岡田純良帝國小倉日記

加藤嘉八郎商店「奥田シェフスペシャルセット」届く。
7月22日
加藤嘉八郎商店「奥田シェフスペシャルセット」届く。
 奥田シェフの災害復興支援スペシャルなのよ。大山酒造の被害は甚大だったらしい。先週の末に届いたんだけど、この酒のお陰でいいことがあるわい。
 先週から急に我が家の食卓は賑やかになったわけよ。刺身、煮物・焚物、焼物。魚介も魚介で、昨日は、三重から岩牡蠣が届いたので、早速呑りました。美味かったねえ。

   加藤嘉八郎商店「奥田シェフスペシャルセット」(2).jpg

 こちらは吾左衛門鮓の極上鯖鮨だった。アクビ娘が仕事で米子に行って買って来てくれた。
 元々廻船問屋。その後、旅館「米五館」。山陰線開通で駅弁販売に。「吾左衛門鮓」が誕生したというわけだ。
 ウーン、鳥取方面も美味そうな店が目白押しだな。しかし今年は酒田鶴岡に照準を合わせておくかというところ。

米吾鯖鮨 (2).jpg

 滋賀県から届いた天然稚鮎。これがまたゴッツイ美味いわけですらい。「十水」と合わせると、異常な美味さです。この手の日本酒に出会えたのは、ショウシンショウメイ、55歳にもなって、望外の喜びでした。料理が美味い! 

     20190720 滋賀天然稚鮎 (1).jpg


追記
傘をささずに外出できたのだけどどうも体調が良くないね。それもこれも湿度のせいだなあと思う。
| 7喰う | 12:24 | comments(0) | trackbacks(0)
今週の一冊――田中角栄と佐藤昭子(壱)。
7月22日
今週の一冊――田中角栄と佐藤昭子(壱)。
 「決定版 私の田中角栄日記」[佐藤昭子著, 新潮文庫]
 我が家は田中角栄(1918-93年)の越山会とは無縁では無いかも知れない。角栄とラウンドしたゴルフ場での集合写真もあるし、俺が20歳過ぎの頃には実家にも行ったことがある。
 また、ここでは詳しくは記さないが、「寺泊」や「越後つついし親不知」ではないけれど、水上勉(1919-2004年)の描いた世界には、短期ではあるが、俺は身を置いた体験がある。
 昭和42年の新春から44年の春先まで、俺は若狭湾の最深部・敦賀で暮らした。今とは、気候が全く違っている、雪深い時代の敦賀である。

日米首脳会談(田中角栄とRichard Nickson)@Hawaii 昭和47年8月。.jpg

 「裏日本と言うな」と言われたけれど、世間では「裏日本」という言葉が通用した昭和には、若狭から北は、冬場の日照時間が短く、雪に閉ざされていた。
 昭和時代には31名の犠牲者を出した三八豪雪(1963年)、14名が亡くなった五六豪雪(1981年)といった異常気象の年は敦賀でも150cm、200cmに達する積雪量になった。異常な豪雪の年だけでなく、その合間も、例年、雪は多かった。今なら豪雪と呼ばれるような積雪量があった。
 平成を通じて豪雪は少なくなっていったが、昨年は久々に福井豪雪と呼ばれる積雪量を観測した。国道では通勤のドライバーを中心に1,500台が立ち往生して、雪掻きをする重機で作業をしていたオペレーターが過労のため心肺停止状態で見つかった。雪で立ち往生した車で、一酸化炭素中毒で亡くなっていた方も複数いた。
 豪雪とはいえ、福井市内で130cm。昭和時代の2つの豪雪では、三八で230cm、五六で約2mである。40年近く130cm級の降雪は無かったということは、積雪量は減る傾向にあるし、豪雪に慣れていない人たちが無理して仕事に出たことで被害が大きくなったという指摘もある。
 昭和の終わりにかけて、関越自動車道(1971年)、上越新幹線(1982年)、そして上越まで伸びる上信越自動車道(1980年)が引かれたのは田中角栄の影響力は大きかった。東京と「裏日本」とが冬季でも自家用車で行き来が可能になり、積雪も漸減したことになる。
 水上勉の描いた「越後つついし親不知」は、三八豪雪の翌年、昭和39年(1964年)に映画化された。主人公の若妻の名は「おしん」(佐久間良子)。夫(小沢昭一)は京都・伏見の酒蔵へ若妻を置いて出稼ぎにいく。雪深い越後の村で、美しい若妻の上に起きた事件が悲劇を呼び起こす。誰しも想像がつく話で、昔はどこにでも転がっていただろう哀話でもある。

