岡田純良帝國小倉日記

香港雑景(1)――嗚呼、福ちゃん!
11月15日
香港雑景(1)――嗚呼、福ちゃん!
 今回は当地、とりわけ銅鑼湾に90年代初頭に3年程暮らしていた人と一緒に行動を共にした。
 まず何より変わったのは英語のできないタクシーの運転手と商店の売り子が幅を利かせるようになったそうだ。
 そして、便利にはなったのだが、様々な面で融通の利かない人が増えた。
 「大陸から来ているんです」
 そういう話である。見分けがつかない。
 番町書房の「対話・日本人論」を読んでいて、ドキリとさせられる箇所が何カ所もある。半世紀以上前の対談だが、
今のニッポンにも近いし、ソ連や中共の状況を別にすれば、今の世界の趨勢にも、ビックリするくらいに近い。

   20191112 東南アジアツアー(4).jpg

 俺の投宿したホテルからは、90年代に鳴らした「福臨門」は至近であったのだが、店はどうも昔と比べるとランチの飲茶メニューが充実して、しかし、メインはそちらに移りつつあるようでもあった。
 ビルの上階にあるのは昔と同じで、俺は、この店に最初に入ったのが、アクビの生まれる前だったから、30年近く以前のことになる。
 当時は「慕情」のハン・スーインな感じは確かにあったのだけれど、それが、今では消えてしまったし、タクシーの運ちゃんが英語を喋れなくなって、日本語で、「さよなら」と「あっちいってすぐね」なんて言うんだから、もう以前の香港ではなかった。
 到着した日、18時までは、トラムも、バスも、地下鉄も、動いてはいた。しかし、その後、銅鑼湾側の地下鉄駅は入り口から封鎖されて、バスもトラムも運行が止まった。
 街が死んだと想ったら、23時過ぎから、酔客らしい若者が、大声で誕生日の歌を歌い始めた。
 結局のところ、街の人々の気持ちは抗議デモの若者から遊離するのだろうか。そうして、結局のところ、遠く凍土の向こう側の人々の思惑通りに進んでしまうのだろうか。嗚呼、福ちゃん!

20191113 東南アジアツアー(11).jpg

追記
空港までやって来たのでともかく何とかなった。それにしても、これからの香港がどうなるのか。自由主義陣営から何らかのメッセージは発するべきだと俺は想うよ。だけど、インテリジェンスと気合が我が方は足りないからねえ。
| 10随想 | 15:12 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜三〇年間のあれやこれや(弐)。
11月15日
亜細亜三〇年間のあれやこれや(弐)。
 その後、平成に入り、Hong Kong、Singapore、Kuala Lumpurなどに通うようになる。これは仕事で行き始めたのだから、時間は無かったのだが、目の配り方が変わってきた。
 90年代初頭のアジアは今のアジアとはまるっきりイメージが違っているだろう。
 Hong Kongは中国への返還前で、空港は市街に近く、港にJunk舟が浮かび、女たちが食材を売り買いしていた。
 街にはまだ九龍城が残っていて、Victoria Peakへ至るケーブルカーは人もまばらだった。そしてHong Kongの男も女も、パジャマやムームーやアオババで、サンダルをつっかけて朝粥を喰っていた。

Hong Kong 1970s。(1).jpg

 その点、Singaporeは失敗した工業団地のイメージがまだあった。少し街中を外れると、寂れた日本の家電の工場の看板が残っていたが、あの工場はまるごとMalaysiaに移転して、今では車両基地なんかに変わっているはずだ。
 高層ビルが少しはあった。それでもRaffles Hotelは目立ったくらいだから、まだ大きな建物が少なかった。
 植民地風の低層の木造建築と、華僑の建てたフランス窓を持った民家と、戦前に日本人の建てたらしい長屋の商店建築とが混在していた。

Singapore 1970s。(1).jpg

 その点、Kuala Lumpurはさておき、工場団地が造成され始めていた地域では空港から街中が一本道で、まだまだ周辺には何も無かった。だが、それとて、Singaporeとそれほど大きな違いがあるわけでもなかった。
 SingaporeとKuala Lumpurを分けたのは、Singaporeが工業立国の道を棄て、大きくその方向性を転換したこと、そして、将来の東南アジアの金融センターをめざして、欧米の金融機関を誘致したことが大きかった。
 30年前には、Singaporeにそれほど白人が多いわけでもなかった。英領のHong Kongの方が国際都市らしい相貌を持っていただろう。

