岡田純良帝國小倉日記

1964年――The Goldhawk Social Club(3)
8月11日
1964年――The Goldhawk Social Club(3)
 The Whoのファンで、同じ地区の先輩の永年の支持者なのがPaul Cook(1956年-)だ。
 1976年初夏、Londonを揺るがす人気が出ていたのにPaulが電気工の仕事を辞めたのは9月に入ってから。他の3人に定職は無かったがPaulは9月まではアマチュア。周囲の圧力で辞めた晩はヤケになってビールを飲み過ぎ、Drum Setからずり落ちた。
 「今日は俺たちはProfessionalsで出るんだよ」
 「知ってますよ」
 「そうかい。楽しみかい」
 初めて会った時、Paulは丁寧に話をして呉れた。2度目にすれ違った時にもPaulはこちらに親指を立てて親愛の情を示して呉れた。
 (ああ、この人は嘘を付けない人だな)
 再結成以降、最も険悪なのはPaul CookとJohnny Rottenの間という説がある。
 「PaulはJohnnyだけ特別扱いというのが嫌いでさ」
 消息通は言う。Johnnyはツアーでも取り巻きのBoogieと共に何時も別行動を取った。
 「そういう“何様”みたいな態度が大嫌いな男なんだよ」
 バンドの著作権は4人全員平等。それが彼らの取り決めだった。労働者階級の美徳を頑固に守るこの男、誰も気にも留めない小さなことだろうけれど、Pistols以降について想い出を幾つか引きたい。

       Sex Pistols at Oxford Street in 1977 (1).jpg

 1977年4月14日、Sex PistolsはAdrian BootのPhoto Sessionに応じる。Oxford Streetから入った雑居ビルにMalcolmのGlitterbestの事務所があった。ビルに向かうレンガ造りのゲートで撮影は行われた。今ではClarksがその空間に店を構えている。
 この日、Johnny Rottenは前髪を上げ、サイドを撫で付け、ドレス・シャツ。上にエドワード・ジャケット風で、光沢のある素材だが、着丈の短いジャケットを着ていた。
 この時、4人全員が偶然Levi'sのジーンズを履いていたこともあり、1998年夏にLevi's本社がアメリカの広告にこの時の写真を使った。メンバーの履いているタイプは501と502と思しきものもある。全員が濃紺のストレートのLevi'sだった。

Sex Pistols at Oxford Street in 1977 (3).jpg

 Paulは501の裾を2cmほど折り返し、George CoxのRubber Soleと合わせている。アッパーは青と黒のストライプで光沢のあるSeditionariesのShirtsを着て、ダブルの黒いライダー・ジャケットを羽織っていた。今も黒い革のジャケットは好んで着ている。
 Sid Viciousは豹柄のShirtsを着てシングルのヨレヨレのRaincoat。前から505ではないかと思っているのだが両膝がボロボロの煮しめたLevi'sを履いていた。これは丈が長く、裾を僅かに折り返し、Boots Cutの白いBasket Shoesをこの頃何時も履いていた。
 Steve JonesもRaincoat姿だがダブル。初夏にはJohnny Rottenもよく着たからこの時期、メンバー間で古着のRaincoatは人気だった。だが中のシャツはSeditionariesのParachute Shirts。Biker用のBootsを履いているのでジーンズは折り返していない。
 5月のGod Save the QueenのPhoto Sessionまでは変わらないが、7月の北欧ツアー前にSidは新しい501を買った。188cmの長身にツンツルテンのブルージーン。直ぐに黒いSlimのJeansとEngineer Bootsに乗り換えた。Nancy Spungenの影響は大きい。
 夏の「平凡パンチ」御一行とのPhoto Sessionとなると、今度はSidは紫色の極太のPantsで表れた。Paulのタックの2つ入ったパンツと色違い。とにかく目立とうという気持ちに溢れている。

Jeni and Paul Cook at their kitchen.jpg

 この時、Paul Cookは明るい青色のBARACUTA G9を羽織っていた。Punk Bandのファッションではない。何時も街場のスタイルだ。人目には付かないが、じっと見るとシャレた格好をしている。キャラクターと身に着けているモノとが一致して無理がない。
 今も丸首のトレーナーや薄手のセーターをよく着て歩いている。大金持ち風の装いはしない。節度を守って街に溶け込んでいる。だから行き交う人にも気付かれない。
 ドレッシーな時もシャツにネッカチーフ。20代で出会った連れ合いはCulture Clubのバック・コーラスだったJeni。黒人で有名な菜食主義者だ。
 歌手になった娘のHollyの名付け親はBoy George。96年の再結成ツアー時は10歳でPaulは娘を連れて歩いた。ある日、New Yorkで娘のために朝から美容室に行くとDavid Bowieがいた。Paulはこの日、午後からバンドのリハーサルだった。

