岡田純良帝國小倉日記

転がり出てきたモノ(2)――Sex Pistolsの缶バッジ。
10月19日
転がり出てきたモノ(2)――Sex Pistolsの缶バッジ。
 断捨離中の俺。さらにこんなブツが棚の奥から転がり出てきましたわい。
 (なぬ〜!)
 遠く遠く、1978年の初夏に作ったSex Pistolsの缶バッジだ。
 中学校から帰る途中に、同級生の女の子たちが立ち寄る手芸屋さんがあった。そこで、缶バッジを作るサービスをやってることをクラスメートの女の子から聞いたんだろうね。多分、お店の中には手作りのボタン用の小型プレスがあったんでしょう。
 バンドは解散していたんだけれど、悔しくて作ったことを覚えている。他の女の子は、キャー、イアンだわとか、あらクリス可愛いとか叫びながら、沢山のアイドルのカラー写真の切り抜きの山から楽しそうに選び取っていた。
 俺の場合には、前の晩に、ミニコミ誌に掲載されていたバンドのモノクロ写真を切り抜いてみたら、手芸屋さんで指定されている缶バッジの許容範囲ギリギリになっていたので慌てて4人の写真をバラバラにして左右を寄せて何とか収まるように「工夫」した。
 (断られるかなぁ)
 恐る恐る差し出したら素っ気無く受け取った。

Sex Pistols缶バッジ(1978年)

 「ちょっと待っててね、すぐできるよ」
 店の中は女の子たちで溢れかえっている。手芸屋さんに男の子が行くことがそもそも恥ずかしい年頃だったが、それでも缶バッジの魅力には抗えない。
 「ほら」
 店のオジサンが差し出した缶バッジには、ギリギリメンバーの顔が乗っていた。
 「有難うございました」
 とっとと店を飛び出したことを覚えている。
 (Paul Cookの顔が切れ掛かっているけど、ま、いっか)
 この缶バッジは、そんな想い出もあってか、捨てられずに40年も俺の手元にあるのだ。これも何かの縁だから、もう処分せずに取っておこうとも想う次第。
 「Brexit is NOT Punk」
 昨年の国民投票前には保守党系の雑誌のインタビューで明言していたPaul Cook御大。今年の夏にも声を掛けてくれた。嬉しかったな。
 今日では某所に住む妹が、2004年にはまだ倫敦に住んでいて、その頃に送ってくれた記事の切り抜きまで出てきた。

20040206 Johnny Rotten on The Times

 こちらはJohnny Rottenがセレブの我慢比べ番組に出ていた頃の記事なんだけれど、もう、今のSex Pistolsは、俺はもう卒業だ。
 「ストーンズは1965年に引退すればよかったんだ」
 「あんな年寄りになるまでバンドをやっているなんて真っ平だ」
 「俺はアナキストなんだ」
 当時のMick Jaggerは30代の前半だろう。
 1977年には元気のいいことを言っていた青年も、今では還暦を過ぎた。しかも70代でスリムなMick Jaggerと違い、でっぷりと太った。大金持ちのドイツ人の妻の庇護を受けて普段は静かに暮らしている。確かに、あれから40年経った。
 Public Image Limitedをやり続けては来たが、あの77年の時の閃光の強さを想えば、今の彼の姿と較べることも愚かなことであることは明々白々。意味が無い。
 「ようし、おんどれらも吐いた唾、呑まんとけよ」
 「仁義なき戦い」シリーズでの永遠の名セリフということになっている。
 Sex Pistolsも卒業。Punk学科の博士課程満期終了。


追記
本日も雨。雨、雨、雨、雨。痺れるねえ。ま、傘がさせるから嬉しいけどさ。
もう、海の向こうのRock 'n' Rollの世界では、これ以上、探求すべきものが無くなってしまった。
| 8音楽 | 07:06 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(1)――Sid Vicious Interview Tape。
10月18日
転がり出てきたモノ(1)――Sid Vicious Interview Tape。
 こんなブツが靴箱に突っ込んであったカセット・テープの山から転がり出てきました。
1978年夏にPaddington Station近くのPindock Mewsという古い厩の並ぶ裏通りのアパートで行われたインタビューだ。
 ここは映画「Sid and Nancy」で描かれた破滅的なカップルのSid Vicious(1957-79年)とNancy Spungen(1958-78年)がNew Yorkに出て行った後、ヤク中になったTopper Headon(1956年-)が住んでいた。彼もヤクのせいでThe Clashをクビになった。
 Pindock Mewsというクランク型の路地は、当時こそヤバイところだったわけだが、今では高級住宅街に変わってしまった。全てこれも1996年頃から徐々に起きていったイギリス社会の変貌によって、今やその忌まわしい過去が美化されるようになってきた。
 Interviewの後、8月15日にThe Vicious White KidsでComden Townに今もあるElectric Ballroomに出演したのだと想う。

