岡田純良帝國小倉日記

神戸にて(1)――不都合な真実。
2月26日
神戸にて(1)――不都合な真実。
 正月の神戸では、地元出身でフリージャーナリストの秋山謙一郎(1971年-)が2016年に「ダイヤモンド」に載せた記事(http://diamond.jp/articles/-/108103?page=3)で盛り上がった。
 秋山は神戸では、昭和30年代後半から40年代前半の高校生は教師から次のような進路指導を受けたと紹介する。
 「お笑いができるなら吉本興業へ。勉強が出来るなら三菱か川重、神鋼もいい。ソロバンが上手なら神戸銀行へ。腕っぷしが強いなら上組に。腕っぷしに自信があって頭も良くて、ソロバンが弾けるかお笑いができるのなら“山口組”や」
 秋山の筆は、この後阪神淡路大震災の時には、炊き出しをやって生理用品まで山口組が無料で配付したという実話に繋がって行く。これがネットで山口組擁護ではないかとして問題になった。こういう話が一部の神戸っ子にとっては恰好の酒の肴になるわけである。
 「証言しとる70代の女性いうのんは、秋山はんのお母ちゃんやな」
 「せやな。ピンと来るやろ、誰にもな。炊き出しも助かったなぁ」
 「ホンマの話やで。事実やのに、何で事実が問題になるのかがワシら分からへんわ」
 「沖縄の基地問題と一緒や」

  小林旭と梅宮辰夫.jpg

 「せやから不都合な真実なんや。『山口組=暴力団=悪』かて一方的に全部悪やねん」
 「『米軍=戦争=悪』やもんな」
 「戦争はアカンで。ワシはイヤやなあ」
 「アホ。沖縄に米軍おらんかったら今頃やられとるやないけえ」
 「誰にや。大陸のあれか」
 「あかん。大きな声では言われへんやないけ」
 敗戦後の神戸は中国人と台湾人だけでなく、元々商売をしていた香港人・広東人系列の不良在日外国人の巣窟となり、神戸カスバと呼ばれていた時代がある。新東宝で1960年に制作された「黄線地帯(イエロー・ライン)」は神戸新開地の私娼窟を舞台にしている。

「黄線地帯」ポスター。.jpg

 もっとも、敗戦前には東洋一の大都会だった大阪でさえ、柳川次郎こと梁元錫の率いる柳川組が昭和30年代までは手の付けられない愚連隊として暗躍していた。お隣の神戸でも新開地は、戦後長い間、治外法権だった空間があったそうだ。
 「せやな」
 「上組だって神戸の港の港湾労働者をまとめたアレやねん」
 「親の世代にとっても立派な就職先だったんや」
 「何で知らん他所の人間があれこれ言うねんなぁ。腹立つなぁ」
 「秋山はん、筋通してはるでえ」
 「そうやねえ」
 神戸を地元とする企業は、多かれ少なかれ港湾の荷役には関係していた。
 田岡一雄邸は、六甲方面に移転する前は、神戸地方裁判所目の前の生田区橘通2丁目にあったことでそれが知れる。

追記
羽田に到着しました。雨で気が重くなっちゃうなあ。チーズでずっしり重くなったトランクを引きずって帰宅します。
一旦は。
| 10随想 | 06:28 | comments(0) | trackbacks(0)
港港に掟あり。
2月25日
港港に掟あり。
八軒チェックしてきたレコード屋巡り。
「最近どんどん潰れてるわよ」
言われてたけど、実際、その通り、五軒しか残っていなかった。
小さな街だけど、零下2度では体が冷え切った
(おっ?)
ウイーン派みたいなかっこいいビルがあって、一階にシーフード屋が。一も二もなく飛び込んで、ドライなワインとシーフードプラター。2人分を1人分にまとめてくれる。
基本的に味は分かっていない気はするねえ。だけど、こういうのは良いわけなんだよな。相当なボリュームがあって付け合わせのパンは手付かずにしておかねばと言い聞かせたのに、途中から、クラブサンド作っちゃった。
パリ、ブリュッセル辺りだと貝が中心だけど、ここまでくると、三種の海老にザリガニと、大きなズワイ蟹。紅鮭は予めツナサラダにしてあって、オリーブオイルに漬けた鰊が濃厚だった。部屋に戻ったら、今度は、喉の渇きを覚えて、お茶を何杯も飲んだ。
港港に掟あり。それもまた楽しからずや。

