岡田純良帝國小倉日記

骨を見せたアメリカの映画人(上)。
5月24日
骨を見せたアメリカの映画人(上)。
 「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」
 2月にヨーロッパの某所線で観て、うーん、Joel Coen(1954年-)健在、と唸らされたわね。Joel Coenの伴侶のFrances McDormand(1957年-)の演技は素晴らしかった。
 アカデミー賞作品賞を逃したものの、それでも2017年・第74回ベネチア国際映画祭で脚本賞、同年のトロント国際映画祭でも最高賞にあたる観客賞を受賞している。

Three Billboards outside of Ebbing (3) .jpg

 評価面では、本作では主演のFrances McDormandだけでなく、複雑な警官を演じてSam Rockwell(1968年-)が助演男優賞を獲り、気を吐いた。彼は俺と世代が殆ど同じ。しかもSFOに近いDaly Cityの通信制の高校を卒業している。
 以前、俺の身内のKellyがその問題児ばかりの高校で教師をしていたこともあって、何かとても近い感じがある。我が家の隣の部屋で、缶ビールを呑みながら、SF Giantsの試合を大声を上げながら観ていそうな感じがする。冬ならNellのシャツで、夏なら体にフィットしたカーキ色の海兵隊の放出品のTシャツなんか着て。
 本作では、Sam Rockwellの役柄はマザコンのゲイだ。しかも人種差別主義者の警官役。89年に「Last Exit to Brooklyn(ブルックリン最終出口)」で鮮烈な印象を残したのに、今や情け無い中年のヘタレな警官。最後には全てを無くした揚句、被害者とその遺族のために立ち上がる。これもヘタな役者だと臭い映画になってしまうが、そうならなかった。

Three Billboards outside of Ebbing (2) .jpg

 昔なら、それこそ今年ついに主演男優賞を獲ったGary Oldman(1958年-)が演じそうな役柄だったかも知れない。しかし、本作は、狂気じみたキャラよりも、性格の弱さから、今ひとつ今を突き抜けられない役柄で、Gary Oldmanではなく、Sam Rockwellできっと良かったのだ。
 94年の「Natural Born Killer」で怪演技したWoody Harrelson(1961年-)がさらに複雑な警察署長のキャラクターを巧く演じ切った。地方特有の閉じられた狭いコミュニティーの中の複雑な見方・見解を1人だけの演技で一身に背負って見せた。

Three Billboards outside of Ebbing (4) .jpg

 脚本も素晴らしいが、演じたWoody Harrelsonも、これまた狂気をちらつかせることもなく孤独の内に尊厳を保ったまま死んだ。映画は、必ずしも地方社会をダメとは言わない。田舎の街の良心の象徴であり、そういうキャラクターを生み出したのは、彼の力技だとも言えるだろう。
 有名な話だが、本人自身、New York Mafiaの一家で、しかもヒットマンを父親に持った、ホンモノのヤバ系の育ち。SicilyのLa Cosa Nostraの一家だった安岡力也(1947-2012年)などの系統か。
 しかしWoody Harrelsonの与えられた役柄は住民からは慕われ、信頼されていたという難しい役回りだった。日頃は、本人は家族と共にCosta Ricaに住んでおり、朝から晩までクサを吹かし続けて暮らしているそうだ。こんな人を使い切るのも、Joel Coenの巧さだ。


追記
昨夜は三河のど真ん中。ヤクザうろつく駅前の、カラオケスナックまろび込み、こんな話もあるかいね、驚き桃ノ木、山椒の木。びっくり仰天、幼馴染の某君の、あれやらこれやらこちらやら、そのチンチンにオケケが生えたかまだかいな、そんな頃のアレコレも、あの街この街誰とやら、わちきも参りますゆえの、女一代繁盛記、聴かせてもろうて感涙の、、哀れ親父と成り果てて、さて別れの段になり、感極まった女子の涙、そっとすくってやるまいか、あ、どうかいな。さてさてこれまた他生の縁か、畏れ多くもムニャムニャの、道無き道を行くソナタ、道中ご無事で参るよう、お百度踏んで祈るとて、これまたお尻がむず痒い。
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「巻頭随筆」拾い読み――(肆)
5月23日
「巻頭随筆」拾い読み――(肆)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 本日も、今では歴史の秘話となっている辛亥革命前夜の日本海軍と革命党軍との謀略について続けたい。
 革命党海軍総司令の王統一は神戸高商に留学し、以前から日本には広くネットワークがあった。あの日露戦の大殊勲・海軍軍務局長の秋山真之(1868-1918年)も了解していた。それがため、王は気が緩んだか、軍令部参謀の八角三郎(1880-1965年)に漏らしてしまい、結果、案は潰される。ということになっているのだが、それがどう潰されたのかさえも、今となってはハッキリしていない。
 このような話は敗戦後に台湾国軍を育てた帝国陸軍中将・冨田直亮(1899-1979年)率いる「白団」を想わせる。80名に及ぶ「白団」は、元々密出国・密入国をして台湾本島に渡った。この山中峯太郎が手記を書いた1960年当時も、「白団」は台湾に存在している。元首相の石橋湛山(1884-1973年)が周恩来(1898-1976年)と台湾攻撃はしないことで合意した。
 このため、台湾海峡は一時小康状態を保ってはいたが、台湾の人々には、国軍の制服は頼もしいもので、60年代前半さえ、テレサ・テン(1953-95年)のような少女歌手でも、軍人慰問にキャンプを訪れるのが主要な任務であった。

