岡田純良帝國小倉日記

気になる本――繰り返される貧困とメシの種。
6月20日
気になる本――繰り返される貧困とメシの種。
「貧困の政治史」[岩田正美著, 筑摩書房]
 サブカル系、特にアニメの世界にも造詣の深い社会学者の佐藤俊樹が取り上げている。
 「敗戦直後の焼け跡で、飢える人たち。高度成長期の湧き上がる活気の中で、河跡や日陰の町にひっそりとたたずむスラム。バブルの残骸のお洒落な地下街にうずくまるホームレスの人々。20歳前後で妊娠し、男性の暴力にもさらされる今日のシングル・マザー」
 「各時代の貧困の『かたち』を見つめ、その先の日常を丁寧に描き出した最後に、著者は記す。いつでも『貧困者はもう十分「自立的」であり、それが問題なのだ』。叫びにも、呻きにも聞こえるその言葉が、胸に深く刻まれる本だ」
 「貧困者だけ」を見ると誰しもそう感じるところ。だが弱者だけを見つめていても行政の政策とはつながらない。
とりわけ、この手の議論では、子供の虐待やDVからの救済方法は別項にしたらいいと何時も想う。そうでないと、議論がどんどん拡散して曖昧なままで終わってしまうから。
 幸い、本書については筑摩の付けた内容紹介を分かりやすいので引きたい。
 「敗戦直後の貧困は『食べるものすらない』という『かたち』で現れた。こうした中で、戦争により生み出された浮浪者や浮浪児の一部は炭鉱へと送られた。そこで生まれ育った若者の多くは集団就職で都会へと出ていき、その一部は『寄せ場』の労働者となった。高度経済成長により実現した大衆消費社会は多重債務問題をもたらし、バブル崩壊はホームレスを生んだ」

   「貧困の政治史」表紙。.jpg

 その上で、東京新聞に書いている貧困問題の研究家でもある橋本健二の書評も引く。
 「貧困のさまざまな『かたち』は、一見すると異質にみえるが、実は共通項が多い。空き缶を集めるホームレスは現代の『バタヤ』であり、ネットカフェ難民はドヤ暮らしの労働者の変形である。そして公営住宅や民間アパートの密集地域の一部は、実質的にはスラム化している」
 こうして、貧困は何世代にわたって繰り返されてきた。議論は何かを生み出すだろうか。
 一方で、貧困を売りモノにする人がいる。それで社会を渡る旅芸人のような者もある。それを許す土壌がある。
秘書給与詐取で議員辞職した野党議員がまた復活している大阪10区はどうか。あの女性議員は、以前は社会党のホープと目されたが、今や立憲民主党の国会対策委員長。俺の地元ならとっとと引っ越したい。
 別の女性議員はテレ弁(マチ弁ならぬテレビ弁護士)との不倫で他人の寝室を侵しながら無所属で出て3選、今や立憲民主党所属に。相手の家庭を破壊して、破竹の勢いの観のあった立憲民主の党勢が衰えた。愛知7区も俺の住める土地ではないわい。
 自民党で総裁選に出ると噂されるくらいの女性議員がどれほど女性議員は国会にたった1割だけしかいないと叫んでも、立憲民主党に女のクズのようなのが吹き寄せられている。ふてぶてしい者らが弱者救済を掲げて赤絨毯を歩くのだから全国の支援は得られない。我々の血税を乞うてなお人を欺いているのだぞ。彼らに貧困者の救済を期待できるか。国政に送る人がいることが元より問題だわな。(東京大教授・佐藤俊樹評、日本経済新聞 / 早稲田大学教授・橋本健二評、東京新聞)


追記
コロンビア戦の勝利で浮かれとりますわなあ。渋谷も道頓堀も、普段の息苦しさからのつかの間の解放というわけ。ヌーン、光景としては異様な感じがありますが、そこはそれ、官邸の印象付け方も巧みであります。この辺りには、某国からの伝家の宝刀ですわ。ヌオーン。

追記の追記
雨、雨、雨。困った雨ちゃんですら。その合間に夏至が過ぎていってしまう。胸がかきむしられる感じあるわねえ、東京の夏至は。
| 9本・記録集 | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜の風(2)――風水が治める星港。
6月19日
亜細亜の風(2)――風水が治める星港。
 Merlionは2002年にアジア通貨危機で揺れるご当地星港では、都市全体を揺るがせる大論争に発展した。
 Merlionは70年代にLee Kuan Yew(1923年-)が設置した人工的なLandmarkだそうだ。星港の役人は、昔から日本には天然資源が無いと言うが、観光資源はあると言う。