Minogue, Bowie and Cook in 2002.jpg

 「だからDavid Bowieはアタシの相手をしてくれたの」
 Bowieは大ファンというHollyのためにグッゲンハイム美術館を案内した。Paul自身、若い頃からずっとDavid Bowieのファンだった。
 The WhoのModsの掟を引きずりつつ、筋を通して生きている。終末観で一杯だったPistolsの頃から、周囲の「Sex, Drug and Rock ‘n’ Roll」的な価値観とは違っていた。
 イギリスの階級制度はイヤなものだ。言論の自由こそあるが、階層は固定されている。この息苦しい社会の中で労働者階級に生まれて、それでもあらまほしき生き様があるとするなら、Paul Cookのようなセンスと暮らし振りというものだろうか。一つの賢者のあり方とでも呼べるものが、この人の佇まいには感じられる。


追記
今月、藤田嗣治の家を訪ねられれば行きたい。ランスの礼拝堂よりも、終の棲家。そんな時間がもう許されているか知らんけれど。どうやら素晴らしいらしいねえ。父上が奉職した陸軍から依頼されて戦争画を描き敗戦国を追われた芸術家なんて、最高だ。彼も江戸っ子だったわけだから、元々、明治維新の後の国造りさえ信じていたのかどうか。ニッポンのような国を追われた人が、最後に辿り着いた場所。コイツは渋いねえ。泣いた赤鬼の気分になりそうだ。

追記の追記
Paul Cookの娘が感じの良いいい子だったからDavid Bowieは美術館に連れ出すことを言い出したわけでしょうから、両親がしっかり子供に向き合って育てていることは伝わっていたわけですわね。この辺りも感じいい話だと思う。
SohoにあるCarnaby StreetでもMods系はやっぱり本流だけれど、その後から生まれたPunkもGlamも、その前にあったRockersもないわけですわね。
厳しい掟のあるModsってのは、労働者階級のマゾっ気にフィットするのかも知れない。Kentの櫛を買って帰ります。オホホホホホ。諸兄姐、さらば。お元気で。
| 8音楽 | 07:11 | comments(0) | trackbacks(0)
1964年――The Goldhawk Social Club(2)
8月10日
1964年――The Goldhawk Social Club(2)
 Londonで暮らして1年半が過ぎ、ようやく言葉が形になって出てきた。The Whoの存在は、Beatlesとも違うけれど、イギリスの労働者階級の歴史の中では極めて大きな意味があると感じる。労働者階級を社会に対して背負った初めてのバンドという感じか。
 1950年代にはEddie CochranだとかGene Vincentを真似た黒ずくめのRockersはLondonにもいたけれど、このRockersは、所詮アメリカのRockabillyの真似だった。戦後のアメリカのYouth Cultureのデッド・コピー。
 Sex PistolsのSteve Jones(1955年-)のオヤジはこのRockersだったそうだ。Rockabillyが好きで、オートバイも好き。丁度時代の流れだったわけだろう。
 60年代に入り、BeatlesはMersey Beatsの流れで出てきたが、彼らは売れ過ぎて、イギリスという国も超え、アメリカ市場で凄まじい人気を勝ち取った。あっという間に現象はUniversalなものになり、ある種、無国籍の存在になってしまった。
 ところが、その少し後に出てきたThe Whoは、強烈に色濃く、イギリス階級社会を背負っている。笑わない、ギラギラした目付き。服も、顔も、風体も。
Whoは、強烈に色濃く、イギリス階級社会を背負っている。笑わない、ギラギラした目付き。服も、顔も、風体も。
 Modsというグループができて、社会現象になったのは彼らの歌詞を聞けば分かる。
 「黙って俺に付いて来い」
 「俺のファッションを真似ないと時代遅れだぜ」
 と高らかに宣言した男たちなのだ。
 Modsのコートは、NATOを通じてヨーロッパ各地に駐屯した米軍の放出品だった。編み上げブーツもそう。安く、ハードで、喧嘩にもってこいだったからだ。
 前身だったHigh NumbersのシングルB面の「Zoot Suit」を一部引いてみよう。

The Who Plays at the Goldhawk Social Club in 1965 (2).jpg

    I'm the hippiest number in town and I'll tell you why
    I'm the snappiest dresser right down to my inch wide tie
    And to get you wise I'll explain it to you
    A few of the things that a face is supposed to do
    I wear zoot suit jacket with side vents five inches long
    I have two-tone XXXX yeah you know this is wrong
    But the main thing is unless you're a fool
    Ah you know you gotta know, yeah you know, yeah you gotta be cool
    So all you tickets I just want you to dig me
    With my striped zoot jacket that the sods can plainly see
    So the action lies with all of you guys
    Is how you look in the other, the other, yeah, the other cat's eye
    Well don't you see, well don't you see, well don't you see now
    Well don't you see now, come on baby, 'cause don't you see now, oh baby