         「行動学入門」表紙。.jpg

 革命当時は中国人になり切っていた山中峯太郎。革命に身を投じたことで陸軍大学校を中退になった。敗れた孫文が日本に亡命した時点で山中に見えている世界地図は後世の日本人と全く違っている。だがこれは、54歳の俺は骨に沁みて分かる。
 引かれ者の小唄を歌わされた者にも、作秋帰国して以来、かの地からは熱烈歓迎の声。十年も連絡を取っていなかった若者らが、ラインで俺の顔を見た途端、「嗚呼、岡田純良先生!」。老いた俺の顔を見て即座に姓と名を叫んだのには泣かされた。
 俺は孫文同様理想主義者だ。親戚のように付き合っている身内で、敵方袁世凱の権勢を引き継いだ段祺瑞(1865-1936年)の係累もある。詳しく書けない貴種流浪譚もあるわい。何時の間か知らず、北軍・南軍何の何れも、かの地の者と深く関わってしまった。
 我是無論「没有浅」。味方の総大将は、孫文(1866-1925年)でもなければ、敵は袁世凱(1859-1916年)でもない。明明白白。難攻不落のあの組織である。彼らはますます強く、我々は益々老いていく。
 Hollywoodがあちらに尻尾を振るのはご随意にと嗤うべきことで、腹の底は不愉快千万この上無し、だ。それでも、あの手合いには、金はあっても骨は無い。
 老いて何をなすべきか。なお次代に善をなし、徳を積むことはできるだろう。「巻頭随筆」、恐るべし、であろうよ。如何であろう、諸兄姐。例え路傍の石であっても、やがて礫になることもある。他人や時代のせいにしたくない。その矜持は喪いたくないわな。
 そこで若者に問いたいのは山中峯太郎の働きぶり。勝負だけなら、秋山真之は当たり、山中峯太郎は外れたに過ぎない。彼らは面前でそう言われても、莞爾として頷くだろう。命懸けの仕事に当たった人物はそういうものだから。ニッポンの冒険男児諸兄の冥福をここに俺は祈念したい。合掌。


追記
立憲民主党、国民民主党、共産党の合同ヒアリングは自画自賛しているのだけれど、もうそろそろ立憲の国会対策委員長のような人種まで国税で食わせる余裕が無いことを選挙で知らしめないとダメなんじゃないの。昔の最もひどい時代の社会党の爆弾議員みたいな子供じみたはしゃぎぶり。また高転び寸前の窮地にいるのに気付いておられない。選挙区の有権者の見識が問われますぜ。はよ引っ込めや。

追記の追記
名古屋方面からは、はよいりゃーよ、はよいりゃーよの連呼。どない?
| 9本・記録集 | 06:32 | comments(0) | trackbacks(0)
「巻頭随筆」拾い読み――(賛)
5月22日
「巻頭随筆」拾い読み――(賛)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 昨日からの続き。山中峯太郎(1881-1966年)の「変態革命の回想」(60年8月)から。
 「中国人になっていた私は、やはり日本に来ると、『亡命記』を中国人の名まえで『中央公論』に書いたりした。『没有銭』で一杯の天どんを亡命の四人で食う、そこに原稿料というものが送られ、ありがたさが身にしみて、これを動機に私は、ものを書くことを始めた」
 つまり孫文らが負けなければ、開高健(1930−89年)の言うところの少年文学の最高峰、山中峯太郎は存在しなかったということになる。そもそも、孫文側には「没有銭」だから、金の無い軍勢に付くというところが、山中峯太郎は大バカモノである。
 世間胸算用ではないが、大抵の事業は金がきっかけ。金に集まるより、金が無いことで、困って始めた事業の方が、実は長続きするもの。山中峯太郎の場合も同じことだろう。