Kuala Lumpur 1970s。(1).jpg

 Singaporeはその後、水不足が深刻化して、地下水を汲み上げ、やがて地盤沈下と水没の問題が起きた。これは全て、日本の敗戦後に東京が辿った道でもあった。
 Indonesiaでは、JakartaからBorneo(Kalimantan)に首都を移転する話が出た。あれも大気汚染だとか公共機関だとか並べる前に、町全体が水没する危機が移転の前提としてあるためだ。
 小松左京(1931-2011年)の「日本沈没」は地震だが、当時は社会全体に列島水没の恐怖感があった。隅田川から江戸川まで「ゼロメートル地帯」と呼ばれ、金八センセイの舞台は今にも水没しそうだった。地下水の摂取を厳しく規制した10年後、ようやく地盤沈下が止まった。
 70年代、烏山川のほとりの祖母の家は地盤沈下で家が傾き、2階はゴルフボールが勢いよく部屋の隅に転がっていった。考えてみると繋がっている。亜細亜は一衣帯水である。

Tokyo 1970s。(1).jpg

追記
サンタクララで16歳が発砲事件。これでも銃規制が本格的な議論にならないかの土地で、そろそろ、気持ちとしては遠くなってきたような気がするなあ。

追記の追記
当地では、昨日だけでも、幾度も土日の夜間外出禁止令が出るのだと噂されていたで。都度、香港政庁は打ち消しに躍起になっているが、それでも世間は欺けないものよのう。しかし15歳と70歳が重体になっているとはね。
デモ隊と警官隊の衝突の渦中にあるセントラル某所では知人の古い友人のジェスチャアで、掌を表と裏とに返して見せたのに全てが物語られている。そしてセントラルにオフィスのある人たちは15時で帰宅命令が出て帰宅したのだ。自宅から電話で俺の部屋にコールインしてきた人たちもいた。
あれほどお喋りだった香港の人たちが、俺にも黙って掌を返して見せたのだから。監視システムと密告とその恐怖でガンジガラメになっているということだ。気の毒でならない。俺の宿泊した湾仔のホテルには台湾とアメリカからの支援隊が泊っていたわね。しかし日本から来たテレビ局はこれに気付かない。何とも言えなかったぜ。お前たち一体何しに来とんねん、アホ。
| 10随想 | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0)
星港雑景(3)――残念なマライ系。
11月14日
星港雑景(3)――残念なマライ系。
 星港こと、Singaporeでは、Lee Kuan Yew(1923—2015年)もそうだけれど、華僑王国だ。そうして、俺のやってきたような仕事を長くやった者には常識だが、長く、“明るい北朝鮮”と呼ばれてきた超管理社会でもある。
 元々マレー半島が共産化の危機にあった時、マライ独立系の運動に身を投じた人たちの中で、最も財政的に豊かであり、だからこそ、危機感の強かったのが、華僑系の人々で、彼らが母体となってSingaporeがさらにMalaysiaからの独立を達成することになった。
 その後、現在まで続く、思想信条調査、素行調査などから、居住者の投票行動はほぼほぼ予測できることになっている。今では、征服転覆の危険のある立候補者が当選できないように、微妙に選挙区は毎回変わる仕組みになった。
 独立時から、そうはいっても、一部の高級幹部と当地の華僑の一族は結んでいるから、獄中本土から強大な経済が伸びてきた時、経済投資庁はいち早くこれと結び、第三国への投資を獄中資本を中心に進めることになった。
 ごくごく1970年代初期から当地と付き合いのある人で、Lee Kua Yewから勲章を授与された人に言わせると、中々の変わり身の早さで、都度、翻弄されたと言い遺して数年前に亡くなった。

20191112 東南アジアツアー(16).jpg

 先週末、「嵐」が当地にも嵐のようにやって来たという話があって、その話で持ち切りだったのが、二宮君の結婚の報告だったという話が明かされて腰を抜かしたねえ。
 例えファンサービスのために、マレー半島各国を弾丸ツアーで回るというのは、ジャニー精神の真髄という感じもあって、印象深かったわな。
 日本のマーケットだけ見ていては将来は喰えないという厳しい現実を認識しているから、ファンサービスのために港々で拝碼頭行脚をするってのも、大した危機感だわな。しかし香港を避け、獄中市場へのリップサービスを表面でやらなかったのも巧みだ。誰が裏で仕切ったのだろうという話でも盛り上がった。
 さて、しかしそれでも、華僑の人たちはマライの人たちと混交して、何時の間にやらスパイス使いには長けたが、生のハーブと野菜の使い方にはすっかり後れを取った。
 毎回、当地に来る度にだが、VietnamやThailandのシーメの方が、ずっと日本人の味覚に合っていることを強く印象付けられる。マライ系はカレーとココナツミルクに味覚が麻痺して残念なことになっている。
 敵がいないとこうして味覚は落ちていくのだ――だが、一方で。
 日本は世界の金融界では新しい造語を提供していて、何も社会に起きないことを“Japanise”するということで、何も起きない状態は“Japanised”された、金融には旨味の無い国であり土地であることを指すと言うわけさ。彼らに言われて、グーの音も出なかった。明日はどっち?