        The Who at The Gold Hawk Social Club  (1).jpg

 イギリスでは男は装うことには時に命を懸けるというのが19世紀初頭のWilliam Archerの頃からのDandyの伝統。当時、Peter Townshend(1945年-)は19歳。
 「インチ幅の細身のタイ」
 「サイドベンツの長さは5インチ」
 21世紀の今もFred PerryはMods御用達だったポロシャツだけでなくMods Coatを作っている。Mods必須のアイテムだし、やっぱりイギリスの労働者階級の少年流で、お金を掛けない精一杯のオシャレのわけだろう。
 「The Whoの再来――Guitarは下手だけど」
 1976年の春先、Sex Pistolsはこんな書き立てられ方をした。1976年当時、Pistolsのライヴを体験したライターは、The Whoの初期の雰囲気も知っている世代だったから、これにはある種の真実がある。
 実際、彼らは初期にSmall Facesの「What Cha Gonna Do About It」をCoverしたが、76年の夏前には捨て、代わりにThe Whoの「Substitute」は捨てずにCoverを続けて、Liveでは必須の作品だった。

Sex Pistols 1976.jpg

 Paul Cookは各方面からドラマーで声が掛かるから忙しい。その一方で地元出身のThe Whoのコンサートには、若い頃と変わらずに律儀に足を運んでいる。それだけでもThe Whoの存在の重さが伝わってくる。
 Paul CookはHammersmith育ちとされているが、Shepherd Bushの裏手にあるPhoenix High SchoolでSteve Jonesと出会っている。Goldhawk Social Clubのあった205 Goldhawk Roadまでは学校から800mほど。Paul Cool少年には帰り道に当たっていたはずだ。
 Glen MatlockはGoldhawk Social ClubからShepherd Bushの坂道をHolland Park Avenue沿いに登って1kmちょっとくらいのところに今でも暮らしている。街場を行く彼らは、誰も気付かないが、何時もちょっとシャレて歩いている。
 大金は無い。だが精一杯に装い、精一杯に突っ張る。The WhoからSex Pistolsへ。階級特有の暗喩――Sex PistolsもThe Who以来の伝統を深く受け継いだのだ。


追記
Paul CookセンセイはHammersmith育ちで、家族と今も住んでいるってのよ。Sharksで同じメンバーだったToshi Ogawaさんの話だそうだから間違いない。ともかく、結構、歩いてるわね彼は。2kmくらいは平気で歩くんじゃないのかな。俺のいる間にまた街場で会えるか知らん。
諸兄姐、というわけで、さ・よ・な・ら、って、クドイほど言っている通りですけえね。さよなら三角また来て四角というわけですら。俺の体にも、ちょっとだけ、イギリスが入った。それでヨシだ。
| 8音楽 | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0)
Island Record Studios.....
8月9日
Island Record Studios.....
 このスタジオは現在取り壊されてはいないが、外側のファサード部分を除いて建物の中身がリノベーションされ、新たな区画に変わりつつある。

Ireland Studios(Basing Street Studios) (掲載).jpg

 70年代半ば、事実上、射殺されかかり、亡命したBob MarleyがWailersを引き連れてやって来たし、Jimmy Cliffが「Vietnam」を製作し、名盤、「Struggling Man」を吹き込んだのもこの場所だった。

「Struggling Man」(1973年)ジャケット。.jpg

 今月もまた、Notting Hill Carnivalが行われるが、今年は、もしかすると、久々に荒れるかもしれないという噂があるわけ。
 例の大火事のGrenfell Towerは至近。金持ちとそうでない者たちとの差異が、あの建物に象徴されていて、見える化されてしまったのだ。
 この近所に、Cookieこと、Paul Cook様の行き付けのCafeがあり、そのCafeの前辺りで、1976年のCarnivalで暴動が起きた。Clashの「白い暴動」の裏ジャケットがそれだ。

The Notting Hill Riot 1976.jpg

 その直ぐ裏手で翌年「Punky Reggae Party」が録音された。1977年夏のPunkで熱いLondonを歌った作品だった。この曲には多くのPunk Bandが歌い込まれているが、本家本元のSex Pistolsが出てこない。
 その頃、彼らは、その筋にコンサート会場から締め出され、出演が禁じられていたから、誰の眼にも触れる機会が無かったためだ。