Sid Vicious with Nancy Spungen on Jam Magazine

 この晩のThe Vicious White Kidsの様子はすでにCD化されて出回っているわけだが、ベースがGlen Matlockで、GuitarにはSteve NewというRich Kidsのコンビだった。余りにヘロヘロで、New Yorkでは、Mick Jonesも飛び入りしたことがあるようだが、それほどSid Viciousの行く先ではまだ人が集まった。
 とはいえ、Johnny Thundersは、Nancy Spungenのヴォーカルのマイク・コードを引き抜いたという話をその場に居合わせたある人物から、直接、俺は聞いたことがある。
 「あの女は疫病神だ」
 ネットで出回って世界中に流通している「JAM」に掲載されたあのインタビュー時の写真は、8月のギグの後でアパート内で死亡事故が起きる前に撮影されているわけだが、何となく薄暗くて気味の悪い部屋だった。
 テープでは、冒頭に、Eddie Cochranの45回転のシングル盤に合わせて「Something Else」を歌うSid Viciousの声が入っている。シングルのレコード・プレーヤーは回転が速過ぎて、Sid Viciousは着いていくのがやっとだ。
 当然、まだ本人名義のカヴァー曲がシングルとして切り出される前の時期だったから、Interviewで張り切る水上はるこへのサービスと共に一種の売り込みだったとも想える。シングルは「Silly Thing」とのカップリングだったが、ジャケットにはSidはおらずに、Paul CookとSteve Jonesの2人だけだ。
 SidとNancyは地下鉄に乗る小銭が無くて、カメラを向ける誰にも小金をせびってはヤクに代えていた。
 「俺たちがヤクを持ち込んだなんて言うけど、そんなことあるもんか」
 Walter Lure(1953年-)は笑って言ったっけ。
 「Londonみたいなデカイ街ではどこでもあるもんさ」

Sid Vicious Interview (1978.8) (2)

 帰国直前の9月末のこと、Oxford Circusの交差点のドまん前で、完全にぶっ飛んだヤク中の女がポリスに両腕を取られていた。秋だが、もう晩秋のような寒空にサンダル履き。それが両腕を取られてサンダルでピョンピョン飛び跳ねていた。
 (おっかねえな)
 あれでは完全に廃人だ。
 友達も失くし、誰からも見放され、孤立無援になった後でパクられたわけだ。多分、まずは治療センター行きだろう。だが、もうあそこまで行くと、社会的に復帰するのは難しいだろうというほどの典型的なヤク中の末期の姿を見てしまった。

Sid Vicious, Nancy Spungen and Johnny Rotten at 45 Gunter Grove June 1978

 こちらのInterviewはそのそろそろ直前の2人だ。結局、New Yorkに渡った後も、CBGBに現れては喧嘩をして、大金を持っている時には周辺には売人が溢れていた。Nancy Spungenは投宿していた「Chelsea Hotel」の100号室で、10月12日には死体で発見された。Sidの大きなナイフが突き立てられていて、情況から見れば、薬物中毒による事故死だとも言えるだろう。その4ヶ月後、Sid Viciousも後を追うように死んだ。
 つまり、このInterviewは死んでいく2人の死の直前の肉声が納められているのだが、実は、よく聞き取れない。2人の声は小さく、テープの回っている間には沈黙の時間が多い。もう語るべき言葉も無いという調子だ。起こされたInterviewは勇ましい言葉が並んでいるが、実際の姿とは落差があるのではないだろうか。
 このテープは砧にお住まいだった岡田真理さんから分けて頂いた記憶がある。これも、もう、聴こうにも、そもそもカセットプレイヤーが家には無いのだから聴くこともできない。
捨てるかねえ、捨てるしかないんだろうねえ。断、捨、離、すべきなんでしょうなぁ。諸兄姐、どうする?

追記
体調良好なれど多忙につき色々ありまっせ。ジャポン絶好調。本日だけは天高く馬肥ゆる関東の空。
| 8音楽 | 07:07 | comments(0) | trackbacks(0)
やっぱり好きな怪奇モノ。
10月17日
やっぱり好きな怪奇モノ。
 「Jasmine Records Presents――33 Slabs of Undead Rock 'n' Roll」
 Johnny Ramone(1948-2004年)は大のHoller Movie好きであり、その手のフィギャ好きでもあったことは知られている。
 Ramonesには「Pinhead」(マヌケ)という曲があって、「Gaba Gaba Hey」というプラ・カードを持ってPinheadのカブリモノを付けた男がステージに現われるのはバンドのお約束だ。
 また、ペットの墓場を歌った「Pet Sematary」という曲があるが、このPromotion Videoが撮影されたのはNew York郊外、New Yorkの当時の我が家の近所にあった「Sleepy Hollow Cemetery」で撮影されている。
 Ramonesのメンバーは1950年前後の生まれでで、昨日上げたPopsに夢中だったが、同時に1950年代末から60年代初期に流行ったHorror Movie、Horror Programにも熱を上げた。当時、吸血鬼、フランケンシュタイン、ミイラが深夜のテレビ番組にも登場して、親に隠れてTVを観る子供たちを震え上がらせた。

Rough Trade 20171001 (掲載)

 阿吽の呼吸で、同じ頃に流行り始めたRock and Rollはこのテーマを巧みに流用した。
 「ウフフフフフフ」
 「アハハハハハハ」
 恐ろしげな声色が曲間に入るだけではない。初期のエレクトーンで安っぽい音を作り、犠牲者の絶叫が入る。女の泣き声のような風音、雨を弾くワイパーの擬音など、全て如何にも子供騙しの効果音が安っぽい。