ゴルフ場の田中角栄(昭和50年代)。.jpg

 しかし、今や越後にも雪はそれほど降らない。しかし、豪雪で社会が分断される感覚が消えないのは、薄く降り積もった雪が、暴風で吹き上げられ、吹雪く「地吹雪」が頻繁に起きるからだろう。吹雪の中で似た悲劇が今も起きるのかどうか、俺は知らない。
 それもあってか、令和元年の元旦に、大阪の四天王寺の境内の古本市で「若狭路」[水上勉・文, 小原直久・写真, 今駒清則・写真, 淡交社]を買ってしまった。懐かしさに負けた衝動買いである。
 昭和時代の終わりの昭和60年(1985年)に映画化された「夜叉」は敦賀が舞台だが、これも大阪の繁華街のヤクザ者と雪国だった敦賀の漁師は一本の線で結ばれていて印象深い。今でも雪国の事情は体験的に感じられる。僅かな期間でも豪雪の若狭の暮らしを知ったからだ。かれいとハタハタの臭いが染み付いた蓆。練炭の燃える臭い。すっかり今では変わったが、鉛色の世界から見れば雪の無いカラフルなネオンの大都会は遠かった。
 田中角栄と、その事務所の金庫番だった佐藤昭・後の昭子は、越後の同郷であることが何より大きい。そして、戦中から戦後を生き抜いた同志であったことを分からなければ、この2人の関係を理解することは難しいだろう。
 本稿、明日も続けたい。


追記
本日から田中角栄(1918-93年)五連発かな。だけど、今はまた、朝鮮半島の情勢も含めるとちょっと評価は変わってるところなんだけどね。日中国交を急ぐ余り、半島との件を後藤田なんかに任せっきりにしたのは末代まで残る禍根になっているわけよ。ドヌーンでありまするなあ。

追記の追記
立憲民主党が雇う第一等だけど、玉木の国民民主党と別れるのではないか知らん。東京、大阪、京都、兵庫では負け続け。「年金問題が思ったよりも響いていない」ったって、もう、そんなに有権者はバカじゃないんだっての。
楽しみなのは流動化して大連立が起きることなんだけど、これから夏の密談を経て、9月初旬辺り危ねえぞ。
| 9本・記録集 | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0)
「Beside Bowie」――Mick Ronsonとはナニモノだったのか(下)。
7月21日
「Beside Bowie」――Mick Ronsonとはナニモノだったのか(下)。
 昨日からのMick Ronson(1946-93年)の伝記映画の話の続きだ。
 2017年の秋にはRegion FreeのDVDが出回っていたので、わざわざ黄金町の映画館、「Jack & Betty」に行くほどのことはなかった。それでも、わざわざ足を運んで観たのは、メインの人たちが死んでしまっていて、それに絡む知人も死んでいたからかも知れない。
 だからこそ、このドキュメンタリーでは、一部のナレーションを担当しているDavid Bowie(1947-2016年)もすでにこの世になく、主役の2人は死んでしまった後の公開だから、編集上では真偽がよく分からないところがあった。
 Spiders from Marsの活動期間が短かった理由が本篇で何となく明かされたのは発見か。当時、David BowieのManagerだったTony Defries(1943年-)が取った、David Bowieと彼以外のSpidersたちとの報酬面のアンバランスの問題が問題を引き起こしたようだった。

David Bowie (4)。.jpg
  David Bowie、Iggy Pop、Lou Reed。この3人の向こう側にいるオトコがTony
  Defries。Iggy Popが生き残っているのは今も俺には信じ難い。