「日本番外地の肖像」表紙。.JPG

 さて、そこで話が一転して変わる。当時、革命党側で海軍総司令を務めていた王統一の関わった謀略である。
 「革命軍の海軍首脳に王統(一)氏がいた。夫人は日本美人、熱烈な恋愛結婚だという。日本語が私よりも上手で美男子だった。やさしい温和な顔をしていながら、おどろくべき機密工作の実行を私に打ちあけた」
 「少額で実効をあげる工作には、日本海軍の予後備水兵を約二百人、機密に動員招集して中国に送り、艦隊を深夜に奇襲して一挙に略奪する。司令官には僕がなって略奪艦隊に号令する。この水兵たちの動員名簿もすでに完成、約二百人の承諾も得ているのだと」
 「この謀略奇襲を実際に上海の岸の黄浦江に停泊していた艦隊へ、小舟と覆面と毒ガスとピストルで敢てした。あわてたのは日本の海軍省だったが、この国際的にも冒険だった暴挙も、今なお知られずにいる」
 「この随筆を今の中共の幹部諸氏が読むと、そんなのは変態だ、『革命』とは言えないと大笑いするだろう。だが、国父の孫文先生が買収難の辛酸を、つぶさに嘗めたのである。新中国の諸氏も多少は今昔の感なきを得ないであろう」
 彼らが海軍買収合戦を繰り拡げたのは1915年頃。辛亥革命時、まだ山中峯太郎は34歳。しかし小文が掲載されたのは1960年8月。60年安保が6月に自然成立した直後である。この回想を「文藝春秋」に寄せた時、山中峯太郎は79歳になっていた。
 当時のニッポンの世の中は、騒乱罪が適用されるかどうかの大動乱のさ中だ。ようやく60年安保の反対運動が樺美智子(1937-60年)の死の後、自然消滅して落ち着くかどうかという瀬戸際の頃。ハッキリ書けば、時代とズレている。
 後に尾崎秀樹(1928-99年)が山中峯太郎の伝記を書いたが、山中の小文は書かれた時期が悪過ぎた。言うなら、人類の歴史は所詮あざなえる縄で成り立っている。山中峯太郎の赤心も世の心ある人々の耳目に届かず、こぼれ落ちて行ったものと見える。

追記
樺美智子の死は未だに謀殺説が消えないのだが、生きていたら今頃は共産党の重鎮でうるさ型の衆議院議員のちゃんばあになっていたかもねえ。おっかねえなあ。娘の党歴を殆ど知らなかったおとっつあんとおっかさんの悲しみは、まことに深かったろうと想いますなあ。

追記の追記
忙しくてやれまへんわい。関東を東に西に、返す刀で明日は琵琶湖へ。
 
| 9本・記録集 | 06:51 | comments(0) | trackbacks(0)
「巻頭随筆」拾い読み――(弐)
5月21日
「巻頭随筆」拾い読み――(弐)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 第1巻〜第2巻の20年間を一般化すれなら、江戸期の建物が残っていた首都にも、槌音高く変貌を遂げていく影が押し寄せたという時代背景にあり、敗戦後の日本社会全体を決定付けた2つの安保闘争があった。
 そうしてこれらの結果、日本人は「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、経済至上主義に走っていった時代とも言えるだろう。だから、とりわけ前半の原稿が俺には面白い。
 この期間は俺にとっては大きい。明治の人々が世の中から退場し、代わりに、敗戦後に世に出た大正年代から昭和ヒトケタに語り部が入れ替わる時期にもなるからだ。
 しかも昭和から今日現在に至るまで、日本の雑誌の中で最も重要な「文藝春秋」のようなメディアに掲載されても、「巻頭随筆」みたいな小文は、全集の出る作家の作品集からも意外に落とされてしまっている。
 「巻頭随筆」は誰かの小さな印象を記した掌編が多いからか、同じ時代に描かれた小文を並べて店開きして概観すれば、時代と価値観の移り変わりがたちどころに掴めるという便利な随筆集でもあるのだ。昨日のやっつけ仕事とは、相も変わらず言い過ぎであった。
 目に付いた幾つかの小文を備忘録代わりに引いておく。
 先に記した通り、この時だいまでは、まだ敗戦前の日本人らしく堂々と大アジア主義を語り、自説を語る明治男が生きていた。