   1. MONSTER MASH――BOBBY (BORIS) PICKETT & THE CRYPT KICKERS
   2. FRANKIE & IGOR AT A ROCK'N'ROLL PARTY――BOB MCFADDEN
   3. HAUNTED HOUSE――JOHNNY FULLER
   4. LITTLE DEMON――SCREAMIN' JAY HAWKINS
   5. DINNER WITH DRAC――JOHN ZACHERLE 'THE COOL GHOUL'
   6. NIGHTMARE HOP――EARL PATTERSON WITH THE DARTS
   7. GRAVEYARD――LEROY BOWMAN & THE ARROWS
   8. ROCKIN' IN THE GRAVEYARD――JACKIE MORNINGSTAR
   9. THE SPOOK WALKS――THE SPOOKS
   10. TIL THE FOLLOWING NIGHT――SCREAMING LORD SUTCH &
     THE SAVAGES
   11. HORROR SHOW――SHARKEY TODD & THE MONSTERS
   12. PURPLE PEOPLE EATER MEETS WITCH DOCTOR――THE BIG BOPPER
   13. THE MONSTERS HOP――BERT CONVY
   14. VOODOO VOODOO――LAVERN BAKER
   15. SHE'S MY WITCH――KIP TYLER
   16. GRAVEYARD GIGGLE――FRANK N. STEIN & THE TOMBSTONES
   17. NIGHTMARE――SCOTTIE STUART
   18. WERE WOLF――CARL BONAFEDE
   19. YOU CAN GET HIM, FRANKENSTEIN――THE CASTLE KINGS
   20. THE MONSTER HOP――JIMMY DEE & THE METEORS
   21. DON'T MEET MR. FRANKENSTEIN――CARLOS CASAL, JR
   22. BO MEETS THE MONSTER――BO DIDDLEY
   23. WEREWOLF――THE FRANTICS
   24. I WAS A TEENAGE MONSTER――THE KEYTONES
   25. I DIG YOU BABY――BOB MCFADDEN & DOR
   26. FRANKENSTEIN ROCK――EDDIE THOMAS
   27. MIDNIGHT MONSTERS HOP――JACK & JIM
   28. FRANKENSTEIN'S DEN――THE HOLLYWOOD FLAMES
   29. THE CAT――ROD WILLIS
   30. HAUNTED HOUSE――CRIS KEVIN
   31. THE MONSTER――BOBBY PLEASE & THE PLEASERS
   32. PURPLE PEOPLE EATER――SHEB WOOLEY
   33. ALLIGATOR WINE――SCREAMING JAY HAWKINS

 彼らより数年下になるBilly Childish(1957年-)になると、そこにアジアのテイストが入って来る。だから先日挙げたような「My Boy Friend’s Learning Karate」のような香港・日本のB級映画のスパイスが振りかけられた怪しい曲が現れるわけだ。
 「ソニー・千葉、好きでしょう?」
 「勿論だよ」
 Billy Childishは嬉しそうに応えそうだ。
 このコンピはB級ばかりではない。Lavern Baker(1929-97年)の「Voodoo, Voodoo」、BoDiddley(1928-2008年)の「Bo Meets The Monster」が入っているのは大貫禄だ。

「Jasmine Records Presentsーー33 Slabs of Undead Rock n Roll」ジャケット。

 だが、本コンピレーションのタイトルは「Monsters, Vampires, Voodoos & Spooks」。だが、そう書くと、怪奇映画のことなのか何のことだか分からない。
 考えてみると、俺も、今や甲子園に鳴り響くようになった「ひみつのアッコちゃん」のタイトル曲、「すきすきソング」[作詞:山元護久・井上ひさし 作曲:小林亜星]を高校時代にカバーしたのだっけ。
 あれは、今にしてみれば、俺たちなりのGarage Songであり、俺たちの世代のB級っぽいテーマだった。2番が終わるとドラムだけになりヴォーカルによるメンバーの紹介になるというありがちな仕立てだった。だが、ちょっとGarageっぽいR&Bになるわけだ。
 「あれの原曲、誰か持ってないか?」
 数日後、ドラムの千葉君が妹君の持っていたソノシートを学校に持ってきて回した。
 「ひみつのアッコちゃん」でなければドリフの「ズンドコ節」でもよかった。こちらなら少しリズムを重くすると面白くなる。その頃、小河原良太と佐藤シンイチロウたちは北島三郎の「与作」を演っていたっけ。
 怪奇モノってのは、永遠の少年のテーマだ。横尾忠則の作品にも「少年探偵団」だとか「怪人二十面相」は欠かせないモチーフだ。薄暗い世田谷のお屋敷町に現れる怪しい影。「影男」は江戸川乱歩だが、貸本マンガの「影男」なら佐藤まさあき(1937-2004年)。
 この佐藤まさあきの追悼文を「en-taxi」に書いたのが中島らも(1952-2004年)だったが、並んで俺のRobert Quine(1942-2004年)追悼が掲載されたことも今は昔。らもさんは佐藤まさあきの追悼をした直ぐ後に自分が死んでしまった。


追記
色々ありますが、ロンドンで準備いていたこと以上にこっちでやることが多過ぎてクラクラしちゃう。まぁ、貧血にならないように青菜でもタップリとって参ります。
| 8音楽 | 07:35 | comments(0) | trackbacks(0)
Ramonesと我が家の歴史。
10月16日
Ramonesと我が家の歴史。
 「The Ramones――Heard Them Here First」[Various Artists, ][ACE Records, 2012]
 帰国前に最期の音源を買ったのは、Camden Marketのあの店でもなければShoreditchのこの店でもなかった。
Notting Hillの「Rough Trade West」(本店)。
 しかも、本家のThe Ramonesではなく、The Ramonesのカヴァーした5〜60年代のアメリカを中心とするポップスの数々を集めた、我が愛する「ACE Records」の編集盤。改めて並べてみると壮観だ。世界中のGarage BandオタクがあまりにストレートなGarage Band LoveとLost-Love Song Loveに声を挙げただろう。

Rough Trade 20171001 (Dracura)

