岡田純良帝國小倉日記

歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(4)
6月29日
歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(4)
 Glen MatlockのようなOriginatorではない。都市、郊外、地域を問わずPistolsのFollowerの人たちで、彼らが最初のFollowerだったことは歴史が証明する通りでもある。一握りの人間でできることではなく、実はFollowerだった彼らによって、Movementの裾野がさらに広がって行ったことは間違いない。
 発言要旨をメモにしておく。

The Sound of the Suburbs 12.00–13.15
 John Robb, creator of the online music magazine Louder than War and musician  with the Membranes and Goldblade, talks to some of those who were inspired by the  first stirrings of punk.
 Bertie ‘Berlin’ Marshall – alongside Siouxsie and Steven Severin later of the  Banshees, Jordan, Billy Idol and others – was one of the Bromley Contingent that  were at the heart of the early scene. He is now an acclaimed writer.
 Like many living outside London, County Durham-based Pauline Murray, was also  instantly inspired and empowered by what had begun in the Capital. As lead singer  of rapidly formed band Penetration she recorded two albums and the classic Don't  Dictate single, and continued her success with the Invisible Girls.
 Now a successful artist, Gaye Black was still living in Devon when she heard about  the Sex Pistols, but almost immediately moved to London to put together the Adverts  with front man TV Smith and became one of the early stars of punk.
 Lunch break. The café bar will be open, and the exhibition Punk 1976–78 and Punk  Pop-up Shop available to visit.

(1)Bertie“Berlin”Marshall。
・黒人は差別されていた。そういう時代に生まれた。自分自身で、何時も世界に違和感を 感じて生きていた。
・Bromleyは何も無かった。図書館でアメリカ文学を読んでいた。ビートばっかりだった。
・音楽的にはDavid Bowieの実家が家の近所で、彼は時々帰ってきてGuitarを家で弾く。 その音が聞こえてきた。彼は何時でも私のヒーローだった。
・学校はイジメもあって行かなくなって退学した。直ぐに街の「Thrift Store」でSiouxsie  SiouxとSteve Severinと知り合って仲良くなった。行き来するようになったのね。
・Steve SeverinとSimone Barkerは音楽キチガイで、彼らからすべてを教えて貰った。
・Stoogesもいいし、Velvet UndergroundとNicoが素敵だった。
・Natiが好きだった。Viscontiね。あのファッションを嗜好する人がLondonにいたの。
・「SEX」に初めて入った時はJordanが怖くてね、何時も客が入ってくると、彼女、例の ジューク・ボックスの脇でポーズをしてさ、客をじっと見詰めるんだもん、怖かった。

#40Punk 20160528 (The Sound of Suburbs)

・何も無い郊外の街からLondonまで毎週土曜日に出掛けたの。Kings Road歩いても、 まあとりたてて変わったことは無かった。道の外れの430番地まではね。
・「SEX」は面白い店だった。やっぱり変な店よね。怖いけど、怖いもの見たさでさ。
・Malcolm McLarenという人のキャラクターかな。客同士で顔見知りになってね。何か 面白いことが見つかるような感じがあった。

(2)Pauline Murray
・1967年、私が10歳の時に炭鉱が閉山になったのね。New Castleの炭鉱で栄えていた 街だから、閉山を機に一気に寂れてね。私はとても寂しかったことを覚えているわ。
・私の育ったのは、鉱山の労働者向けのカウンシル(公共住宅)よ。その文化が好きだった。
・何でも共有して、分かち合う文化だったのに、あっという間にそれが消えてしまったの。
・その後は、何かを探すみたいな思春期に差し掛かったからね。複雑な気持ちになったわ。
・街に来るBandだけが楽しみだった。David BowieとRoxy Musicにはイカれていたわ。
・Bandは何でも聴いたけど、やっぱり、将来に期待が持てない感じがあったわね。私は、 早くからアート・スクールにドロップアウトしたのも将来に期待できなかったから。
・Pistolsの噂は雑誌で知ったわ。私が観たのはLeedsの公演ではなかった。5月19日に YorkshireのNorthallertonで演った時に行ったのよ。街の目立った子がつるんでね。
・彼らを観た後は、もう心臓が止まるほど興奮した。精神的にも無茶苦茶になったわね。 そのショックで街を出てLondonに出ることになったの。何かがあると想ったのね、
・Kings Roadが面白いって話だったけど、430番地までは何も無かったわ。あの店だけが 違っていたのよ。Jordanが素敵だった。すっと誇り高く立っていて、美しかった。

Jordan nad Let It Rock 1972(掲載)