「植草甚一読本」表紙。.JPG

 敗戦前の少国民なら「少年倶楽部」の「敵中横断三百里」という少年小説を読まないわけにいかなかった。戦後ならホームズシリーズの翻訳者として記憶されている方もあるか。それが山中峯太郎(1881-1966年)であった。
 「変態革命の回想」(60年8月)から引く。
 「今は昔、一九一三−六年(大正二−五年)の間、中国のいわゆる『統袁革命』の渦の中に私は入っていた。暴虐なワンマンである大総統・袁世凱を討って民主革命の成果をあげようという、『中華国民革命党総理』孫文先生が、参謀長を委任する辞令書みたいなお墨付きを私にくれた」
 「(2つの勢力を南北にを分ける)揚子江上に煙をあげている艦隊はというと、北にも南にも付かず中立している」
 「ところが、袁大総統の方でも艦隊買収を交渉中との諜報が、互いに入りみだれている二重三重のスパイから急報してきた。しかし意外でも何でもない、当然きわまることだ、今は昔、『滔わすに利をもってす』ということばが中国には昔からある。今でも日本その他にあるらしい『贈賄』なのだ」
 「艦隊競売が始まった。最初は二十万元で交渉したのだが、だんだんにセリあがって、なかなか落ちない。とうとう六十万元に暴騰した。これには党の猛者連も頭をかかえた。領袖会議の口ぐせに誰れも彼れも『没有銭』という、金が無い。革命する者は由来貧乏なのだ。そこで考え出したのが、空拳で金を作る方法だった。紙幣を創造するのだ。決して偽造ではない」
 「資金の多い方が勝った。二千五百万ポンドを外国から借りた袁大総統を相手に、『没有銭』の革命党は当然に惨敗し、創造紙幣は紙くずになり果て、孫総理をはじめ幹部の多くが、ほとんど皆、日本に亡命した」
 孫文は空手形を乱発、満州を日本に売った売国奴と呼ぶ人もある。目的のために手段を選ばない人もある。まるで、「亜細亜の曙」か「敵中横断三百里」である。というわけで、本稿、明日も続けたい。


追記
忘れとったわい。まー、あーせいこーせい言うてから、ブンブンブンブンうるさいヤツラじゃのう。オホホホホホ。
| 9本・記録集 | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0)
今日の1冊――文学よもやま話(上・下)。
5月20日
今日の1冊――文学よもやま話(上・下)。
 昨日も触れたけど、池島信平の対談集を2冊揃いで買った。東京帝大を卒業して、初めて学卒採用をするという文藝春秋に入社した人だからねえ。20世紀の文学者は大抵頭は上がらない。
 池島さんが没後にまとめられたもので、74年に出ている。翌年には鬼籍に入ることになった梶山季之(1930-75年)が池島さんの葬式のことで泣かせることを書いている。ちらっと見ただけでドツボにはまりそうな本だ。

20180519 収穫 (2)池島信平対談集(上・下).JPG

 俺が古い本を読むようになったのは、きっかけがある。San Franciscoにいた30代半ばの頃、日本語の書籍に飢えて市の図書館に通った経験からだろう。得がたい期間だった。雑音に惑わされず、考える時間はタップリあった。
 高度経済成長期までの本が多かった。近所に古い日本の取次ぎもする書店があって、そこが日系移民の1世や2世のために全米に雑誌の定期購読を取次いでいた。身内も「文藝春秋」を定期購読していた。
 ドイツ人と何十年も世界中で暮らしたのに、連れ合いを亡くした後は、小さな和風の本棚が玄関にあって、英文のペイパーバックに混じって日本語の古い文庫本が置かれていた。
 あまりに時代が飛んでしまうと別だけれども、明治の末に生まれた祖父や明治維新前後に生まれたその親くらいの年代の書いたものだと、懐かしくなってしまう。そういう楽しみもあるだろう。
 今日はこれから某所にビリヤニ喰いに行って、それから恵比寿方面に。友だちのGuy Whiteが鋤田正義さんの映画に出ているそうだからねえ。冷やかしに行くかと思ってんだい。