「Punky Reggae Party」シングル盤ジャケット.jpg

 俺は、あの夏には、もう、Sex Pistolsのシングル盤を漁りに西新宿まで出没するようになっていたのだったっけ。坊主頭に剃り込み入れて。Skinheadsの連中と何も変わらなかったなあ。40年前のこと。
 そして、今日という日は、結婚25周年でもある。こんなところに来てしまったわい。Really Lovely Lovely......
| 8音楽 | 16:20 | comments(0) | trackbacks(0)
1964年――The Goldhawk Social Club(1)
8月9日
1964年――The Goldhawk Social Club (at Shepherd’s Bush)(1)
 昨年はPunk London#40だった。1976年のSex Pistols爆発から40周年だったので、その関係のイベントが目白押しだったわけで、丁度、Londonに暮し始めていたために、シーンの中心にいた当事者たちの貴重な証言を聞くことができた。
 しかし、Londonの街を一通り歩いてしまうと、当たり前のことだが、Mick JonesもPaul CookもGlen Matlockも歩いているわけで、まぁ、そんなものだと納得すると、じわじわと欲求不満になる。
 (うーん)
 どうして彼らが出てきたのだろう――もう少し古い歴史に触れたくなってくる。
 (Punkの源流は何だろう)
 例えばそういうことだ。
 (どうしてPunk RockはLondonで火が着いたのだろう)
 少なくともアメリカではない。New York Punkはあったが、New Yorkはアメリカと違うから。
 古くは貴族階級のGentlman’s ClubからR&B、Teds、Punkに至るまで、族社会と言われるイギリス。会員制の個人クラブがその発祥で、とりもなおさず階級社会による分断が背景にあるわけだから、どうしても自分がどの族に入っているのか、その属性が大切になってくる。
 我が家から歩いて15分ほどの場所にある何の変哲も無い一軒家。地番で言うと、「205 Goldhawk Road, Shepherd’s Bush London」になるんだろう。
 これがShepherd's Bushの駅からなら徒歩で10分くらいかな、この一軒家の入り口右上に1枚のBlue Plaqueが貼り付けられて数年になる。

        The Who at The Gold Hawk Social Club  (1).jpg

 「Legendary Shepherd’s Bush Rock Band, The Who performed here at the site of the Goldhawk Social Club at the start of their career」
 (シェパードブッシュ出身の伝説的なロックバンド、ザ・フーはここ、the Goldhawk Social Clubに出演し、彼らのキャリアをスタートさせました)

 The Whoが誕生する直前、1963年の後半から1964年の前半にかけて、Shepherd Bushの地元の荒っぽい若者相手に出てきたバンドはThe Detoursと名乗った。1963年夏にはまだ準レギュラー格だったのだが、直ぐにバンドは人気が出る。
 1963年は6月7日、7月5日、12日、8月16日、9月6日、10月25日、11月8日、22日、29日に出演していることは分かっている。ここまで、たった9回である。
 この後、バンドは安定しないドラマーの座を巡って様々なメンツに声を掛けたりしてオーディションをした揚句、最終的にKeith Moonが加入する。4人のメンツが決まる瞬間までの最も大事なRock ‘n’ Roll Bandの黎明期にレギュラーで出ていた場所がここ。
 つまり、モッズの本当の聖地ってわけだ。

The Who Plays at the Goldhawk Social Club in 1965 (1).jpg

 年の明けた1964年は2月28日にThe Whoとして初出演した。ここから3月6日、27日まではThe Whoなのだが、この後、4月11日、17日、5月8日、7月31日まで、Clubに残っていた会計名簿にはHigh Numbers名義で出演したことになっている。
 この64年7月3日、High Numbers名義で発売された作品に「I’m the Face / Zoot Suit」というシングル盤がある。
A面はSlim Harpoの「I Got Love if You Want It」のCover。歌詞が闘志満々だ。

    I'm the face baby, is that clear
    I'm the face baby, is that clear
    I'm the face if you want it
    I'm the face if you want it, dear
    All the others are third class tickets by me, baby, is that clear

    I'm the big wheel baby, won't you roll with me
    I'm the big wheel baby, won't you roll with me
    So many cats down the scene, honey
    XXXX hardly see

    Wear ivy league jackets, white buckskin shoes
    I wear ivy league jackets, white buckskin shoes
    So many tickets down the scene honey
    They're like to blow a fuse

 この話は、実は、当然、あのバンドにも繋がっていくわけだ。というわけで、明日も続けたい。

Sex Pistols Anarchy Tour at Cleethorpe, 1976.jpg


追記
いよいよ密談も佳境に入り、8月下旬から9月中旬までの日程が決まってきた。辛いことですが、中に自分のことも入っとんねん。ウハハハハハハハ。
| 8音楽 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0)
○○と○○の間で。
8月8日
○○と○○の間で。
 昨晩は某所で密議。安保理決議と外相デビューと色々テーマはあったが、一人、大○○者がいて、大変だったぜ。○社と○融は似ていて、偽者が殆どだが、時々、凄い人がいる。
 世間の風はどっちに吹くか。吹いているだけまだましだって。 

20170709 The Sunday Times (2).jpg
| 10随想 | 14:57 | comments(0) | trackbacks(0)
備忘録――「ベトナム報道」(7)
8月8日
備忘録――「ベトナム報道」(7)
「ベトナム報道」[日野啓三著, 講談社文芸文庫]
 暫く現場からの報道を検証して、特派員記者の孤独な戦いと苦しみを追想してみた。共感するところが殆どとはいえ、アメリカ政府や社会の当時の様々なことが公文書を通じて明るみに出るようになった今では、全面的に賛成とはいかない部分もある。
 「フランス革命は血を流さなかったか。アメリカは流血なしに独立したか。明治維新は銃声はひびかなかったか」
 「したがって全面核戦争に至らない限りの国内革命戦は、論理的には承認しえないとしても、現代でも現実的にはやむをえないのではないかというのが私の偽らぬ気持ちだった。問題は国内戦の次元では明白に勝負のあった戦いを、強引に逆転させようとする無理にあるのではないか」