(3)Gaye Adverts(Black)。
・それまではフツーの音楽好きの学生だった。美大時代にはDoctors of Madnessなんか 好きでね、聴いていたわね。Pre-Punk時代のことだけれど。何も無かったわよ。
・何も無いって言うとあんまりだけど、音楽が遠い世界にあって詰まらなかったわね。
・子供だったから、定石通りアタシもBeatlesから入った。Stonesに行ってね。Whoや Kinksも聴いて、ZepplinのようなHard Rockの時代を過ぎて、Zappaにはまったわね。
・だけど自分では音楽を演る気もなかったし、自分では画を書いたり、手を動かすことが 好きだったからアート・スクールに進もうと想ったわけ。
・David Bowieは素敵だったけれど、ああいう表現はパフォーマンスだから大変だしね。
・「Anarchy Tour」でPlymouthまでPistolsは来たわね(12月22日)。Damned、Clash といったPunk bandが前座で、アメリカのJohnny ThundersとHeartbreakersも出た。
・私たちはやる気だった。Bandということでは、Torquayのアート・スクール3年で、 TV Smith(Tim Smith)と出会ってた。学士号は取得済み。それでLondonに出たのね。
・Sex Pistolsだけじゃなかったの。彼らは全員、爆発している感じがしたわ。とても強い ショックだった。何も無い時代で、将来に夢は持てなかった。「No Future」だったのよ。
・「今やらなくちゃ」って感じだった。あの時、音楽がとても大切な表現手段に思えたわね。
・AdvertsはそれでLondonで直ぐメンバーを集めて始めたわけ。素晴らしい時代だった。 何もかも混沌として、だけどとてもエキサイティングで。数年間はとても面白かったわ。


追記
そろそろ寝るズらよ。やってられんズらよ。密談終了。
| 8音楽 | 08:31 | comments(0) | trackbacks(0)
Richard Young Galleryで手に入れたもの。
6月28日
Richard Young Galleryで手に入れたもの。
 俺が額装したシャシンを買うなんて、しかも、Pistolsのシャシンを買うなんて時代が来るとは想像もしなかった。
 これが改めて手に入れた彼の作品の写しなんだけれども、額装するだけの学術的な意味が出てきているんだよね。
 今年で、決定的にPunk Movementが歴史に刻まれることになるから、これは、イギリスの現代史の事件の一つだ。
 この作品を手に入れて何時か日本に帰るのは、ちょっと、嬉しいような、寂しいような半々の気分だ。これでこの一連の人々の軌跡は歴史になってしまった。
 シャシンをじっと観ると、やっぱり、美しいですわね。一瞬の彼らの動きを切り取った写真家のRichard Youngの腕もいいけれど、事件はこうして美的に起きていたわけですなあ。
 「1976年、Londonにて」
 保証書にはこう書いてある。そしてRichard Youngは「Anarchy Tour」だと言った。
 ところが、1976年12月、Bill Grundy事件の後でも、PlymouthとManchesterでは奇跡的にコンサートが実現しているけれども、ここにあるように、この写真が「Anarchy Tour」だとしたら、これはLondonで撮られたものではない。
 購入した本人が保証書にケチつけてどうするのかねえ。だけど、11月末の間違いか、あるいは、場所がLondon以外なのか。何れにせよ、事実はそういうこと。

Richard Young Gallery Exhibition
| 8音楽 | 18:18 | comments(0) | trackbacks(0)
歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(3)
6月28日
歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(3)
Sat 28 May 2016, 11:00 - 20:30
 これまでこのイベントで取り上げたGlen Matlockのメモから離れて、今日は次のSlot。「The Sound of the Suburbs」(周辺の人たちのサウンド)に移りたい。
 朝の最初のSlotはPunkのOriginatorだったGlen Matlockだったが、2番目のSlotはそのFollowerである。ここで、司会進行は大学教授から、元Punk BandのVocalだったライターに一度スイッチした。
 Slotのタイトルは「The Sound of the Suburbs」。クスッとさせられる。
 時代はもうNew Waveに移り変わっていた1979年、The Membersの最大のヒット曲のタイトルが「The Sound of the Suburbs」だったからだ。彼らもLondonの西南部にあり、The Stranglersの出てきたGuildfordにも近いCamberleyという郊外の住宅地から出てきた5人組だった。そして、彼らのような郊外の街から現れたBandは数多くあった。

           Bertie & Jordan
 Punk全盛期のBertie Berlin MarshallとJordanのツーショット。その40年後には
 かくも変わってしまうとは。朝には紅顔の美少年も夕べには――言うまい言うまい。

 昨日までと違い、次に取り上げるのは、その「The Sound of the Suburbs」たちだ。登場人物はOriginatorのSex Pistolsのような人でなく、あくまでFollowerたち。それがいい。
だからPunkという一気に全英中に拡がった現象の実質を探る手立てとして、彼らがこの現象に飛び付いた背景を注意深く探ることはとても意味があることだと想う。
 当初、その意図が良く分からなかった。ところが、聴いてみると、とても興味深かった。まずはステージに上がった人たちを以下に。

(1)Londonの衛星都市、Bromley出身で、Bromley ContingentのBertie“Berlin”Marshall。
 BromleyはLondonの中心部から20km程度南方。市内へは通勤圏内の住宅都市。今では小説も手掛け、何冊か著作もある。
 ちなみに東京で言う、「圏央道」に当たる外縁道路「M25」の内側は、London市内への通勤圏だ。GuildfordやCamberleyは「M25」のさらに外側だが、市内に寝泊りするFlatを借りて仕事をして、週末に家族と過ごすために戻ってくる人も多いそうだ。

#40Punk 20160528 (Bertie Berlin Marshall)