「SUKITA」フライヤー。.jpg

追記の追加の追記
じっと考えていたのだけどこれからの日本人は是非外に出てにっこり笑う人であってほしい。力はなくとも、尽きせぬミリキ。そらが、かつこいいんだよなあ。
| 10随想 | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0)
「巻頭随筆」拾い読み――(壱)
小倉日記’18(第十五弾)
5月20日
「巻頭随筆」拾い読み――(壱)
 「巻頭随筆-」[文藝春秋編]
 この2巻はアメリカから帰国した30代半ばに古書店で買い求めた。第1巻が昭和で言う43年(1968年)1月〜52年(77年)12月分、そして第2巻が同じく34年(1959年)1月〜53年(1978年)12月分の中から選ばれたもの。
 第1巻と第2巻は期間が重なる。しかしこの中で編集部がこれぞと感じる一文を選んで収めたもの。編集関係者なら、オヤ?、と想うところだ。期間が重なるということは、第1巻で棄てた原稿を第2巻で拾い上げているということ。編集で第2巻のカバーする期間を決める時に、かなり激しく議論を戦わせたのだと想う。第2巻で拾い上げられたものが誰の原稿か、明らかになってしまうから。
 挙げてみると、渋沢秀雄「親孝行」(74年11月)、芥川也寸志の「おかしな話」(67年8月)、團伊玖磨の「賤しい話」(73年2月)の3篇だけのようだ。
 ということは、第1巻(昭和43年〜52年)に対し、第2巻では約10年遡って昭和34年に始めたこと、さらに昭和53年の1年の間で書かれたものも玉稿が含まれているということでもあるだろう――と仮説を立てて抜書きしてみた。
 開高健「遅すぎた春」(78年6月)、宮崎勇「耳障りな言葉」(78年10月)、中村光夫「若い散歩者たち」(78年2月)、鴨井玲「私の村の人達」(78年1月)、長新太「『おなら』の絵本」(78年12月)、松下忠「ボウリングと坂本竜馬」(78年2月)、佐藤雅彦「韓国沖に沈んだ宝船」(78年2月)、北浜喜一「魚王フグの魅力」(78年3月)、

        「古本パンチ」[戸川昌士著]表紙。.jpg

 許斐仁「アメリカ人參」(78年9月)、小川真「海外のマツタケ狩」(78年1月)、黒江光彦「絵の裏のエピソード」(78年6月)、羽仁翹「誤訳と誤用」(78年7月)、松川道哉「ミュージカル・チェア」(78年3月)、矢島稔「電話相談室の十年」(78年7月)、藤本義一「岡潔先生のこと」(78年5月)、岩瀬義郎「大蔵省の我が同期三島由紀夫君」(78年5月)、二出川延明「プロ野球トレード第一号」(78年4月)、山川静夫「津太夫の涙」(78年4月)、中村新「ある日の牧野富太郎」(78年7月)、中上健二「科白の苦しみ」(78年2月)、吉川幸次郎「同姓名禍また弁妄」(78年4月)
 78年の1年間は手形乱発。第2巻は第1巻から掲載期間を1年間延ばした78年からは2年後の80年に初版。比較すると第1巻に玉稿が多く、第2巻はやっつけと思えてくる。
 第1巻と第2巻で語られる人々の言葉は、期間にすると約20年。我が家で言うと愚父が東京から都落ちをしたのが昭和33年(1958年)4月。LondonではPILが人前に現われてライブを行ったのが昭和53年(1978年)12月。この間に、明治男の祖父・純良が昭和46年(1971年)の3月に亡くなっている。
 どういうことか。いわば、東京に都(市)電が走り、首都高の無い東京しか父は知らない。祖父は戦前のヨーロッパをつぶさに見ながら万博と三島事件の翌年、何も語らずこの世から消えて逝き、俺が思春期のド真ん中に突入した時期でもある。


追記
昨日は都内各所に出没して、古書店、書店、洋品店、レコード屋、CD屋を訪ね歩き、散策しました。吉祥寺のdisk unionに入った時に軽い眩暈がした。1978年の「Sort It Out Tour」の海賊盤が店内に流れていて、曲は「In the City of the Dead」だったからだ。Hammer Smith Odeon(現Apollo)のコンサートだったんではないか。つい、去年の秋まで暮らしていた家と目と鼻の先。

