岡田純良帝國小倉日記

気になる本――ニッポン、内外。
1月18日
気になる本――ニッポン、内外。
「二人の京都市長に仕えて」[塚本稔著, リーフ・パブリケーションズ]
 著者は昭和30年(1955年)京都生まれ。能楽師の家柄だった。阪大の法学部を卒業した後、京都市に採用され、秘書課長や市長公室長、行財政局長を経て、副市長。現在国立京都国際会館事務局長。この本、あの鷲田清一(1949年-)が推薦している。そこが俺にとってかなりインパクトがあった点だ。
 日経の書評を引く。
 「秘書課長という立場からみた桝本頼兼、門川大作という2人の京都市長の実像と、その市政を描いている。著者の公務員生活の第一歩が同和地区にある施設勤務だったためか、同和問題などについても真正面からふれている」
 今の京都は、随分改善されたとはいえ、まだ、同和行政が温床となった負の側面が残る。同和出身者の市役所への優先採用などがそれだ。役所のホームページにも今では「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」として掲げられ、こう前書きがある。

「二人の京都市長に仕えて」表紙。.jpg

 「長年の同和行政が、成果とともに負の側面を生み出し、これが市民の皆さんの同和行政に対する不信感として現れていることも事実であり、この不信感を払拭しない限り、同和問題の真の解決はあり得ません」
 京都でこうだ。オープンな時代になってきた。これまでの関係者の尽力の賜物。(『短評』)
「日本の原子力外交」[武田悠著, 中央公論新社]
 本書の出版社側の紹介を。
 「戦後日本は乏しい資源を補うために核技術を求め、1955年の日米協定によって原子炉・核燃料を導入する。だが軍事転用の疑念から規制をかけられ、74年のインド核実験以降、それは二重三重に強化された。日本は同様の問題を抱える西欧諸国と連携してアメリカと向き合い、10年近い交渉によって説得」
 1955年、日米原子力協定が結ばれ、CIAとの借款や技術供与に絡んで、正力松太郎(1885-1969年)や中曽根康弘(1918年-)のような男たちが暗躍することにもなった。この原子力協定の改定の中でも、1988年に結ばれた「包括的事前合意」は画期的なものだった。これによって非核保有国でありながら、核燃料サイクルの保有が可能になったのである。
 事実、インドの核実験成功後、アメリカは世界に対して核不拡散に転じていく。日本は粘り強い努力で核燃料サイクル保有をアメリカに認めさせた。

奄美ツアー 20180814 (古仁屋高千穂神社).jpg

 インド以前は、世界各国の途上国への支援の有力なメニューの一つが原子力であった。今頃、フィリピンやマレーシアやインドネシアなどで原子力発電所が運転されていても不思議はなかった。インドの核実験成功で世界のエネルギーの発展のシナリオが大きく変わっていったのである。インドは今でも米露両天秤。したたかな国だ。
 日本の場合は2011年の東日本大震災が起きた。そうでなくとも、核兵器にも転用可能な使用済み核燃料や余剰のプルトニウムを抱えた日本政府に対し、アメリカ政府の向ける目は再び厳しくなっている。
 昨年来、東京電力と中部電力、日立・東芝連合が画策されている。民間で原子力をやることには限界がある。核の問題は人類全体の課題だから、そこには必ず国際政治が重く絡んでくることは避けられない。これからの日本のエネルギー政策も核燃料サイクルをどう位置付けるか、俺は遠くから観ているぜ。呵呵呵。(日本経済新聞)


追記
イギリスから日本の原子力プロジェクトも逃げ出した。プロジェクトはこれからだったからまだ傷は浅いけれども、さて、工場はどうなるかね。今頃、泉下でサッチャーが歯軋りして、メイは目が釣りあがっているわい。イギリスの40年は俺の見ろところ、女で持ってる。男は揃いも揃ってクズばかりだ。