     National Liberal Club (1).JPG
  こちらは大英帝国の由緒正しき「NLC」の入会パンフレットよ。国会議事堂至近であり
  会員制の「クラブ」は年間活動イベントもあって、由緒と格式ではトップクラスだ。
  近付こうと考えたけど、ま、敬して遠ざかるのがアジア人のたしなみってところか。

 「その無理が戦いをいたずらに長びかせ、民主の犠牲をふやし、国土を焦土にする。要するに民族自決を認め、外国の干渉は排除すべきであって、たとえその民族がどのような政体を選ぼうと、それはその民族の責任であり、他国はそれによって国際政治上のマイナスになるとしても武力介入すべきではないという考えである」
 これは今やファンタジーにも見える。当時は“鉄のカーテン”の“冷戦時代”だから、共産主義国は内側に閉じて何をしているのか分からないという恐怖があったにせよ、表面上では自由主義陣営とは没交渉だった。だからベトナムが赤化しても直ぐ周辺も赤化するとは言えなかった、そういう時代である。
 今日では、アメリカ合衆国は反共の恐怖のため、国を挙げて20世紀の前半にナチス・ドイツ支援のために大量の資金を注ぎ込み第3帝国を育てた事実が明らかになった。当時からそのような国際的な政商はあったが、今は分かり易い仮想敵がいなくなった。
 表向きにはグローバリズムが進み、旧共産主義陣営の大国でも国際通商上のルールの中で主要なプレーヤーとして活動するようになった。
 しかし、民主化が実現されたと考えるのは間違いだ。選挙で票数の操作疑惑は拭えず、選挙権も認められない国もある。過去と訣別したと謳っているが、今度は金と利権でからめ手にして次々に発展途上国を影響下におく、見え難いオセロゲームに変わった。
 ゲームのルールが変わり、政治体制だけでは違いが見え難い。ところが、「女性の権利」、子供の「権利」、「人身売買」、「労働」、さらに「少数民族」、「LGBT」まで含め、権利が保護され、人権が認められている国は実は少ないこともまた事実。そうして、彼らにとってクリティカルな場面になると、国連安保理で拒否権をいとも簡単に発動する。

「ベトナム報道」(3).JPG

 日野啓三はそれでも安易な理想主義には陥らない。
 「難民の群やバラックの難民部落をみるたびに、リュックひとつで貨車につめこまれ、釜山の埠頭の石畳の上で震えて夜を明かし、博多の倉庫でムシロにくるまって寝た引揚げの屈辱の記憶が、つねに眼の裏に甦ってきた」
 「アメリカに負けた恨みが、自分の中に残っているとは思わない。むしろ私自身は日本が負けてよかったと思っている。われわれはフランスと同じように、負けたことによって逆に多くのことを学んだが、アメリカは勝ったことによって、ノーマン・メイラーが『裸者と死者』の中で鋭く指摘したように、何か貴重なものを失ったのではないか。その巨大な物質的実力と世界の“自由”警護の使命感の重みで動きがとれなくなっているように思われるのだ」
 これはアメリカ合衆国だけではない。覇権を競う大国に古今共通するものだ。
 日本のような国は、原子力爆弾を喰らった唯一の被爆国として、あるいは技術立国として、大国と発展途上国の間にあり、独自の方向を模索する意義はある。

     National Liberal Club (4).JPG
 日本は、神戸、横浜、東京、という順番に書いてあるんだけれど、俺は高倉健が東京の
 クラブに出入りしていたと前から承知しているのだけれど、どうなんだろうねえ。

 「工作員の公開処刑を、数メートルの近さで終始目撃したことは、非常な体験だった」
 「まだ少年のような工作員を銃殺する政府軍憲兵隊の、ことさら勿体ぶったうやうやしい儀式調に、私は血のにおい以上の吐き気を催したが、ちょうどこの銃殺が歩道の一角で行われたサイゴン中央広場の中央花壇には、ゴ政権打倒デモのとき殺された女子学生の銅像がたっていて、もし解放戦線が勝利を得る日には、この歩道の一角にいま野良犬のように射ち殺されたこの少年工作員の銅像が立つのではないかと考えた」
 「どのような勝利も栄光も償うことのできない血の重さ、そのような犠牲の血なしには進まない歴史そのものの、根源的な不条理が心にこたえた」
 21世紀も世界中で続くテロ。世の中、簡単に変わるものか。
 大英帝国さえ。ロシア、中東、中国から、大金が流れ込み、様々な勢力が入り込み、社会はギシギシ歪んだ音を立てている。開かれたはずの王室も変わらない。ふた昔も前の王女の死について息子たちが重い口を開き始めたが、古いお歴々は古傷を暴かれ、顔をしかめる始末。古今東西、王室なんてどこもそんなもの。
 主要プレーヤーは増えた。そして国連が機能不全に陥り、EUの理想さえ大英帝国の離脱で揺らいでいる。宗教と文化の対立という見え方。それで誰が漁夫の利を得るか。相対的に欧米の影響力が低下して、誰が喜ぶかを考えた時に、日野ら日本の特派員がその目で見た光景と同じく、今でも続く惨劇の向こう側にある構図は変わっていないことを考えたい。どの陣営が勝利しても、結局、「根源的な不条理」は残ることを。