追記の追記
というわけで、またまた「巻頭随筆」を紐解いたわけ。馬齢を重ねると、若い時に読んだ書籍であれ、味わいがグッと変わってくるのが面白い。若書きで世間知らずなのは無論のこと、中年に差し掛かった辺りでは世間にゴマをすっていたりする文章なども直ぐに判る。それと歳を取って幾つになって書いたものでも、中途半端なシノギをやってきた人の文章には煤けたいやらしさが浮かんでいる。
そういうイヤらしさが少ないのが明治でも半ば位までの生まれの古い人の文章で、竹を割ったようなものでもそこに味わいがあるのが何とも言えない。小沢昭一の放浪藝モノに奥行きがあるのは、小沢昭一は芸人だから、同業者には入り込んでいくインナーの視点があることと、しかし、自分は所詮都会のインテリ芸人であることをじっと見詰めて彼らに厚かましい質問を放ち続け、自分も一緒にやってみて、録音をし続けた。エライ。
昭和時代には社会の隅っこに追いやられていたのだが、社会の底辺で生きた芸人やその周辺の人々の世界は、21世紀の現在の、法律だの正義だのマニュアルだのいった屁理屈なんか、およそ通用しないところで厳然と存在していた。しかし、そういう底辺とは、引きこもりとは違って、タテにもヨコにも拡がる立派な「社会」だった。
今は底辺の問題には、貧窮より、自ら壁を作って立てこもる孤絶があって、連帯も助け合いも社会鍋もへったくれも無い。河上肇(1879-1946年)のような人も、賀川豊彦(1988-1960年)のような人も、机上で夢想していた訳ではない。
今の問題は過去の底辺の問題とは別のところに根があるように感じるのは俺だけか。
| 9本・記録集 | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0)
本日少々収穫あり。
5月19日
本日少々収穫あり。
 1984年に論創社から出ていた奥野信太郎随筆集。それと金子光晴、小沢昭一の宿題になっていた文庫、さらには、何と、池島信平が自社から出していた文学よもやま話(作家との対談集)上・下刊揃い。
 本日の収穫は他でもないこと。祖父・純良の形見の懐中時計を玄関のたたきに落として止まってしまい、何年か前に動くようにまで部品を再生して修理して貰った西荻窪の某店まで持ち込んだのだ。
 「おっと、これはもしかして」
 丁寧な対応で前も感じの良かったこの職人の店で、またまた驚きの事件があり、その場で止まっていたメカを修理して呉れた。あっと驚くタメゴローである。ヤング・フレンズ(新出)は意思明白了?、アハハハハハ。

20180519 収穫 (3)奥野信太郎.JPG

 ということで、中央線でも程度の良い文学書の集まる古書店の有数のメッカ、西荻窪まで足を伸ばしたのだった。
 いやはやすさまじいね。文庫なんか買ってらんないよ。奥野さんの随筆集なんか厚さ5cmくらいもある。池島さんの対談集は帯もバッチリきれいで、人の手垢が付いてないわけ。如何にいい読者が大切に保管していたか分かるわけ。
 俺はセドリ男爵じゃねえけど、キレイで文庫になんかなりそうもない対談集を観ると、ムラムラとなるわ。
 それが100円。たった100円で放出されていて、泣かされた。安岡章太郎、山口瞳の単行本も、どっさり出ていた。昭和がどんどん遠くなっていく。
 ゲットできたのは嬉しかったけれど、本が放出され、結局、誰かの手に渡るものもあるけれど、殆どの書籍は処分されてこの世から消えていく。
 実際に昭和時代に盛んに書いていた人々の存在は文字通り小さくなっていくことを考えた。平成30年で昭和時代も潮時ということなんだろう。

追記
阿炎はいいねえ。おっかさんの話も泣かされるけれど、寺尾の錣山が親方なんだなぁ。蔵前では20歳の錣山のケツを叩いた男は俺くらいのモンだろう。その頃から、ケツ友じゃけえ。ウハハハハハハハハ。阿炎、頑張れ。遠藤休場の間に男になれい。なれい、なれい、なっちゃれい。

| 10随想 | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0)
Amsterdam(下)――あの男の育った街。
5月19日
Amsterdam(下)――あの男の育った街。
 今回、俺の仔分になったのは2人のRené君。1人はAntonius Geesink(1934-2010年)で有名なUtrecht出身。Above Lineの男の身長はGeesinkと同じ2m。30代半ば。頭骨も後頭部と前頭葉が大きく張り出している。
 それに対して、もう1人のRenéは、俺より小柄。頭骨は細く長くIndic Riceのようで、年齢も俺より10歳ほど年下で相方のチームを率いている。デカイ方はデカRenéで小柄な方はチビRenéと呼ぶことに決めた。
 初日の会食は美女2人だけで楽しいなと想っていたら、20時近い時間に、わざわざ俺と顔を合わせるためだけに一度戻った家からわざわざ出て来た。