追記の追記
昨日は関東を右に左に。忙しくて忙しくてたまらんばい。本日はこれまた某所に。
| 9本・記録集 | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0)
小倉処分――Cosh The Driver......
1月17日
小倉処分――Cosh The Driver......
 このシャツも俺にとっては長い付き合いだったけど、週末でお別れする予定になった。あの頃、曲が出る度にSteve Jones のギターの腕が上がって行くのがわかった。
 全てが終わってしまったのに、彼が腕を上げているということが、虚しく、そして悲しいことに感じられた。そんな内面はメソメソしていた頃は、外向きには山本頭みたいに剃りが入ったいて、当時流行った少年ヤクザみたいに見えたかもしれない。
 日本では少年ヤクザだけれど、イギリスに行くとこれは、スキンヘッズになるわけだ。イギリスは階級社会だから、族が発生するのはとても分かりやすい。所属をファッションで表現し、宣言するわけである。
 こういう下らない話を書いていると、古い話だからどうせ伝わらないだろうと考えたりもして、もう40年以上の年月が経ったことをしみじみと感じることになる。
 小倉にある本当に古い40年も前のTシャツは、残るところとうとうこれで2枚になる。感慨あります。

Seditionaries 「Cosh The Driver」.JPG


追記
さっき東横線車内で、リリーフランキーらしい姿をちらっと観たけど、思ったよりも元気そうだった。15年ぶり以上か知らん。往時茫々。日が出ている間に東京方面の電車に乗りたい。日が傾くと一気に寒くなるからね。
| 8音楽 | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(肆)。
1月17日
雑誌記者、池島信平(肆)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 阿川弘之(1920-2015年)はどうだろう。
 池島信平(1909-73年)と十返肇(1914-63年)らは「文人海軍の会」という会を設立していた。源氏鶏太(1912-85年)、阿川弘之、豊田穣(1920-94年)、吉田満(1923-79年)といった面々を会員にしていた。
 池島「きょうは、二人とも海軍軍人ということで……。もっとも、阿川さんは大尉、ぼくは一等水兵。まこと雲の上のお方と同席するのは、畏れ多きことと存じます(笑)」
 阿川「……(笑)」
 池島「平たくいえば、大企業の部長さんと、二年目の新米社員。いやもっともっと偉いんかな。阿川大尉は……」
 阿川「そうはいいますけどね。毎年五月二十七日の旧海軍記念日にやる『文人海軍の会』……。あの有様は、何ですか。池島一等水兵、林健太郎上等水兵、源氏鶏太上等水兵というようなのが、床柱を背にしていばっているじゃありませんか。そばに坐ろうとしようものなら、『ここは、お前たちの来るところではない!』。怒鳴るんだから」
 池島「そりゃ、昔の恨みつらみが脈々として残っているからね。だって、われわれは絶対に大尉になれっこないんだから……。まことにおもしろくない。しかし、あの会も毎年よく続きますなあ(笑)」
 阿川「わりに盛会ですね」

1942年2月 シンガポール陥落直後従軍看護婦と語るインド兵(掲載).jpg 
  こちらは、1942年2月 、山下将軍の指揮下で一気にシンガポールを陥落させた直後の
  日本軍。その従軍看護婦らと語るインド兵たち。女たちも、当時を知らないこちらの
  イメージと違ってグーッと国際化しております。いまよりもグッと国際化してますな。
  腰に当てた手がいいわねえ。「気を落とさないでしっかりおしよ!」なんて言ってんだ。