 元々、David BowieのManagementはKen Pitt(1922-1019年)という男がやっていて、この人は、69年の「Space Oddity」までは良かったのだが、Tony Defriesの登場でDavid Bowieから首を切られる。
 David Bowieは「Waiting for My Man」を早くからカヴァーしていたが、これはNew YorkからVelvetsのアルバムを持ち帰ったKen Pittの功績だ。そういう話が85年に出版された「Bowie:The Pitt File」にも示唆されていた。
 それもあってかDavid BowieはSpiders from Marsと渡米後、間も無く、New YorkでLou Reed(1942-2013年)と共に、「Transformer」の制作に関わり、「Vicious」や「Walk on Wilde Side」などを世に出した。
 Lou Reedの存在は、それまで地下王国の帝王という趣に留まっていたが、この作品では激しいGuitar Soundを取り上げて、全英・全米チャートの双方で浮上することに成功した。本作も、ほぼMick Ronsonが制作したという証言が次々に飛び出す。
 実際、この作品で、Lou ReedはRock 'n' Rollというのか、激しいロック色の強い方向に暫く突き進んでいく。
 「彼の言葉は訛りがキツくて分かり難く、5回聞き直しても分からなかった」
 「グレイな感じにしたいとか言って、Louの言葉の意味が分からなかったよ」
 Mick Ronsonは曖昧さを嫌うタイプで、コンソール・デスクに陣取って実際の音を触ることで線を引いていく人だったようだ。

David Bowie (2)。.jpg

 同じような伝で、David Bowieのキャリアを変えたというのがこの映画の主題だろう。それまでFolkyなGlam Rock MusicだったDavid Bowieと「Space Oddity」から、Hard EdgeなElectric Guitarを全面にFeatureしたSoundに変貌させて、David Bowie自身を決定的なRock Starに変えた――というわけだ。
 Mick Ronsonの絡んだ作品は「The Man Who Sold The World」(1971年)、「Hunky Dory」(1971年)、「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」(1972年)、「Aladdin Sane」(1973年)、そして、「Pinups」(1973年)までになる。
 Mick Ronsonにとって、1971年2月のRound Houseでの初めてのコンサートでは、David BowieのGuitarが見えるように右隣に立った。
 「曲を全然知らないから、コードが分かるようにね」
 本篇タイトルの「Beside Bowie」の由来か――それから最後の「Pinups」までは2年半。
 73年7月の「Hammersmith Odeon」でのツアー最後の公演では、David BowieはZiggy Stardust and the Spiders from Marsは今日でオシマイだと客席に語りかける。バックのメンバーには寝耳に水だった。この辺りにはギャラに絡んだ根深い怨恨があったようだ。
 翌年出た「Diamond Dogs」はすでに「Ziggy Stardust」の公演では演奏されているそうで、Mick Ronsonが制作に絡んでいたとの証言がある。面白いのは「Diamond Dogs」のツアーからMick Ronsonの後釜に座ったEarl Slick(1952年-)の証言だ。
 「ペンキを塗り直したばっかりの俺のGuitarをガンガン使ってさ」
 Mick Ronsonが現われ、Earlの楽器を荒っぽく扱ったことを根に持っているようだった。だがDavid Bowieの指名した後任ギタリストは誰であれMick Ronsonには気に触ったはず。この辺りの微妙な好悪の入り混じった感覚はファンにはたまらないところか。
 ともあれ、Earlは今ではRich Kidsを経たGlen Matlock(1956年-)といいコンビだ。

追記
その後釜に座ったEarl Slick(1952年-)も来週ミニ・ツアーで来日するのかな。近頃はこんな地道な活動も還暦過ぎのバンドマンの間では定着している。今回はインタビュー取れるかどうか知らないけど、彼にもそのMick Ronsonの人の当たりだとか、Lou Reed(1942-2013年)の語った朴訥頑固なNorth Englandの一徹者の感じっての聞きたいところだ。