Amsterdam Records Shop Tour (3) Waxwell Records.jpg

 美女2人がデザートの前にトイレに消えた後だった。
 「ボクは昔、キヨシローの」
 2本目のワインのボトルを空けようとした時、突然、René君の口から、「キヨシロー」という日本語が出て来たので驚いた。
 「委託研究生でもあったので随分楽でした」
 聞いてみると、1年間国分寺の南町に住んで、一橋大学に通った交換留学生だったことがあると言う。
そして、「キヨシロー」こと忌野清志郎(1951-2009年)は、国分寺の育ちだと知っていた。
 「国立の南口側は関東で最も美しく整備された街並みだよな」
 「私のジンセイで最も幸福だったのは国立時代です」
 だが、キヨシローからは話は発展せず、俺たちは東京のトンカツ名店はどこか、という具体的な話で盛り上がった。
 ホテルに戻ってから想い出したことがある。キヨシローは国分寺の生まれではないが、育ったのが国分寺だったことで。
 (そうだったなぁ)
 Londonの医家の家柄に生まれた生粋のイギリス人なのに、Amsterdamが男にしたのがあの男だった。しかも、死んでから随分と長い時間が経っているのに再評価もされない。
 それがJohnny Thunders(1952-91年)やMichael Monroe(1962年-)とセットで語られて、俺にとって今でも不当に評価が低いままのRené Berg(1956-2003年)のことである。

Amsterdam Records Shop Tour (5) Rush Hour Records.jpg

 実際René Bergの本名はIan Bruce。面白くも何ともない。だがRené Bergと名乗ると、Holland辺りで育った無国籍の流れ者のイメージが出てくるわけだろう。
 逆説的には、Londonで勝負をし続けたら、こんな怪しい芸名を名乗らなかっただろう。René Bergと名乗ったことが、今も不当に評価を低くしたままにしているのだとしたら、取り返しのつかないことになった。
 だが、そんなことは、本当はどうでもいいことだけれど、それでも気の毒とも想う。
 ハッキリしている事実は、Amsterdamが彼の名声を確立した街であったことだ。Amsterdamに暮らし、演奏を続けたことで、René Bergは表現者としてのキャリアを積むことができた。
 人を追い詰めて殺すような街よりも、人を育てる温かい街の方がといい。Amsterdamはそういう雰囲気がある。
 「San Franciscoと似てますよ」
 90年代にツアーで何度か訪れた、元Drop Nineteensのモトが言っていたっけ。俺も、モトと同じような印象を持った。何でも曖昧にしておく国際都市。昔の上海も印象が近い。また来るぜ、Amsterdam!


追記
Amsterdamとはその後付き合いが深くなって、今でも毎朝毎晩付き合ってんのよ。拳銃の話も出たけれど、ハッパではアメリカに先んじて合法になったからねえ。だけどキメたデッカイおっちゃんが、でっかいチャリを全速力でこいでいるのはオッカナイわねえ。

追記の追記
純良じいさまの形見分けの時計がまたまた壊れた。今度は俺が床に落として止まっちゃった。何だか情けないわね。これから入院させなくては。しかし最早治癒不能かも知れず、ちょいと心苦しいわねえ。

追記の追記の追記
Ian BruceがRene Bergの本名と知ったら、“小倉の料理番長”は言った。

「アハハハハハ。結構ショッパイ名前だねえ」

Sid ViciousはJohn Ritchieだし。
| 10随想 | 06:54 | comments(0) | trackbacks(0)
相撲の行方――どうなる、国技。
5月18日
相撲の行方――どうなる、国技。
 先日の日本武道館の全日本柔道選手権でも感じたけれど、純血の日本人なんてのは、幻想で、もう、各種の異国の血が、とりわけ分かり易いスポーツでは混じっていて、目立っているわけだ。
 格闘技ではそれが段違いに出やすくて、海外からの取的もいるわけだが、日本人のなかにも、片親がガイコクジンというケースは珍しくない。大鵬がそもそもそうだったわけだからね。
 今場所もいろいろあるけれど、遠藤の人気はずば抜けていたわね。勢とか隠岐の海は、どうも夜の街の玄人筋には受けが良いけれど、一般にはそうでもないのには拍子抜け。
 楽しむにこしたことはない。2001年に帰国した時には、武双山も雅山もいる中で、安美錦が目立っていたものだ。若武者は今や彼は疲れきって年老いた老犬のように見える。孤軍奮闘。あれから二十年近い年月が経っている。
 彼は良く闘ったと想う。安美錦の両足に巻いたサポーターを観ているうちに、ジワジワと込み上げるものがあり、ちょいと情けなかったぜ。我ながら。オホホホホホホホ。