   20191112 東南アジアツアー(18).jpg

追記
土日は戒厳令になるかも知れん。メディア多数詰めかけてきた。台湾海峡波高し。
| 10随想 | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0)
亜細亜三〇年間のあれやこれや(壱)。
11月14日
亜細亜三〇年間のあれやこれや(壱)。
 昭和の終わりにIndonesiaのBaliに行ったのが最初の海外体験だった。
 1週間ほどいたのか、Kintamani高原を歩き、Denpasarを赤いおパンツ姿でうろつき、Sanur Beachではマッサーマッサーおばばに毎日揉んで貰い、痛さに悲鳴を上げて泣いた。
 高くて不味いロブスターを、Aussieの年増女たちの間で喰らって、その晩も泣いたね。Aussieの年増は男たちがそうしているように、現地のエスコート・ボーイをDenpasarの街で“飼って”いた。
 30年以上も前のことだから、Ubudもまだまだ芸術村というよりは、素朴な村落だった。棚田で少年が鴨に虫を食べさせながら釣り糸を垂れている絵を買った。
 絵は稚拙だけれど、中々味があった。少年の顔も線で描いてあり、細密なマンガのように見えた。東南アジアから極東アジアの人間が絵を描くと、大体、こうなることが多い。
 随分と長い間持っていたと想うが、合わせて買った額縁が割れたのか何か、もう処分して手元にからは消えた。

      三浦襄(2).jpg

 当時は、Indonesia独立のために生涯を捧げ、敗戦直後にIndonesiaの人々に贖罪のため拳銃で自決したBaliの顔役、三浦襄(1888-1945年)のことなどは誰も覚えておらず、誰も知らなかった。太平洋戦争から半世紀も経っていなかったが、今よりもずっと遠かった。
 巨大なゴキブリの歩みののろさに驚き、ゲッコーの声に驚き、ガス灯やランタンの蝋炭の臭いは記憶には残っていたが、近頃、日本でもすっかり定着したBBQパーティーでBBQピットから似たような臭いが漂ってくる――やややと想ったらやっぱり。
 今や、Indonesia産の備長炭は高級品として日本に輸入され、高値で取引されているとか。しかも備長炭の語源の紀州の製法は、Indonesiaには早くから輸出され、伝授されてきたと聞く。ははあ。なるほど、和歌山とIndonesiaねえ。

    為光上人説法す@龍宮.jpg

 和歌山の海岸には山陰の海岸と同じく「不審船を観かけたら海上保安庁まで」と大書した看板が至る所で目に付く。本州の南端で外海に接し、黒潮がぶつかる渦が潮岬から見える。
 補陀落渡海で浄土に旅立つ者もある。紀ノ川河口にある名草山の中腹にある紀三井寺は、200段を超える階段を登りきると南海に向けた土地が選ばれたことがよく分かる。唐からの渡来僧・為光上人がわざわざ選んだこともすとんと腑に落ちる。
 「お前の名前と顔は海賊だな。よほど一族は血が濃いのだな。悪いことはできないぞ」
 昔、中野の外科医から、顔を見る度に言われた。和歌山の人で、同級生に俺と顔と格好のよく似た同姓の男がいて、いじめっ子で海賊の末裔だと威張り散らしていたそうだ。
 PhilippinesからCaliforniaに渡ってきた女性からは、従兄弟が俺と同じ顔をしているとよく言っていた。一族は鹿児島だから、南方系・縄文系であることは間違いないのだろう。30年の時間が過ぎ去り、三浦襄の足跡を訪ねてBaliに飛ぶのもオツなものかも知れない。