追記の追記
雨上がり決死隊とかロンブー1号2号だとか、日本を留守の内に出てきた芸人たちなので、京アニとは違って、完全に我が家では話題がスルーしてしまってますわい。むしろ、芸人に声を掛ける方の犯罪者集団ってのは、母体はヤクザなんだろうということ。暴対法で闇に潜った人たちは、やっていることは変わらないということなんだろうか。だが昔は全国の興行では表も裏も手助けするということで繋がりがあったのが、今ではなくなっているということかね。吉本興業も自分たちの過去の闇をかなぐり捨ててホワイト企業への転身に躍起になっとるということですわいな。
これから投票。その後、泳いで、某所で生ビール呑みながらナニ観戦。大相撲ではないところがドヌーンだわいね。
| 8音楽 | 06:48 | comments(0) | trackbacks(0)
蝉の鳴かない夏――Singapore Laksaも旨し。
7月20日
蝉の鳴かない夏――Singapore Laksaも旨し。
 今年はまだ蝉の鳴く声を聞いていない。ようやく一昨日辺りから虫の鳴く声に気付いたのだけど、それまで鳴いていたとしても、気付かないほどだった。
 記録的に雨の多い梅雨だったのかな。梅雨寒が続いて、長袖にジャケットを着たりしていたけれど、そろそろ半袖の出番か知らん。
 時々、Singapore Laksaが喰いたくなる。この麺は不思議なことに伸びない。それでビール呑んだり、焼酎呑んだりしているのだった。
 そういや、昨夜は「ぼるが」に行った。一軒目はなんだかこじゃれたバルで、ケツの置く場も無いような店だった。
 「ぼるが」では「桃川」のどぶろくを呑んだ。二階のトタン屋根には猫はいなかった。
 「あたし1年になりますけど、猫見たことありません」
 店の女の子が言ってたっけ。「ぼるが」に地域猫がいないなんて、なんじゃいな。 
 35年以上も前から通ってんだぜ。考えてみれば、高校時代に通っていたあの店が5年ほど前に潰れてしまったのだから、俺のジンセイの中で最も古い店になったんだろうな。

20190715 Singapore Laksa (1).jpg

追記
さっきジムに行ったら蝉が鳴いてたな。今年はじめて聞いたよ。7月20日っての、遅いねえ。
| 10随想 | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0)
「Beside Bowie」――Mick Ronsonとはナニモノだったのか(上)。
7月20日
「Beside Bowie」――Mick Ronsonとはナニモノだったのか(上)。
 Mick Ronson(1946-93年)はファンの間では「Ronno」と呼ばれていたことも知らなかった。
 93年に闘病生活を送っていると報じられていたMick Ronsonが死んだ時は、知り合いの女の子は週末を自分のアパートで泣き続け、泣き腫らした顔で事務所に現われた。
 「ミック・ロンソンが死んじゃうなんて」
 そう言ってまた泣いた。
 彼女は、城之崎に昔の彼氏がいて、彼らは1980年代初頭の高校時代、David Bowie(1947-2016年)の大ファンだったと語っていたっけ。
 「だけどその友だちも」
 呑むと男の話になって、結局、しょっちゅう泣くので、大丈夫か知らんと心配になったものだが、David Bowieが亡くなった時には、儚いもので、彼女は長い闘病生活の後で、何年か前に世を去って、すでにこの世の人ではなかった。

  David Bowie (1)。.jpg

 生きていれば、それこそ大泣きしただろうけれど、死んでしまってはどうしようもない。Mick RonsonもDavid Bowieも、2人は共に彼女と同じく癌で亡くなった。癌は先頃まで死病だったけれど、今では随分その状況も変ってきている。David Bowieほどの資産家も、癌で死んでしまうのは、定期的な検診を受けていなかったからかどうか。
 我が一族は癌で早ければ50代、遅くとも60代で死ぬと決まっていた。意外にも父親はそうでなかなった。癌で死の淵にいたが、術後、持ち直して、原発性の肝癌から生還した。術後、ほぼ30年近く生きたのだから、癌は乗り越えたと言ってもいいだろう。
 これも定期的な検診で早期発見ができたからだった。しかし、1年に1度検診を受けても、検診直後に癌を発症した場合、翌年の検診では手遅れという悲劇は、今も起きることで、その時には諦めるしかないというケースもよくあることも知っている。だからといって、検診をやらない手は無いだろう――それだけ俺が検診に拘るのも理由はある。
 Mick Ronsonの死後、追悼コンサートが開かれて、Glen Matlock(1956年-)が出たことは知っていた。96年のSex Pistolsの再結成の前の時期で、Johnny Rotten(1956年-)とは、互いに自伝で罵り合っていた時期でもあった。

   David Bowie (3)。.jpg

 Sex Pistolsを脱退して組んだRich KidsのアルバムのProducerにMick Ronsonを起用したくらいだから、Glen Matlockはよほど好きだったんだろうと想った。その一方では、Glenが元々BassistになるきっかけになったSmall FacesのRonnie" Lane(1946-97年)が、当時は長い闘病中で、MS(Multiple Sclerosis)と呼ばれる多発性硬化症で苦しんでいるのを知っていたからだとも想った。
 「『人生にチャンスは1度だけだぞ』とMickは言ったんだ」
 Glen Matlockは回想した。
 「PistolsからRich Kidsという場面で、彼はボクを励ましてくれたんだ」
 Glen Matlockらしい表現だと想ったが、Sex Pistolsと違うカラフルで明るいポップスのセンス、激しい2本のGuitar Soundには、Mick Ronsonの力が与っていたのかと改めて感じたことだった。
 彼は、England北方の東岸の街、Kingston upon Hullの出身だ。David Bowieらの命を受けて昔のバンド仲間が探しにいくと、既にバンド業界から身を退いて庭師をやっていて、Rugby Stadium(KCOMだろう)の芝生の手入れをしながら白線を引いていたそうだ。
 長髪で倒錯的なファッションに身を包んだ時期もあったが、本篇を通じて、Mick Ronsonには、彼と同じくEngland北部の出身のBrian Ferry(1945年-)とも通じる、男らしさとか、男振りといった男性的な美学が感じられるようになった。


追記
昨夜は寝苦しくてシャツを脱いで蹴飛ばしていた。これからジムに行って泳ぐツモリ一発マンガンクロムカッパドキア。
| 8音楽 | 08:26 | comments(0) | trackbacks(0)
ホロホロ鳥もWailers。
7月19日
ホロホロ鳥もWailers。
 昨日はピーズのハルが食道がんで闘病するんで暫く活動を休止する話の後で、周囲で関連の話が飛び交っていた。一方で、京アニの話なんかがあって、重苦しい気持になっちまうわけだ。
 人に対する憎しみってのも、二・二六事件のような感じがありますね。その人間を憎んで殺しても詮方無いのに、テロリスト本人は、一方的に思い込んで憎んでしまっている。どうしようもない負の連鎖。
 犬養毅なんてのは、気の毒といえば気の毒だった。
 はるが早く復帰できる日が来るといいと思う。俺の同世代では、力のある、しかしインディーズな男だからねえ、この年齢でへこたれては俺が困ってしまうわい。
 何しろ、80代でシスコのFilmreの場内を沸かしたJohn Lee Hookerだとかの雄姿を観てますからね、70代半ばだったRuth Brownのカッコイイ女番町の姿も覚えているからね。
 ここまできたら、やり続けること。
 シャシンは珍しく舎弟から送られて来た最近ゲットしたブツ。ホロホロ鳥もWailers。
 諸兄姐、果報は寝て待て。はる――負けるな、P仙、ココニアリ、ですらい。

20190718 舎弟’s Wailers & Pebbles.jpg
| 8音楽 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0)
君や知るや「(Love is Like A) Heat Wave」B面の曲(下)。
7月19日
君や知るや「(Love is Like A) Heat Wave」B面の曲(下)。
 昨日の続きでMartha Reeves & The Vandellasは「(Love Like A) Heat Wave」は一般に知られていても、「A Love Like Yours」は知られていないという話。
 日本では「(Love Like A) Heat Wave」のB面というより、「A Love Like Yours」はまるで演歌のように歌い上げるIke & Tina Turnerのヴァージョンでばかり知られている。
 アメリカでは、Dusty SpringfieldのBoogie Beatも知られていて、これが隠れた名曲で、Three DegreesのようなFunk Bandのノリでブチかましてもカッコイイだろう。
 しかし歌詞はチョロイ歌詞ではないのだった。

「A Love Like Yours (Dont Come Knocking Everyday)」シングル・ジャケット(1963)。.jpg

   「A Love Like Yours」
   「I broke your heart and I made you blue;
   Instead of hurting back, you said, "I love you..."
   And every day, you won my heart
   And my love for you shall never part...

   You have such an understanding way
   And I appreciate you, believe what I say
   'Cause a love like yours don't come knock, knock, knock, knocking
   Knock, knocking every day...
   No, a love like yours don't come knock, knock, knock, knocking
   Knock, knocking every day...
   It's the little things you do that mean so much, so very much;
   (Consideration) I never knew
   That is, until I met you... believe me, baby;
   You made my life complete
   And I know I'm gonna love you all my life;
   You can believe me - I'm gonna hold on tight!
   'Cause a love like yours don't come knock, knock, knock, knocking
   Knock, knocking every day...
   No, a love like yours don't come knock, knock, knock, knocking every day...
   No, darling... not every day」

       「A Love Like Yours」[Martha Reeves and the Vandellas, Gordy, 1963]シングル・ジャケット。.jpg

 ソウル・ファンにとってはIke & Tina Turnerのヴァージョンが全英チャート入りした大ヒットになったこともあって、あまりオリジナルは馴染みがない曲だろう。後にSonny and CherやThe CatsがカヴァーしたのもIke & Tina Turnerの歌い上げヴァージョンだ。
 1964年にはJamaicaのEric MorrisがBlue Beatのヴァージョンでカヴァーしているが、こちらの方が、本家本元のMartha Reevesの歌ったオリジナル・バージョンに近い。軽く歌っているようだが、歌詞が渋く、軽く歌って流す方がカッコいい。
 「Heat Wave」のオリジナル・シングルが発売されたのは日本では昭和38年になる。当時、日本の歌謡曲にも、アメリカのR&Bの影響があった。
 それもそのはず、坂本九(1941-85年)の歌う「Sukiyaki(上を向いて歩こう)」が出たのが1961年。One Hit-Wonderではあるが、アメリカのチャートでNO. 1となった、日本人が書いて日本人が歌った曲はこの曲だけだ。
   「上を向いて歩こう」
   「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
   思い出す 春の日 一人ぽっちの夜

   上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて
   思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜

   幸せは雲の上に 幸せは空の上に
   上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
   泣きながら歩く 一人ぽっちの夜
   思い出す 秋の日 一人ぽっちの夜

   悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに
   上を向いて歩こう 涙がこぼれないように  
   泣きながら歩く 一人ぽっちの夜 一人ぽっちの夜」
 オリジナルが一番に想うが、東芝音工の誰の手になる演奏なのかさえ分からない。
 「A Love Like Yours」は昨日も書いたように、「the Funk Brothers」(Richard "Pistol" Allen(D)、James Jamerson(B)、Joe Hunter(P)、Robert White(G)、Eddie Willis(G)、Andrew "Mike" Terry(S)らによるモノと、それでも四半世紀経って演者が確定されている。
 近年、国連ではEUが主導でSDGs(Sustainable Development Goals)が叫ばれている。大規模に石炭やダイヤモンドを採掘してきた業者はたちまち悪者。コーヒー豆業も密林を切り開いた悪徳業者のようにされた。過去数百年、乱開発で得た資金は還元せず、むしろそれを蓋い隠さんがための新たな再投資がSDGsだったりする。過去の自分を棚に上げ、業者をダメダメだとイジメているようなもの。列強の悪しきメカニズムは息を吹き返した。
 だが、音楽で搾取した過去は隠せない。80年代以降は、Rock and Roll Hall of Fameを通じ、彼らは少しでも対価を得るべきだった人々・遺族に還元させようと努力している。有色人種の名誉回復への努力だけは認めたい。
 「上を向いて歩こう」は、作詞は永六輔、作曲は中村八大で有名だが、演奏者名は未だにクレジットされていない。我々も、そろそろ先人への敬意を示す姿勢は見習うべきだろう。


追記
京アニ、どうなんだろ。あまりの犠牲者の数に声も出ない感じがありまする。

追記の追記
南アフリカの某所には、Shanghaiされた中国人ではなく、20世紀初頭に集団で拉致されて、炭鉱労働者として奴隷になったマレーシア人の末裔が暮らす街があるわけよ。そういう街そのものが、いわば、白人の歴史遺産というわけ。罪深いことですわな。その罪深さの後ろめたさがSDGsだったりするわけだろ。まぁ、日本人も加藤典洋に言わせりゃ悪辣の限りを尽くした大悪党民族ということなんだろうけれど、彼の見立ても、結局のところ、未来が無かったな。
小僧の神様を描いた志賀直哉(1883-1971年)に、職人の手の話を描いた小林秀雄(1902-1983年)がナウなヤング時代に私淑した辺りに、実は我々日本人のあるべき精神の故郷みたいなものがあるのではないかと、最近しきりに直観しておるわけよ。菊池寛(1888-1948年)のお陰でね。ドヌーンであります。
| 8音楽 | 06:25 | comments(0) | trackbacks(0)
ヤルタ会談ならぬコーナン会議開催さる。
7月18日
ヤルタ会談ならぬコーナン会議開催さる。
 ナニがどうしたのがハンナンだったのだけど、昨晩は、一字違いでコウナンなあらぬコーナン会議が開催されたのだった。ウハハハハハハハ。
 ノッケから、アムステルダムのスコーピオンズだとか、シドニーのなんちゃらとか、そーいう単語が飛び出して、山部善次郎だとか、Keith Richards(1943年-)だとかいう話になったわけよ。
 「これは、まぁまぁかな」
 ストリート・ノイズも、この程度の評価なんだわ。内容よりも、市場での流通価値の話でさ。参ったねえ。
 博多の恐るべきロンゲのシングル・ディスク・クレイジーDJの話だとかね、参ったよね。
 まぁ、色々あったけど、俺は音源の人じゃないからね、お互いに違う道の人間だったからさ、良かったんだよな。
 博多レコード・コレクター、近日号を待て。さらに、彼の1億円コレクションをどう扱うか、という話になってさ、遠く愛知県一宮から駆け付けたアナザーKチャンと共に、屠殺場の夜はふけたわけよ、諸君。

「Street Noise」初盤25cmジャケット。.jpg
| 8音楽 | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0)
君や知るや「(Love is Like A) Heat Wave」B面の曲(上)。
小倉日記’19(第三十七弾)
7月18日
君や知るや「(Love is Like A) Heat Wave」B面の曲(上)。
 先日は、Cheap Trickの「At Budokan」が日本で大ヒットしたことで、アメリカに流出、急遽、本国アメリカでも発売されて売れあがって行った話が出た。
 これと同じように、イギリスで火が点いたので、急遽、本国アメリカでも発売されて、人気が出た音楽ジャンルがPunk Rockであった。
 「Clash / The Clash」はその代表的な例で、アメリカ市場にイギリスから流入して売れた。慌ててレコード会社が売り出した時には、すでに1枚目のアルバムと2枚目のアルバムの間で、多数のシングル盤が切り出されていた。
 だから、アメリカ市場向けに編集された「Clash / The Clash」は、何とかその周回遅れを挽回しようとしたので、オリジナルの「Clash / The Clash」とは曲の順も収録された曲数も違っている。 
 またアメリカと違って「白い暴動 / ザ・クラッシュ」と題され、イギリスのオリジナル盤の「Clash / The Clash」を発売していた日本では、日本市場向けに、「Pearl Harbour ‘79」というタイトルでシングルを寄せ集めて編集盤を出した。日本では、シングル盤で売るよりアルバムにして売る方が売れたということもあった。
 だから、当時は、他の市場で人気が出たので、慌てて別の市場で別な切り口で編集盤を売り出したり、シングルカットしたりすることはよくあった。