(2)Durham出身のPunk Band、The PenetrationのPauline Murray(1958年-)。DurhamはLeedsよりずっと北方でEngland の最北だ。ScotlandのEdinburghに近い炭鉱街。彼女はPistolsを観て以来、街を出てLondonに行くまで、Bromleyの向こうを張ってDurham Contingentを自称した。今日でも音楽活動を続けている。
 代表曲は「Don’t Dictate」。
(3)Bideford出身のPunk Band、The AdvertsのGaye Adverts(Black)。BidefordはBristolよりさらに南西、England南西端の風光明媚な土地。今はPunk系Artistの筆頭の女性。コラージュや小物製作を行い、時には展示会のCurator等も務める。代表曲は「Gary Gilmore’s Eyes」。
(4)England北部の港町、Fleetwood出身のJohn Robb(1961年-)。80年代から90年代にかけてPunk Bandで活躍。
 FleetwoodはLiverpoolの真北。今もManchesterをベースに、執筆と評論活動を続けており、このSlotでは司会と進行役を務めた。
 (1)〜(3)の3人の口から出たPre-Punk時代のFaborite Musicianの名前は共通していた。イギリスならDavid BowieとRoxy Musicである。アメリカならIggy Pop & Stooges、Velvet Underground。そして僅かにMarc Bolanの名が出ただけ。
 「例外はあったけれど、他には何も無かった」
 彼らは異口同音にそう言ったものだ。
 (ああ、そうだった、俺たちもそうだった)
 1980年頃。俺の家から歩いて100mもしないところに佐○シンイチロウの家があり、そこから200mも歩かない場所に小河○良太の家があった。俺の家から400mほど歩くと、本○素美の家があった。年齢も学校もバラバラだったけれど、若い頃はずっと何かしら繋がりがあった。
 俺だけ20歳になる前にBandを止めてしまったのだけれど、未だに、時間があると、音楽に絡んだことをあれこれやっている。北欧の某地に頼んだ家具が届かなにので、まだメインのPCが立ち上がっていない。近頃、CD製作ができないのが苦痛になってきた。
 本稿、従い、明日も続く。


追記
London's Burning?、ホントかね、そう想わないけど。言わんこっちゃねえよ。悪い予感がするって、言ってたのに。
それよりも、朝晩、ピストルズの76年のライブ。ずっと聴き続けていて、何だか、気が狂ってきそうだわよ。
オホホホホホホホ。明日は何の日。明日は明日の風が吹くでしょ。きっとね。ベンチがアホだけどね、風は吹くわ。
| 8音楽 | 06:43 | comments(0) | trackbacks(0)
At Nashville Rooms, London, 3rd of April in 1976!(2)
倫敦日記’16(第二十八弾)
6月27日
At Nashville Rooms, London, 3rd of April in 1976!(2)
 昨日からに引き続いて、North LondonのWest Kensington地区にあったMusic Pub、「The Nashville Rooms」(現:『The Famous Three Kings』)で4月3日に行われたギグ。とはいえ、Joe Strummer率いるPub Band、101ersの“前座”だったSex Pistolsの話ではある。
 「あの日も、連中は店から電源抜かれたんだよ」
 Mick Jonesはそう証言している。
 この日も、ステージが激し過ぎて、101ersの登場を前にトラブルが起きた。しかしまた、客席の未来のClash2人(Mick JonesとPaul Simonon)は、Pistolsの後に登場した真打のJoe Strummerのステージを目の当たりにして驚いた。
 「(俺たちのバンドには)アイツが良さそうじゃねえか」
 Bernie Rhodesとも意見が一致した日でもある。何が幸いするのか分からないものだ。
 「アンタのステージはいいのに、バンドはクズだぜ」
 それから間も無く、失業手当の長い行列の中で行き会ったJoe Strummerに2人はそう話し掛けた。それがJoe Strummerにとって、Clashのメンバーと話すきっかけだった。

Sex Pistols Nashville Rooms 3rd of April 1976  (掲載)

 話を戻すと、この日のSex Pistolsのステージでは、忘れてはならない重要な証言者がいる。それが、そのJoe Strummerだ。
 「リハの時にマネージャーらしい男がヴォーカルに声を掛けていたんだよ」
 後にJoe StrummerがJon Savageに語ったのは、MalcolmのJohnnyへの言葉だった。
 「『お前はSteveのその服が欲しいんだろう。欲しいなら派手にやるんだぞ』って」
 MalcolmはJohnny Rottenにそんな言葉を掛けた。
 「あの言い方で、バンドはManagerがいるんだなと分かったのさ」
 Joe Strummerはそう語った。店の商品で若い人を集めるのがMalcolmの手口だったとすると、Bromley Contingentの面々にも何がしかの代償として現物が支給されたのかも知れない――Malcolmの言い方はそんなことまで推測させるような言い方でもある。
 Joe Strummerは続けて、それまで自分はPubで酔っ払いの客相手に「Route 66」をやるような日々を送っていたのに、Sex Pistolsは違う星から現れたようだった。シラフでブッ飛んでいた――そう語っている。Punkの歴史で重要な転換点になった夜でもあった。
 「俺の考え方は間違っていたと感じたんだ」
 Joe Strummerはここで素直に方向転換を考え始めた。この日を境にBernie RhodesはJoe Strummerに付きまとうようになった。
 「俺と組まないか」
 行く先々で会う度に声を掛ける。いよいよ、「プロジェクト・Clash」が始動したのだ。
 一方で、この頃のSex Pistolsという4人組を考える時に、
 「『Steveのその服が欲しいんだろう。欲しいならもっと派手にやるんだぞ』」
 Malcolmの言い方も、Band内のJohnny Rottenの立場を知る上では重要な証言になるものだろう。