 池島「残念ながら、阿川大尉がいちばん偉い。大半は、下級兵士の集まりのようなもんです。それで飲むうちに、兵隊のひがみ根性が現われてくる。阿川大尉は針のむしろに坐らされ……(笑)。まあ、軍隊がなくなったおかけで、われわれはほっとしているんですが、阿川大尉はくやしいだろうね(笑)」
 阿川「そんなことないですよ(笑)」
 この対談の中で、志賀直哉(1883-1971年)に連れられて、文藝春秋社に阿川青年の入社を掛け合いに行ったという話が出てくる。佐々木茂索(1888-1948年)は不在だったので編集長の池島信平が面接をしたという話だ。「舷灯」にも出てこなかったような話で、驚いた。
 阿川青年は小説を書いていきたいが、自分で生活するだけの自信もない。そこで勤める先を探した方がいいのだろうかと志賀直哉に打ち明けると、志賀直哉は「それじゃ、出かけよう」と言ったわけだ。昭和21年6月(1946年)とある。
ここでさらに驚いたのが、阿川青年がトイレに立った間に、志賀直哉は池島に対して、
 「池島君、彼はなかなかいい素質をもった青年だよ。しかし、小説がこれからうまくなるかどうかは、わからない」
と言ったことだ。だからあの志賀直哉が阿川青年を文春に売り込んだというわけだ。
 池島「重ねて言われましたよ(笑)。エラい先生だ。だけど、いまや阿川さんは、押しも押されもしない中堅作家……。立派なものです」
 阿川「あれから長い間、才能不足のうえに怠け者だから、貧乏しました。あのときから十年くらい経ったころでしたね。酔っ払った池島さんにいわれましたよ。『君は、あのとき<文藝春秋>に入ってた方がよかったんじゃないか』(笑)」
 ところが、対談の末尾に付けられている追悼文で、阿川は池島をやっつける。
 「『文人海軍の会』で、禿げ頭の上にチョコンと水兵帽をのっけた池島さんの、あの笑顔をもう見られなくなったのが一番残念である」
 酒席での池島信平の十八番はクリスマスの歌の替え歌。歌詞は週刊文春とはライバル誌だった週刊朝日の編集長だった扇谷正造(1913-92年)が暴露している。
 「信平さん 信平さん 魔羅立てて
 きょうは 信平さんの運動会 ホイ」
 夕方になると、しょっちゅう池島信平から電話があり、「どうですか、今晩、チクと」。
 志賀直哉(1949年:昭和24年)も阿川弘之(1999年:平成11年)も文化勲章を受賞した。阿川大尉にとって、東大文学部の先輩には、人生の要所で世話になっていたわけだ。中々含みのある追悼で、さすが「文人海軍の会」会員たちである。

追記
先日、某所で美しい「舷灯」の初版本(昭和41年だったか)を見つけて買おうと思ったのだけれど、阿川大尉の名作でも買い込んだら場所を取ることに想いが到りグッと購買欲を押さえ込んだ。ちょっと悲しかったなあ。「舷灯」は昭和のおとっつあんたちの家族への愛情が極めて抑えた筆致でたっぷり描かれているので俺は今も好きな小説だ。小説は、ああいうタイプの私小説がええわね。

追記の追記
これから駒沢方面へ術後検診のお礼参り。点眼薬も残り稀少に。困ったことにこの後はまたまた某地に小さな旅だ。しかも各駅停車の旅である。そして終われば取って返して都内某所で浪花の親分と密談予定。明日はまたまた当方の師匠筋の旦那との会談。その会談場所を決めたのは夕べの22時半になった。日中、まるで全体のスケジュール調整をまとめる時間が無いからだ。ああ忙しい忙しい。キンドーちゃんの気持ち。
| 9本・記録集 | 06:29 | comments(0) | trackbacks(0)
美味かった一皿――サイゴンのブンチャー。
1月16日
美味かった一皿――サイゴンのブンチャー。
 某所のブンチャー。アクビ娘が学部の頃から通っていたそうだ。
 この家は、今や、不便な場所でも引きもきらず客が来る。驚きましたねえ、そういう店だとは!
 この日は池袋、大塚、原宿、渋谷、恵比寿、という流れでありました。朝から佛文、昼には明治天皇、午後は倫敦という、世界一周旅行みたいな日でありました。