 New York郊外のForest Hillの劣等生の彼らにとってこれらの一連の曲がヒットした時に思春期を過ごしていたことになる。よく伝わってくるのは、選曲の明るい哀しみ。
 「ワビサビは日常に潜む明るい哀しみで――私の胸に何時もあるものだ」
 先日、ノーベル文学賞を受賞したKazuo Ishiguro(=石黒一雄, 1954年-)は、以前日本文化の影響を問われてそういう言い方をしていた。もしそれがワビサビというなら、The Ramonesのセンスはワビサビだろう。
 選ばれたThe Beach BoysやJan & Deanが象徴する真夏のビーチの恋愛劇は彼らにとってはるか彼方の存在だったろうということだ。バカにしているワケではないぜ。メイン・ストリームから何時でも遠い、言わば“路傍の人たち”だったということだ。
 西海岸にはBobby Fuller(1943-66年)率いるBobby Fuller Fourがいる。今では世間一般にはThe Clashのカヴァーで知られるこの曲を作詞作曲したBobby Fullerは、そのキャリアのピークで自宅アパート前で愛車の運転席で死んでいる姿が発見された。
 未だに諸説が紛々として明らかになっていないが、バンドはツアーの後でメンバーの脱退話でもめていた。契約していたDel-Fi RecordsのBob Keane(1922-2009年)らが何らか事件に関係していたと言われる。
 このBob Keaneは昭和の用語で言うと“畳で死んだ”側だが、生涯、そのキャリアに付きまとった黒い噂は晴れなかった。映画の「La Bamba」になったRitchie Valens(1941-59年)を見出したのはこの男。
 また、黒人のSam Cooke(1931-64年)にPopsを歌うように唆したのも目端の利いたこの男だった。Sam Cooke自ら「Sir Records」を設立して独立した時にもめている。メキシコ系移民のRitchie Valansは飛行機事故だが、この時に多額の生命保険を受領したという噂がある。また全国的に騒がれた「The Hacienda Motel」でのSam Cookeの射殺事件はFBIかMafiaの手にかかったと言われている。

「The Ramones――Heard Them Here First」ジャケット。

 これは東海岸なら、Clint Eastwoodがこの辺りのShow-Bizの世界を巧く描いている通り、「Jersey Boys」で描かれる1950年代から60年代の東海岸のポップスの世界だ。New Jerseyの地元のバーで歌の巧い兄ちゃんとして鳴らしていたFrankie Valli(1934年-)をFront Manに擁したFour Seasonsの浮沈を描いた本作は、大金の匂いを嗅ぎ付けて入り込んできたギャングの集まった魑魅魍魎の世界でもあった。
 「Roulette Records」のMorris Levy(1927-90年)などは「Bird Land」の経営者でもあり、Musicianをシャブ漬けにして版権も何もかも毟り取る、映画を上回る冷血漢だった。New York Mafiaの中でも顔役の顔役だったが、晩年はその悪行がTVで全て暴かれ惨めな最期を迎えたが、そういう人の方がこの業界では少数派だろう。

   1. Let's Dance――Chris Montez
   2. California Sun――The Rivieras
   3. Surfin' Bird――The Trashmen
   4. Do You Wanna Dance――The Beach Boys
   5. Needles And Pins――The Searchers
   6. Come On, Let's Go――Ritchie Valens
   7. Baby I Love You――The Ronettes
   8. I Got You Babe――Sonny & Cher
   9. Little Bit O' Soul――The Music Explosion
   10. Time Has Come Today――The Chambers Brothers
   11. Indian Giver――1910 Fruitgum Co
   12. Surf City――Jan & Dean
   13. I Can't Control Myself――The Troggs
   14. My Back Pages――The Byrds
   15. Surfin' Safari――The Beach Boys
   16. Can't Seem To Make You Mine――The Seeds
   17. Shape Of Things To Come――Max Frost & The Troopers
   18. Journey To The Center Of The Mind――The Amboy Dukes
   19. Somebody To Love――Jefferson Airplane
   20. 7 And 7 Is――Love
   21. I Don't Wanna Grow Up――Tom Waits
   22. R.A.M.O.N.E.S.――Motorhead
   23. 1969――The Stooges
   24. What A Wonderful World――Louis Armstrong

 The Ramonesのメンバーとして集まった人たちは、ギャングの儲け話にさえ一口乗れない風采の上がらない、言わば、気転の利かないところがあった。利発で目端の利く男たちの集団ではなかった。
 「懐かしいねえ」
 アクビ娘が聴きながら身体を揺らす。
 「この曲、本人の歌で観てるんだぜ」
 「え?」
 「『Baby I Love You』って、あ、Ronettesか」
 「そう」
 「アタシは記憶に無いのに、お父さんから言われて知ったこと多過ぎ」
 1997年の暮れにJoey Ramone(1951-2001年)が地元の子供のためにCharityでChristmas Partyを開いた。この時にRonnie Spector(1943年-)をゲストに呼んだ。
 「紹介しよう、Ronnie Spector!!、史上最高のBitchだ!」
 「ああ、子供に耳栓を配ったんだよね、あの日は」
 俺のように、中学に上がる頃には彼らを知って育った人間にとっては、これらの選曲リストを眺めると、辿り着いた場所は同じだったという想いがある。あらゆることを通り過ぎて、なお、還っていく場所。基本の基本――そういうリストだ。