Sex Pistols Nashville Rooms 3rd of April 1976  (2)
  この写真を撮る時、シャッターを押したカメラマンは「怖かった」と40年後に言った
  のを本人の口から聞きました。本当に怖かったそうだ。う〜ん、分かるわねえ。

 Sex Pistolsの勢力図を考えると単純な構図が見える。Steve JonesとPaul Cookは、Malcolmの店の古くからの客だった。Glen Matlockは店員である。つまり、Band内部は3対1であるどころか、Managerも含めれば3+1対1。
 「『Steveのその服が欲しいんだろう。欲しいならもっと派手にやるんだぞ』」
 店の売り物の商品さえ、Johnny Rottenは自力で手に入れなければならなかった。
 2ヶ月前に、Johnny RottenとGlen Matlockが揃って初めて店まで売り込みに行って実現した「Marquee」のギグ(2月12日)でもそうだった。
 興奮した客に対してステージで椅子を振り回すJohnnyに、Malcolmが、
 「やれやれ!、やっちまえ!」
 と叫んでいる。
 「Malcolmが『やつらに毒づいてやれ』と叫ぶのを見たぜ。ヤツラは操り人形さ」
 その日の真打だったEddie & The Hot RodsのDave Higgsの証言がある。
 Pistols人気が高まるにつれ、Glen MatlockはJohnny Rottenのエゴが巨大化したのに我慢がならなくなったと言う。だが、BandにAuditionで入れて貰った最後のメンバーがJohnny Rottenである。内部では、最初はみそっかす扱いだったかも知れない。
 「おめえ、俺らと同じUniformも持ってねえのか」
 Glen Matlock、Steve Jones、Paul Cookからすれば、そういう風にも見えただろう。
 (クソったれめ!)
 当時、Finsbury ParkのIreland Communityから這い出してきたJohnny Rottenは、無名で、貧しく、無力で、何もかもが不満だった。
 社会にも、王室にも、将来にも、そして、自分の加入したBandにも、Managerにも。そういう文脈で見れば、Glen MatlockにはJohnny Rottenのエゴが巨大化したようにも見えたかも知れない。1996年の再結成でさえ、3人は行動を共にする場面が多かったが、Johnny Rottenは常に別行動だった。今も、JohnnyのコメントがSex Pistolsには距離を置いたものであることも理解ができるように想う。


追記
本日はBrightonに。Madnessも御用達だったBen Shermanの本店を訪ねようと想っていたのに、昨年、売り飛ばされていたのだった。こっちで、還暦位まで10年分位の夏用の半袖のシャツを買っておこうと想っていたんだけど、もう、Brightonでは夢になった。
クラムチャウダー喰って、牡蠣喰って、その後、ブイヤベース喰って、ドーバー・ソールも景気良く喰った。我が家から1本でBrightonまで行ける。我がカワサキシチーからだと熱海の距離感なんだろうけれど藤沢駅前辺りの商店街を組み合わせた位の賑わいがあったねえ。熱海は寂れる一方だけれど、どっこいBrightonはたくましい。
帰京すると、Londonでは投票やり直しの請願が300万人を突破している。何と危ういことだよ。民主主義の危機だね。自分でやった選挙を拒否するんだから、コイツは、かなりの自己不信に陥ることになるかもな。明日はどっちの風が吹くかな。
| 8音楽 | 06:05 | comments(0) | trackbacks(0)
「John Lydon自伝」日経書評。
6月26日
「John Lydon自伝」日経書評。
 先々週末の16日――日経に書評が出ていたのが「John Lydon自伝」だった。自伝はとても面白かった。和訳すれば、それはそれで受けるだろう。書評そのものも悪くない。
 この人の自伝は荒畑寒村みたいな野党政治家の回顧録を読むような趣がある。
 「我かく戦えり」
 である。
 勝手を言わせて貰えば、John Lydonの人生には、何というのか、もう、心配なことは無い。曇りも無い。

「ジョン・ライドン自伝」日経書評(20160619)