サイゴンのブンチャー。

追記
一昨日からナニでトラブル。任せて欲しいのだけど無断で◎◎◎◎するってのは古今東西繰り返されてきたトラブル。しかしもう我慢の限界を超えてしまいました。長い付き合いってのもこうして振り返って見るとはかないもんですな。手直しした部分が◎◎的にしかも△△的に間違っているというのではそのまま任せていたら別な人の別な趣旨のものになってしまう。なってしまったズラよ。ズラズラなのよ。
| 7喰う | 15:34 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(賛)。
1月16日
雑誌記者、池島信平(賛)。
「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 池島信平の福原麟太郎(1894-1981年)との対談もいい感じだ。
 福原「あのころに『文藝春秋』を六十万部も売っていたのだから、たいしたものですよ。その数字をいったら、イギリスのひとたち、びっくりしていましたね」
 池島「みんな、こいつはホラ吹きだといって……。ぼくは小さくなってました。実は、二年前のフランスでも、同じような経験をしていましたんでね。というのは、<ガリマール>の編集長に会ったとき、カミユの『ペスト』の原本を見せてくれながら、『これが日本で八万部売れたというが、ほんとうか』と聞くんです。『上、下二冊で計八万売れた』といったら、『パリでは八千も売れないのに、どういうわけか』。『日本の文化の方が高いからだ』といたかったけど、まさかそうはいえません。『日本人は、ほかに楽しみがないから、本ばかり読んでいるんだ』とごまかしときました。日本に出版物が多いことを、むこうの人はなかなか理解できないらしいです」

1939年3月、中支湖北戦線で高野部隊に捕縛された国民党軍女性兵士(掲載).jpg
   こちらは1939年3月、中支湖北戦線で高野部隊に捕縛された国民党軍女性ゲリラ。

 河盛好蔵(1902-2000年)も。
 池島「この間、新宿のおでん屋で、東大の造反教師から二時間ぐらいお話をうかがったんです。まじめ一方で、ユーモアなどかけらもありませんでした(笑)。あるのは感傷、日本人特有のセンチメンタルだけなんですよ。若い娘が感傷的になるなんてのは、毒にもなりませんけど……。要するに、ものをつきつめて考える能力がない。つまり、正確にものを見ることができなくて、溺れてしまうんですね」
 河盛「自己陶酔していては、ユーモアもでてこないでしょう。それに、日本人というのは、まじめでさえあればいいと思っている」
 池島「いやあ、若いもののいうことだけを金科玉条のように考えて、自分の重ねた年齢に劣等感をもっている人がいますね。不思議ですよ、これは。老年の知恵ってのは、はかるべからざるものがあるはずでしょ。なのに、それを恥じている。おかしいなあ。戦争中から、そうでしたがね。いつまでたっても、成熟しないからなんでしょうか」
 河盛「そう。そうですね。」
 池島「若い者が阿呆なことをいうのは、ある程度しようがない。だけど、いい齢してそんなまねやっているのは、わかりませんねえ。われわれの年代は、戦前、戦中、戦後といろんな変化を見てきてます。人間性について、少しは知っているはずですよ。一面的な理屈ばかりいうわけがない。そういった点を、もっと強調していいんじゃないか」
 河盛「この間、林健太郎君と久野収君とが『朝日新聞』で安保問題の対談をしていましたね。久野君は、ふたこと目には『若い者はこういっている』とか、『若い者の考え方では』でしたよ。若い者なんてどうだっていい。あなた自身の意見はどうなんですか、と……」
 池島「そういうこと、大事です」
 河盛「」だからぼくは、論旨は別として、それだけで久野先生を軽蔑してしまったな」
 河盛は同郷で同窓の後輩・久野収(1910-99年)をそう観ていたのだったわい。敗戦後には「思想の科学」、晩年は「週刊金曜日」まで、すべからく、ことごとく、俺のような人間に容れられないことを書き続けた人だった。
 ついでに書けば、池島が新宿のおでん屋と言ったのは、安藤りかの経営する酒席「利佳」であろう。そうして、そこで話を聞いた造反教師とは折原浩(1935年-)のことだろうか。例の西部邁(1939-2018年)が中沢新一を東大助教授に推薦した時に、これに強行に反対し、西部が東大を辞任するきっかけを作った男である。「大学を解体せよ」と叫んで、潮目の変わった後には東大に定年になるまで居残った男である。


追記
安藤りかの経営した「利佳」については別稿を記すからこれは読物でありんすよ。しかし折原浩。カッコ悪いオトコ。こういう人が居場所を見つけられたんだから、安藤さんの度量は広うござんす。