追記
これから休みます。そいで、もう、オ・シ・マ・イ。さようなら。
| 10随想 | 07:21 | comments(0) | trackbacks(0)
東の顔役――The Small Faces。
8月7日
東の顔役――The Small Faces。
 こちらに来て、パンク系でピストルズ、クラッシュ、グラムのボウイ、さらに、ザ・フー、そしてこのスモール・フェイセズと、好きなバンドの絡むスポットは随分行きました。
 シスコのフッカー、ジョプリン、ヘンドリクス、CCR、ロスのドアーズまで含めると、俺もかなり顔が広くなった。有り難いことだけれど、それで何が何して何とやら。しかしそれで自分への突っ込みネタには一生困らへんで。
 土曜は鎌倉時代から営業しているパブでシーメウーク。その後で、スモール・フェイセズがイアン・マクレガンをバンドに引っ張り込む直前まで根城にしていたパブでビールを1杯。


20170805 Raskin Arms  (掲載).jpg

 チャック・ベリーの遺作、「CHUCK」のジャケットがデンマーク・ストリートのサックス店のシャッター代わりの板に大書されていた。こういう追悼はカッコイイ。彼こそがRock 'n' Rollを牽引したのだ。ちょっとグッときたね。
 分かっているヤツがこの街にもおるわねえ。彼の生み出したRock 'n' Rollがこの世の中を少しずつでも変えてきたんじゃけえねえ。大した男なのよ、この男は。

20170806 Denmark Street to 100 Club (掲載).jpg

 日曜はテムズを渡ってサウスから帰ってきた。ボウイ、ピストルズ、スモール・フェイセズ辺りに関係の深い場所まで再訪して皆さんにお別れをした。スモール・フェイセズは北千住だな。フーは中野という感じかな。
 スモール・フェイセズは東の街からやって来たのだけれど、さしづめ北千住に相当する彼らのホームタウンは今や南インドのケララ系の移民の人たちで一杯になってしまっている。彼らのアジトだった「Ruaskin Arms」ではインド系のお客たちがスヌーカーを楽しんでいた。
 西側のザ・フーの根城にしていたホームタウンは今や中東・アフリカ系の移民で一杯になっている。スティーヴ・ジョーンズが育ったシェパーズ・ブッシュ及びその近くのマーケットは、以前はカリブ系の移民が多かったのだが、今では中東系で一杯。

追記
そろそろ朝晩はめっきり秋めいて来ました。八月だからねえ。
 
| 8音楽 | 13:44 | comments(0) | trackbacks(0)
備忘録――「ベトナム報道」(6)
8月7日
備忘録――「ベトナム報道」(6)
「ベトナム報道」[日野啓三著, 講談社文芸文庫]
 もう一つある。アジア人として、社会の腐敗について下から鋭く目を配っている点だ。
 「現地体験のない人たちのベトナム論には幾つかの盲点があるが、その最も大きいひとつが、サイゴンの精神的腐敗の認識の浅さである。日本でも汚職はあり頽廃はある。だが後進国の支配層の精神的頽廃ぶりは、日本では決して想像できない。私はソウルでも表面だけアメリカナイズした特権層の精神的不健全さに、強い抵抗感を感じたが、サイゴンのそれもソウルに決して劣るものではないし、それ以上にすでにパリとジャングルに去っていったその残りカスの連中で構成されるサイゴン特権層のそれは、さらにひどい」
 「いまでも家庭では家族同士フランス語を使う上流家庭があるが、そういう表面だけの物質的、文化的特権層の民衆に対する感覚は、まさに奴隷の前では、裸体になっても羞恥を感じなかったといわれる古代ローマ人の貴婦人たちに似ている」
 「本質的に、彼らは自国の民衆を同じ人間と考えてはいない。ひとにぎりの支配層と、貧しい大多数の民衆の落差は、中間層の増大した日本の社会では想像もできない」
 「ソウルでもそうだったが、彼ら少数の人たちというのは、一体どこからあれだけの金が入ってくるのだろうか、いまもって私は理解できない。それに援助体制下にあっては、資本家は製品の質の向上、経営の合理化といった正当な競争に打ち勝ってゆくことが第一義なのではなく、政府高官からどれだけ援助物質と援助資金の枠を割りあててもらえるかが最重要な仕事の内容である」
 「彼らは徹底的に働らかない。女たちはたとえどのような方法であろうと、宝石と最新流行の洋服を買う金を男たちに求め、家を焼かれた難民がいくらあふれようと、夜毎着飾ってパーティーを歩きまわり、親の特権で徴兵を逃れた息子たちは、うまくパリに行き、あるいはスポーツカーをのりまわし、小学生の娘たちが運転手つきの車で学校まで送り迎えされる」
 「要するに自分たちの社会を、人々との連帯のうちにつくり動かし改善してゆくという観念そのものが存在しない」
 「それは理屈ではなく、まさに骨のズイまで滲みこんだほとんど生理的・遺伝的な感覚の問題である。極言すれば、そういう感覚は死ななきゃ直らないだろう」