追記
秋の長雨にしては時期が遅い気もするが、ずっと雨続きで困ったもんだ。天高く馬肥ゆる、という季節のはずなのにねえ。関東は一週間雨がちだそうで、気が滅入るねえ。あっこのブルー・マンデーだわ。
| 8音楽 | 07:12 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(3)。
10月15日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(3)。
 昨日の映画の話、「この世界の片隅で」の続きである。あまりに素っ気ない。
 一般的に敗戦前を知っている世代は、御本人が考えているほど価値観や考え方は次の世代に伝わっていないことをご存じない。
 とりわけ日本では、敗戦の後は戦争を語る時に後ろめたさが拭えないようになった。
 「映画についてお前が言ってきているのは分かりますが、小生にとってはそんなもんだというだけです。戦中派と戦後派の違いかもね。以上です、またメールします」
 身内は身内の気安さでそう書いてきたのだが、ここには重要なものが隠されている。映画で描こうとした当時の呉市に生きていた当人にとって、映画は所詮作り物と見える。映画が架空の物である以上、ある程度、それは仕方が無いことだろう。
 だが呉の街は大変懐かしいものがありましたと言わせた。偏屈老人に「大変懐かしい」と言わせたのだから、映画は企みに成功したということでもある。
 「時計屋さんに嫁いだお義姉さんのお話は母方の○○のお姉さんのお話の様なもので」
 これまた、結局のところ、映画の企みに乗ったということだろう。

 倫敦の純良(1935-37年) (掲載10).jpg
 この店の経営者はその後、どうなったのかということなどは、結局、あまりよく
 分かっていないのではないか、帰る家のあった者はまだよいが、移住した者には
 移住先と母国との戦争は地獄だ。

 身内にとって敗戦前の呉のあらゆることは自明のことで、しかし息子にとって想像を絶するものがある。当たり前のことだが、敗戦後に生まれた世代にとっては、敗戦前の庶民の普段の暮らしは分からない。身内は呉で尋常小学校に入学して、その後、転勤となった純良について豊川の海軍工廠内の官舎で過ごした。
 豊川大空襲では、官舎の八畳間には燃えないで落ちてきた焼夷弾が突き刺さっていたということ。さらに別の日、グラマンのF4F Hellcatから機銃掃射を浴びて、搭乗員の顔を見たことがあるそうだ。
 「それでも進駐軍に『ハロー、ギブミー・チョコレート』だからなぁ」
 本人は自嘲気味にそう言ったことがある。
 「豊川時代は、物質的には一番恵まれていたかも知れません。小学校低学年時代で何もわかっていない頃です」
 先日、そんな連絡があった。

事務所ノ窓ヨリ国会議事堂ヲ望ム.jpg
 こちらは昭和11年の海軍武官事務所からのテムズ方面の眺めなのだが、下記の
 現在建設中のマンションと高低差はあれどほぼ同地点であることが確認できる。

 開戦前の海軍駐在武官事務所の住所が判明したことを知らせると、
 「ご苦労様。『The Feathers』に行って乾杯したいのは山々なれど、当面は如何ともし難いですね。何れにせよ無事に帰国されることを祈念します」
 連続しているはずの感覚でいる親側と、敗戦で断絶しているようにも感じられている子供の側とに、意識の連続性についての深い断絶がある。
 話は飛ぶが、ここ近年、気になって仕方のない丸山眞男の批判的な再評価ついても、戦後の左翼路線はこの動きをどう見ているだろう。
 とりわけ、「丸山眞男の敗北」[伊東祐吏著, 講談社メチエ選書]とか「丸山眞男の憂鬱」[橋爪大三郎著, 講談社メチエ選書]などは再評価(批判)の急先鋒の最右翼に挙げられる。前者は1974年生まれの文芸評論家であり、後者は1948年生まれの著名な社会学者だ。

Northacre 10 Broadwayから見る国会議事堂方面の今(掲載).jpg
 現在再開発の進むScotland Yardの跡地の区画では、高級マンションが建設中だ。
 この予想眺望図ではWestminster Abbeyは低層で遮られて尖塔がよく見えない。

 後者は前者の著作について好意的な書評を書いたが、あるいは息子世代の伊東祐吏の著作に刺激されて自分の丸山眞男を削り出したいという欲望に取り憑かれたのか。
 橋爪大三郎も伊東祐吏も戦後世代。とりわけ橋爪の場合、団塊世代として丸山眞男について胸にわだかまりがあっても、批判的に論評することは封印してきた。
 ここに来て、丸山眞男に対して下の世代が「No」と言い始めた。「戦後政治の総決算」は大勲位こと中曽根康弘の専売特許だが、ついに「戦後の政治思想史が磔にされる」時期が到来したのだ。俺もまた橋爪大三郎や伊東祐吏と同じ敗戦小国民であったことを改めて考えさせられる。

追記
本日からはVHSビデオカセットやDVDの山脈へ向かいます。これもVHSしか出ていない古いアメリカのテレビ番組などがあって、簡単には処分できないんだよ。しかもアクビ娘の子供時代のロールなんかもあるから、時間は掛かるがそう大量に処分できる見込みでもないわけ。達成感低そうだわねえ。