某所

これから某空港へタクシーで向かう。朝の5時ですが、それが何か?
痺れる寒さだけれど、ヨーロッパ大陸はユーラシア大陸とは違って寒さが少しだけ優しい。

追記
半年ぶりのヒースロー。ブレエコにアップグレードしてくれた。優しいなあ、ドイン系イギリス人。同胞の意識かな。さて、また長い旅。参ります。
| 7喰う | 12:12 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(下)。
2月25日
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(下)。
「テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅」[児玉博著, 小学館]
 (ノンフィクション・ライター・稲泉連評、讀賣新聞)
「東芝の悲劇」[大鹿靖明著, 幻冬舎] 
 (国際政治学者・東京大学講師・三浦瑠麗評、讀賣新聞)
 2日間、主題に触れずにきた。この2冊は東芝の危機を描いた本だ。東芝の歴代経営者の中でも東芝の組織文化を変えたと言われた西田厚聰については東芝の危機発覚後、早くからその言動に注目が集まっていたが、昨年12月8日(旧開戦記念日)に亡くなった。

イラン革命(3).jpg

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 「今年の10月、著者は本人の自宅で3時間半に及ぶインタビューを行っている。結果的にそれは、生前の西田氏が対面での取材に応じた最後の機会だったことになる。癌の手術による入院生活から戻ったばかりの彼は、批判に対する反論を饒舌に語っている。だが、そこで著者が目にしたのは、自ら後継に指名した元社長を罵り、自身の責任には決して触れようとしない姿でもあった」
 △任賄貅覗澗里了僂砲弔い討海説かれる。
 「アメリカ仕込みで物腰が柔らかく、記者たちに評判の高かった西室泰三氏を中心に、東芝幹部らの失敗に下される著者の評価は厳しい。一文一文がまるで鉄槌のように食い込んでくる。チェック機能が形骸化し、企業倫理が失われる。幹部は出世競争や派閥争いにかまけ、メディア映えばかりを気にする。『誰のための会社か』。そんな疑問を抱く読者は多いだろう」
 どうもこれだけでは俺には不足だ。
 革命勃発までは西欧化を推進していたイランで育ち、進歩的な思想を持っていたイラン女性と結婚し、イランで生涯を過ごす決意を持って移住した人物である。イラン革命とは、民族・宗教革命ともいうべきもので、反動革命のようなものだろう。そういう人に日本的な義理人情や年功序列が通じたとは思えない。あるいは、欧米各国が牽引した、今の言葉で言うなら、コンプライアンスとかガバナンス。革命時には欧米人の縛り首の死体が見せしめに路上に吊るされているような街で暮らしていたのだ。
 あれから40年。革命後のイランは反米親ソ色を強めて、エジプトでは周辺地域に対する影響力喪失と国威の地盤沈下が起きた。大国だったエジプトは混乱の極みに今もある。圧倒的だった往年のエジプトの存在感を知る身には痛ましいことに想える。

Yasser Arafat(1980s).jpg

 また、元々ペルシャ帝国のイラン帝国では、革命の勃発まで“パーレビ国王”の父王の時代から西欧化を推し進めて、不平等条約の撤廃のために、早くから女性の権利擁護の取り組みも進められていた。
 革命後、イスラム共和制に移行して、中東地域における非西欧化への転換点になった。かくも短期間に世界に新たな対立が起きたことは感慨深い。構図の成立に多少なりとも加担した勢力は、東西の超大国、旧宗主国系の企業・政府機関だが、ここでは触れない。話がますますとっちらかってしまう。
 西田厚聡氏は中東の様々な勢力とのネットワークを持っていると聞いた。中東の様々なネットワークと言うと、右だけでなし、左にも行くし、北にも南にも繋がる。そういう人物は大事にしなければならない。本来、国家なら機密費で、中国なら弁護士事務所だ。企業ならコーポレートの雑支出・雑損出で処理すべき案件を扱う人物だろう。