追記
大相撲はもう年末になってしまったのだなあ。昨年はその予感でしたなかったことが、今年、ハッキリと形を伴って現れたのが、白鵬と鶴竜の退潮と、新世代の台頭だろう。最晩年の父は、昨年5月場所の本割を観たのが最後だった。だから、今の貴景勝や朝乃山、さらに同期の阿武咲や豊山らの厚みを知らなかった。さて、誰が一歩抜け出していくのだろう。相撲は精神力が大きいし、これはまた、他のスポーツでも同じだけれど、結局、ジンセイ航路にもどこかそこそこ通じるものがあって、見飽きないものがあるわね。

追記の追記
Cathayの姐さんに勧められて、前世紀の遺物で、映画になったのも2001年の「Hedwig and the Angry Inch」を、機内で遅まきながら観る。感想は何とも言えないのだけれど、カートゥーンがとても良かったかな。映画にも温かい目線が感じられたね。そういったこともあったのか、投宿した湾仔から銅鑼湾周辺の街の風景と見え方が、違っていたのはどうしてか知らん。
今日14日は市内全ての幼稚園と小中高校を臨時休校にすると香港政府は発表した。デモ発生から半年が経過した中で初めての措置。死亡者が出た直後に、再び警察官に参加者が銃撃された事件を発端にさらに混乱が拡大しているが、月末24日に予定されている区議会議員選挙も実施されるかどうか微妙な雲行きになってきた。昨晩は、明け方前の午前3時過ぎまで部屋の直ぐ下の湾仔の街では凱歌を上げる若者の声がビル街に響き渡っていた。ライブ中継とはとんでもねえぞ!
| 9本・記録集 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0)
星港雑景(2)――和牛サーロインとか全部入りラクサとか。
11月13日
星港雑景(2)――和牛サーロインとか全部入りラクサとか。
 普段は和食を喰うことにしてきたんだけど、路線を変更して、どうせ短いジンセイ、洋食に行くことにしたんだ。今の日本の料理人のレベルは過去最高だからね、旨いもんが出てくるだろうという期待ね。
 (うぉーっ!)
 和牛のサーロインステーキが思わぬ収穫で、ゴッツイ美味かった。
 これまた、刺身と違うじゃんか、うまく寝かせてあったのだろう、旨味が出て、とてもリッチなステーキだった。
 日本人もこんなステーキを喰えるなんて、成長したよ。日本産の牛肉がこれほど美味くなるなんて、俺の若い頃に考えられなかったことだ。いい時代になったものよ。

20191111 和牛サーロインステーキ(掲載).jpg

 こちらはもっとざっかけない庶民の店で汗をだくだく流しながらかっ込んだシンガポールラクサ全部入りだ。具はホントに油揚げだけでね、だけどスープが複雑な味だったな。
 Siaさんお勧めの店で、
 「あんたみたいなガイジンが行く店じゃないんだけど」
 と、彼は言うんだけど、そうじゃないのよね。
 植民地時代の古い中央郵便局のド真ん前のあの店ですよ。
 しじみ大のオイスターがスープストックとして鍋の底に仕込んであるんだろうね。豚ひき肉、鶏ガラのスープも。これが全部相まって、ココナツミルクとまさに融和しているわけよ。
 麺はダメだよ、そんな贅沢を言ってはいけないのだ。ここの土地の人にやれコシがどうだと言ってみたところで、そんなこと、言うだけ野暮ってなもんだよね。
  
20191111 シンガポールラクサ全部入り(掲載).jpg


追記
謀略工作にかの地に入りましたのことよ、なんちゃって。ドヌーン。
| 7喰う | 15:20 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――江藤淳は甦えるのか(下)。
11月13日
 気になる本――江藤淳は甦えるのか(下)。
 「江藤淳は甦える」[平山周吉著, 新潮社]
 一昨日からの続きになるが、先崎彰容(1975年-)は「読書人ウエブ」で著者と対談し、次のように江藤淳(1932-99年)の転向について雄弁に否定している。
 「江藤さんは日本浪曼派の詩人である伊東のことがとてもお好きでした。江藤淳はよく『小林秀雄』を書いた前後、アメリカ留学中に転向したと言われますが、僕はそれには反対です。江藤は最初期の『神話の克服』の時点で、保田與重郎らのロマン主義を批判していますが、これはアメリカ留学中の講演録『近代日本文学の底流』や『日本文学と「私」』などでも展開されているからです。最晩年の作品『南洲残影』では、突如、蓮田善明の話まで出てくる。つまり江藤にとって、三島も所属した日本浪曼派的な気分は、生涯の大きなテーマであったと思います」
 これは賛成だ。和辻哲郎(1988-1960年)も研究している人だから考えさせることを言う。
 また板元の新潮社の刊行記念対談で、竹内洋(1942年-)に著者はこう語っている。
 「基本、裏表のない人ですし、激しい内面の葛藤もさらけ出してしまいます。真剣になれば相手を乗り越えてやろうと考える人ですから、好かれるタイプではないでしょう(笑)」
 「(江藤淳と劇作家の山崎正和(1934年-))2人とも政治家のブレーンをしていますね。佐藤栄作政権の時、楠田實という産経新聞政治部記者が首席秘書官になって、江藤さん、山崎さん、そして永井陽之助さんや高坂正堯さんなどの現実派知識人をリクルートした」