       「Heat Wave・A Love like Yours」[Martha Reeves and the Vandellas, Gordy, 1963]。.jpg

 1980年にThe Jamが来日した時には、そのThe Jam来日記念盤は、A面こそ「ヒート・ウェーブ」だが、B面は「サタデイ・キッズ(Saturday’s Kids)」という割合地味な選曲だった。「サタデイ・キッズ」は5分30秒という長い曲だったこともあるかも知れない。
 イギリス市場は別として、1980年頃のThe Jamは今のようなビッグ・ネームになるかどうか微妙な線だった。北米市場でも状況は同じで、実際に北米でも同時期に「(Love is Like A) Heat Wave / Saturday’s Kids」はシングルで切り出されていたそうだ。
 日本市場は来日するだけではアルバムが売れ上がる状況ではなかったと判断されたので、このシングルは「来日記念盤」と銘打って売り出されたのではないかと想う。
 ではオリジナルの「(Love is Like A) Heat Wave」はどうだったのだろう。
 The Jamのカヴァー・シングルが17年後。オリジナルの「(Love Like A) Heat Wave」はこれに先立つ1963年の夏に出た。Martha Reeves & the Vandellasの吹き込んだこの曲は勿論Holland–Dozier–Hollandのペンになるご機嫌なビートの名曲だが、日本ではB面はあまり語られることはなかった。

「A Love Like Yours (Dont Come Knocking Everyday)」シングル・ジャケット(1963)。.jpg

 日本では「(Love Like A) Heat Wave」ばかり注目されるところだがB面に収められていた「A Love Like Yours」はその後、何人もの人々がカヴァーした。B面も、後に名付けられた「the Funk Brothers」(Richard "Pistol" Allen(D)、James Jamerson(B)、Joe Hunter(P)、Robert White(G)、Eddie Willis(G)、Andrew "Mike" Terry(S)の手になる。


追記
昨夜は品川コーナン口にて2巨頭+P仙のヤルタ会談ではなくて、コーナン鼎談開催。これまたサイコーでしたなあ。詳しくはきっとジワジワと出てくるけえ、首を長くして待っとりんさい。一昨日の昼間にはヨコハマ大桟橋から某のご帰国があったけえね。参りました。お船でどんぶらこじゃけえね。やりよるのう。
| 8音楽 | 06:06 | comments(0) | trackbacks(0)
選挙の行方――自滅する人たち。
7月17日
選挙の行方――自滅する人たち。
 月曜日の讀賣の世論調査では自民の圧勝とのデータ。さて、コイツがふたをあけるとどうなるかだ。毎回、選挙で速報で飛ばして社に居辛くなる若手が出るのがこの季節。
 これまでも、結果、恣意的な予測になっていたりしたことがあったし、その前提で、出口調査での数人の投票者の見立てだけで記事も組み立ててしまう記者も出たりする。

20190714 讀賣新聞東京最終版1面。.jpg

 俺の知っている昭和の終わり頃からの讀賣は、内圧が高い会社で、若手でも弱い人は病んでしまう人が時々いた。今はいざ知らず、昭和の何時頃からか、組織の体質は変わって行ったのだろう。
 田辺聖子(1928-2019年)が昭和時代にネタ本として重宝していた新聞というのは、朝日新聞ではなくて、讀賣大阪の社会面だったのではなかったか。
 当時の讀賣は黒田軍団の時代――朝日新聞も含まれていたのかも知れないけれど、田辺は新聞の投書欄を長々引き合いに出してあれこれエッセイで人生指南した。この辺りには中々興味深いものがある。
 選挙では、普段の生き方が見える。お立ち台に立つ人も、投票する人も、報道する人も、やることをやっていない人たちは、大抵、自滅するものなのだ。
 お立ち台に立つ人は、普段から汗水流していれば、うそをつくようなことはないはずだが、消費減税をすれば景気が上向くと言う。財源も示さずに。それに騙される人がいて、騙されていると報道できない人がいる。
 昨日は某所で埼玉ナンバーの日本共産党の選挙カーが路肩に停まっているのを見た。朝の7時過ぎ。朝食を喰って、都心に向かうところだったようだ。さて、週末も小寒い雨なのだそうで。
 今年の夏は遅いけれど、夏の終わりも遅くなりそうで、ちょっとゾッとしないねえ。

| 10随想 | 12:42 | comments(0) | trackbacks(0)
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