田中清玄晩年。.jpg

 最右翼は田中清玄(1906-93年)。昭和天皇(1901-89年)はこの人のネットワークを重視し、侍従長だった入江相政(1905-85年)を通じて度々国際動静を探っている。田中ほどの国士は別として、金目当ての有象無象は何時の時代でもいる。本来は、そんな系譜に通じる、それこそコンプライアンス的には“ヤバイ人物”だったのではないか。
 70年代初頭に東京からテヘランへ渡った時のイランの政情と、革命後の実情がどれほど変わったか。恐らく、共産革命に匹敵するような価値観の転覆が起き、日本人でも身の危険を感じるようなことがあっただろう。現場にいながらにして、この革命を体験した稀有な日本人として話を聞いてみたかった。東芝の元社長では面白く無い話しか出ない。
 一昨年から顕在化した東芝の危機と西田厚聰氏、及びこの2冊については、俺にはまだ伏せておかなければならないことがある。やや残念だが、これまで。武士の情けだ。


追記
今日は収穫があったような無いような。数時間寝た後、またなつかしくてややこしいロンドン。疲れもピーク。
| 9本・記録集 | 06:52 | comments(0) | trackbacks(0)
神戸からスティンキーな匂い。
2月24日
神戸からスティンキーな匂い。
神戸からチキンビリヤニが。強烈なスパイスの香りはするのにブツが届かない。こちらはロクなもん喰ってないのに。
古谷みつとしも苦労してたけど、平成の父っつあんも同じでヤンす。
顔で泣かずに腹で泣け、長谷川のアニキも言ってるぜ。そうそう、池波正太郎の平蔵の苗字だって、師匠の名前をどうしても使いたかったという説がある。師弟愛もここまでくると、グッとくるぜ。頑張れ、ニッポン選手団。

| 7喰う | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(中)。
2月24日
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(中)。
「テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅」[児玉博著, 小学館]
 (ノンフィクション・ライター・稲泉連評、讀賣新聞)
「東芝の悲劇」[大鹿靖明著, 幻冬舎]
 (国際政治学者・東京大学講師・三浦瑠麗評、讀賣新聞)
 昨日は先を急ぎ過ぎたので、中東の20世紀の歴史についてもう少し触れてみたい。俺は宗教に詳しくない。細かい点では誤解しているかも知れない。
 ただし、ユダヤ教、イスラム教、そして各国を左右する欧米列強の奉じるキリスト教、そして、そこに介入を図ろうとしたソ連の動きを追えば細かい点は別にして、大まかな流れはつかめるだろうと想っている。
 イラン革命が起きるまで、イランもイスラエルもエジプトも今のイランやイスラエルやエジプトとは全く違っていた。70年代までの中東地区は、エルサレムを奪取した第1次中東戦争以来、常にイスラエルが火種になって地域紛争が続いていた。
 欧米の各国政府にとっては、自国から移民して入植した人々が中東で暴れん坊になって頭を抱えているという印象がどこかにあったように想う。1978年秋、米国大統領、Jimmy Carter(1924年-)の仲介で、エジプト大統領、Muhammad Anwar al-Sādāt(1918-81年)とイスラエル首相、Menachem Begin(1913-92年)が交渉に立って、パレスチナの紛争を巡る妥協案の合意に至った。

イラン革命(2).jpg

 その内容とは、イスラエルは紛争を引き起こした占領地域から撤退、同時に「パレスチナ人」に自治権を与える、というもの。如何にも真っ当に聞こえる。だがイスラエルに抵抗する事実上の紛争当事者の「パレスチナ人」のPLO(パレスチナ民族解放戦線)にとって、これは呑めない話だった。Sādātに裏切られた、という想いが強かったろう。
 エジプトは、当時の国際社会ではパレスチナ難民の後ろ盾。Sādāt政権の発足前には、パレスチナ難民に最も影響力があったのは前大統領のGamal Abdel Nasser(1918-70年)だった。Abdel Nasserは反イスラエルの立場から、ユダヤに抵抗するPLOの首領、Yasser Arafat(1929-2004年)に問題の取りまとめを事実上委任していたからである。
 そういうこともあって、PLOはイスラエル政府と合意したSādāt政権を激しく非難した。戦間期とはこのCamp David Accords(キャンプ・デービッド合意)が成立した78年9月〜イラン革命の79年2月までの僅かな時期のこと。厳密にはキャンプ・デービッド前に両者歩みよりのための準備期間があったから、その前から穏やかな時期が続いていた。