   20180613 (18).JPG
  お忍びでなく、命懸けで独裁者が異国で敵対国の首脳と会談する場合には、夜間に危険
  を顧みずに移動するのには、それ相当の理由がある。そのそれ相当の理由を考えた時、
  まず今回考えられることは、こんなことだろう。南はスルーされる可能性が高いという
  話も聞いたぜ、俺は。

 2002年の通貨危機の結果、風水的に場所が悪いから、僅かな距離でも移そうという話に国論が一決して、Merlionは移動し、そして、巨大になった。そして今や、対面にあった荒涼とした埋立地の開発と共に、某金帝国の独裁者さえ見学に出かける一大スポットになったのだ。
 日本人はそういう彼らの言葉こそ、聞くべきなのに、聞かなかったから、Merlion観たさに善男善女がこうして集まるようになった。
 Mr. Kimは聞く耳を持っているから、白頭山をはじめとして、必ず、かの国にインバウンド産業を盛り立てるためにこれからあれこれと新しいことを始める。
 そのノウハウを教えるためにSingapore Economic Development Boardはかの土地に投資をするだろう。そうなると資金の還流はどうなるか。獄中⇒星港⇒白頭山⇒獄中と、極東の島国とは無関係な海岸に沿った流れができる。

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  鶏肉のおかゆが出てきたので、すっかりQuantasの御姐ちゃんには随喜の涙。これまた
  白も南半球の濃厚なブツが出てきた。かのエアラインのワイン品評会は歴史も長くて、
  南半球のワイン業者ににとって、死活に関わる重要なイベントになっている。品評会で
  蔵出しされてきたワインだもの、ビジネス・クラスだってそこいらのファーストよりも
  ずっと美味いぞ。そして気前良くずんずん注いでくれるから眠れんかったワイナリー。
 
 俺たちはあの首脳会談の翌朝に当地に入った。そしてその晩に、2日前にMr. Kimの歩いたという場所を運ちゃんに心付けをはずんで案内して貰ったのさ。
 1970年代にはまだ星港は産業集約の拠点でもあって、日本の製造業には、進出する投資先として魅力的な時代が、短かったものの、確かにあった。それだけインセンティブを付けて投資を募ったからだ。日本企業はそういう点しか見えないし、見ない。スパンの長さと深さは政府とは違う。
 マクロな見立てをしていかないと、尻小玉を抜かれっちまうのだが、さて、この辺りの怪情報は、ニッポン政府はどれだけ入手しているか知らん。
 Me. Kimが国を開くコトに本気なら、やれることは幾らでもある。金が還流する流れがあれば、人も還流するから、犠牲者達も必ず戻ってくるはずなのだ。やれんねえ。
 そんなこと、考えている人がおるか知らん。おっても、クチにしないんでしょう。それでいいのか知らん。
 「そんなこと、どうでもいいじゃない」(by 野口五郎岳)
| 6旅・行動の記録 | 19:46 | comments(0) | trackbacks(0)
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(肆)。
6月19日
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(肆)。
 さらに先日来の、映画「Lucky」の話だ。
 映画では、Harry Deanがスペイン語で「Mariachi」を唄うシーンがある。これも、映画のポスターに使われた印象的な場面だ。Harry Deanの演じるLuckyは、歌では心の奥底を素直に告白できるのに、歌わないと自分の殻に閉じこもってしまう。

Harry Dean Stanton Lucky (6).jpg

 映画に出るようになる前は、自慢の声を活かしてコーラス隊に加わってドサ回りをして糊口をしのいだHarry Dean。映画で喰えるようになってもPaul Newman(1925-2008年)が主演した1967年の佳作、「Cool Hand Luke」(邦題:暴力脱獄)でも獄中で歌う場面がある。
 エンドロールは助監督のFoster Timmsの曲、「The Man in The Moonshine」がバックに流れる。歌詞はHarry Deanの脇役人生を歌い上げたもの。少ない主演作品のタイトルが歌い込まれていても、サビは「The Man in The Moonshine」というのがいい。
 喰えない頃、Harry Deanが相棒にしていたのはJack Nicholson(1937年-)である。もう、この辺りまで行くとHollywoodの伝説の域となる。

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 ラスト・シーンでHarry Deanの顔が大写しになる。誰もいない荒れた斜面に聳え立つサボテンの群れ。懐かしい友だちのようだ。
 「望郷」のJean Gabin(1904-76年)のPépé le mokoとか、「かくも長き不在」のAlida Valli(1921-2006年)の演じたThérèse Langloisを想い出した。どんな表情を浮かべたかはここでは書かない。
 映画館を出る時に想った。
 「1人で入っても夫婦は夫婦だ」
 映画の中のLuckyに倣うなら、俺はモギリの兄ちゃんに無表情で言うべきだったな、と想った。映画の魔術であり、俺も劇中の登場人物の気になっていたのだ。

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 帰宅して、真っ先に調べてみた。オキナワ戦の話を語ったTom Skerrittの愛妻はJulie Tokashiki。間違いなくウチナーンチュの血を引いた、日系人の「渡嘉敷」一族なのだろう。Tom Skerrittが彼女のお身内から聞いた話が含まれていたかも知れない。他人と想えない。
 1970年に「M・A・S・H」のCaptain Duke Forest役を演じた時も、Robert Altman(1925-2006年)の現場は、殆どアドリブの連続であったことはよく知られている。監督も第2次大戦では航空隊でB-24の搭乗員であった。Tom SkerrittにはJohn Carroll Lynchの現場も同じだったかも知れない。
 「あの美しい笑顔こそが真の勝利者であったのだ」
 映画は、現場で役者たちが集まってシナリオの細部を練り上げたように想える。

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 さて、どう死ぬのか――考えても仕方のないテーマだが、鈴木大拙(1870-1966年)がHarry Dean の享年と同じ1960年に語った言葉を引きたい。
 映画では仏教と解されるが、Luckyは少なくとも日本人にモデルを求めて死んだ。HarryDeanがRobert Altmanの監督でTVの「COMBAT」に出ていた頃から半世紀以上が経った。日本とアメリカの関係も随分深まったと感じている。
 「西洋の方と較べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもある。いくらでもあって、日本はそいつを取り入れにゃならんが、日本は日本として、あるいは東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると、ことにそれは哲学・宗教の方面だと、それをやらないかんというのが、今までのわしを動かした動機だ。
 わしはな、機械や科学を重んじる西洋の考え方はじゃな、弱いところがあるように思う。工業化や機械化の結果、人間は使われてしまうじゃろう。西洋にもいいところがあって、わしらは取り入れる必要もあるようだが、東洋にはもっともっと大切なことがあると思う。禅のことを書かないといけない。それは日本人がやらないといけないことだ。西洋の文化を背景にした西洋の言葉の上に、禅を乗せること。もっともっとやらないといけないな。それが私の結論です」
 さようなら、Harry Dean。


追記
近頃はハリウッド映画が好調だなあと想っていたのに、大家の新作には失望させられてまたまたガックリ。昭和時代を想わせる「やっちゃれ会」に加入しますかのう。オホホホホホ。

追記の追記
これから某所にて受診。さて、どうなるか知らんわい。
| 4映像 | 06:56 | comments(0) | trackbacks(0)
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(賛)。
6月18日
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(賛)。
 一昨日からの続きで、映画「Lucky」の話だ。
 Harry Dean Stanton(1926-2017年)のファンなら誰しも気付くことだが、本作は90歳の彼のために書かれて、作られた映画なのだということがしみじみと伝わってくる。劇中のLuckyの過去が、Harry Deanの実際の経歴と重なるのである。Harry Dean はLuckyと同じく、海軍に召集され、太平洋戦線に投入されて、炊事兵となって米軍艦船に乗り組み、オキナワ戦に臨んだ。自分の生い立ちをそのままLuckyとして語るのだ。

          Harry Dean Stanton in Gunsmoke.jpg

 昔話はLuckyの行き付けのダイナーのカウンターで、太平洋戦争に従軍した退役軍人の間で交わされる。それが「M・A・S・H」のCaptain Duke Forest役で当てたが、俺は長い間その顔を見なかったTom Skerritt(1933年-)(全米テレビ番組に出ずっぱりだった由)だ。退役海兵隊員・Fred役として、前触れも無く観客の前に大写しで現われる。

Tom Skerritt.jpg

 LuckyはFredのキャップから元海兵隊と分かると、急に懐かしさがこみ上げたらしく、珍しく自ら男に近寄り、昔語りに自分を語り始める。聞いていたFredは、終戦時の実年は12歳であったから沖縄戦に現実に参加していない。ところがこの男もまるで見てきたかのように、犠牲になった沖縄の人々の哀切な姿を語るのである。
 古い観客に「M・A・S・H」のイカれたCaptain Duke Forestの姿が重なってくるだろう。映画はあらゆるところでオマージュだらけだ。
 元海兵隊員は戦後、沖縄戦で撮影された動画を観たことがあると前置きして、
 「ヤツラは次々に子供を崖から突き落とすんだ」
 「そして自分たち大人も崖から落ちていく」
 凄惨な場面を脳裏に浮かべているかのような表情になる。
 「彼らは殺されるより自分たちで死ぬことを選んだ」
 誇り高い人たち――動画は今もNHKで放映されることがあるが、米軍の記録兵が撮った色の褪せたムービーのことだろうと想う。

「M・A・S・H」スチール。.jpg

 これとは別に、白旗を上げて出て来た日本人の中に7歳くらいの女の子が含まれていて、彼女は、むくつけき米兵たちを前に、にっこりして無垢な笑顔を浮かべたとFredは続ける。
 「あの美しい笑顔こそが真の勝利者であったのだ」
 クライマックスはこの独白場面だろう。
 最初、Fredが誰だか想い出せなかった。あのCaptain Duke Forestだと分かると、熱いものがこみ上げてきた。Vietnam戦でハチャメチャのキチガイ外科医だった男が、今度はオキナワ戦の勇敢なる海兵隊員である。このサブリミナルってヤツがあるから、映画は、歳を取るほど楽しくなる。
 見るがいい、LuckyはFredの話をじっと聞いているではないか。
 そして、Fredの語りが本作のクライマックスであったことは、ラスト・シーンで観客に明らかにされる。
 というわけで、本稿、明日も続く。

追記
ポールニューマンの暴力脱獄でも出てきたし、リチヤードウイドマークなんかの主演映画の脇のイメージだったけど。人生の最後の方でバリテキでブレークして評価が変わっちゃった。
ベンダースという人は鈍感な人だと思うけど、まぁ撮りっ放しなんでしょうなあ。今やドキュメンタリーの人になってしまいましたけど。
アメリカもスピルバーグだし、あんなにナウなヤングの頃には面白かった2人共に、寂しい老境。連発する駄作、拍手する観客、その構図によって、映画を保守的で、尊大で、詰まらない表現にしてしまっているということさえ世界中の批評家は誰も言わない。罪ですわなあ。

追記の追記
月曜日が来てしまった。ヌーン。今週乗り越えられるか知らん。キツイなあ。
| 4映像 | 05:36 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜の風(1)――香港の女。
6月17日
亜細亜の風(1)――香港の女。
 香港の街まで空港から足を伸ばして歩くのは12年振りで、上海の林立するビル以上の密集度には驚いた。
 New Yorkの林立する高層ビルが世界的な富の象徴だったのは1980年代くらいまでだろうか。香港も摩天楼は言われたけれども、もう、どの都市も突出した摩天楼の街ではなくなってしまったわけだ。相似形で、全て特徴が薄れて、街のキャラクターが見え難くなってきたとも言えるわけだけれど。
 若い男は無口だったのが、慇懃無礼になり、図々しくなった。それでも、変わらないのは香港は女たちで、投宿したテルホの客室係とか飲食店のチャンネーたちは客あしらいがうまく、嬉しくなるようなサービスだった。

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 ベッドの上にちゃんと浴衣があったよ。バスルームにはバスローブがあったけれども
 浴衣よね、日本人なら。起毛したバスローブはゴワゴワしていてその内冷えてくる。
 浴衣があって小さく「お1、やったね!」と、快哉を叫んでしまいましたよ、わたしゃ。

  ホテルのティー・バッグに普洱茶があったのが嬉しかったねえ。そんなことで喜んでいるようでは俺っちもそこの十人並みの飼い慣らされた中年オヤジと何ら変わらないわけなんだわねえ。
 っていうのも、高級俱楽部で飲茶した程度。香港のざっかけないおばちゃんたちのいる店で飲茶ができなければ、香港に来た意味が如何ほどあるかといおうか、精神が解放されないといおうか。

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 部屋のティーバッグに普洱茶があったわけだ。こういうの、緑茶なんかを出さなかった
 日本で、再評価されて慌てて玉露を出すようになった道行きとも似ているわけだけれど、
 ずっと香港の方がしたたかで、トッポイねえ。

 今の横浜や神戸の中華街に、1980年代の面影を求めても無駄なことと少し違っていて、彼らは彼らなりにどんどん発展を続けていて、円という通貨が弱くなっていくと、もう、高値の花になってしまう可能性を感じた。
 横浜も神戸も発展を続けているけれど、老人大国のデフレという特殊な進化系で、神戸で豚マンの列に並んでいるアジアの観光客諸兄姐にとって、並ぶのは安価だらかでも食欲からでもなく、観光の楽しみとして苦痛に絶えているということに我々は今さらながら気付かなければならないわけだ。
 ともあれ、俺は香港の到るところにいるチャンネーたちの心遣いに泣けました。うなるような大金を懐にしているおねえちゃんも、ニッコリ。
| 6旅・行動の記録 | 15:14 | comments(0) | trackbacks(0)
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(弐)。
6月17日
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(弐)。
 昨日からの続きで、映画「Lucky」の話だ。
 集まった観客は、老若男女多種多様だったけれど、90歳の主演俳優の映画だから、勢い、年齢層は高くなる。俺もその初老の観客の1人だったわけだ。映画評は良かったから主演俳優を知らなくとも観に来た人たちが多かっただろう。
 夫婦割引のチケットを受け取っていたので、1人で入ろうとすると、若い男性のチケットのモギリから誰何され、揚句の果てに、
 「2人で入ってくれないと困ります」
 と文句を言われた。
 「次回からは2人で来てください」
 俺は50歳には見えなかったということか。それにしても、それならそうと聞けばいい。
 映画は冒頭に「Harry Dean Stanton is “Lucky”」。Luckyはタイトル・ロールだが、
 (Harry Deanに捧げた映画ってことかな)
 どうもそうらしい。

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 映画は冒頭に「Harry Dean Stanton is “Lucky”」。Luckyはタイトル・ロールだが、
 (Harry Deanに捧げた映画ってことかな)
 どうも、そういうことらしい。
 Luckyは、起床後、自己流の体操をした後、冷蔵庫で冷やしたグラス一杯の牛乳を呑み、鏡に向かって銀髪を梳く。その姿を丁寧にカメラが追う。これは、90歳の枯れ木のような老人が、毎朝、社会に立ち向かうための厳粛な儀式だということが分かってくる。
 監督のJohn Carroll Lynch(1963年-)は今回初めてメガホンを取った。普段は脇役専門の役者。彼にとって、言うなれば脇役の華のようなHarry Deanは憧れの存在かも知れない。Ian DuryにとってのGene Vincentのように。
 映画のLuckyは、起き抜けに毛の抜けたスリッパを履くと、痩せさらばえたあばら骨と腋をタオルで拭く。のろのろとジーンズを着け、ブーツを履く。ネルのように見える同じ茶色の縞柄シャツが何枚かぶら下がったチェストから1枚取り上げ、身に着ける。最後に脂の染み着いたテンガロンハットを頭に乗せて準備完了だ。
 毎朝決まった手順でやるのだから、Luckyにとって、これは儀式なのだ。心はHard Boiled Spiritsに満ちている。ネルのシャツの上にある時は薄い革のシャツを、別の日にはオイル引きのジャケットを羽織っている。リクガメのようなノロノロとした歩みだが、枯れ木のような老人の背筋は伸び、誰にも侵されまいとする矜持が感じられる。

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 (俺は男、なのだ)
 ある日、油断をして下着姿にブーツ姿で植木に水やりをしていたところに、行き付けのダイナーの黒人の女性従業員が突然現れる。倒れたというLuckyの具合を、わざわざ見に来たのだ。油断をして不意をつかれた様子のlucky。 
 驚いて部屋に戻り、何時ものユニフォームに手早く着替えるのだが、再び扉を開くと、玄関にその彼女がまだ立って家族の古い写真を眺めている。
 「とっくに帰ったかと思ってたよ!」
 彼女がまだ部屋にいるのでLuckyは不機嫌そうだ。この辺りの男性ならではの美意識の描写が、何とも言えず「Sweet Gene Vincent」な感じがある。
 というわけで、本稿、明日も続く。


追記
この「Lucky」はとても良かったので、何枚にも渡って映画のレビューを書いてしまいました。続くのよ、オホホホホ。だけどね、Woody Allen(1935年-)が「Play it Again, Sam!」で描いた20世紀の男のオマージュに重なるモノがある。それが面白かったんだよ。
老人ってのも、行き着くところ、ハードボイルドだからな。和歌山の御難だったご老人はそこへいくと哀しいねえ。どこで孤独に行くか。姥捨て山は誰も背負って呉れなければ自分で行く場所なんだろう、精神的には。

追記の追記
久々に日本の自分の家なので落ち着きますわねえ。先々週の北米に引き続いてあまりにも慌しい旅だったので、街を歩いたりして、何かしら自由に行動できる時間が無かったわけだ。旅はそれでは勿体無いと想いますわねえ。
20年前の香港、20年前のシンガポールなら、よく覚えている。まだ、木造の建築物がそこここに観られた街並みを。それが、アジアの大都市としての変貌振りに改めて驚かされましたぜ。海外から資金が流入して、それが域内で還流していることが伝わってきたねえ。健全なインフレーションが起きている。
日本は喪われた20年どころか、喪われた30年という感じがある。老人大国として、老いて縮んでいく大前提を負った社会として、賢くならないと、アジアの人々から見向きもされなくなるだろうねえ。
| 4映像 | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0)
岡田事務所神棚。
6月15日
岡田事務所神棚。
 岡田事務所の神棚にようやく俺の神様系を並べてみたが、まあ、想定通りの並びになった。なんだかねえ。
 成田では、昔、御世話になった若者たちの一群に遭遇した。とはいえ若者もとっくに不惑を超えているんだろう。これから厳しい道のりが待っておるのに、まあ、明るくてよかった。
 成田の入国は、また、エラく不親切な入国管理のやり方で、昔のオレなら噛みついていたところだけど、ググッとその言葉を飲み込んでご指示に従わせて頂きました。
 今回の旅は都合5時間ほどメシも喰わずに寝たかな。疲れていたせいでしょうけれど、これもまた肉体的な変化でもある。
 1977年の「Network」と、1867年の「In the Heat of the Night」は、面白かったなあ。見方も随分と変わったし、また昔の映画を見直すことも楽しいねえ。
 不思議な話も聞かされたことがあった。これはまた別途取り上げたい。
 それとオーストラリアのワインの旨さ。4種類ほどシャルドネを飲んだけど、どれもパンチあり。ミネラルパワーですわなあ。アフリカと並ぶ鉱物資源大国だ。10歳若ければ 鉱山ゴロの山師にでもなったんだけどなあ。
 日本は湿っぽい。内田樹センセイの本と共に帰国。

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The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(壱)。
小倉日記’18(第十八弾)
6月16日
The Man in The Moonshine――さようなら、Harry Dean(壱)。
 映画を観たのは3月27日の最終回。有楽町の「ヒューマントラストシネマ有楽町」だった。
 この映画館のあった辺りには、以前には「有楽シネマ」があった。つい先年までは営業していたようだが、もう何年も入ったことはなかった。
 昭和の末頃、「有楽シネマ」でも名画をかなり観た。例えば「勝手にしやがれ」を観たのは「有楽シネマ」だったように想う。都内の各所で3本1000円の名画をよく見歩いたものだ。例えベッチンの貼ってある藁の抜けた木製の椅子でも、クレゾールの臭う暗い穴倉の中で古いモノクロ映画を観られたのは幸運だった。映画館とセットで記憶されている。

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 それでも時代は変わりつつあって、昭和60年頃はまだホーム・ビデオもVHSとSONY単独のβの規格合戦の行方は見えず、映画関係の友達は口を揃えてβの方がずっといいと言うので、俺はSONYのβ Hi-Fiでも高級ラインのデッキを持っていた。
 金の出所はハッキリしている。山手通りで乗用車に追突され、バイクは大破。この時に下りた保険金。25万円ほど受け取った記憶がある。

「仁義なき戦い」撮影現場。.jpg

 ところが技術の趨勢はトーシローには見え難い。栄枯盛衰はかないものだ。
 「君もこれ観て勉強してくれんかのう」
 夏に美能幸三(1926-2010年)から渡された「仁義なき戦い 総集編」のビデオ・テープは、もうVHSだった。
 「βはないんですか」
 「βってなんじゃい」
 幸三さんはオウム返しに怒気のこもった声で聞き返した。
 昭和60年の夏。まだ美能幸三は斯界に聞こえた往年の名前通り。黒い薄いブラウス地のシャツに黒いスラックス姿。巨躯を揺るがしながらスタンドバーからスタンドバーへ呉の繁華街を渡り歩いた。
 「White face, black shirt
 White socks, black shoes
 Black hair, white strat
 Bled white, died black」
 幸三さんに会うと、何時も俺の脳裏に1977年にIan Dury(1942-2000年)が作った屈指の名盤、「New Boots and Panties」に収められた「Sweet Gene Vincent」が浮かんだ。

        Gene Vincent.jpg

 Ian Duryは小児麻痺を患って足が悪かった。少年時代には、同じくオートバイの事故で片足が不自由だったGene Vincent(1935-71年)が思春期のアイドルであった。少年時代の憧れの男だから、歌詞はもうムンムンに男の世界である。片思いの自家発電である。
 「White face, black shirt
 White socks, black shoes
 Black hair, white strat
 Bled white, died black」
 男はトレードマークが如何に大切か。Ian Duryは美術学校の教師だったほどの人だから、美意識は格段に高かった。キャップにネッカチーフを巻いた洒落者のGene Vincentたちの不良の美学を分かり抜いた風貌の描写である。
対する美能幸三も、黒いシャツに黒いスラックスという姿は死ぬまで変わらなかった。晩年は病に苦しみ、痩せこけ、車椅子の生活も短くなかったのが傍目にも気の毒だった。
 「ワシの若い頃は足袋を自分で履いたことがなかったんじゃけえ」
 だが、若い者が何でもやってくれる、駆け出しの頃は、こんな商売はあるかと想ったと、体調の良い時は、話し出すと意気軒昂だった。そうでなければ面白くない。
 つい先だってまでの有楽町駅は、裏に怪しい雰囲気が所々に残っていた。パチンコ屋の脇の通路だとか、高架下。靴磨きの少年たちが並んで座っていても不思議ではないような一角があった。
 それが、駅前はITOCiAを中心とする再開発ですっかり変わってしまった。今は、ただ、明るくて、却って寒々しい。「ヒューマントラストシネマ有楽町」――この映画館の名前、一体、何を信じて付けたんだろう、テアトルシネマさんよ。
 というわけで、本稿、明日も続く。

追記
パンツをパッキングしてこれから出ますわいねえ。気温差はそれほどないそうだからで少しホッとしますわな。
| 4映像 | 03:23 | comments(0) | trackbacks(0)
岡田事務所着々。
6月15日
岡田事務所着々。
 今朝早く南半球某地に到着して、三十分ほど仮眠を取って、4件の打ち合わせを入れた。こんなことでは長生きはできない。
 とはいえ、一方では、小倉の里では、先日来、岡田事務所の仕上げが着々君だそうで。とはいえ、この後、Steve Jones(1955年-)の雄姿を中心にRichard Youngの作品を2枚、壁に飾って事務所の御飾りはおしまい。
 今回の旅で面白かったのは、1976年の「Network」と、1867年の「In the Heat of the Night」を、丁度この1週間ほどの間に考えていたところ、各々違うキャリアの機内で観られたことだった。名画座をはしごしたみたいで、すごく不思議な体験だった。
 それと、2011年のオーストラリア映画の「Red Dog」が面白かった。実話だそうで、今、この手の舞台が俺の生業に極めて関係が深いので、ベンキョーのために観ていたら実話だったというのでますます驚いたわけ。不思議なことはあるもんだぜ。
 先程仕事は終わって、明日はいよいよ帰国。買い物する時間も全くない。ちょっと日本が遠い。当地は上が20℃にも届かない。

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| 10随想 | 16:39 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――昭和関連本三冊。
6月15日
気になる本――昭和関連本三冊。
「明智小五郎回顧談」[平山雄一著, 集英社]
 「アマチュア精神はミステリの母である。コナン・ドイルがホームズものを書いたのはもともと医師の本業のひまつぶしだったという事実がもうそれを如実に示しているが、二十一世紀の日本でも、現役の歯科医師である平山雄一が長篇小説『明智小五郎回顧談』を刊行した」
 「主人公は、老いた明智小五郎である。或る日、簑浦という元刑事が来て、むかし話をねだるのに対し、明智ははじめ『おもだった事件はもう乱歩君が小説に書いたから』と難色をしめすものの、結局は口をひらきはじめる」
そう知ると、小説の結構は、「半七捕物帖」を書いた岡本綺堂(1872-1939年)が「三浦老人昔話」を書いたことと似たような体裁を取っていることに気付くだろう。
 旧制中学生の頃、浅草十二階近くを散策していた明智小五郎少年が、私娼窟で遊ぶ金が尽きた石川啄木(1886-1912年)に使いを頼まれ、啄木の同郷で、盛岡中学の先輩であった金田一京助(1882-1971年)の下宿を訪ねると、そこに金田一と同級の「銭形平次捕物控」の野村胡堂(1882-1963年)もいた。こちらは山田風太郎(1922-2001年)がよく使う手。
 著者の三浦さんは同学年。山中峯太郎(1885-1966年)の研究者。この世代の人々に詳しい。こちらとしても近しい感じを覚える。(作家・門井慶喜評、日本経済新聞)

「明智小五郎回顧録」表紙。.jpg

「佐藤栄作最長不倒政権への道」[服部龍二著, 朝日新聞出版]
 佐藤栄作(1901-75年)の事跡は自身の「佐藤栄作日記」と共に「楠田實資料」なども公開され、一気に研究がこれから進むものと見られる。
 産経新聞記者であった楠田實(1924-2003年)を首席秘書官に抜擢し、通称、「Sオペ」こと、「佐藤オペレーション」と名付けられた若手の学者を中心に首相のブレーンを組織した。永井陽之助(1924-2008年)、高坂正堯(1934-96年)、山崎正和(1934年-)をはじめ、当時、彼らの論文を積極的に掲載する「中央公論」の編集者であった粕谷一希(1930-2014年)や作家の江藤淳(1932-99年)がメンバーにいたとされる。
 先日、某所でじっくり話し込んだ某さんは、晩年の粕谷一希から連載を打診されたのに断ってしまって、今になれば断腸の想いだと言った。粕谷は90年代になっても、アジア情勢全般に目を配っていたのかとこちらは瞠目。アジアの裏面史だ。(日本経済新聞)
「阿久悠と松本隆 2人の軌跡で辿る“もう一つの現代史”」[中川右介著, 朝日選書]
 様々なメディアで取り上げているが、日経の書評がコンパクト。全文引用したい。
 「1970年代にヒットメーカーとして多くのレコード大賞受賞曲を手掛けた阿久悠と、80年代以降の歌謡曲黄金時代をけん引した松本隆。75〜81年の7年間に限定して尾離婚チャートを分析、2人の作詞家の足取りを詳しく迫った力作だ。世代交代の裏側からは、時代と歌の密接な関係が、次第に希薄になっていく過程が浮かび上がる」
 著者は1960年生まれ。「クラシックジャーナル」の編集長だが、歌謡曲にも造詣が深い。「1977年の沢田研二を知っている人たちは今の沢田研二は見たくないだろう」という意のことを書く。全く同意である。昭和時代に歌謡曲のヒット曲が持っていた意味を知っていなければ伝わらないだろうと想う。今は昭和の歌謡曲は存在しない。演歌と懐かしい日本の歌とそれ以外。アクビ娘は曲を聞くとその年を思い出すヒット曲があった時代を知らないのでニュアンスは殆ど伝わらない。歴史の難しさだ。(『新書』日本経済新聞)


追記
イイ歳して、星港からレッドアイで飛んできたよ。東京から柴山さんのひとまずの朗報届いた。嬉しいな。オレなんか辺りは恩返しをすることですら。そう言い聞かせているワイナリー。
地球の裏側に来たら明け方の気温が10℃を切っていた。これから仮眠してまた一日中打ち合わせと密談。ツライ。
| 9本・記録集 | 05:48 | comments(0) | trackbacks(0)
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