      世界を旅した Book Cover. (3)JPG.JPG

 日野さんによれば、解放戦線のテロは2種類あるそうだ。
 「一つは地方での腐敗役人に対するテロ、もう一つはサイゴンその他の都市での、米軍施設および米軍人の出入するバー、高級レストランに対するテロである」
 「信頼できる筋からきいた話では、政府側の村の警官や村長の援助物資横流しや税金のごま化し、その他の明らかな不正行為が目にあまる場合、ある日、手紙が舞いこむ」
 「『お前はこれこれの不正を働いているが、猛省を促す――解放戦線』というわけで、それでも不正をやめない場合、一ヶ月ほどして二度目の警告の手紙がくる。それでもなお直らないときは、ある夜、その警官か村長は何者かにのどをすっぱりと切られて殺される。時には死体の傍に罪状を列挙した斬奸状が立てられている。村民たちはいい気味だと内心歓迎し、たとえ犯人を知っていても決して口外しないという」
 これは、「義賊」でなくて何だろう。当初こそ「解放戦線」は古い言葉で言えば、社会の腐敗に憤った「義賊」であったのにアメリカの介入で「赤化」してしまった。日野さんに質したら「私はそう判断した」と答えるだろう。
 今の日本人駐在員・特派員には、人にもよるが、社会の腐敗に気付けない人がいる。西欧流の理屈しか知らずに育ったことと、自由な社会しか知らないから選挙権さえも与えられていないことに気付かないで帰国する人がいる。正邪二律という西欧の教条主義では、混沌とした社会に放り込まれても、仮定すら立てられない。
 「『私はこう捉えこう判断した。あなたもまた私の記事に対して判断してくれ。そしてあなたの判断もまた絶対的ではないのだ』と私はバナナをかじりながらタイプを叩いたと思う」
 この視点なら信用できる。
 「後進国」と書いているのは半世紀前だから。日野さんの目は確かに対象を捉えていた。何もサイゴンだけではない。某国でも、Siciliaでもそうだった。19世紀から20世紀初めのSpainでもそうだったかも知れない。
 「最後に心に残ったのが、歴史のきびしさ、つまり腐敗無能政権の打倒、援助従属体制からの脱却、土地改革、民族自決といった善き意図を実現しつけようとしても不可避的に失敗して子供たちをまき添えにし、あるいは故郷の村をナパームの火の海に焼きつくされるという事態にまきこまれざるをえない歴史そのものの素顔の認識であった。こうした経験は私一人ではなかったろう」
 しかし、同じ時期、同じ土地にいても、何も気付かずに過ごす人もいることもある。彼らは自らの良心に照らしてよく戦った。同胞の先達として心から敬意を表したい。


追記
記したように、先週から密かに色々と音楽業界各方面へのお別れ行脚を開始しましたワイナリー。
そうこうする内に関西方面からお座敷が掛かった。ウーン、コイツは悩むところだが、まぁどうしたもんかいなぁ。何となく時間切れになるんかなぁ。
| 9本・記録集 | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0)
備忘録――「ベトナム報道」(5)
8月6日
備忘録――「ベトナム報道」(5)
 「ベトナム報道」[日野啓三著, 講談社文芸文庫]
 著者は主観報道について、態度は2種類あると記す。
 「刻々の現在の新しい展開に対し、もはや新しい疑問も驚きも不安も感じない閉じられた貧しく傲慢な態度」
 「過去の体験と印象を背負いながら、眼前の事態に鋭敏に目と全神経を開いて、不断に自分の予感を検証し、自分の論理を補足し修正しつつ、つねに自分の観念とイメージをつくりつづけていく態度」
 「同じ主観的要素でも、後向きに閉じられた主観性と、前向きに開かれた主観性とがあり、この前者の硬化した主観性は言葉を単なる貧しい伝達の手段にしてしまうのに対して、後者の柔軟に開かれた主観性こそ主体と状況とのつねに生き生きとした相互作用を確保する」
 「その意味で、言葉の問題に対する鋭敏な誠実さというものは、決して報道の技術の問題ではなく、報道者の基本的な態度の問題でもあろう」
 「さる女性ジャーナリストがサイゴンにきて早々、喫茶店で私たちに『あんた方はサイゴンをまるで台風の中か地獄の入り口のように書き立てているけど、何よ、全然平和そうじゃない』と平然といったとき、私はほとんど本気になって怒った。
『一体、ここにきて何日目だ』
と私は怒りをおさえてきいた。
『もう三日になるわ』
『たった三日で生意気なことをいうんじゃないぜ。あんたは、何がわからないかさえ、まだわからないんだ。いま、うやうやしくあんたにアイスコーヒーを運んできたあのおとなしそうなボーイが、ベトコンのテロ工作班の隊長でないと、誰が保証する。いまこうやってぼくらが壁のかげのテーブルに坐ってるのも偶然じゃないんだ。あの通りの向う側のホテルは、アメリカ人ばかり泊ってるホテルで、そこがやられたときの爆風の方向を、ぼくらは無意識のうちに考えて、窓際に坐らないんだ。一週間前に、あのホテルの裏口にとめてあった自動車の中に二百キロの爆薬を仕かけてあったのが発見されたという情報をきいたばかりだからな。もちろんそんなことは日常茶飯事だから、ことさらここの人たちはさわぎはしない。ぼくらもいちいち打ちはしない。何も知らないあなたにはさぞのんびりした夕方の街にみえるだろうがね』」