追記の追記
London is Burning.....だから言ったのに。まぁ、身から出た錆。しかしイギリスの議員たちというのも、国家的な存亡の危機にあっても火中の栗を拾おうとしないわけで、日本と同じく、無責任な人たちがまことに多いわけだよ。汚い手を使って駆け引きをする場合ではないのに。
この票差は国民投票の無意味さを改めて想起させる。結局、喰いモノにされるのは我々のような民草というわけだ。しかしその草莽もパンクだナンだといいながら、勲章一つで尻尾を振っちまう。まぁ、ダメだということよ。とても自由な国家だなんて俺は思わないけど、その民草も情け無い。なぁ、Sir, Michael Caine(1933年-)。
| 9本・記録集 | 06:11 | comments(0) | trackbacks(0)
美味かった一皿――ぶり刺とぶり大根。
1月15日
美味かった一皿――ぶり刺とぶり大根。
 刺身でもサクでごっつい安い時があるわけだ。肉厚の鳥取のぶりが800円を切っていた。
 こんな濃厚な寒ブリだと、知っておられる方もおられるだろうが、一切れ目は口中がぶりの脂で一杯になり、その脂は、酒や野菜では簡単には落ちない。
 二切れ目には、口の中だけでなく、この脂の濃厚な香りが鼻腔一杯にまでせり上がってくるのだ。
 体調が悪いと、ちょっと気分が悪くなることがある。昔、浜ちゃんに通っている時代には、今の時期になるとぶり刺があっても、躊躇して頼まないことがよくあったのがそれである。

20190112 ぶり刺身(1).jpg

20190112 ぶり刺身(2).JPG

 こちらのぶりのアラは福井。懐かしい第二の故郷、敦賀港かも知れない。桑原武夫の福井。なんちゃって。これもあらは1.2キロもあって600円ほどだった。
 シャシンのスケール・ボーイにしている「茶々亭」のマッチは、浜ちゃんがその昔、川崎市役所裏に出していた古い料亭で使っていたもので、今も大切に保管している。
 当然、肉がゴロゴロ入っているので、本当のアラと肉の部分は分けないと味の付き方が違ってくる。
 年末に注文しておいた三浦の太ッとい大根と合わせて、文字通りのぶり大根に。喰ったのは一日寝かせた翌日からというのもポイントだ。そのシャシンは載せない。武士の情け。ウハハハハハハハ。

20180112 ぶりあら (3).JPG

追記
ジェジェジェ。浪花のダンナが山谷泪橋地獄ツアー参加とのこと。
| 7喰う | 17:31 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(弐)。
1月15日
雑誌記者、池島信平(弐)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 石川達三(1905-85年)との対談では、闇市のヤミ料理屋の話が良かった。
 石川「新橋から田村町のほうへちょっといった横のトンカツ屋でね。そこで菊池さん、佐藤観次郎と会う用事があったんだ。というのは、<大映>の永田さん(雅一氏)が、菊池さんのパージのことでたいへん骨を折っていたんです。そのことについての話だった。『君も、こないか』といわれて、ガタガタのぼろ自家用車で連れていってくれた。僕と佐藤観次郎はトンカツを食べたな。菊池さんは『ぼくはこの間トンカツを食べたから』といって、ほかのものをとってた。あれから、先生はおなかをこわしたらしいね」
 池島「あのころ、獅子文六さんも胃潰瘍をやってたんです。なにしろ、ヤミ料理屋ってのは、トンカツ、刺身、天ぷら、鰻といっぺんに出してきますからね。それで胃を悪くしたんですよ。文六さんは。菊池さんはその口です(笑)」
 大男の獅子文六(1893-1969年)は、日本の歴代文士の間で抜きん出たグルメ・グルマンと想うけれど、食欲が旺盛で、こういう悪食に近いような喰い方をもしていたのだと想うと、ちょっと笑ってしまった。
 獅子文六の回想していたフランスの田舎の家庭料理ってヤツは、長い間、俺の中で妄想の一皿となっていた。殆ど味まで思い浮かべられるようなほどレシピも幾つか知っていたし、ずっと喰いたかった。
映画、「ヘッドライト」でJean Gabin(1904-76年)演じるトラック運転手がむしゃむしゃ喰っているような田舎の鍋料理だ。