 スッキリして、あれこれ容喙する部分が無い。他人があれこれ他人の人生に容喙する必要などは無いのだけれど。
 それでも、20年も前には、彼ほど、誤解されている人物はそうそういないだろうと一方的に考えていたこちらは、今になって気付いたが、もう、子離れならぬ、John離れをする時期はとうに過ぎていたようだ。
 (おっと)
 John Lydonのことではない。日経にこういう書評が載ることだった。
 先ほどから、ゴールデンタイムの土曜日には、BBCで「Glastonbury Festival 2016」の中継をやっていて、Madnessが画面に大写しになっている。そうして、Dvid BowieのTrituteでHunly Doryから「Kooks」を演っている。今はそういう時代だからね。
 「あなたを追悼するなんて、想いもしませんでした」
 彼らがそんなことを言う。EU離脱を決めた週末に。
 日経の若い読者に伝えたいのは、あんな新聞の論評を読むより、「Finanicial Times」や「The Economist」の論説をちょっとでもいいから目を通しておくこと。
 それと、職場で月曜日の夕方にはゴミ箱行きになる日曜版をなるたけ拾ってアートや書評欄を救い出す努力くらいしてもいい。2年なら付け刃だけど、5年経てば血肉に、20年経てば、それは教養になる。誰にも負けない。
 これからのニッポンの諸兄姐は、カタギであろうと、アートに、文字通り身を削って研鑽を積んで頂きたいわい。そうでなければ本当の底の底でガイジンに舐められてしまう。その辺り、シクヨロ。とりわけ日本の文化そのものが彼らにどう見えて、どう理解されているのか知らなければ、付けいれられてしまう。
 結局のところ、気になるのは、母なる祖国のニッポンだものな。
 一流経済紙の日曜の書評は「今もパンクな日々、支えは妻」。書評の内に入らない。
 社説さえFT転載記事との落差が囁かれているが、そういうペラな話ではないわね。Cameronが悪者にされているが、本当は、イギリス人の見識が、今、問われていることと同じことだわい。
 一昨日から、イギリス全体がとんでもなく慌てている。メディアもそう。彼らは、取り返しの付かないことをしたことを知った。そこからどうリカバーするか。それこそが歴史的な見物なのだ。
| 10随想 | 16:51 | comments(0) | trackbacks(0)
At Nashville Rooms, London, 3rd of April in 1976!(1)
6月26日
At Nashville Rooms, London, 3rd of April in 1976!(1)
 これまでファンの間では通称、「Nashville Tapes」と呼ばれてきた海賊盤で知られてきた最初期のギグの音源の一つだ。
 North LondonのWest Kensington地区にあったPub、「The Nashville Rooms」(現:『The Famous Three Kings』)で4月3日に行われたもの。これは珍しくPubで行われた彼らのギグで、だが、実際はJoe Strummer率いるPub Band、101ersの“前座”だった。
 これまで、殆ど重要視されず、顧みられることもなかった1976年のSex Pistolsのギグ。
それでも近年ではPunk Movementに関するSex Pistolsの貢献の歴史的な研究としては1976年の1年間に集中しつつある。この1年間にSex Pistolsの影響力がうなぎのぼりに強まったからだ。
 その影響力があまりに強かったので、Movementとしても急速に広まって、Londonを発火点として最終的にPunk Movementが国全体に影響力を持ったということがようやく知られつつある。

Sex Pistols Nashville Rooms 3rd of April 1976  (1)

 とりわけ1976年の何本かのギグはこれから歴史的な評価が定着し、有名になるだろう。その中でもこの4月3日は重要なものの一つ。第一にこの日に初めて雇われエンジニアでDave Goodmanがギグに加わったこと。
 この人はバンドに可能性を感じ、その日を境にして、自主的に専属のエンジニアとして参加を申し出ている。この晩から今に至る数々の海賊盤の元ネタが記録され始めることになった。元々60年代にR&Bバンドでベースを担当していたバンドマン上がり。60年代のソウル全盛期にはソウル系のアーティストのツアー・ミュージシャンをやったことがある。
 だから、9月にあった「Chelmsford Prison」のギグの録音テープは、Bass Lineを後からGlen Matlockに重ねさせたと言われ、Glen Matlockとの繋がりもずっとあったようだ。 正式な原盤となった作品としては「I Wanna Be Me」が彼の手になるもの。「No Fun」も、そう。バンドの練習場所のDenmark Streetに機材を持ち込み、「The Great Rock ‘n’ Roll Swindle」に収められた曲を録音したのもこの人だ。
 また、この日は、極端に言えば、Joe Strummer率いるPub Band、101ersの実質的に終わりになった始まりの日で、つまりそれはClash結成のきっかけになった日でもある。
 この日、客席には、Mick JonesとPaul Simononがいた。さらにMalcolm McLarenの店の出入りの業者のBernie Rhodesまでが彼らに並んで“前座”を観に来ていた。

Sex Pistols Nashville Rooms 3rd of April 1976  (掲載)

 この少し前、75年には、New YorkにNew York DollsのManagementでMalcolmが出掛けて不在にしていた。その期間こそ、Sex PistolsのManager気取りだったが、年が明け、Pistolsに人気が出て、次のチャンスを狙っているところだった。
 旧知のMick JonesとPaul Simononは、言ってみれば、その手駒の一つのペアである。
 (何時か自分もあんなPistolsみたいな連中を好きに動かそう)
 Bernie Rhodesの考えていたアイディアは、Sex PistolsのJohnny Rottenよりもっと美形を揃えることだった。
 さらに「Seditionaries」の商品のようなSoho地区の性倒錯的な趣味の人たちが着ているような危ないデザインの服ではなく、もっと、スローガン入りで、Battle Suitesのように誰でも分かるキャッチーなスタイルを思い浮かべていた。
 この時点で、この日に続き、3週間後の4月23日にもSex Pistolsは101ersの前座で「The Nashville Rooms」に出ることになっていたのだが、この日ですでに「勝負」があった。
 「あの日も、連中は店から電源抜かれたんだよ」
 Mick Jonesはそう証言している。
 「何時も通りのトラブルだよ」
 睨み付けるような目付き。高価なGuitarもステージの音響装置にぶつけて平然として、4人は周囲を睥睨する高慢な態度を取り続けた。
 「アイツらはとにかくふてぶてしかった」
 BBC TVにMick Jonesは遠くを見るような目で証言したのは2007年のこと。それでもPistolsの内情は別だった。とりわけフロントマンのJohnny Rottenは、不安定な立場に立たされていたと言えよう。それは幾つかの証言を組み合わせれば見えてくる。
 従い、本稿、明日も続く。