追記の追記
先ほど、ようやく本日のメドを付けて投了。本棚とソフトを入れている棚を2箇所。雑誌を分解して一まとめにする、VHSやDVDの中身をざっと確認して、廃棄するか保存するかを決めるといった地道な作業だった。8時過ぎから始めて、午後7時まで、間に1時間ほど昼食の買出しに出た程度で、残りは働き詰め。正味で10時間ほど。
しかし廃棄に回ったのはミックスペーパーで紙袋2つ、ソフトウエア系で紙袋1つ。しかし古いもので20年程前からの手付かずの棚などを中心に攻めたので、もう、タブーは殆ど無いですわな。
| 10随想 | 06:47 | comments(0) | trackbacks(0)
トムヤムまぜそばに泣く。
10月14日
トムヤムまぜそばに泣く。
 先ほど在外選挙人登録証を持参して、22日の衆議院選挙を済ませてきた。帰途、数年前まで併用していたガラ携を処分したり、洗濯物を出したりして、結局、昼飯を喰って帰ってきた。
 その後、古雑誌を分解してクリッピングにした。一まとめにして大きな袋に放り込み、スキャナーでデータ化する対象の一群にまとめた。捨てる対象になった雑誌はおよそ40冊ほどになった。古いものは80年代半ばの写真雑誌からStudio Voiceまで雑多。ここまでで4時間ほど。

   在外選挙人証

 帰宅する前に喰ったのはトムヤムのまぜそば。黄色い玉子麺の平麺の上に、大き目の挽肉の肉味噌、ネギ、揚げたネギ、潰したピーナッツ、パクチー、そして半熟の目玉焼きまではいいのだが、びっくりしたのは水菜と刻み海苔、さらにカツオの削り節が乗っていたことだ。
 (うーん、日本流)
 思わずアクビ娘と顔を見合わせた。
 「お好み焼きみたいだったな」
 アクビ娘は言った。帰り道は黙って帰った。泣けるぅ。

トムヤムまぜヌードル

 長く市議をやり、先日まで民進党の県会議員だった候補者が今回国政に初出馬。ポスターは緑一色で「希望の党」。先ほど期日前選挙の受付会場まで行くのに街宣車とすれ違った。
 「よろしくお願いいたします」
 うーん、まともに目線をぶつけられてしまったんだけど、アンタ、同級生やろ。ワシ、あの民進党から今更「希望」に衣替えする心理を疑うわなぁ。
 大阪の無所属で出るあのオバハンについても、New YorkのNさんから「もう、あかんなぁ」というメールが来とるで。さて、どうなる。岸田に禅譲かいねえ。そしたら宮沢喜一以来のヒロシマ者の天下人ちうことになるわいな。

| 7喰う | 17:15 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(2)。
10月14日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(2)。
 昨日の話の続きで、桑港の話だ。
 “我が偉大なる女房”の一族で宮島から19世紀後半に桑港に渡った一族もいる。実際に除籍謄本には毛筆で「加州桑港市」という表記がある。1998年夏から3年ほど暮らしたが、この時、まさかその移民たちの末裔がアクビ娘の通った幼稚園を経営する教会に通っていたとは知らなかった。
 今月末にも、また、その一族が日本に来る話もあるようだ。一族は日本でも拡がりを持っていて、日本に戻った人が宮島や広島にいるだけでなく、今や、名古屋、東京にも散っている。しかし交流の裾野がこうして広がるようになったのは遠い過去でもない。
 戦争に負けなければ、こうした一族の行き来は細々でも途絶えることも無く、もっと世界的に拡がり、民族や人種の血もさらに混じった一大ファミリーが交流を続けたかも知れない。そういう一族が増えてくれば、日本人の意識も変わってくると想うのだが。

倫敦日本人會 (1950別)
 こちらも倫敦日本人會の敗戦後の室内の様子で、フランス人所有になった1950年頃の
 写真だが、風呂以外は往年の倫敦日本人會の室内の様子を残していたそうだ。

 敗戦で価値観の転換が起きる時、世代間には意識と価値観の断絶も起きることを俺は身を持って体験した。
 2016年作品で、公開直後から大ヒットし、ロングラン上映中の「この世界の片隅に」。昭和20年の広島市と呉市が舞台の映画なので、我が一族は無関係ではいられない。
 俺は、日本のアクビ娘から2度観たと言われて驚いた。同じく呉の生まれ育ちで俺と同年の澄田健まで絶賛しているので、これまた驚いた。
 映画は機内で何度か観た。俺の実感として、銃後にあった庶民にとっての「太平洋戦争」として、丁寧に、よく描かれているということだった。主人公のすずは、美形でもなく、要領も悪く、おっちょこちょい。しっかり者というには程遠く、嫁いだ後も実家の親に心配されるような娘だ。
 嫁いだ先は広島市内ではなく、軍港の呉で、夫には嫁いだ姉がいて、この女の性格が悪い人でないにしてもキツイ。廣島県立呉第一高等女学校(ケンジョ)の典型のキャラで、見ていて笑ってしまった。
 広島の人たちから見れば、呉の人は何事に付けて武張っていただろうし、数年前に、四半世紀ぶりに会った身内からもそういうことは言われた。
 「母方は呉の士族じゃいうて西条の平民の父方の家は小さくなっとったし」
 威張っていなかったかも知れないが、威張っているように見えたのかも知れない。
 日常、スケッチし、デッサンすることが何より好きだった彼女が気の毒なのは爆撃で姪っ子を失い、姪っ子が握っていた右手首から先を吹っ飛ばされてしまったこと。
 広島地方の皆さんそれぞれの想いで観て、概ね感想も良好だったようだ。だが、呉で昭和10年(1935年)に生まれた身内からの感想は意外なものだった。

20170929 Westminster Abbey (別別々)
 こちらはWestminster Abbeyのバス停付近から撮影したテムズ川方面で、祖父が80年
 前に撮影した写真と、ビッグベン、Westmkinster Abbey等がほぼ似通った距離にある
 ことが分かるだろう。つまりWestminster Abbeyのバス停の後ろ、Scotland Yardの
 ビルの跡が、やはり武官事務所のあったところと推論できる。