1938年4月、中止戦線で捕縛された国民党軍女性兵士・成本華(24歳)(掲載).jpg
   上記は1938年4月、中支戦線で捕縛された国民党女性ゲリラの成本華(24歳)。

 Mont Saint-Michelの街道筋のレストランは、可愛らしい田舎の農家造りで、少なくとも20世紀の始め頃から営業していそうな店だった。そこで喰ったLe Pre Saleは満足した。
 話はどんどんそれていくが、今はとてもいい本が出ていて、「フランス人が好きな3種の軽い煮込み」というタイトルで上田淳子さんのレシピ本が出ていて、最近、重宝している。
 この本は手を掛けた料理人のレシピではなく、「ソテー」、「フリカッセ」、「スープ」という3種だけをフライパン一つで調理してしまうという趣向。一種のレッスン本でもあるのか。しかし、手軽で、短時間でできるざっかけない家庭料理で、もう俺の妄想がそのまま写真になっているような一冊だ。
 文六先生はフランスで暮らしている頃に米の味が分かったと書いている。俺も、簡単に味噌汁も頂けない淋しい海外暮らしで、しみじみと日本の家庭料理が懐かしくなったことがあった。それでも、俺の場合、米飯の匂いでも、日本のジャポニカ米、うるち米だけでなく、タイ米もあれば、獄中の蒸した米の匂いにも郷愁を誘われる。
 しかし米の味が分かったと書いた文六先生も、一旦、飢餓線上の焼跡闇市時代となれば、トンカツ、刺身、天ぷら、鰻をガツガツと喰っていたわけだもの。どうでもいいのよ、楽しく美味しく頂ければ。
 この人には「バナナ」という小説がある。最近、復刻されたらしい。獅子文六の面目躍如、食い気と色気と儲けが三つ巴に絡まって、獅子文六の獅子文六たる世界が拡がっていく。俺の方は、今暫くの間はフランスの田舎料理を楽しみたいと想っている。


追記
昨日までは寒くて凍えておりましたが、野暮用を延々やっておりました。昨年までの仕掛かっていた案件も概ね終わり。今日からは永年の懸案事項について着手しようと思っています。目論見は無いと言えばないのだけれども、「俘虜記」の原稿を抱えて焼跡闇市の日本を縦断して上京した大岡昇平の心境。ウッフッフッフ。

追記の追記
今週は、木曜日には浪花の大将、金曜日にはディレッタント提督と、将官の皆さんとの宴会が続くのだった。今日はその手配をせねばならん。どちらさんも大変でっせ。アンジヨウタノンマツセ。
| 9本・記録集 | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0)
美味かった一皿――金目鯛の香草オーブン焼き。
1月14日
美味かった一皿――金目鯛の香草オーブン焼き。
 関東でも有数の魚介激戦区は都心の上野か横浜か。1キロ〜1.2キロ程の金目鯛がウイークデーの夕方ともなると、旬の今なら千円という時がある。
 築地なら1キロ超えになると1万円を超えたりするが、この半分のサイズになるとグッと単価は下がってくる。
 御徒町の吉池は魚介でも貝類か佐渡を軸とする日本海の大物がいい。横浜ならそごうの魚介売り場は死に物狂いの激戦地区で複数の仲卸級の店が近海物の中に季節の大物を呼び水に常に激突している。
 常在戦地の店は気合が違う。「これではアシが出てしまうだろう」と客としても驚く値段が付くことがよくある。
 穫れ過ぎた日、数日の休日が続く前などはそういうことが起きるのだが、それは予測できない。だから新聞の折り込み広告などでは到底分からない。ではどうするか。
 足を運ぶしかないのだ――気は心。その内きっといいことがあるだろう。
 都内でこのサイズの金目鯛を香草オーブン焼きで出すと、卑しい話だが、店と場合によって一皿でケタが一つ上がるかも知らない。
 我が家では頭まで喰い尽くすから、目の玉の白い核と骨と尾のしゃぶった跡くらいしか残らない。そうすると厨房から親方が出てきて俺たちの顔を見にきたりすることがある。我が家の余りの綺麗な平らげ方に、そして、きっと喰い意地の汚さに喜んでしまうのだ。
 料理屋に入って喰うのは、結局のところ、皿を介して作り手とのコミュニケーションだと実感させられる瞬間だ。
 そんなことも考え合わせると、こんな皿が家で喰える我が家の贅沢は、何とも言葉に尽くせないところがある。