Yasser Arafat(1970s).jpg

 キャンプ・デービッドまでのエジプトは中東の大国。シリアをも含めて大きな影響力を持っていた。パレスチナの名家に生まれたYasser Arafatはパレスチナのゲリラの親方で、元はエジプトに留学し、カイロ大学で工学を学んだエンジニアだった。
 Abdel Nasser時代は蜜月だった。ところが代替りしたMuhammad Anwar al-Sādātはアメリカ大統領の呼び掛けに応じ、イスラエル首相、Menachem Beginとの交渉の場に赴いてしまった。
 PLOには、不倶戴天の敵、イスラエルの首相と親米派のSādātの合意では到底呑めない。Abdel Nasserならば、絶対にアメリカ大統領に騙されてイスラエル首相との妥協の場に赴かなかったはず、という声もあった。
 この後のPLOの水面下での活動のことを俺はよく知らない。しかしイスラエルでもなく、エジプトでもなく、狼煙がイランで上がった時に、ややや、さてはYasser Arafatが裏で動いたのか?と想わされた。
 「Growing Up」の封切直前の1979年2月1日、永遠に繁栄が続きそうなユダヤ人国家に対抗するように、追放されていたRūhollāh Khomeinī(1902-89年)が周辺の大国イランに凱旋帰国する。これが契機でイラン革命が起きる。当時“パーレビ国王”と報道されたイラン皇帝、Shāh Pahlavi(1918-80年)は親米だったエジプトに亡命するのである。
 Khomeinī師の帰国翌日、元Sex PistolsのSid Vicious(1957-79年)が薬物の過剰摂取で死去した。だが、日本でこれを報じた主要紙も訃報は小さく、ほぼイラン革命の騒乱にかき消されていた。

追記
しかしそれにしても、だ。色々思い違い。心得違いをしていたもんだなあ。
パンクロックをこれからナニするかな。
| 9本・記録集 | 07:13 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(上)。
2月23日
気になる本――アラブ人とユダヤ人、そして日本人(上)。
「テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅」[児玉博著, 小学館]
 (ノンフィクション・ライター・稲泉連評、讀賣新聞)
「東芝の悲劇」[大鹿靖明著, 幻冬舎]
 (国際政治学者・東京大学講師・三浦瑠麗評、讀賣新聞)
 昨年、イスラエルの大使館をテルアビブからエルサレムに移すと宣言して、アメリカの大統領、Donald Trump(1946年-)が国際世論から顰蹙を買った。歴代大統領が拒否権を発動して署名を拒否した古い法案に、ユダヤ勢力に押されてサインしたのが実態だ。

イラン革命(1).jpg

 20世紀に建国された新興国家・イスラエルは、首都問題についてはこれまで領土拡大で周辺国と引き起こした戦争にまつわるテーマだけに、未だ国際的にどちらなのか議論があるのは確かだ。どちら側にも宗教と歴史の正統性が関わってくる。マジで議論したらまた殺し合いが起きる。
 20世紀初頭、ユダヤ人によって、それまで寒村だったテルアビブは人工的に都市建設が進んだ。ところが、シオニズムを支援してきたイギリス政府は、彼らの統治地区だったエルサレムで、ユダヤ人入植を拒否するアラブ・イスラム勢力のテロが続くようになり、初めて問題の根深さに気付いた。
 そこで誠に狡猾にもイギリス政府は、国際連合に問題の解決を委ねた。ここで出たのが悪名高い「パレスチナ分割案」。パレスチナをアラブ人の地域、ユダヤ人の地域と分けて、喫緊の課題だったエルサレムは国連統治地域とする、という分割案である。
 そもそも第2次大戦の後、建国時にはイスラエル政府はテルアビブで建国を宣言した。ところがその直後に周辺地域の一斉反発を受け、中東戦争が起きた。イスラエルは機に乗じて西エルサレムを占拠し、戦後、エルサレムをイスラエルの首都と宣言したわけだ。
 当時の国際社会は、独立戦争と主張するイスラエル政府による明らかな周辺への侵略と見なした。今でもエルサレムをイスラエルの首都と認めない理由はここにある。

Gamal Abdel Nasser with Muhammad Ali.jpg

 話は飛ぶ。
 1979年に「Growing Up」というイスラエル映画が封切られたのだが、今ではこの映画が話題になることは殆ど無い。舞台は1959年のテルアビブ。テルアビブの少年たちが当時流行したRock 'n' Rollと恋に夢中になるロマンチック・コメディーだった。
 後述するが、1979年という年を考えれば不思議は無い。あの時期、イスラエルと周辺の地域との間で、一瞬、緊張が緩和した。イスラエルでも、リーゼントの兄ちゃんたちがアメリカ文化にかぶれ、女の子を追いかける能天気な映画も製作することができた――1959年のテルアビブ。夜毎、ダンス・ホールはRock ‘n’ Roll一色だ。17歳の高校生、主人公のベンジー、色男のボビー、デブのヒューイの3人は“ガール・ハント”に眼の色を変えていた――他愛も無いが、それがなぜ中東のテルアビブなのだ?
 映画はシリーズ化されたが、封切当時、主人公と同年代の15歳だった俺は、今でも中東問題を考える時に、第1作「Growing Up」の製作された時期へ想いを巡らせることになる。タリバンやISだけではない。反米の機運は、北アフリカから中東、パキスタンまで続く。彼らから見れば、堕落したアメリカ文化にかぶれた映画は許せないはずだ。そんな映画が製作されたのは奇跡に思える。戦間期作品とでも呼ぶべき映画だ。
 1970年代初頭、イランからやって来た女性研究者と東京大学の大学院で出会い、結婚後、反米色が強くなっていくテヘランに渡った西田厚聰(1943-2017年)。早くから、その名は海外で聞こえていた。東芝で社長に上り詰めるよりもずっと前から「変人」という印象が強い。俺には、「Growing Up」と共に映画の舞台が暗転したイラン革命の記憶と重なり、東芝は風変わりな人を重用するなぁという一種の羨望があった。


追記
長い1日が終わろうとしています。疲れましたが、概ね問題なく話は進んだかな。直接話すことが大切で、結局は残りはこれからどうするかだよね。感激したのかどうか、泣かれちゃったよ。
| 9本・記録集 | 07:33 | comments(0) | trackbacks(0)
北の国から。
2月22日
北の国から。
乗り換え中ですが、この空港も増築中。あっという間に一杯になったんだね。俺が一番使ってたのは5年ほど前になるか知らん。さてこれからもう一便。美女にピックアップされてお食事の予定。しかしぶっ倒れそうだよな。

| 10随想 | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――酒呑みの本。
2月22日
気になる本――酒呑みの本。
 昨年の7月の話で、随分古くなるが、讀賣新聞の「空想書店」店主は戌井昭人だった。
 「酒飲みの本を読むなら、酒場が最適なのかもしれない。新橋などで、焼鳥をつまんでビールを飲みながら、ひらいた文庫本を片手で持っているサラリーマンなどを見かけたりすると、『なんだか良い感じだなぁ』と思えてきて、こっちも嬉うれしくなってくるのだった。だから自分も何回か真似まねしたことがある」
 気持ちは分かる。
「箸もてば」[石田千著, 新講社]
 本書は帯が面白い。副題“のようなもの”が付いていて、「めし、おさけ。」とあるのだ。「箸もてば、めし、おさけ。」である。こちらは毎日でライターの竹田砂鉄も取り上げた。
 「観光地に出かけても平然とチェーン店で食事を済ませる自分に向かう視線は厳しく、時に人格否定を多分に含んだ失望を向けられる。「何を食べるかじゃなく、誰と食べるかだと思う」という、どこかで何度も聞いた台詞を借りてみるものの、冷たい目は一向に変わりそうにない」
 竹田はこう続ける。
 「石田千さんのエッセーをいつも手に取る。そこには食事の風景が豊かに盛り込まれていて、目の前に広がる食の活写を頭で再現する知識すらないくせに、繰り返し読む。今回のエッセー集も、オビ文に『めし、おさけ。』とだけあるように、箸を動かしながら考えた思索と対話の集積。迷い続けたり、ついに決めたり、やっぱりやめたりする。その思考の導線が、湯気に包まれるように、あやふやな状態を許容する」
 (作家・劇作家・戌井昭人評、讀賣新聞 / 竹田砂鉄評、毎日新聞)

泥酔夫婦 in Africa

「泥酔夫婦世界一周」[松本祐貴・友紀子著, オークラ出版]
 世界41か国を1年半かけて旅した日本人の御夫婦。ダンナはライターで奥様は勤め人で、300万円の蓄えをマンションの頭金に充てるか、旅行の費用にするか、という相談の後で2人は世界旅行に決めた、ということが発端になった。まだ30代だったからできる旅。体力が無いと中々この辺りは厳しい。戌井昭人は書く。
 「世界でのみまくる夫婦。ほのぼの、でも二日酔いはハードだ。飲むことは人と出会うことでもある」
 「酒を飲む人の本を読んでいると楽しくなって来る。一方で、酒に溺おぼれていく恐ろしさを書いた本もたくさんあるけれど、そっちの方は、今回、忘れることにする」
 一時、俺は吉田健一(1912-77年)の呑み方のことをあれこれ想い浮かべていたのだった。

       吉田健一with熱燗。.jpg

 「代官山の『小川軒』は元々新橋駅前にあったわけだ。吉田健一も『小川軒』に通った客の一人で、お気に入りのオックステールを喰う時には、盛られた皿と柱の間に本を挟み込み、ビールを飲みながら喰らうのは、甚だ具合が宜しいというような話を嬉しそうに書き残している。 センセイがあのフランネルのスーツに身を包み、窮屈そうなポーズで、手づかみでオックステールと格闘しながら英書に読み耽る姿を想像すると微笑ましい」
 それが新橋駅前ビルの1階に収まりレーズン・ウィッチの菓子店舗に代わってしまって、結局のところ、オックステールで一杯やりたくともできずにいる。
 1962年に制作された古典的なハリウッド映画、「酒とバラの日々」では、主演のJack Lemmon(1925-2001年)は迫真の演技と高い評価を得た。しかし、彼は真正のアルコール依存症だったのを晩年に告白したことを想い出す。
 吉田健一はクネクネしたポーズでオックステールをいじり、フォークの先からソースを盛んに飛ばし、大切な英書にシミを作っていそうだ。彼も、エンジニアの夢に敗れて、大きな蹉跌を抱えて生きた。その闇も、酒と酒友と共に彼の後半生を豊かにしたわけだ。21世紀に読まれる秘密はその辺りにもあるはず。(作家・劇作家・戌井昭人評、讀賣新聞)


追記
これからNEXに乗車。
ツライですわなあ。遠い遠い空港まで行って、何だか冴えないサービスで。機内はこれまた渋い淋しいサービスですわな。サービスというより、ガマン合戦。俺もこの年齢で、このサービスをプライベートでなく、受けるってのは、何だかねえ。惨めというより、もう、航空機は何の楽しみでもない、只の苦行でしかない。そういう時代になったというこったねえ。オリンピックが愉しみですら。頑張れニッポンの諸兄姐。
| 9本・記録集 | 06:40 | comments(0) | trackbacks(0)
旨いもん――ポン級あいなめの清蒸。
2月21日
旨いもん――ポン級あいなめの清蒸。
 30cmを超えるアイナメのことをポン級と呼ぶ。30cm以上のアイナメはビール瓶のように大きい。ビール瓶を1本、2本と数えるため、大きいあいなめはポン級と呼ばれるのだ。

20180218 ポン級あいなめ清蒸 (5).JPG

 アイナメは「愛な魚」。ずばり「味わうべき旨い魚」の意。関東では30cm以上をビール瓶、40cm以上を一升瓶と呼ぶ。今や白身の高級魚。ポンがあったらポンと買うべし。

20180218 ポン級あいなめ清蒸 (2).JPG

 騙されたと思って、俺に着いて来い。旨いモンを食べられる秘訣を教えてやるけんねえ。随分、喰ったからねえ、世界中の旨いモンを、さ。
| 7喰う | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――EUという病身。
2月21日
気になる本――EUという病身。
 「欧州統合は行きすぎたのか上・下」[Giandomenico Majone著・庄司克宏監訳, 岩波書店]
 原題は「Rethinking The Union of Europe Post-Crisis」である。
 日本経済新聞では本書についてこう紹介されている。
 「欧州統合のつまずきが言われて久しいが、何がどう失敗したかを体系的に整理したのが本書だ。著者はイタリア人の欧州連合(EU)研究の泰斗。『まったくの楽観主義』で曖昧さを残した通貨統合がユーロ危機を招き、超国家機関に権限を強引に集める「民主主義の不履行」がEU不信を招いたと辛辣に説く。加盟国の意思が反映できる『クラブ』のような形の統合に改めようと、冷静かつ知的に訴える」
 讀賣新聞では読書家として知られる書評家・出口治明がEUの状況を憂う。
 「なぜ、EUは躓つまずいたのか。2013年に行われた調査によれば、EUを領導するドイツでさえ58%がEU加盟を利益よりむしろ障害と考えており、主要6か国におけるインタビューでは29%しか欧州諸機関に対して肯定的な意見を持っていない。これほど否定的な見方がかくも広く共有されるようになったのはなぜか」

       「欧州統合は行きすぎたのか上・下」[Giandomenico Majone著・庄司克宏監訳, 岩波書店].jpg

 知られていないところだが、EUという組織にとっての不都合な真実は他にもある。
 EU職員はEU全域28ヶ国に対して大きな影響を持つ法案にかかわる。あるいは全域の利害を調整し、28ヶ国以外の地域・国との交易に関する法案の策定にも関わる。EUの住民にとって大きな権限を持たされている。 
 期間契約の職員を含め、EU職員は3万人規模。平均月報は約6,500EUR(約88万円)で、文官トップの局長で約16,500EUR(約223万円)と言われる。これは免税。手取りである。そしてEU本庁のあるBrussels勤務で、Belgium以外の地域から来ている職員の子弟はInternational Schoolに無償で通える。しかも、育児手当が1人400EUR(5.4万円)出る。
 単純計算すると、職員平均で1,000万円だが、子供が2人いる場合、1,130万円。しかしこれは手取りだから、各種の生活・学費手当を考慮に入れると、額面では30%増し位の年収に相当する生活がEU職員の平均というわけだろう。夫婦で職員という例もあり、世帯所得で手取り2,000万円という例も。ともかくトップが手当て抜きで2,700万円。交通費や養育費などを含めると、民間と比較すべき実収入はずっとずっと多いはずだ。
 この破格の手当ては、汚職などの誘惑から職員を保護するためとは大義名分だ。実際は、EUの職員として採用されるような人々は、お国でも弁護士や会計士で立派にオマンマを喰えるような人種であったりする。俺のある友人は某国の副大臣だったし、別の友人は弁護士だった。某国の副大臣は2年Brusselsで過ごし、大臣として母国に呼び戻された。

       「評伝 田中清玄」[大須賀瑞夫著・勉誠出版].jpg

 3年〜5年をEU職員として過ごせば、国際機関の中でネットワークが生まれ、あるいは職務を通じてEU全域の要人と知り合いになることができる。母国に戻って、独立して事務所を開いたり、国際的な弁護士事務所やコンサルタント会社に勤めたりする人々もあるだろう。
 本書はEUを解体してクラブ財理論に基づいて機能の統合を目指すべきだと主張する。クラブとは、公共財を提供するために設立された退出可能な連合体という意味になる。EU単一市場を共通項とし、政策協調可能な国だけがクラブ財を購入するという考え方だ。
 面倒な理屈は飛ばせば、つまるところ、EU設立の原初まで遡り、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の考え方に戻すべきということだろう。国際カルテルのことだ。割当・価格維持・調整・安全保障を加わった国だけが共有できる。そうでないならば、何のことはない、懐かしい言葉を持ち出すが、UNICE(欧州共同体産業連盟)であろう。他の地域経済圏に対して極めて排除的な思想を持っていた。
 田中清玄(1906-93年)を想い出す。Otto von Habsburg(1912-2011年)が取り組んだ欧州統合の理想は今や死に瀕しているのかどうか。(ライフネット生命創業者・出口治明評、讀賣新聞 / 日本経済新聞)

追記
そろそろ明日になると久々にどっちもどっちであっちもあっち方面に。国際法上の紛争地域ではないけれど、まぁ、元から無関係、オサラバーという分けにもいかないなぁ。
ウーン、さて、これからどこのお国と組んでやっていけばいいのかねえ。安くて狭く哀しいお席でなら時間がある、精々じっくり考えてみますかいのう。本日はこれから密談。
| 9本・記録集 | 06:43 | comments(0) | trackbacks(0)
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