだろう」
 「『猫を抱く少女』(1949年)戦後の代表作。『カフェ』との兄弟作品とも言える。実際、書き始められたのは1947〜48年に東京・江古田のアトリエで土門拳が撮った藤田嗣治の写真には、背景の描き込まれていない少女の下絵が写っている。

 「猫を抱く少女」.jpg

 背景は後に同じく自作の「Mazarine通り」(1939年)で描いたパリ左岸のボザール近辺の屋根裏を描き込んでいる」
 パリで描かれたものだとばかり想われていたのに、江古田のアトリエで手を付けていた。林さんは丹念に情報を取捨選択し、それまの常識を信じ込まず、仮説を立て、土門拳の撮った藤田嗣治のアトリエの下絵まで丹念に当たって「発見」をしているのだ。こういう研究者の言葉は、まず、信じていい――そう感じたから、忘れられないのだろう。
 この時、林さんが、2013年の講座よりさらに5年前、2008年の土曜講座で、講演後、名古屋の女性が「私が所有しています」と言い出して、騒ぎになったということだった。多分、名古屋の女性は、同じように林さんを信用していいと感じたと俺は想う。
 そういう林さんが監修しているのだから、きっと、何かしら俺の知らない藤田の横顔を教えてくれるのではないか。妻・とみは内縁の妻で、盛んに手紙を書き送ったのだが、最終的に書面で離婚した、と、書評では紹介されている。1冊税込みで1万円。俺には買えないが、どこかで話を聞く機会もあるだろう。(『情報フォルダー』、朝日新聞)


追記
本日は昔の運河裏のざっかけない店で清談のはずだったんだ。ところが、獄中集団物見遊山軍団が俺たちの前に入りムール貝無し、ドーバー・ソール無し、レモン・ソール無し、ロブスター無し、という怒涛の獄中軍団の喰い放題に泣かされた。とうとう、始まっちまったよ、倫敦のアンちゃん姉ちゃんよ。俺の店だけは獄中軍団は来ないだろうとタカを括ってたら、おりやがりましたわいなあ。店に入ったら、じろっと100個位の目玉が一斉に俺を見たよ。クソッタレ、やってられるかってんだい!

追記の追記
テレビ討論ですなあ。いよいよずらよ。そこんとこ、シクヨロズラよ。
| 9本・記録集 | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0)
食のトライアングル。香港と台北と越南と――挽肉のレタス包み。
9月26日
食のトライアングル。香港と台北と越南と――挽肉のレタス包み。
 某所にある挽肉のレタス包み。きれいなレタスを選んであって、柔らかい豚挽き肉と野菜のソテーは味も優しい。しかしヴェトナムにも台北にも似たような料理はあって、互いに違うけれども、強烈なスパイスを効かせた、美味い華僑ならではのいいレシピがあるわけよ。

挽肉のレタス包み (1)

 挽肉のレタス包みを頼むと、俺の気持ちは台北やハノイに飛び、さらに、遠く、San FranciscoのJapan Townから、Los AngelsのLittle Tokyoまで飛んでいく。そこでは、今は、越南は台頭しているが、広東系・香港系の中華料理は消えている。マポロシというわけなのよ、諸君。トホホホホホ。
 勿論、日本人の姿も、殆ど見ることは出来ないのだ。日本人は日系アメリカ人の社会に溶け込み、何時の間にか、目立たないように暮らしているわけよ。
 「日本人は何時の間にか同化して消えていきますからね」
 ある場所で某と飯喰っていてさ、何だか淋しくなってねえ。そんなこと、アンタみたいなお立場の人が言っちゃあダメでしょなんて想うけれど、ま、それは真実なんだわねえ。

挽肉のレタス包み (2)

 話を戻すと、越南から香港、さらに台北辺りまでは、食のトライアングルで、本当は、杭州辺りまでは、俺たちは味覚も食材も殆ど共有できる。手を結ぼうと思えば結べる地帯なんだけどね。
 湖南地方の諸兄姐も、素直に自由主義のルールに従うようになれば、変わってくるんだけれど。それは無理かな。だけど、味覚は大きいよ。味覚が共通の民なら、俺は、仲間として受け容れられるという気がするな。
 テメエ、それならナポリに行けよ――という声が聞こえてんだけどね、近頃は。