金目鯛の香草オーブン焼き。
| 7喰う | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌記者、池島信平(壱)。
1月14日
雑誌記者、池島信平(壱)。
 「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]
 1974年(昭和49年)、池島信平(1909-73年)が亡くなった翌年になって、追悼対談集2冊揃いで「文学よもやま話(上・下)」[池島信平著, 文藝春秋]が出版された。「新刊展望」[日本出版販売]に「池島信平連載対談」(1969年1月〜73年3月)と題して連載されたものを速記原稿から再構成したもので、元の連載とは違った追悼編集版である。
 今、上巻を読んでいるところなのだが、池島信平は現役社長のまま、64歳で亡くなったことを併せ考えてみると、この対談での池島自身の企みが浮かんでくるような気がする。対談期間は1968年(昭和43年)暮から死亡直前までだから「諸君!」創刊の頃になる。
 「雪の原に人一人あり田を鋤きてあり」として、井上靖(1907-91年)との対談では、日本の大学紛争の世相を慨嘆している姿が強く脳裏に甦った。
 2人はゲバ棒を振り回す学生とそれを許す教授陣を慨嘆しているのだが、一方で、戦争が始まる時には、自分も共犯者だという意識がどこかにあったと共に告白する。明治の末に生まれた彼らは、開戦当時は30代の新聞記者と雑誌記者であった。

1942年2月16日 山下奉文とArthur Percivalの会談翌日の記者会見(掲載).jpg
   上記のシャシンは本篇と関係は無い。1942年2月16日 大日本帝国陸軍の山下奉文
   大将と英国の将軍Arthur Percivalの会談翌日の記者会見の様子である。英軍は
   敗戦を受け容れ、永く苦しい捕虜生活が始まった。この時、山下は敗戦の将軍に
   敗戦の弁を語らせる軍人の礼儀を守っている。緒戦で勝って、打ち切れば、まだ
   滅亡しなくて済んだのに、どこにもバカが溢れていて今に到るわけだ。しかし、
   報道の現場なんて、今も昔も変わりは無いでしょ?

 2人のモラリストは戦後日本社会の浅薄さを嘆く。対談した1969年(昭和44年)の乱れた世相の幾分かは自分にも責任がある気がする、とも言っている。正直な人たちだ。
 だが、対談で想い起させられたのは大学生の方でなく、思い上がった中学生や高校生の姿だった。都立高校の卒業式で、卒業証書を破っている姿をメディアが報道し、しかも連中は大学に進学するわけである。うつけ者のやりそうな話である。
 この調子で、相手に合わせて世相を嘆きつつも、学生には知性が無い、二言目には「若い者は」と若い者の言葉だけ引用して自分の考えを言わない教師もいれば、学生側の吊るし上げに屈せず団交をやり抜いた教師もいる、だが、そもそも真剣に教師が点数を付けたなら今の学生の8割は落第する――殆ど、戦後世代には罵倒の連続であった。
 この中で、芹沢光治良(1896-1993年)の戦後小説論が面白かった。
 芹沢「くだって、戦後出てきた人たちとなると……。たくさん好きなように書いていて絢爛としてはいるけれども、何か虚しくて」
 池島「同感です」
 芹沢「たとえば、戦後の人で、三、四人、国際的な評判になっていますね。こちらから読んでみると“芯”が薄弱で訴えるものが少ないんです。気がぬけたようで、もどかしくなりましたよ」
 池島「それでいながら、レッテルはきれいでしょう」
 芹沢「豪華ですよ。この調子では、六十歳や七十歳まで創作をつづけられるのだろうかと心配になりますね。みずから虚しくなって、筆を折るのではないでしょうか。だから、散文芸術の運命、小説の運命は、もうそろそろおしまいではないか。不安を感じましたね」
 池島「それは世界的な傾向といえるのではありませんか」
 芹沢は「人間の運命」を書いた人だから、歴史は文学である、という視座の人だったろう。
 喰えない人物は「同感です」なんて相槌を打つ聞き手だ。当時、文藝春秋社の社長だった池島信平は戦後出て来た書き手には、もっと書けとけしかけるし、どちらが本音なのか分からないようなところがあった。池島信平、編集者魂の面目躍如。