      「ベトナム報道」(5).JPG

 下村満子か松井やよりかは知らないけれど、テロの街で「平和」を振りかざして演説をぶつ光景が目に浮かぶ。先発の男性特派員諸兄にはさぞや迷惑だったことだろう。
 「不安のままに、とにかくどんな形でも戦争だけは止めてくれればいいと強調しすぎるとき、私はふと釈然としないものを感じる。それはあまりに利己的で感情的にすぎないか。戦争とは一つの天然現象ではなく、双方ともに戦うべき理由と意義があり、そのために血の犠牲をすでに何年にもわたって賭けてきたものだ」
 「この点についてあくまで第三者的な、甘い幻想は抱かない方がいい。まして第三者的立場からの“調停”のつもりが、実は一方の側の間接援護射撃となるような愚は避けるべきだ」
 当時、特派員諸兄はタイプで原稿を打った。19世紀末の美しいサイゴン中央郵便局に原稿を持ち込んで東京に打電した。原稿はローマ字打ちだったと知った。パリ中央のオルセー美術館を模したあの郵便局に日野啓三も開高健も日参していたのだ。
 「彼は英語は達者でなく、私はフランス語が片言しかできないから、複雑なことをしゃべることはできない。しかしそういう私の気持ちは何か通じるようだった。私だって東京に帰れば、二百ドルにもならない安月給で徹夜勤もあるんだ、同じ身の上さ――と思いながら『大変だな』といい、買ってきたばかりのアメリカ製ヤミ煙草を一個差し出した。メルシーといって素早い手つきでさっと受けとりながら、また力なく親しげに笑った」
 「欧米人の特派員たちには、決して彼はそのような顔をみせない。白人特派員たちはこの貧相な男を、電話機か何かの機械のようにしか見ない。アメリカとベトナム人の心のくい違いは、こういうところにもある」
 郵便局近傍にGraham Greeneが「静かなアメリカ人」を書くために滞在したホテルがまだ残っている。共産党シンパのMI6メンバー。晩年まで児童・少女買春癖を止めることができなかったイギリス人の大作家。Marguerite Durasの「愛人」とは違うが、若かった彼は夜毎ベトナム人少女を買ったかも知れない。
 俺は、日野さんの哀しみが分かる。彼は自分をアジア人だと分かっていた人だからだ。


追記
いよいよ終わりの始まり。カウントダウン開始でありんす。西のフーに東のフェイセス。行って来ました、両者共。思い残すこともこれでもう無いか知らんなぁ。
| 9本・記録集 | 15:17 | comments(0) | trackbacks(0)
Jeanne Moreau....
8月5日
Jeanne Moreau....
 フランス映画は75年位までが好きで、その後は、好きな映画は数える位しかない。俺にとってフランス映画の黄金時代は大体50年代から60年代半ば。その中でも重要な映画、好きな映画に出たいたのがJeanne Moreau。
 彼女は意志が強過ぎて、俺には他の女優のように観賞するオンナのようには見られない。女友達ならまだ安全だ。昔の恋人くらいならまだいい。これが抜き差しならない恋人とか愛人とか女房だったら大変なもんだわね。
 昔、B.B.が動物愛護に熱中して発言がトンデモない物議を呼んだ時には、彼女はB.B.のことを哀れんだっけなあ。もてはやされて頭の弱いオンナはダメだわ、とかいうニュアンスのことを言った。キツイねえ。だけど、好きだったですわねえ。

   Jeanne Moreau.jpg
| 10随想 | 16:02 | comments(0) | trackbacks(0)
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