 「先日、お前たちがおすすめの映画『この世界の片隅で』を○と○と3人で見ました。涙滂沱たるものだと聞いていたのだけれど、小生には面白くもなかったですね。隣のおばちゃんとお姉さんはハンカチが幾らあっても間に合わない風情だったようですが、映画はアニメ。少女趣味と言ったら身もフタもないですが、絵の描くのが上手な主人公が広島の海岸の生家から呉に来て色々と苦労をした様子です。但し映画の中で呉の街とか大変懐かしいものがありました。また、話の中に出ていた時計屋さんに嫁いだお義姉さんのお話などは母方の○○のお姉さんのお話の様なものでした」
 「結局広島の原爆の話をベースにした庶民のお話で、それから完璧な広島弁と呉弁との触れ込みである種の期待がありましたが、大したことないなあとの感想です、映画の語りと主人公はNHKの朝の連続もののアマちゃんでした。矢張り無理ですね」
 身内は呉で暮らしていたはずなのに、ともかくあまりにも素っ気ない。さて、こんな話だけれど、本稿、ダラダラと明日もお付き合い願いたい。


追記
昨日は朝から晩まで色々あって目の回るような忙しさだった。ま、それでも、汗をかきかき忙しそうな顔をしても、実は楽しんでいるわけで。これで2年位も汗をかくかなあ。師走には10年ぶりの中国の土地を踏むことになりそう。ま、北京じゃないけえ、官憲の目を潜り抜けられるでっしょい。オホホホホホホ。ざまぁみさらせ。
| 10随想 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(1)。
小倉日記’17(第一弾)
10月13日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(番外)――昔の桑港(1)。
 先日来、Billy Childish(1957年-)の「My Boy Friend’s Learning Karate」の銅鑼の音が耳に残響として残っている。
 「チャララララ、チャチャチャー」
 お約束通りの中国風のジングルの後で、
 「ジャーン!」
 銅鑼の音が鳴り響く。そして場面は一転して、Thee Headcoateesの演奏と歌が始まる。
 「アタシのジョニーは空手に夢中」
 「彼氏はもうアタシの家には来てくれない」
 その後で、コーラスが入り、
 「Say Sayonara〜!」
 サヨナラを言うわ、と続くので、こんな結構を持った曲は耳にこびりついて離れないのも避け難い。

倫敦の純良(1935-37年) (赤の宣伝@Hyde Park Corner)
 祖父の手書きのキャプションには、「赤の宣伝」とある。いよいよ社会主義化しそうな
 かの国は、80年前からこんな調子で、モスクワとは仲良しこよし。

 銅鑼の音に中国ジングルで「空手」である。発音は「カラティ」で、楽曲の途中、元彼のジョニー君が悪役と戦う時に発する気合が入る。
 「×○△%$*!!、マッシュ・ポテ〜ト〜!」
 だとか、
 「ミッキー・マウス〜!!」
 とか、如何にもいい加減で笑ってしまう。
 1980年代から90年代前半は、イギリス人は中国と日本の違いなどはよく分からない。実際にHeadcoateesを率いるBilly Childishには「Jackie Chan does Kung Fu」という曲もある。こちらは香港映画を下敷きにしている。
 沖縄由来の「空手」も福建の「功夫」がその源流と言われるが、そんな深い歴史を知って2曲を書いたはずもないことは明らかだ。元々、古くは1950年代のアメリカのGarage Bandの楽曲にはこの手のAsian Tasteが散りばめられている。
 太平洋のど真ん中の孤島群を舞台にしているが、往年のテレビ・ドラマ、「Hawaii 5O」(ハワイ・ファイブ・オー)にもそのアジア人と文化を盛り込んで“それらしさ”を出す演出の意図は濃厚に感じ取れるだろう。
 ストリップ劇場や売春婦を置いたラウンジが並ぶLos AngelsやSan Franciscoでは、よくこの手の曲が使われていた。Quentin Tarantinoの「Pulp Fiction」ではテーマ曲にまでフィーチャーされた「Misirlou」はこのジャンルを代表する作品で、Dick Dale & His Del-Tonesの代表曲だ。

倫敦日本人會 (1950別々)
 1950年頃の倫敦日本人會の建物。内部は当時とそれ程変わっていなかったそうだが仏人が
 所有していたそうだ。日本人からは没収ですからねえ。

 映画で取り上げられるまでは、怪しいコンピレーションに収められていても、誰も、まともに取り合おうとしなかった。Dick Daleの怪しい叫び声が効果音のように入っている。こんなGarage Songが生まれ、倫敦のSohoや今の歌舞伎町と同じく、中華街と境界を接する性産業エリアのストリップ小屋で客寄せにかかっていたわけだ。
 (そうか)
 一時は世界最大の中華街と言われた「桑港」を忘れていた。
 19世紀、アメリカ大陸を横断する鉄道の敷設工事のために中国から工夫が集められたことが中華街の源流にある。 Jack Nicholsonの初期の代表作、「China Town」はLos Angelsが舞台だが、昨日まで、東京、北京、倫敦と顧みて、3年も暮らした桑港こと、San Franciscoを何も書かないというのも如何にも手落ちだなと思い直した。
 桑港については、岡田一族として面白い話が、倫敦にインド洋〜地中海経由で渡った純良が、帰国ではカナダのナイアガラ瀑布から入り、最後は桑港から出国して太平洋を渡っていることだ。1937年のことで、大日本帝國海軍は北米の軍港調査を強化していたのだろう。
 “我が偉大なる女房”の話になるので、本稿、ひとまず本日はこれにて。