追記
諸兄姐に質問です。
昨日観た「My Generation」(邦題の副題は「ロンドンをぶっ飛ばせ」は過去への案内人は撮影当時84歳だったMichael Caine(1933年-)なんです。
映画の冒頭からずーっと誰かに似ているなあと思っていたんです。それが、日本人作家のあの男だと気付いてからは、もう、そっちの話で頭が一杯で、誰かに言いたくてたまらなくなりました
ご覧になれば、深い教養と広大な知識をお持ちの諸兄姐でありますから、恐らくあのカーディガンを着たあの男だとは直ぐにお分かりになろうか思います。
ところが、どうにもこうにも違うところは伴侶のことで、イギリス労働者階級出身のの彼の奥さんは二度目とは言え半世紀近くも連れ添ってきた、同業の、小柄でエキゾチックな島の女です。
しかし、カーディガン紳士の方と言えば、先日、功労賞を受賞しておられた立派な方とは言ってもそれ以上の言葉が出てこない。
ともあれ、案内人の冷酷なスパイだったMI6のあの男は、背丈こそ違いますが、ヒョロリとした姿格好は、晩年のあの男にクリソツになりました。お楽しみに。
| 9本・記録集 | 07:07 | comments(0) | trackbacks(0)
美味かった一皿――鴨鍋の残り汁を掛け回した卵掛け御飯。
1月13日
美味かった一皿――鴨鍋の残り汁を掛け回した卵掛け御飯。
 これはクリスマスイブの朝に喰った朝飯。前日の鴨鍋の残り汁をぶっ掛けた卵掛けご飯だ。台湾は濃い汁物などが出ても、最後には白米があるから安心だった。東南アジアから極東アジア圏の嬉しさは白米の喰い方。ま、イタリアからスペインまでも白米はオッケーだけど。
 IOCの竹田さんはつい先日、某所で元気な姿をお見かけしたのだけど、こんな外交問題のカードに使われるなんて、こいつはお気の毒だわね。お元気そうだし、一度でも風貌を見かければ、そんなことはできない人だと分かる。
 これにはイギリスのコンサルタントが絡んでいるんだけど、その話が出てこないのは怪しいぜ。ピンときちゃう。安倍晋三とテレーザ・メイ会談もあったけれど、あのラインでガッチリ固めているんだろう。「Guardian」よ、俺は、アンタの腹の底は見えるけんね、言うちょっちょくがよ。ヒッヒッヒッヒ。  
 ハート出版から一昨年「敗走千里」、昨年「一等兵戦士」と立て続けに復刻版が出ておった。これから時間ができればじっくり読もうと想うわね。
 というわけで、果報は寝て待て。待って海路の日和あり。無ければハイそれまでよ。

   20181224 鴨鍋の残り汁を掛け回した卵掛け御飯 (1).jpg
  右側の「さしみ」は奄美名瀬の甘口の醤油。そろそろ終わろうとしていて、左の「甘露」は
  鹿児島市内の醤油。甘口の南九州の味は俺のDNAにストレートに利いて来る。世界中の
  調味料の中で、醤油は最も洗練されたものの一つだと俺は確信しているけどね。醤油を
  常用していることが、日本人の味覚が洗練される常住坐臥の教材になっているのだ。 

追記
渋谷ナウ。こらからマイジェネレーション観に行くことになってる。

マイジェネレーション、必見か?
| 7喰う | 13:29 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< January 2019 >>
SPONSORED LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE