岡田純良帝國小倉日記

転がり出てきたモノ(20)――赤冨士と昭和変体少女文字。
11月22日
転がり出てきたモノ(20)――赤冨士と昭和変体少女文字。
 今は昔の話だけれど、パンク系のファッションを扱っていた店には色々あったはずだ。大阪から上京、元々は浮世絵を扱おうと志して「原宿プラザ」の中に小さなお店を出した花井さんの「赤冨士」だけでなかった。
 76年頃には、「東京銃砲火薬店」だとか、「ジャック・アンド・ベティー」といった所もそんな系統の商品を扱っていたように記憶している。
 音楽が本格的に入ってきた後、77年には、「SMASH」がロックの店として初めて店を出したという印象が俺にはある。なふ
 その後、80年頃には「The Backdrop」と「Headquarters」が店を開けた。「BEAMS」は消防署の向かいの高架下に店があった。FlorsheimのLexington Wingtipという厚さが2cmくらいもありそうなドタ靴を買って随分長い間履いた。靴の革底全面に鋲を打ったゴッツイやつだった。
 85年には友達の○口し○ぶは直ぐ隣の隣に「HELLO」という店を開けていた。藤枝東の卒業生だからサッカーが好きで、し○ぶから60年代製のadidasのサッカーシューズを買って履いたら新宿の地下道で滑って転倒した。今でもadidasのGerd Mullerに目が無いのは根本的に60年代のサッカーシューズのデザインが好きだからだ。
 80年代に入ると店舗の移り変わりは自分の記憶と完全に重なっている。やっぱり古着を見始めたのが「赤冨士」だったから、その頃まではよく寄った。
 お店の年上のお姉さんに声を掛けられ、からかわれたりした。顔見知りになって、時々、店番じゃないけれど、ちょっと見ていてと声を掛けられたこともあったか。あの頃から定番の長いバイトの人は何人かいた。
 御歳を召された店主の花井さんは、ミシンのある奥のレジの辺りにいた。ひょろっと痩せている人で、何時も洒脱な調子だが、大阪弁が抜けない。
 「店をやるのはしんどくなってきたなぁ」
 弱気なことをアメリカから帰国する度にお店に寄るようになった俺にまで言った。
 「買い付けもあれやけど、店に出るのがしんどい」
 80年代半ば以降、暫くご無沙汰していたのに、90年代の初めには、「赤冨士」通いが復活した。あの頃はキライなバリバリの肩パッドにダブルのイタリアン・スーツ全盛期。都内を歩き回り、絶望して俺は「赤冨士」に再び足を踏み入れたら。
 (おおっ!)
 以前には見たこともなかった好みのスーツが吊るしてある。

Brand-New Jacket (掲載)

 少年期の俺は、Lino Ventura(1919-87年)のようなガッシリした体格が憧れだった。人間は無いものねだりで、俺はあんな立派な胸板も肩幅も無い。貧弱な肩と首で、もし俺の傍にPatti Smith(1946年-)でもいれば、
 「あら、いい首してるわね」
 ネットリと首に長い腕を巻きつけられそうだ。我ながら俺の首はよく切れそうだ。
 だから、現実には、言えば、Franklin Roosevelt(1881-1945年)だとか、永井荷風(1879-59年)だとか、James Stuart(1907-1997年)のスーツの選び方、着こなしが好きだ。か細い体系を隠すようなシルエットのもの。アメリカン・スーツの直球ど真ん中。

赤冨士からのメモ(1999年) (3)

 久々に「赤冨士」に行って見ると、アメリカの中西部に眠っていた60年代の半ばくらいまでのデッド・ストックのスーツが時々置いてある。ついつい買ってしまっていたのだ。逆に言えば、それほどファシズムのようにイタリアン・スーツばかりしかなかった。
 こうして、1998年の一時帰国の時にはまだ竹下通りにあった「赤冨士」だが、翌年、店を閉めてしまう。お店を実質引き継ぎ、今ではキャット・ストリートの老舗と呼ばれるようになった「APOLLO」のオーナーとして知られる相沢さん。80年代前半には顔見知りになった彼女から、俺が投宿したホテルにこうして届けられたスーツ。友情をしみじみと感じて嬉しかったねえ。
 古い知り合いの彼女は、確か仙台の人で、お酒は底無しに飲むと聞いたことがある。だが、それも俺の記憶違いかも知れない。
 20年前には、俺の担当みたいなものになっていたのは彼女で、俺が好きなスタイルをよく覚えていてくれた。カタギになって、娘が生まれたことも知っていたな。何時でもこうして引き換え用のチケットに書く文字は、典型的な昭和の変体少女文字だった。
 開店間近の時にお店にご挨拶に行ったのだけれど、それからもう20年近くご無沙汰だ。ずっとお会いしていない。久々に原宿に行ってお目に掛かってみようと想う。

追記
咋朝は精密検査でエコー。色々ありますなあ。そいで昨晩は密談・謀議。やるしかねえという感じだけど、脱藩系の隠れ浪人に宴席のお誘いがこれほどまでに増えているのは911の前を思い出させるねえ。利用価値が高まったわけだ。武市半平太だか大久保利通だか知らないけれど、俺は半兵衛か以蔵かいね。うーん、複雑怪奇な気分だわいなりー。
| 10随想 | 06:40 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(19)――不良中年の蹉跌。
11月21日
転がり出てきたモノ(19)――不良中年の蹉跌。
 2003年頃、還暦過ぎた嵐山光三郎が面白かった。「死ぬための教養」[新潮新書]を出し、これもまた結構売れたそうだ。
 塩野七海は日比谷で、学習院に行って落ちこぼれと言われたが、同級生で京都大学に行った利根川進と会うと、「私たちは日比谷の落ちこぼれだから」と言うのだそうだ。
 嵐山の場合は、桐朋学園で、中年になって以降、同窓会で元気がある連中は自営業で踏ん張ってきた元不良ばかりだと書いている。面白い一致なので記しておく。

      嵐山光三郎 (1)

 嵐山は桐朋学園から大学は国学院に進んだ。
 「先生には『お前は偏向し過ぎていて受験には向かん』と言われた」
 「古文で習った『徒然草』『方丈記』や芭蕉の作品が好きで、それだけは気合を入れて、全文読んだ。内容も先生より詳しく知っていて、授業でいじわる質問をしては嫌がられたな」
 「志望校に国学院を選んだのは、日本文学でも外国文学でも、そうそうたる教師がそろっていたからです」
 「金田一京助、吉田健一、久松潜一、高橋義孝、樋口清之、岡野弘彦、金田元彦、安東次男、篠田一士、丸谷才一、といった先生たちで、今でも信じられないほどの豪華メンバーだった」
 この中のある先生の息子さんと俺は獄中幽閉時代に随分親しく行き来したものだわね。
 平凡社の編集者から希望退職に応じて38歳でフリーランスになり、雑誌を立ち上げた。43歳の時には、税理士から年収が1億円を超えたと言われて、その後3年間、世界中を旅行して回った。その頃が「笑っていいとも」に編集長役で出たりしていた頃だろう。
 還暦の頃の嵐山の不良中年行動規範があったので、以下に引きたい。

   イ) なれぬことはするな⇒下り坂こそが快楽である 
   ロ) 威張らない⇒威張らなければ相手がたててくれる
   ハ) 自慢しない⇒自慢しなければ相手がほめてくれる
   ニ) 分析しない⇒分析しなければ相手に「深みがある人だ」と畏れられる
   ホ) 怒らない⇒怒るのは我慢する力が退化しただけ。
   ヘ) 短髪にする⇒シャキッと短髪にしよう
   ト) 上等の服を着ろ⇒安服が似合うのは若いうちだけである
   チ) 靴も上等のものを履け⇒服に合わせて上等のものを選ぼう
   リ) 時計は安物でいい⇒高級時計をつけているのは、ヤクザか落ち目の男
   ヌ) 金離れをよくする⇒金にしばられていては不良の道を進めなくなって
     しまう

       宍戸錠

   ル) 温泉に行け⇒隠して貯めた金は自分で使いきる。山の温泉がよい
   ヲ) 女を理解するな⇒いい女がいれば愛すればよい。惚れればいい
   ワ) 泣くな⇒つらいことがあっても、男だもの、メソメソしてはいけない
   カ) やせがまんせよ⇒ぐっと耐え、泣かずにわが道をいく
   ヨ) 年増女がいい女である⇒渋皮がむけてトロリと甘い味になる
   タ) 口説きは迅速に⇒臆病になるのはいけない
   レ) 負けてこそギャンブル⇒ギャンブルは所詮遊びである
   ソ) 宗教を信ずるな⇒せっかくの体力と精神力を、ナンヤラ教の沼に沈めて
     はいけない
   ツ) 自分の力を信ずる⇒自分を安く見てはいけない
   ネ) 孤立を怖れるな⇒唯我独尊でいけ。孤立した地点から、自分という存在
     が見える

   週刊現代 嵐山光三郎テレフォンカード

 嵐山の作品では、「文人悪食」、「文人暴食」、「文人悪妻」の3部作は面白かった。帰国して「サンデー毎日」に書評を書いたら、昔の友達から「偉そうにしやがって」と言われた。日比谷の塩野七海と桐朋の嵐山光三郎が羨ましいわい。
 嵐山光三郎の場合、中学生から書いていたという小説は、あまり作品数は多くない。この30年以上も、こうして手を変え、品を変えて、自転車操業中なのは啓蒙書の方だ。「宗教を信ずるな」といいつつ、教祖化している。
 それもむべなるかな、小説は自伝的小説の「口笛の歌が聞こえる」を除くと、ちっとも面白くない。そこに嵐山教祖の蹉跌がある。人生にはテンから飽きて足掻いているのだ。そこにこの人の魅力がある。


追記
2週間ほどかけてリーダーで古雑誌を撮り終えた積もりでいたら、大量に出てきた、Sex Pistols/Punk系。まだまだ、先は長いずらよ。

追記の追記
これから病院に。上から下から色々やられるわいなあ。ツライことですわい。
| 10随想 | 06:49 | comments(0) | trackbacks(0)
「BRUTUS 22号 活字中毒者を撃つな!」
11月20日
「BRUTUS 22号 活字中毒者を撃つな!」
 愛するハードボイルド系のポスターに惹かれて書店の女の子に貰ったポスターだ。俺が好きなのは、New YorkでもChicagoでもなく、西海岸で、San FranciscoかLos Angelsの1950年代なのだった。
 20歳頃にはハメットばっかり読んでいた時期がある。チャンドラーやヘミングウェイよりも、ハメットの方が好きだった。ヘミングウェイを手放しで褒めた一点で、俺は開高健と距離を感じる。
 ヘミングウェイはジンセイの敗者。ハンター・トンプソンと同じ伝だ。開高健は死ぬまで生きたというのに、なぜヘミングウェイを持ち上げるかさっぱり分からない。
 例のリッツのヘミングウェイの酒場も行ったけど、チャライ。戦間期だっていったって、間諜に搾り取られていたわけだろう。何をしておったんかいねえ。俺はそんなタルいヘマなんざぁするもんかい。ざまぁ見やがれ、だ。

「BRUTUS 22号 活字中毒者を撃つな!」(1)
| 10随想 | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(18)――法務省模写電報。
11月20日
転がり出てきたモノ(18)――法務省模写電報。
 片付けを始めて1か月が過ぎ、週末は来る日も来る日も床に座ってファイルをバラし、不要な書籍は処分箱に入れ、今や捨てるものが写真以外にはもう他に無くなった。
 従来は廊下や書棚に入れて忘れていたファイル。書類という書類は捨ててしまった。不明だが、感覚的には段ボールにして10箱分くらいの書籍・書類は処分した。実際には書籍はまだ書店に送ってはいないのだが、棄てた書類は数十kg分はあったんだろう。
 アメリカ時代、中国時代を含めて、音楽関係、旅関係、まぁ、よくぞこんなクズ紙を取っておいたもんだと呆れるようなものもあった。世界中の飲食店のカードがあった。もう行けないような場所のカードなどはしげしげと見てしまうものもある。
 その中でも最も見応えがあって時間の掛かったファイルやノートが20代前半の日記。荒れまくっている。酒を呑んで書いているんだろうけれど、こんなに荒れていちゃぁ、この男、もう今頃この世には生きてはいねえだろうなぁというほど荒れている。
 どこかの雑誌社と新聞社からの不合格通知があった。某大学と某大学院の合格通知もあった。面白いのは、某大学で合格したのは文学部・日本文学科である。日本文学科に行って教員資格「でも」取る気になったとは思えない、
 それと、さらに驚いたのはNew YorkはQueens地区の某大学とのやり取りの手紙だ。何通かまとめて束になっていたのでやり取りが分かる。書類を送れとか、画を送れとか、大学の入学試験事務局の責任者からのご要求が都度書いてある。
 何通目かのやり取りの後、
 「今回の試験は競争率が高く、貴殿は不合格となった」
 という項目にチェックが付いている紙切れの入った封筒が最後に出てきた。
 (へええ)
 UCLA、South California、Michigan Ann Arbor、New York、Chicagoなどもある。面白いのはアメリカの大学には映画製作コースに願書を出していることだ。
 疾風怒濤、Sturm und Drangだった。もう無茶苦茶でござりますがなという自暴自棄。

    法務省模写電報(掲載)

 「真ん中まる見えマミムメモ、ヤケのやんぱちヤイユエヨ」
 である。そいで、
 「落第らくちんラリルレロ、わけも分からずワイウエヲン」
 でもある。
 学校も落第はしなかったけれど、常に落第寸前だった記憶がある。
 それでも成績はそれほど悪くはなかったようだ。大学の成績証明書が出てきたからだ。だから逃げ道を留学に切り替えた時期もあるんだろう。大学は法学部だったから本当にちっとも面白くなかった。法学徒なんて俺のガラじゃない。
 不思議だったのは、新春ドラマ向けの脚本の審査の最終候補に残っているという通知まで出てきたことだ。記憶の欠片にも残っていなかった事実だ。俺なんかずっと日本のテレビ番組は大嫌いなのに、テレビ・ドラマの脚本を書いた記憶など無い。誰が出したんだろう、とかね。
 荒れ方も一貫性なんてこれっぽっちもない。世間の荒波に漕ぎ出すのが怖かったのか。あるいは、自由を少しでも担保してくれる非現実の世界まで逃避したかったのかねえ。今となっては20代の俺に聞いてみないと分からない。この男、自分であって自分でない。
 そんなファイルの発掘の中でも笑ったのがコイツ。
 誰がどう伝えたものか知らないのだが、これは法務省の古びた模写電報。刑務所から刑務所への移送出張の事前予告だ。よく見ると、出張先の昼食の有無までチェックする項目が設けられている。この配慮には泣かされるねえ。お上からのペーな法務官殿への温情なのかねえ。
 何故こんなブツまで出てきたのか。記憶は全く無い。そもそも、コイツを受け取った時期も昭和の終わりか平成に入ってからか分からない。水戸刑務所とはよく分からない。少年院に入った友達はいたかも知れないな。この辺りのいたずらはちっとも笑えない。ウッフッフッフ。
 「真ん中丸見えマミムメモ ヤケのやんぱちヤイユエヨ」
 こんな模写電報を見ても何も思い出せない。我が青春の荒野の記憶は風化しつつある。カリキュラマシーンであるんであるんである(by 大隈重信)。


追記
体調不良ですなぁ。睡眠の質が悪いわい。
| 10随想 | 06:24 | comments(0) | trackbacks(0)
妖怪おでん缶、頂きました。
11月19日
妖怪おでん缶、頂きました。
 ぬりかべと一反もめんの密封されていた妖怪おでん缶、頂きました。水木しげるの漫画家としての絶頂期は、一家揃って調布に引っ越す前の貸本屋時代にとどめをさすように感じているけれど、どうか知らん。

20171113 妖怪おでん (1)
| 7喰う | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(17)――神楽坂の栄枯盛衰。
11月19日
転がり出てきたモノ(17)――神楽坂の栄枯盛衰。
 バブル絶頂期、平成2年(1990年)4月末、女2人でやってきた店が閉められることになった。
 (店を閉めると言っていたけど)
 本当に閉めてしまうのだと驚いたことを覚えている。
 俺はまだ20代の半ばで、カウンターだけの店で、客の中では最も若い方だったはず。母親と娘の仲は良かったが、時折、派手に客へのモノの言い方で言い争いをするような元気の良い親子だったから、俺のあしらいでも喧嘩になった。
 「中からでいいでしょ」
 カウンター越しに娘が俺に氷と水を渡すその言い方が女将にはカチンと来たらしい。
 「きちんとお渡ししなさいな」
 女将は大正生まれだったのではないか。昭和の元号なら平成2年は昭和65年だから、60代半ばくらいの印象があった。娘は戦後生まれで、バリバリに店内を仕切っている、そういう年恰好の親子関係だった。
 「さて、突然でございますが」
 「女二人だけの小ちゃな店をごひいきくださいましたこと」
 「再びおめもじがかなう折には」
 ひらがなの多い女文(おんなぶみ)であり、旧仮名遣いでさらさらいきそうな文章だ。それが女将の文面に明らかに表れているだろう。“若い頃はさぞかし美人だったろう”という雰囲気の女将ではなかったのだけれど、幾つになっても女を捨てられない人で、挨拶一つとっても、男のかゆいところに届く立派なものだった。
 今の細くてか弱い大和撫子と違い、心のこもったサービスが嬉しかったものだ。
 「一番気掛かりなことは キープされている方のボトルのことです」
 きっぱりとボトルのことを書くような気遣いをする女将だった。若い俺が通っていたのだから、大して高い店ではなかったはずだ。

「ふじ○」閉店挨拶状(掲載)

 往年の神楽坂の歓楽街の盛衰については、敗戦前から近所に住んでいた吉行淳之介(1924-94年)が自伝的なエッセイで、また、晩年の藤原審爾(1921-84年)が掌品の小説で描き遺している。
 吉行も藤原も、面白い話だが、今ではそういう店が少なくなったが、昔は、客が飲み過ぎると、店の方が客に注意して、もう帰れと助言したと書いていることだ。
俺はその話を敗戦後の話かと想っていた。だが、多分、彼らは敗戦前の東京の世相を想い出していたのだろうと今では感じる。そうでなければ、世情が落ち着いてきた昭和30年代の東京だろうか。昨日の話の続きにもなるが、「ばん焼きぼるが」が2度目の建て直しをやった頃の東京だろう。
 このお店は神楽坂の早稲田通りを一本裏手に走る通り沿いにあった。今では、「セブンイレブン」のある辺りの丁度裏側にあった。今になってみると興味深いが、平成2年でも、住所表記はブロックだけ。
 「この度都合によりまして」
 当時は都市銀行による歓楽街の地上げが猛威を奮っていたから、こんな小さなお店はいざとなればひとたまりも無かっただろう。そういうお約束でこの店仕舞いの挨拶状は書かれている。
 とはいえ、文面から伺える通り、女将は千葉の方に引っ込み、それほど時を置かずに店を再開したと聞いたことがある。母親でも彼女でもない、優しい伯母のような存在。吉行や藤原ではないが、東京にもそういう女将は少なくなったのではなかろうか。


追記
中々いい居酒屋、割烹が見付からない。西に東に北に南に。いい飲み屋はどこにあるか知らん。
| 10随想 | 14:27 | comments(0) | trackbacks(0)
日本のランチの実力を探る(13)――ラグー・パスタ。
11月19日
日本のランチの実力を探る(13)――ラグー・パスタ。
 これは、外食ではなく、内食であります。蝦夷鹿のラグーのパスタ。荒々しい鹿の肉は、挽肉にするととても旨い。特に、メンチカツなんてのは、ゲース旨い。ナポリの裏町のレストランで、こういうのを盛大に喰うのが楽しいねえ。大阪かナポリか?、って位、好き。歴史も気質も素敵。

20171103 蝦夷鹿のラグーのパスタ (掲載3)

 こちらはナポリ名産のパッケリでやったラグー。パッケリは搗き立ての餅のようで、粘り気があって、歯応えがあって、生きている実存の喜びが感じられる。喰っている喜びが湧き起こってくるわけだ。親戚にナポリ一族でもあると、これまた楽しいのだけれど。

20171112 牛ラグーのPackeri (3)

追記
山口冨士夫のタンブリングス時代のライフタワーから届いた。84年辺りの空気を嗅いだような気がしてクラクラする。三十数年前の俺は、疾風怒濤の荒れ放題だったことを今回の大整理で改めて気付かされたからだ。エコーあんなに効かせてたっけ?、って、ティアドロップスの音の再会の時に感じたのと同様に自分の記憶の曖昧さにガッカリ。
先日、なかにし礼のエッセイを読んでいたく感じるところあり、青春歌年鑑も再びデータに入れ直した。梶井基次郎の檸檬と同じことが書いてあった。
| 10随想 | 05:38 | comments(0) | trackbacks(0)
日本のランチの実力を探る(12)――クワティワオ(タイ・ラーメン)。
11月18日
日本のランチの実力を探る(12)――クワティワオ(タイ・ラーメン)。
 この店のクワティワオは旨い。実に旨いのだが、ちょっと距離があるのだった。港南台駅から20分位歩く渥美鮨のようなものか。オホホホホホホホ。

タイ・ラーメン


 これから某所へ紹介状を持って出頭。困ったぜ、セニョリータ。
| 7喰う | 12:53 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(16)――辻占いと教養主義。
11月18日
転がり出てきたモノ(16)――辻占いと教養主義。
 この葉書は昭和の終わり頃に貰った葉書だ。その頃、差出人は還暦を過ぎていたが、まだまだお元気だったろうと想う。筆圧にその勢いが現れている。
 出会いは西新宿の「ぼるが」であった。店主の高島茂さんがまだ御健在で、その時には焼き場に立って俺たちを見ていたことを記憶している。某出版社編集部のTさんと俺は2人で「ぼるが」に入ったのだから、紹介されてUさんと会話を交わすようになったのか、今ひとつ記憶は曖昧だが、ともかく、それがUさんだった。
 記憶が定かなら、Uさんは1927年(昭和2年)に熊本で生まれた。旧制中学教師だった父親について全国を転々として、旧制中学は福島の安積中学、高校は旧制一高。そこで文学放浪の後、お定まりのドロップアウトをした系統。
 どこからみてもカタギには見えない。昭和の終わりにはそういう妖怪のような人間がまだ新宿に集まる店があった。
 
植○○○葉書(掲載)

 全国から現れる妖怪たちを優しく包んでいた高島茂は1920年(大正11年)に東京・芝神明町で生まれた江戸っ子だ。1941年(昭和16年)に召集令状を受け取り、麻布の歩兵第一連隊に入営して即満州へ送られた。
 ところが翌年、満州で肺結核を発病し、帰郷。空襲の続く東京を避け、福島で結核の療養中にUさんと会ったという話は高島さんから聞いた。
 高島さんは、療養中に「ホトトギス」に投稿するようになって、俳人として立つ決意を固めた。敗戦翌年の1946年(昭和21年)、上京して新宿西口でも、最初は「小便横丁」(現・思い出横丁)に「ばん焼ぼるが」を出した。実家は高円寺の魚屋で、高円寺北にある魚屋が21世紀の今日なお盛業中で、それが高島さんの実家だと聞いた記憶がある。
 闇市の店は「小便横丁」の1952年(昭和27年)の火事で一度は全焼したが、建て直して踏ん張った。今の「ウッチャン」の辺りか。今の建物も相当古びているが、構えが大きく、闇市のような雰囲気が薄いのは、その後、さらに立ち退きに遭ったから。
 小便横丁から移ったのが1958年か59年(昭和33年か34年)だ。巨人・阪神戦の天覧試合で長嶋茂雄がサヨナラホームランを放ったのが59年の6月。最早、戦後ではない。我が家はオヤジが都落ちしたのがその前年。オヤジの東京は都電全盛期で終わっている。
 Uさんは長髪・痩身、顔面蒼白で、鼻筋が古木のように細く尖っていた。死神博士を演じた天本英世(1926-2003年)に感じが似ていた。細い鼻筋に毛細血管が赤くゴカイのように浮いていて、会った頃には50代だったはずだが、とてもそうは見えなかった。
 カラス天狗の親分の仙人のような、超俗の雰囲気があったのだが、高島さんからは、かなりビシビシ厳しく添削されていた。
 俺はUさんに色々な助言を貰った。Uさんはその頃には人気があった主に主婦向けのカルチャー・センターの占い講師で生計を立てていて、時々講談社や、ワニ・ブックスのような書店から妖しい本を出していた。
 俺はUさんの生業を知り、高見順の書いた「いやな感じ」に出てくる辻占い、あびるを思い浮かべた。上野の山の上の辻占いだ。今では産経新聞には高名な政治部編集委員・阿比留瑠比がいるのでどんな字を書くか分かるのだが、「いやな感じ」では死神のような狂言回し役で登場する。
 Uさんは何時も金が無く、学生の俺にさえも酒代をせびった位だから、どうしようもないのだが、気位は高く、何時も身なりには気を付けていた。ところが、21世紀の現在、ニッポン社会は金がある人間が勝ち組という節操の無い時代になった。
 だから国民の預託を受けた国会議員でさえ血税を使って浮気がバレても、直ぐ改選で選挙に出る。「禊」などという言葉すら死語になった。比例区ではなく、選挙区で再選を果たしてしまう。議員も議員だが、国民も国民だ。バブルと裏腹だったといえ、昭和の末頃には、まだ教養こそ銭金を制すという見立ても世間には一部残っていた。


追記
ダイヤモンドで日経とサンケイとNHKが保守だって書いてあって嗤ったな。ダイヤモンド、だからあんたらは阿呆だと言われるのよ。
| 10随想 | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0)
転がり出てきたモノ(15)――森鷗外。
11月17日
転がり出てきたモノ(15)――森鷗外。
 昨日の三島事件の続きになる。あれも一種の諫死になるのだろう。
 諫死で思い出されるのは、例えば森鷗外(1862-1922年)の「舞姫」の太田豊太郎の母の死である。
 晴れて官費留学していたはずの自慢の息子が、“卑しい踊り子風情”と懇ろになって怠慢で免官になった。その所業を諌めるために母親が自害した。「舞姫」を読む時に常に議論を呼ぶ謎の部分だが、あすこは、鷗外は母親が諫死したと意図して描いているのは間違い無い。

森鴎外

 森鷗外の歴史小説は奥行きがあって読ませるものだが、彼もまた、軍人であり、官僚でもあった。山縣有朋(1838-1922年)への付け届けは泣かされる話ではある。
 この一方、鷗外が軍医総監として関わったとされる日露戦争での糧食政策で日本兵の脚気による死亡者が多数出た問題は今日なお真相が明かされないことには不満がある。
 それもこれも、次世代の奮闘に期待しよう。
 そんな諫死は封建時代の御武家の話とタカを括っていたら、あの田中清玄(1906-93年)の母親も“共産党風情”にうつつを抜かす息子が獄中にある時に、息子を諌めるために死んだ。会津松平の家老の家柄といえど、平時にも、やる家はやるもんだわい。
 そうして、もう一つ。例えば、小林秀雄(1902-1983年)と河上徹太郎(1902-80年)との「歴史について」の対談を想い出す。
 「考える人」(2013年春号)の付録のCD(1979年7月29日@福田屋)では、対談を切り上げて帰るという河上を小林は廊下まで出て見送る。
 「これが今生の別れになるねえ」
 小林は河上を見送った後で、座敷に戻ってきて、誰に言うともなく言う。
 「これあ最後の対談ですからね」
 と言い、
 「来年死ぬ。再来年かな」
 自分に呟くように言ってテープは終わる。
 だが、この後、小林は声を上げて泣いたという話がある。「若い人」にはそこまでは入っていないのだが、それが真実だったそうだ。
 「三島由紀夫が恐れた歴史を、その反対側から親しみを持って観、そして死んだのだ」
 以前、俺はこう記したが、三島由紀夫には小林秀雄が河上徹太郎を必要としたように必要とする友はいたのかという気もする。年若い友人はあっただろうけれども、師友のような人は無かったのではないかという感じもある。
 小林にとっての河上のような友がいなくともいいわけだが、三島由紀夫は彼の望んだ通り、もっと精神の若いところで命を絶ってしまった。彼の死は2つの点で惜しい。
 老いた三島由紀夫を見たかったということと、日本の文化のために、もっと長生きをして政治にあれこれと文句を付けて欲しかったということだ。
 「だけど、安倍が憲法改正をするでしょうね」
 「そうなんだよね」
 「三島にとって絶望の諫死ということにはならなくなっちまう」
 三島の死は、もし憲法改正が実現したら、また、微妙に軌道修正されていくのだろう。三島が望まなかったことかも知れない。だが、それが歴史という途方も無い「生き物」のなせる業でもある。

追記
一昨日喰ったタイラーメン、旨かったなぁ。また今日も喰いに行くかなぁ。
| 10随想 | 15:55 | comments(0) | trackbacks(0)
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