追記
今日はBromleyに行って来たぞ。全部、凄く俺的には面白かったけど。ということで、今日のナニはひとまず上げておきます。備忘録目的だから、どこかで消すかも知れんけんどさ。全て。それはそれでエエじゃないの。幸せならば。
| 8音楽 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0)
Never Mind the Referendum, We are the Sex Pistols.
6月25日
Never Mind the Referendum, We are the Sex Pistols.
 Paul Cookと。
 身長は170cmくらいかな。昔から、「Seditionaries」に過重に頼らず、自分自身でチョイスするおしゃれな人だったけれど、身近で会うと、もう、Punk Rockなんての、とっくに卒業しているわね。当然だけどご老人で。
 俺はこの日、「Tell Mama」のシャツを着ていった。俺だけだろう、あんなシャツを着ていたのはね。そのシャツで、Paul Cookと会うなんて、考えもしないことだったことだけどさ。
 奥さんはヴェジヴェジの草食主義だから、すっかり肌から脂が抜けてましたな。シワシワでねえ。だけど、とても温かい感じの人でした。これで1ヶ月に2人のSex Pistolsと会って話をしたことになる。これはまた別の原稿にて。

             20160623 With Paul Cook (掲載)

 当日は、俺は2階から見下ろす位置で、ドラムピットに座ったPaulを観ていた。彼のドラムは、基本のハイハットとシンバルの使い方に独特の癖があるように見えた。
 それと、上半身が小刻みに揺れるんだが、普通、体幹の無い人ならあんな叩き方はできないんじゃないかと想う。力任せというより、上半身全体で叩いている。少年の叩き方なんだよね。
 腰から背骨に思いっきり力を入れ、ここを軸にして、上半身が動いている。腕よりも、手首よりも上半身で叩いている感じだろうな。特別威圧的な感じはしないんだけど、よく鍛えられていることが分かる。
 次に出てきたRich KidsのRusty Eganは、上腕と手首を使う人らしいドラムで、だから、手数の多かった現役時代のドラムと違って、へろへろになった。ヘロヘロだから、スネアの一拍が重いわけです。リズムが重いから、軽やかにならず、バンド全体はギャロップなんかできず、重馬場の走りになってしまうという悪循環。
 再結成したSex Pistolsのリズムは重たくは聴こえなかったでしょう。あれは、日頃の彼ら各々の鍛錬のお陰だったというわけなんだよね。改めて感じました。素晴らしいバンドだったんだって。

         Denmark Street (2).jpg
| 8音楽 | 17:23 | comments(0) | trackbacks(0)
At Castle Cinema, Caerphilly, 14th of December in 1976!
6月25日
At Castle Cinema, Caerphilly, 14th of December in 1976!
 数少ないBill Grundy Showの後の第1期Sex Pistolsのイギリス公演。とりわけ、「Anarchy Tour」は殆ど幻に近い。その中でも極々少数なのが、ステージのカラー写真だ。
 カラーで何枚かの写真が残っているのがCaerphillyという小さな城下町のCastle Cinemaで行われた時のステージ。この12月の時点はBill Grundy事件の後だったために全英の各地で予定された公演先の自治体が公演を禁止して、公演会場の側でも、詮方無くキャンセルするところが相次いでいた。
 だから、Malcolm McLarenはキャンセル料をたんまり貰ったか、というと、さすがにそれは無かったらしい。但し、地元TV局とラジオなどはこの事件を社会的な事件として取り上げたから、短いけれども「Anarchy Tour」の動画は残っていたりする。
 また、1976年秋以降のステージなのか、「Anarchy Tour」なのか、写真からも時期的に見分ける方法もある。それまで牛乳やパンを盗んでいたメンバーにもやっと小金が入って、楽器と服装が少しだけ変わるからだ。
 10月1日にEMI Recordsと契約して各々が買ったのは対照的だ。Glen MatlockはDenmark Streetの楽器屋でRickenbackerの4003 SeriousのBass Guitarを買った。Johnny RottenはSeditionariesの服を買い足した。ShareのUNIDYNE II Microphoneを買ったのはGlen Matlockが脱退した後の翌年3月以降のようだ。

Sex Pistols at Castle Cinema 14th of December in 1976

 だから「Anarchy Tour」のステージで、Glen MatlockはRickenbackerを大切に得意になって弾いているのだが、Steve Jonesはまだこの時点では、Gibson Les Paul Customに定めていない。メインで使ったのは、2pick-upのSunburstのLes Paul JuniorとCherry RedのGibson Flying V。
 Castle CinemaのあったCaerphillyでは、若い観客をギグに行かせないようにするため、カウンシルのリーダーが住民に呼びかけ、映画館の前に押しかけて賛美歌を歌って彼らに“自制を促した”。要するに、入るなと圧力を掛けたわけだ。
 これが1976年の12月14日のこと。Caerphillyの街は大人の怒りで殺気立っていたという。しかしそれでも公演は行われた。実際には200人もいなかったという話もあるが、残ったチケットには代金が1.75ポンドとあった。当時の平均のチケット代金の倍の値段で売られたことが分かる。

      Richard Young (1)