   20180514 五月場所(4).jpg
| 10随想 | 19:56 | comments(0) | trackbacks(0)
Amsterdam(中)――臭いにおいが取れないよ。
5月18日
Amsterdam(中)――臭いにおいが取れないよ。
 土曜日は1日時間を取って、街を散策した。運河の街で、中央駅は運河の脇。Lisbonのような感じでもあるし、つまりは海運で栄えた国らしくもある。
 海抜マイナス3mという場所があって、屋根の上を川のような運河が流れているわけだ。江東区のゼロメートル地帯などその細い運河を引っ切り無しに観光船が行き交っている。
 そして、街の中心部に行けば行くほどハッパの燃える臭いが至る街角でも感じられる。San Franciscoの往年の市民イベントでも、ここまで強く淀んではいない。副流煙でトンでしまいそう。いやいや誇張無しにホント。

Amsterdam Records Shop Tour (1) Red Light Records & Radio.jpg

 トラムに飛び乗り、1日乗り放題券(7.5€)を買うと、街が小さいだけに、どこに行くにもとても楽。San Franciscoのバスと路面電車、ケーブルカーと同じ伝。こちらは平地だけど、公共交通が発達している。
 また、大型のチャリに大人も子供も乗っている。大きな自転車屋が街の至る場所にある。武骨で、ハンドルバーがグッと上にせり出していて、日本のママチャリの骨組みを1.5倍に太くして、サドルの位置も1mほどの高さにすればイメージに近くなる。
 そして、トラムと乗用車・オートバイのレーンとに分かれ、さらに自転車専用レーンが人の歩く舗道の脇に必ずある。慣れないと何時の間にか自転車専用レーンを歩いていて、後ろからチャリチャリと警笛を鳴らされて驚いたりすることになる。
 この日はとても良く晴れていたのだが、最高気温はマイナス2℃である。ここいらでは、最低気温になるのは明け方で、マイナス7℃程度まで下がった。
 時差ボケでもベッドに入ってしまわないと、部屋が猛烈に寒くなってくるから恐ろしい。深夜の何時かに館内の集中暖房を止めるようだ。
 この日は、俺は教えてくれる人があったので、有名なレコード屋巡りをしてみたのだ。予めGoogle Mapに入れておけばそうそう道に迷うことも無い。本当にいい時代になった。
   (1) Vintage Voudou (https://vintagevoudou.com)
   (2) Studio Red Light & Radio (https://www.redlight-studios.com/)
   (3) Rush Hour Records (http://www.rushhour.nl/)
   (4) Waxwell Records (http://www.waxwell.com/)
   (5) Distortion Records (https://www.distortion.nl/)
   (6) ZAP Records (https://zaprecords.bandcamp.com/)
 行ってみるとこれらの全てが店を開いていたわけではなく、(1)は閉店したらしく、(2)もRecords Shopはもとより営業していないようだった。

Amsterdam Records Shop Tour (2) ZAP Records.jpg

 (3)は店のDJがTokyoのイベントにも参加するようで、誇らしげにイベント用に作った幟のようなものがディスプレーされていた。店の名前は古い飛び道具に由来しているのか。
 (4)はお元気な店主と若い客の間で面白い会話がポンポンされているようなお店だった。周辺は古着屋と雑貨屋が多く、隣の古着屋の趣味は良さそうだった。
 「オランダ語?、英語?」
 ゲイの店主に招かれて、あやうく米軍の砂漠のキツネ作戦の砂漠用の迷彩ジャケットを買わされそうになってあわてて逃げた。
 小さな画廊もある。しかしウィーンのような高額商品を売り買いするような店は中心部では見なかった。学生の延長のような気分で暮らしていけそうな街でもあった。もっとも、リーマンで屋台骨が潰れたABN AMROの本拠があり、巨大看板が大きな石造りの建物の屋根に掲げられていたのにはアッと言わされた。2015年に復活していたのだった。
 レコード屋巡りの中で特筆すべきなのは(5)であろう。
 この店には驚かされた。長くは続かないと想う。興味があれば行くが良かろう。俺は、林忠彦(1918-90年)の撮影した坂口安吾(1906-55年)の仕事部屋を反射的に想い出した。

Amsterdam Records Shop Tour (4) Distortion Records.jpg


追記
昨晩は某所から○○神社方面。家は着々と変貌しつつあって、昨晩もここはどこ、誰のオタクか知らんというくらいに変わってきた。ぬーん。北朝鮮方面はどうなるのか知らん。プーチャンの心変わりなのかどうか。北方領土は返還されることは暫くは無さそうだわねえ。日本の政治が秋にはしばし混乱して、その後で支持率の高い強い内閣が誕生することができるのか知らん。誰がやってもいいけど、対外的にはしょっちゅう変わらないことと、主張の一貫性が望まれるところだけれど…。ってなことを神社の裏で謀議・密談・悲憤・慷慨・絶叫・嗚咽・沈黙・帰宅。
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