追記
広告代理店だけが大儲けする選挙の季節がやって参りましたが、どの党でも相変わらずヒドイ選挙キャンペーンですなあ。メディアの選挙予測までバラバラで、ちっとも票が読めないねえ。困ったことですワイ。
| 10随想 | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0)
景気良く行くぜ。
10月12日
景気良く行くぜ。
 都内で酔心の薦被りの二級の樽酒を飲めるなんて考えもしなかった。嬉しくなっちゃうねえ。

某所にて

 安倍ちゃんどうなるか。政権交代したらぶっ飛びそうな話はゴマンとあって、俺もそんなプロジェクトに五年も絡んできたけれど、日本に戻ったら憑き物が落ちた。
 これからは心機一転仕込み弾込めの後に古い仲間とゴロマキをやろうかなと思う次第。大阪方面の古い仲間がいるから今度帰朝報告と共に密談予定。うっふっふっふ。

   刺身三点盛、酔心2合と高清水1合
| 10随想 | 17:02 | comments(0) | trackbacks(0)
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(下)。
10月12日
昔の東京、昔の北京、昔の倫敦(下)。
 この奥野信太郎という人は、中国語でいう、それこそ破落戸(無頼漢)のところがある。親の財産を蕩尽したという意味では、金子光晴(1895-1975年)や獅子文六(1893-1969年)と通じるところがある。
 数え年12歳で熊本の連隊に転勤となった両親と別居し、それまで山手の暮らしだったのが、浅草の下町文化に触れ、陸軍士官学校も旧制一高の入学試験もしくじり3年間の浪人暮らしを送る。
 この間に浅草オペラの常連となったと本人も振り返っているが、実際には旧制中学でオペラに熱を上げ始めていた。
 「校長は三島由紀夫の伯父さんで、顔の恰好から眼の澄みようまでかれにそっくりで」
 「ただちがうところはいつも眉根に八の字をいかめしくよせているところである」
 「そのしかめっ面が割引き以降のオペラの小屋で、実に苦々しい視線を向けて、教え子の狂態ぶりを監視しているので」
 この校長とあるのは、開成中学の校長の橋健三(1861-1944年)。三島由紀夫の母方の漢学者だった。
 金子光晴はことさらに悪ぶるし、獅子文六は、なるたけ話をはぐらかそうとするが、奥野信太郎は常に真正面から記憶の対象にぶつかっていく。奥野先生のカッコいいのは、どうせ持ちつけない親の資産で身を持ち崩したところで、そんなもの、知れたものだということが腹にしっかりと入っているところだ。筆者も、還暦を過ぎた頃だからなのか、文学者の妙な韜晦と自慢が無いのが素晴らしい。

倫敦日本人會 (1919年改装時のフロア・プラン掲載)

 そんなことを考えながら、俺の倫敦を想う。先に書いたように、俺の倫敦とはSohoから中華街の20世紀の想い出なのだろう。
 1970年代末のDenmark Street のJohnny Rottenでもあれば、60年代末に全盛期を迎えたSex ShopをうろつくRoxy MusicやDavid Bowieでもあり、1930年代の半ばにManette Streetにあった「Tokiwa Restaurant」でご機嫌の祖父にも連なる。
 さらに、もう一つ忘れてはならないのが、Soho最寄のTottenham Court Road Stationから1駅だけ西のOxford Circus Stationに行くなら敗戦前の日本人らが集まっていた「倫敦日本人會」があった。英国日本人会(http://www.japanassociation.org.uk/)の前身。
 
倫敦日本人會
3 Cavendish Square, London W1(G0LB)  
Telephone : Langham 1258

 日本人が渡英すると、世話になったのがこの組織と施設で、各種の談話室があった。
 「本會は在英同朋紳士諸君唯一の社交機関にして御来英の諸君は是非御入會の上左記の便利なる設備をご利用あらん事を希望致します」
 当時の惹句通り、英国式の玉突室、食堂の牛鶏豚肉鍋、特別宴會室、支那料理宴會、ゴルフ教室、さらに泣かされるのがカード室、酒場、理髪室、私書箱、そして浴場まで設えてあったことだ。
 「5階建てのGrade2の歴史的建造物です。1919年にJapanese Clubが設置された」
 今、この建造物は大改築中で、新たにオフィス用の商業ビルとして貸し出されるのは来年になる。

倫敦の純良(1935-37年) (掲載4)

 「今と同じく5階全ての改造が行われたのがこのClubが置かれた時ですね」
 9月末、「John Lewis」の裏手の「倫敦日本人會」跡地を訪ねると、建物の全体に足場が組まれ、ビニールシートが掛けられて改装中だった。
 「私の祖父がここに80年前に通っていて」
 こちらが名乗ると、昼飯の時分だったからか、工事業者のManagerが改修事務所にしている部屋に招き入れてくれた。大きなA3のファイルをキャビネットから取り出し、過去の「Japanese Club」時代の写真を見せてくれた。
 「建物入り口で撮った古い写真を送りましょう」
 翌朝、Managerから、写真を受け取った、18世紀半ばに建設された歴史的な建物をできる限り大切に改修する旨の心のこもった返信があった。互いに知らない人の手から人の手に、記憶が手渡されていくのだろう。


追記
来年の一般参賀の話になった。待ち合わせ場所を決めて一族で参ります。どうなるかねえ。その後は三笠?、大和?
ってな会話ですわい。
| 10随想 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0)
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