追記
先週末の「Financial Times Weekend」は、他の新聞と同じく、「天高く馬肥ゆる秋」で、喰いの大特集なんだけれども、その中に、中華の花山椒と葱のソースってのが出ていて、昨日から、落ち着かない。緑色で、ペスト・ジェノベーゼみたいな凄い魅力的な色だのにネギと花山椒。赤くなくて緑なんだよな。うーん、ドキドキして熱が出そうだ!
| 7喰う | 15:19 | comments(0) | trackbacks(0)
Sex Pistols――「Chalet du Lac Paris September, 1976」。
9月26日
Sex Pistols――「Chalet du Lac Paris September, 1976」。
 現在、Corsicaに住んでいる人物がこの1976年の9月3日と5日に行われたバンドには初めての海外公演のステージ写真と音源を持っていたそうだ。その人物はFrench Proto Punk Bandのメンバーであったそうだが、Punk Bandに興味が無かったと言うわりには記録としてしっかりした状態で保管していた。Franceの人間らしいや。
 歴史的にはFranceが最も早い時期にLondon Punkに呼応した。ParisではStinky ToysなどのPunk Bandは1976年中に結成された。音楽的には、当時からRolling StonesやNew York Dollsの物真似と酷評されたから、現在、あまり注目はされていない。
 この1976年の夏までは、やはりLondonの動きが大きかった。音楽シーンを形成したという点で、PromoterのRon Watts(1941-2016年)の功績は大きい。
 この人はPromoterとして最も力を発揮したのがこの時期で、彼は30代の半ばでPistolsを発見し、4月には「100 Club」にBookingし、毎週木曜日のRegularの座を得るために後押しをした。

Chalet du Lac Paris (2)
 このツアーは、Steve Jonesの21回目の誕生日で、Malcolm McLarenは誕生祝として、
 売春婦を買ってやったというエピソードがある。ツアーには、Bromley Contingentが
 こぞって参加して、Billy Idolが、自分のボロのバンを運転してParisに仲間を乗せて
 行った。無論、今のように海底トンネルなんか出来る前、40年も昔の話だ。

 Sex Pistolsの2007年秋の再結成ツアー「Holidays in the Sun 2007」では、Ron WattsはSex Pistolsから特別ゲストとして招かれた。
 「確かに特別ゲストとして招かれたけど、彼らは、招くべきだったよね」
 本人も誇らし気に語っていたが、今年の6月に74歳で亡くなった時、Damned一家はこぞって追悼したのが強く印象に残った。
 「彼こそ、Punk Rockの推進者だった。惜しい人をなくした。寂しくなる」
 Captain Sensibleのような意地の悪い人が素直に哀悼の意を表明したのは驚きだ。
 歴史的にもハッキリしているのは、彼が結成したばかりのClashやDamnedのようなSex PistolsのFollowerを1976年の7月初旬、次々にSex Pistolsの前座に組んだことで、この事実が、London Punk Rockの全てがどこの誰から始まったか雄弁に物語っているというわけだ。
 そして9月には「100 Club」に「Punk Rock Festival」こと、「Punk Special」を持ち掛けた。これが音楽史の中で画期的なイベントだったとされるのだが、これにはParisからStinky Toysが参加している。もっとも、イベント直前の9月3日と5日のParisのツアーはRon Wattsと関係は無く、FrenchのPromoterが仕切ったとされている。
 Youtubeでも上がっている「Chalet du Lac Paris」の音源を聞くと、「Did You No Wrong」では演奏中にGlen MatlockのBass Guitarの弦が途中から切れてしまったようだ。そういうハプニングは、その場に居合わせれば面白いものだが、Live Tapeを聞かされる立場ではあまり面白くはない。それもあって、長らくお蔵入りしていたのだろう。

Chalet du Lac Paris (1)
 9月3日と想うのだが、機材周りのトラブルが多くて、あまりバンドとして落ち着いて
 演奏に集中できなかったように感じられる。このシャシンはベースの不調でバンドが
 動揺しているのが分かるだろう。

 「100Club」の「Punk Special」は後に「Playmate」になったElli Medeirosの率いるStinky ToysがParisから現れた。彼女は今ではベテラン女優になったが、初日の晩には、楽屋でSid Viciousにナイフで脅されてベソをかいた。
 「Sid Viciousがナイフで人とトラブルになるのはしょっちゅうだった」
 Ron Wattsはその晩を思い出してそう回想している。
 その翌年の1977年にはPunk Rock Festivalが行われたのがFranceのMont-de-Marsanである。8月5〜6日のコンサートには、Londonからはお返しするようにClashとDamnedが参加している。この時、歴史的に重要なのは、The Policeのような人たちが参加していることだろう。
 Londonからツアー・バスが組まれ、乗り込んだNick Loweは、Damnedの1枚目のLPのProducerまで協力したのに、何故かDamnedのメンバーと喧嘩になって彼らから殴られたりした。
 ここにSex Pistolsが参加しなかったのは偏屈なMalcolm McLarenが「Festival」という言葉を嫌ったからだ。
 「『Festival』はHippy Cultureを思い起こさせるから俺はキライだ」
 Malcolmのスタンスは、理解できなくはない。今も、連帯なんて、俺はクソ喰らえだ。


追記
今日はV&Aの企画展示に行って参りましたが、「連帯」の嵐で、「連帯」、「連帯」、「連帯」、で、気持ち悪かったわなあ。理想主義の裏返しが、醒めたパンクだったけれど、目指すことは同じで多様性を許容する自由主義だったとしても、その手法がたまらなく子供じみていると感じたわな。
社民党の理想も共産党の理想は相変わらず60年代から全然変わってねえな、世界がこれほど変わってんのにってさ。何度も何度も心の中に浮かんだのは、頼りねえなあ、ってコトバだよ。
バカ言ってんじゃねえよ、俺っちはどっこいパンクだぜ――胸の中で言ってんだもの、俺。ドーシヨーもねえよ。
きれいごとばっかり言うな!、と極東に向って叫びたくなりましたが、ここは、ロンドン、そんな子供っぽい人は、殆どおりまっしぇん。オホホホホホホホホホ。
| 10随想 | 06:26 | comments(0) | trackbacks(0)
倫敦初の鰯塩茹。
9月25日
倫敦初の鰯塩茹。
 夕べ喰ったのが、ロンドンで初めてやった鰯の塩茹で。鰯はEnglandとしか書いていないブツだそうで、甚だやはり心許ない土地なんだけど。
 皿に塩溜まりを作って、箸で小さく粉砕して、ちょっと塩をつけて。山葵を付けたっていいだろう。酒のつまみになりますね、立派な。だけど、合わせる日本酒が無いんだな、これが。

20160924 倫敦初の鰯塩茹。
| 7喰う | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0)
渋かった、「Kubo and the Two Strings」。
9月25日
渋かった、「Kubo and the Two Strings」。
 先日、見て参りました。
 映画館に入ると、誰もいない。子供も大人も他に客が「ゼロ」。それで顔を見合わせて、
 「人気が無いのかなぁ」
 「苦い映画というアメリカの評もあったしね」
 「レビュー・サイトでは軒並み高評価だったけどなあ」
 「イギリスでは受けないっしょ」
 「そうなのかあ」
 ヒソヒソ噂していたら、予告編が始まってドドッと子供たちが入ってきた。といっても、俺たちを除いて大人を含めて20人いたかどうか。4〜5ファミリーくらいもいたか知らん。
 (客の入りは冴えないなあ)
 9月9日公開から2度目の週末だったから、時間が経っていたこともあるだろう。
 イギリス国内での評価はまあ低いのか高いのか分からない。よく知らないけれど主要な新聞ではそもそも前評判から評価の対象として取り上げたところがあまりなかったのだが、「the guardian」では5つ星。英国人気質としては評価が分かれる映画なんだろうか。

        Kubo and the Two Strings (6)

 日本ではまだ公開されるかどうか見えていないそうだ。本国アメリカでの最終的な興行収入は残念ながら失敗に終わり、ギリギリ赤字作品で終わったようだからだ。「Rotten Tomato」ではFresh評は97%。
 だが韓国や台湾で公開されているそうだから、中世の日本を舞台にした日本人の物語ということを考え合わせると、日本映画界の見識は問われているだろう。近頃は、骨のある日本の映画人を寡聞にして知らないから、未公開でお蔵入りするのが関の山だろうか。
 とはいえ、日本では今年は「シンゴジラ」の大ヒットで、日本経済新聞でもヒット作品としてその理由が種々考察されるくらいだから、まあ、地殻変動はあるんだろう。我が家はオタクを自認するアクビ娘が「シンゴジラ」を2度観に行った。
 「Kubo and the Two Strings」。映画はとても良かった。日本人贔屓のTravis Knightの監督デビュー作品。デビュー作としては十分という評価は多い。
 作画もいいし、声優も良かったな。主人公の「Kubo」、母親、その姉妹たちなどちょっと人形劇チックな人物ばかり。
 顔のツルツルした堅い質感は、「サンダーバード」でもあるし、切れ長の目などでは辻村ジュサブローの人形のような感じもあって、それはそれで面白かった。

Kubo and the Two Strings (1)

 主人公の「Kubo」はFirst Nameなんだけれど、だからこそ、劇中で何度も何度も「Kubo」が連呼される。
 日本人以外で映画を観た人たちにとり、主人公の「Kubo」=「ニホンジン」=「サムライ・ファミリー」として記憶されるんだろう。
 もし日本人が観たらどう評価するか俺は想像が付かない。正直、子供向けには思えないのだけれど、ちょっと「風の谷のナウシカ」みたいな苦さがある感じかな。
 エンディングにも、確かに世評で言うところの苦さがあって、しかし、その苦さとは、日本人らしい、日本文化らしい苦さなのだ。近年のディズニー映画のような、ハッピーな終わり方をしないところがちょいと渋かったね。
 日本のモノなら、「山椒大夫」、「安寿と厨子王」系、海外のモノなら「小鹿物語」だとか「汚れなき悪戯」を想い出す。
清明な哀しみというものは忘れてはいけないものだなあと想いますわ、52歳でも。中々良かった。☆☆☆☆★


追記
例のシャツをニッポンに着て帰るかどうかちょっと思案中。今度は編集部諸兄姐と一杯やっかと想うけれども、中々時間が無いからねえ。誠に困り果てておりますわい。だって、俺、もう、やる気がまるで無いもんな。

新型シャツ2016@Brussels.jpg
| 4映像 | 06:56 | comments(0) | trackbacks(0)
欲しいけど、欲しくなくなってきた。
9月24日
欲しいけど、欲しくなくなってきた。
 カッコ良い靴とか、カッコ良いスーツとか、Londonは男を売り出す宝庫だ。ヌルヌルズィーベン(007)みたいな男がヨーさん歩いているのだ。
 昔の浅草田村町や日本橋とか、ちょっと下っても神田駅前には、男向けの渋い洋服屋が昔はあった。
 佐藤秀明の「三島由紀夫の言葉」[新潮新書]では、面白い証言を拾えた。
 「茅場町のホソノという店でフルオーダーで作ってもらったんですよ」
 三島由紀夫が大映のプロデューサーだった藤井浩明に作ってやったスーツの話である。
生前、藤井はスーツは100万円を超えるような価格だったと証言していた。三島由紀夫は1925年生まれで、藤井浩明よりも2歳年長だったに過ぎない。

      Trickers
   こちらは“小倉の料理番長”のNew Boots。New Bootsと聞くと、「Pantiesは?」と
   聞いてしまう俺は、もう、すっかり変わりようの無いオジサンとなり果てました。    

 この店は、映画界では佐田啓二などのトップスターが上顧客として有名だったそうで、やはりこういう店でフルオーダーでスーツを作るのは男の夢ではあるだろう。俺などは、多分そういう夢は実現しないままに終わるだろう。
 私淑していたKさんはどんな時も英国屋で仕立てたスーツとAquascutumのコートを着ていた。1935年生まれだから、三島・藤井の2人より1つ若い世代だったから、丁度、Kさんの憧れたのは彼らのような出で立ちだったかも知れない。
 2人の出会った「永すぎた春」が製作されたのは三島が32歳、藤井浩明は30歳になる年。1957年(昭和32年)のことだ。21世紀も、「カストムテーラーホソノ」(中央区日本橋茅場町2-13-2)は盛業中。 
 先日、この話を読んで、LondonのCityを思い出した。
Cityにはその時代の日本にも共通する男性が中心の街の雰囲気も感じるけれど、確実に女性向けの服やバッグも入り込んでいて、中々楽しい。

     Barneys New York
   こちらは“小倉の料理番長”のOld Boots。Barneys New Yorkのブツらしいわね。
   New YorkからLondonへ。ま、新しいブツはTrickersのブーツらしいんだけれどさ。

 City方面のハブになるLiverpool Street駅南のアーケード街は、Oxford Street周辺のアーケード街とは違って、ネクタイ屋の隣にラーメン屋があったりして、その雑居感覚も古い下町っぽさがあって嬉しい。
 さらにもう少しCity方面に南下すると、新しい高層ビルの乱立する再開発エリアになる。雑居エリアは突然消えるわけで、ウインドウ・ショッピングで肉屋の隣に仕立屋があって目がパチクリしてしまうような雑然とした感じは少なくなる。
 だが、もっと古い「男の館」を探すなら、Shepard’s Bush方面に足を延ばすと西インド諸島出身者向けの店がバッチリ並んでいたそうだが、今は殆ど中東文化圏となっている。
 俺はずっとFashion LeaderだったSteve Jonesはこの街の育ちだが、当時彼の憧れた男性は今のこの街には歩いていないということなのだろう。
 Londonの中心部は、裏道にも、ひょいと男性用品の店があるから油断大敵だ。そんな裏道の店は、丁寧に照らし出されたブーツだとかジャケットだとか、良いなあと見とれてしまうものもよく見かける。

        虫に喰われたネクタイ。

 しかし日本と気候が違い過ぎることは骨身にしみて分かっているので、何となく勢いは出ない。革製品はしょっちゅう気を付けて手入れをしないと傷みが早く、羊毛系も気候が違うから着る機会が少なく、手入れも気を遣う。
 先日、虎の門の某店で数年前に買ったお気に入りのネクタイが気付いたらヤラれていた。目立つ箇所に数ミリの穴が開いている。
 (補修はできねえなあ)
 日本だけじゃない。却ってLondonの方が羊毛系は気を遣わないと痛んでしまうことが分かってちょいと腐ったね。
 近頃は、膝と足首が少しづつ筋肉が落ちて弱っていることが自覚される。靴底の薄くて硬い、ホントにスカしたブーツみたいタイプは、自分の身体にはヤバくなってきている。
 人と会って話を聞くことが今のショーバイだから、美味いもん喰って、健康にやれればそれで良しとしたい。


追記
帰着しました。疲れましたが、そんなもんかなあ。
| 10随想 | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0)
Graffitiにも程度あり。
9月23日
Graffitiにも程度あり。
 Mafia / Gang団の暗喩のようなGraphityは世界中で多数あるわけなんだけれど、やっぱり、観ても楽しめるものが嬉しい。
 長い時間見詰めても、何も分からないような絵は、暴走族のような感じもしてきて、あまり気持ちが良くないな。
どうやらPicassoは俺にとって分からないもののようで、これを分かろうと努力した岡本太郎だとかの足掻きに共感を覚えるけれど、Picasso本人は評価しない。
 先日、Brussselsの骨董屋でPicassoの絵があって、50万円くらいだった。彼の絵が世間で落ち着くのは何時だろう。開高健の気持ちも分かるように想います。彼はウソを語らずに死んだ人だと感じるねえ。

Graphity at Brussels (1)

 こちらは面白いなあと感じたBrusselsの街角のラクガキだ。それなりの主張があって、犯し難いものも感じられるところがいい。
 やっぱりどんな表現でも、必然性とか切迫性とかいうものがなければ、俺はあまり認めたくないわねえ。Picassoは持っていても、きっと、飽きそうだ。理解できないものをキライになるという態度は好きではないけれども、今後は何度も見返したくなるものだけをそばに置いておきたい。

      Graphity at Brussels (2)


追記
今朝は青痰みたいなのが出るようになってきて、ようやく鼻水華厳の滝状態から脱するのかな。夏の疲れが出るのは子供のときから変わらないけれど、寝込むほどではなくなったかなあ。
| 10随想 | 17:02 | comments(0) | trackbacks(0)
遂にあのブツを額装。
倫敦日記’16(第三十七弾)
9月23日
遂にあのブツを額装。
 20年近く前のSan Francisco時代は、 Punkはくすんだ過去のものだが、歴史としての定着化はなされておらず、という宙ぶらりんの状態で、今とPunkに対する社会の見方の感覚が違っていた。
 Sex Pistolsの96年の再結成ツアーでは、Green Dayに前座をオファーしたら、
 「金のために再結成をするパンク・バンドの前座なんて真っ平ゴメン」
 Billy Joe Armstrong船長は言下にオファーを拒絶したという話がある。
 San FranciscoはFlower Movementの中心だったが、Sex Pistols最期のコンサートが行われた街でもあった。しかし5,000人を収容したWinterlandは、すでに取り壊されて、Japan Centerの一角を占める大きなアパートになっていた。
 当時、我が家はJapan Centerから車で10分ほどのRichmond地区の家に落ち着いて、Jamie Reidのデザインした「Vivienne Westwood’s Seditionaries」Brandの「God Save The Queen」のシャツをLiving Roomに飾っていた。

Kings Cross (3).jpg

 同名のシングル盤のジャケットと同じ、商品名は「Blind Queen」と呼ばれる、目と口を「God Save The Queen」と「Sex Pistols」のLogoで覆った、袖無しのシャツだった。
 薄っぺらの写真を入れるフレームに無理矢理に押し込んだから透明なアクリル板に皺が寄っているような感じ。前世紀末のことで、飾っておく俺自身も若く、まだ、時代的にも何となく面映い感じだったこともあった。飾り立てることが恥ずかしい感じがまだあった。
 帰国してそのフレームも傷んでしまい、フレームは処分した。不思議なことだが、もう、女王陛下のシャツには興味が薄れてきて、近頃はキャビネットの奥に仕舞い込んでいる。

Bromley Tour 20160625 (掲載)(3)
 Berlin Bromleyの家は、David Bowieの育った家の隣の隣だった。その場に立てば、
 その重みが伝わってきて、中々に重い感覚が自分の中に渦になって淀んだわねえ。

 Londonに来て、今年前半は大変に充実した日々だった。「Punk#40」の各種イベントで、当事者の証言に立ち会えた。1次資料も観ることができたのは、再結成のステージを何度観るよりもタメになったかも知れない。
 そしてBerlin Marshallのような人とDavid Bowieを結ぶMissing Linkを、Bromley外れの住宅地まで訪ね、Bromley Contingentの根源をこの目で確認することもできた。今もBromleyには誰も来ない。そこまで行って立った者にしか分からないだろう、かなり重い衝撃があった。歴史の、Punkの、本当の根本はここにあるのだと想った。

      額装なる20160919 (掲載)
  この額はオーダーしたのだけれど、高さ1m、幅0.75mもあるのだ。ちょっとねえ。
  イヤでも目立ちますわなあ。ピンクに黄色。Guy Whiteから「I Like It」だって。

 不思議なことだと想うのだが、7月まで会期を延長して展示した「From King's Road to King's Cross」のVivienne Westwood作品の数々のシャツの中には、この「DESTROY」のシャツは1枚もなかった。
 (やっぱり、今でもタブーだからか?)
 逆さ磔のキリスト、Hakenkreuz、そこにThe Queenの横顔をデザインした1Pの切手が貼り込まれ、フロントに「DESTROY」の書き込み。
 身内に紹介して貰って、London市内某地で額装を頼んで、出来上がったのがこれだ。

額装なる20160919 (掲載別).jpg

 やっぱり、強烈なインパクトがある。我が家でも家に担いで来た日から、どうしたってこのシャツの話になる。それだけ、目に入ってしまうからだろう。
 買ったのは今は無き「赤富士」で、Sex Pistolsが解散した1978年だった。当時14歳。
 今になって、14歳当時の自分の気持ちを想うと、何だか信じられないような気がする。まぁ、俺は確かにこのシャツを14歳の時にどうしても欲しくて買ったんだなあと改めてしみじみと想う訳さ。

  (1) 普段着としては絶対に着られないデザイン
  (2) 作りも脆く、腕を通すと縫い目が裂ける
  (3) 街を歩けば因縁を付けられる
  (4) 洗濯機で洗えば一巻の終わり

 しかもこの店のシャツはどれもひどいインクの臭いでタンスの中が臭くなった。臭いが取れたのは何年もしてからだ。
 そうなると、結局、バンドをやるしかないわねえ。ステージで着るしかないわけだから。アハハハハハハハハ。
 14歳の少年が、クソのヤクにも立たないのに、あんなシャツ買って、どういう積もりだったんだろうと想うと、ちょっと、色々考えるわね。
 Londonの街っ子で、平均年齢が20歳くらいだったSex Pistolsの4人は、ニッポンの不良少年にもその心根が伝わっていたわけで、東洋のイカれた少年にも、その彼らと同じシャツを手に入れることは大命題だったわけだ。
 絶対にあのシャツを手に入れる――それは避けられないことだったんだろう。やっぱり、偉大だった。どうしても買わされてしまう、抗えない魅力があったということ。
 しかし何年もこのシャツは大きな命題だった。年々、歴史的な価値が上がっていくのは分かっていたが、自分の買ったシャツをどうするんだ、という抵抗が自分の中であった。額装され、立派になったが、自分の買ったシャツをこうして展示してしまっては、俺も、すっかりヤキが回った。パンクは俺にとって、とうとう、終わったということになる。
 だが、一方で想う。もし今、Billy Joe ArmstrongがSex Pistolsからオファーがあれば、彼は拒絶したろうか。歴史というものは、そういうもの。時代と共に変わっていくものだ。


追記
某地へ飛べという指令が出て、どうするかこうするか迷っているところ。風雲急を告げておりますが、そんなことであっちへブラブラ、こっちへブラブラしていて、う〜ん、果たしていいのか知らん。その前に、俺にはやらなければならないことが色々あるんだけどねえ。

      「Berlin Bromley」表紙
| 8音楽 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0)
「玉、砕ける」と「香港人」(2)――香港の味、「スズキの清蒸」。
9月22日
「玉、砕ける」と「香港人」(2)――香港の味、「スズキの清蒸」。
 昨日からの続きで「玉、砕ける」を続ける。この作品の中には、張の愛する「老舎」という名の老作家が登場する。種明かしを先にしてしまうと、多分、魯迅の弟の周作人のことだ。
 「老舎」こと周作人は若い頃に日本に留学し、北京大学に日本語学科を作った人であり、東京帝國大学の支那語学科に在学していた竹田泰淳や竹内好の師にも当たる。作品中では共産革命の後に日本を訪れ、帰途、香港によって張と会ったことになっている。
 周作人は、実際には北京で軟禁されていたため、革命後は日本に来たことは無いのだが、当然、本作でも、「香港人」の張には本心を明かそうとしない。質問は、革命後の知識人の生活はどうか――というもので、あまりの直球である。誰がまともに答えられるものか。

某所のスズキ清蒸(1) (掲載)
 スズキの清蒸は、香港なら、赤ハタだとか黄ハタ、果てはナポレオン・フィッシュ等に
 変わったりするわけだ。アタマのでっかい、醜いくらいの魚が美味いのだよ、本当は。

 「ところがそのうちに老舎は田舎料理の話をはじめ、三時間にわたって滔々とよどみなく描写しつづけた。重慶か、成都か。どこかそのあたりの古い町には何百年と火を絶やしたことのない巨大な鉄釜があり、ネギ、白菜、芋、牛の頭、豚の足、何でもかでもかたっぱしからほうりこんでぐらぐらと煮たてる。客はそのまわりに群がって柄杓で汲みだし、椀に盛って食べ、料金は椀の数できめることになっている。ただそれだけのことを、老舎は、何を煮るか、どんな泡がたつか、汁はどんな味がするか、一人あたり何杯ぐらい食べられるものか、徹底的に、三時間にわたって微細、生彩をきわめて語り、語り終ると部屋に消えた」
 周作人は紹興の人で、浙江料理の本場である。浙江の話ではないのかと俺は読んでいる。
 「『老舎は私を信頼してあんな話をしてくれたように思ったもんですからね。それにこの話は新聞にのせるにはおいしすぎるということもあって』」
 張は「老舎」から聞いたというこの話を新聞には書かなかった。
 「昔、北京の自宅に彼を訪問したときの記憶がよみがえった。やせこけてはいるが頑強な体躯の老作家が、突然、たくさんの菊の鉢から体を起し、寡黙で炯々とした眼でこちらをふりかえるのが見えた」
 開高健は殺された周作人の風貌をこう振り返っている。
 我が家の近所には40年以上前から店を開けている中華料理店がある。彼らは香港から流れてきた一家なのだが、近頃、「玉、砕ける」をしきりに想い出す。

某所のスズキ清蒸(2) (掲載)
 これで白い蒸したご飯を喰わないと何だかバカみたいだ。この日は、お気に入りの細麺は
 結局頼まなかった。その前に腹が一杯になってしまったことから。

 店で出す麺類は香港の酒店特有の極細麺で、それだけでも嬉しかったのだが、店頭には鴨と鶏と豚をぶら下げている。何時も白人とインド系の客で込み合っている郊外の人気店。先日は、ダメ元で「スズキの清蒸」を頼んでみたら、それは疑いも無くジンジャーとネギを使った香港の「清蒸」の味であった。
 我が家の目の前にあるCCTV(Closed-Circuit Television)は「Hikvision」製でこの会社は中華人民共和国の国営企業によって買収された。近頃、このイギリス国内の監視カメラを通じて全て動静が中国に握られているというニュースが「The Times」で堂々1面トップを飾っている。

      The Times 20160916 (1)
 問題の1面トップの記事だ。本来はビートルズ残党の2人の記事だったんだろうけれども、
 安全保障上の問題となれば話は別で、こうして突っ込まれて押し上げられたトップ記事。

 北京に繋がっているのかどうか、真偽のほどは定かではない。だがあの料理屋の一家はそういう記事を家族同士の会話ではどう読んでいるだろう。俺はそういうことも気になる。文化大革命では、首の切断、生き埋め、釜ゆで、心臓や肝臓、性器の切り取り、肉のそぎ落とし等が行われていたことが自由主義陣営に広く知られるようになったのは最近のこと。
 開高健はこの短編で、北京市内で文化大革命の騒ぎの中でなぶり殺しにされた周作人を描こうとした。あるいは、張立人とある男さえ、周作人の一部を借りているかも知れない。兄の魯迅の未亡人・許広平の指弾によって、周作人は1967年に紅衛兵によって殺された。
 「北京で老舎が死んだという。紅衛兵の子供たちによってたかって殴り殺されたのだという説がある。いや、それを嫌って自宅の二階の窓からとびおりたのだという説もある。もう一つの説では川に投身自殺したのだともいう。情況はまったくわからないが、少くとも老舎は不自然死を遂げたということだけは事実らしい。それだけは事実らしい」
 香港の空港で別れ際、張は「私」に「老舎」が死んだと告げる。
 俺は、82歳だった彼は、少年たちによって、水責めにされて死んだと北京で聞いている。
 「玉、砕ける」は1978年に発表された。文化大革命で紅衛兵を煽り、1千万人以上もの人々を殺したとも言われる毛沢東が死んだのは76年。「香港人」は常にどちらか一方には与せず、曖昧に濁らせるのだろう。聞いても、彼らは答えては呉れないのかも知れない。


追記
体調悪いのはもしかすると秋分の日前後に急速に変わる気候と日照時間の関係か。しかしそんな分かり切ったことで鬱になったりするのもなあ。

追記の追記
つい1970年の前後さえ、人肉食を集団でやる民族ってのは、やっぱり、ツライものがある。ゲルマンも今後何世紀経ったとしても背負い切れないものがあるけれど、獄中も、人権に照らして相当にツライものがあるわなあ。個別の事象をあれこれ言っても始まらないという話もあるにしても、ツライものはツライ。開高健は人肉食があの時さえも行われていたと知ったら、何と言うだろうねえ。

追記の追記の追記
本日は体調が悪いので、ってわけでもないけれど、ドーバー・ソールのムニエルを喰ったわい。俺の好物だけれど、こんなもんも喰えるし、前菜はバイヨンヌのハムだった。「ロックンロール紳士」こと、リーのオヤジと一緒にメシを喰っている、そんな気分だったわけよ。アハハハハハハハ。52歳の楽しみなんて、結局、そんなもんだ。
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