 こちらは某所で調達した「Anarchy Tour」時のバンドの雄姿。段々と初期の彼らのギグの写真も、日時や場所が特定できるようになってきた。これまで出回っていたSid Vicious時代のアメリカのヘロヘロな演奏と違って、76年末の演奏は、かなりいいものだ。しかし演奏の記録は殆ど残っていない。
 今頃になり、こうして額装されちゃって、暖炉の前に置かれちゃったりしているわけだ。もう、何を言っても、今や歴史になってしまった。だけど、何だか、ちょっと違う感じが俺にはある。違和感だな。
 Caerphillyという街はWales州政府の首都Cardiffの外縁都市。誇り高いWelsh野郎としては、Englandからやってきた都会のクソガキのために街を荒らされるなんてことは真っ平ゴメン蒙りたい、というのがホンネだったはず。
 幾ら言っても若い人には信じて貰えないことなんだろうけど、あの時、Punkってのは、バカにされていた。何だか分からなかったし、支持するだけで嫌われていたんだからさ。
 今になって、俺はPunkを支持していたとか言うんだよな。戦後になって俺は戦争反対だったなんて言ったのと同じこと。
 そういう嘘つき共に異議を申し立てる気さえないけれど、ちょっと、違和感は残るのさ。バンドは世間から滅茶苦茶な十字砲火を浴びたからね。だから今になってあれこれ言って持ち上げても、安全地帯から言っている外野のヤジしか聞けねえんだって。アハハハハハ。
 御詠歌みたいな賛美歌を歌っても、教会の裏では連中が普段は何をやっていたか分かるもんか。けど、後になって気付くもんさ、あれが歴史が変わる瞬間だったってことは。


追記
クラッシュしかかっている。自国の国民に対して責任を持つだけでは、主要国の首相はスコープが足りない。目線が狭いし役不足。Cameronは歴史に鉄槌を下されるとしても、彼の責任は他国から問われないのかねえ。
やったもんが勝つとか、言ったもんが得するなんて、益々オポチュニストの優勢の世になって来たよ。俺はイケズでイヤな年寄りになる予定だったけど、もうなってるな。だけどそれでいいよ。バカバカしくて何もいう気がしない。後世の人から必ず嗤われる。それが情けなくてやりきれない。ガキの言い分だろう。ガキばかり。Mick Jaggerも離脱派だってね。どいつもコイツも金儲けのことだけ。オポチュニストとミーイズムとニヒリズム。情け無い。
| 8音楽 | 05:49 | comments(0) | trackbacks(0)
Sacred Solitude.....Entering Unknown Territory?
6月24日
Sacred Solitude.....Entering Unknown Territory?
 30年かけて築き上げてきた巨大な市場が、こういう穴から崩れていくのだろう。それだけは間違いないようだ。
 フランスからの「Frech Kiss」作戦とか、Germanyからの「66年の疑惑のワールドカップ・サッカー・ゴール認定提案」まで、大陸側のこれほどの熱烈ラブ・コールも届かなかった。
 冗談ではない。彼らの所掌する社会の政治も、国論も、この結果を受けて大混乱を受ける可能性が確実だからだ。結果を受けて、フランスの極右が動き、イタリアの極右が動く。その先に何が待っているか。嗚呼。

Never Trust A Hippyk by Jamie Reid
 
 この段階では、じっと注意深く推移を見守るしかない。どこまで影響が広がるか分からない。
 けれど、その影響がどれだけ大きかろうと、小さかろうと、確実なことは、俺には、霧の向こう側にある玉ねぎ型のモヤモヤとした影から、大きな高笑いが聴こえることだ。
 スコットランドの身内とも、お国としてはこれから生き別れかも知れないな。そういう話になってくる。
 田中清玄が泉下で肩を震わせているのが見える。EUの理想は、さて、これで、大きな打撃を受けるだろう。第2次大戦後のパックス・ヨーロピアーナではなく、本当のパックス・ヨーロピアーナは、この僅か20年ほどの期間だったということは、後世の歴史家が認定することだ。今はそんなこと、誰も言わない。終わりの始まりだからな。
 ポピュリズムとミーイズムが、我慢強いイギリス人だったはずなのに、こういう終わりのきっかけを作ってしまったわけだ。
 この理想のために尽力し、すでに世を去られた方々と共に、今宵は一杯やろうと想う。彼らの命を賭けて闘ってきた理想は、ここから崩れる。人類の理想は画餅に帰し、パックス・ヨーロピアーナは消え去っていくことになる。
| 10随想 | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0)
歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(2)
6月24日
歴史化の瞬間――Signifying Nothing? The Creative Revolution of Punk(2)
Sat 28 May 2016, 11:00 - 20:30
 昨日に引き続いて、Glen Matlockの発言要旨をメモにしておく。
 会場には150人くらいの人たちがいたかな。年齢層は高くて、一部で例外的なアート・スクールの学生みたいな若い人たちが数名と、図書館の担当者以外のお客は、還暦以上が殆どだろう。
 Glen Matlockが登場した時には、特に指笛も飛ばず、掛け声もなかった。静かな、長い1日の始まりの最初のSessionだったということだろう。

Opening conversation: Glen Matlock 11.00–12.00
 Glen Matlock, bass player for the Sex Pistols, is one of the key musicians in the story  of punk. He met the other band members while working at Malcolm McLaren’s  clothes shop Let It Rock and was at the heart of their rise to fame. He left the band  in 1977, but has continued to perform and record ever since – with the Rich Kids,  Iggy Pop, the Philistines and many others, as well as occasional Pistols reunions. An  astute and engaging voice, he also wrote an autobiography I Was a Teenage Sex  Pistol.

         資料整理中 20160521

・バンドを辞めた理由は、簡単に一言じゃ言えない。Johnの態度が我慢できなくなったことだけは確かだし、他のメンバーもうんざりしていたよ。
・一度、ステージで喧嘩して、Johnが「出て行く」と行ったから、「出て行けよ」と言った。本当にステージを降りちまってさ、珍しく来ていたMalcolmが慌てて追いかけたんだよ。
・「ステージだけは最後までやってやる」そんなセリフでステージまで戻ってきたんだけど、そうしてMalcolmが引き止めなければもうバンドの中は険悪な雰囲気で一杯になってた。
・フロントマンだからしょうがないかも知れないけど、エゴがどんどん大きくなっていた。
・「Bill Grundy事件」は、番組の始まる前にはSteve Jonesはしたたかに呑んでいたのは確かだけど、今となってはあれほど大きな事件になるとは俺たちも想ってなかった。
・「Anarchy Tour」も殆どキャンセルになって、あれからイギリスでは総スカンになったよ。
・けれど、元々、バンドにはうんざりしていたことは確かだ。ってか、Johnだけどね。
・Paul Cook、Steve Jones、Malcolm McLarenと、4人で辞める前には話し合ったんだ。John抜きでね。
・Paul Cookは「いいじゃねえか。Johnのことを好きなフリをすればいいじゃないか」って引き止める。そうなんだろう、そうやってバンドには引き止められたけど、もうゴメン、そういう気持ちが強かったんだよね。
・後悔していないかって言われると、それも簡単には答えられない。バンドに長くいれば、もっと儲けることはできたんだろうと想うけどね。
・契約したばかりのEMIはバンドの態度にとても着いていけないから破棄されたけれど、そのA&Mチームからも俺に密かに誘いがあった。色んな状況があったんだと想うよ。
・騒ぎが大きくなり過ぎて、事件の後はイギリスでライブもできなくなってしまっていた。 もっとバンドで音楽をやりたかったし、できると想ったんだよね、その時には。
・Rich Kidsとか、そこにIan McLaganを誘ったり、自分のアイディアを試したかった。
・再結成のきっかけは確か1995年。俺が西海岸にツアーに行った時Steve Jonesに連絡取ったら、Johnに会いに行くぞって話しになって、よく考える時間も無かったんだよ。
・マリブの家まで行って、俺達は俺が脱退して以来、初めて3人で顔を合わせたんだよね。
・その時、LondonのPaul Cookの家まで3人で電話して、「再結成してツアーやろうぜ」っていう話になっちまったんだよ。あっという間だよ。
・やり残したって感じがあったんだろうと俺は感じる。色々なことがあったけど、4人で 始めたバンドで、不完全燃焼だったってことなんじゃないかな。
・俺はKinksのRay DaviesとかSmall Facesとか、イギリスのバンドが好きだったんだ。
・Londonのパンクは誰が始めたかって聞かれたら、少なくとも俺は、あれはJohnが始めたんだって言いたいね。

Sex Pistols on Anarchy Tour in 1976 (掲載)

 当日はブルーのジーンズにショート・ブーツで、agnes b.のプリントシャツを着て上にジャケットを着ていたGlen Matlock。
 この後、もう1つのSlotを聴いて、昼飯のブレークの時に、Main Hallの展示会場まで行くと、本人がいる。ファンがホール前のGlenの写真を撮った。おどけているが、その隣に、かなり年齢の高い女性が控えめに立っている。
 思い切って近付いてみた。早く立ち去りそうな雰囲気だったので、慌てて自己紹介して、自分がバンドでベースを始めたのはGlenの影響だと言ったが、オッサン、真正面に俺を見据えている。
 (これがこのオッサンのAttitudeなのかな)
 実際に会ってみると、175.5cmの俺よりも小柄で、多分、173cmくらいだろう。白髪で、髭も白い。還暦の老人である。
 一つだけ前から聴きたいことを聞いてみた。
 「Pubではギグを演らなかったのはMalcolmの戦略なのかな」
 「冗談じゃねえよ。あれはMalcolmだけじゃない。バンド全員のアイディアさ」
 「バンド全員の戦略だったんだね」
 「Pub Bandなんかと一緒くたにされてたまるかよ」
 これは大きな収穫だった。バンド出発の時点で、彼らは他のバンドと違おうとしていた。4人は、やり残したことがあった。再結成で達成したかったのは、この言葉で腑に落ちた気がした。
 「次の約束があるから、もう行かなくちゃ」
 「有難う、Glen」
 彼らは、ライブをもっとやりたかったのだ。脱退も、色々なことが重なったということなんだろう。P.I.L.を続けているJohnny Rottenは違うことを言うだろうけれども、多分、Johnny Rotten以外の3人には共通する想いだろう。ちょっと、痛ましい感じがあった。


追記
先ほど、ProfessionalsとRich KidsのDouble Haedlinerのギグから帰って来ました。疲れたけれど、いい気分です。
これから開票速報。日本からは寝るなという恩師からの指令が。あああああああ、マジっすか。
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