   「江藤淳は甦る」表紙。.jpg

 内閣調査室の志垣民朗(1922年-)の姿がちらちら見え隠れするようだ。内調は江藤淳には71年〜72年に接触し、アメリカ論でヒヤリングを繰り返していた。転向者ではなく保守派言論人として接しているが、世間では、何時の間にか転向した知識人との評価になっていることにいささか引っ掛かりを覚える。大丈夫か、ニッポンの研究者諸兄姐。
幼年時代から思春期を、何歳でどこでどう過ごしたのかということは、とりわけ昭和史を考える時、ヒトケタの世代にとって、思想形成では絶対不可欠の重要なポイントになる。少なくとも江藤は転向ではないよ。  
 俺は、勝部真長(1916—2005年)と並んで、昭和40年代後半には江藤淳の名は知っていた。勝海舟の著作の編著者で勝部は知られているが、この人も和辻哲郎(1888-1960年)の弟子筋に当たる。江藤淳は勝部真長とセットで俺の脳髄に刷り込まれていて、要するに古臭い前の世代の保守本流の人というイメージがある。
 面白いのは、著者の平山周吉(1952年-)は、江藤淳は都会っ子であり、山手の知識階級のセガレだが、その自分自身のストーリーをことさら盛って作ったということを指摘している点だろう。
 1960年代、学生として、若き江藤の読み手でもあった竹内洋の一言にも力があった。
 「自分自身を『山の手の坊ちゃん』と規定して郷愁を前面に出すし、東京の中産階級の崩壊イコール日本の崩壊になるからついてゆけない。60年代の大学生は、私も含めて、親が高等教育を受けていない、田舎から出てきた高等教育第一世代ですから、福田恆存や清水幾太郎、吉本隆明のような庶民的な知識人の方に親和性が高いし、人気も出るんです」
 三島由紀夫(1925-70年)と同じで晩年の久世光彦(1935-2006年)のようだ。職業軍人なら階級を問わず敗戦は蹉跌。久世少将の家と違っても、佐官の岡田の家も同じことだった。だが、「転向者」という虚像は、後の世代が造り上げたようにも感じられた。
 人気が無いと評価さえ低きに流れるということだけなのかも知れないけれど、江藤淳を「転向者」と呼ぶのはあんまりだと想う。(東京大学教授・宇野重規評、朝日新聞)(日本大学教授・先崎彰容評、日本経済新聞)



追記
何度読み返しても、江藤淳転向説は違和感を感じるな。世界はもう一度彼を再評価しなおさなければいけんわねえ。
江藤淳にナオンがいた説も面白いけれど、開高健の死後1年目に自殺したナオンまでいたというのは、ガセでなくて、もし本当だとしても、自殺するのは何故かいねえ。自殺するような女と深間に嵌ったなら、開高センセイ、女を観るメガネが曇ったってことにならないかねえ。俺なんかは男を乗り越えていく女が好きだわねえ。そういう女に俺には無いモノを感じるから。まあ、自分都合だよな、何時だって。しかし、屍を晒したら、後は後の人から言われるのは恐ろしいこっちゃ。しかしそんなこと気にをしていたら、思い切ったことはデケンわいな。

追記の追記
今日は早朝に星港を這い出して、燃える〇港に潜行予定。メシは格段に旨くなるから嬉しいわね。星港はダメだね。マレイ系とイス系のミックスの味覚がNGってことではないかね。〇港はまだまだ繊細さは残っていますですけどね、星港は繊細さが金融一辺倒の20年で引き換えに消えました。しかし、金融一本足の星港はちょいとヤバいかもな。
| 9本・記録集 | 05:25 | comments(0) | trackbacks(0)
星港雑景(1)――君はThe Stylersを経験したか?
11月12日
星港雑景(1)――君はThe Stylersを経験したか?
 夕べから各地の諸兄から香港の醸成について心配する声があり、我々も十二分に慎重に行動したいと思ってます。どうも有り難う。行く先々でこういう傾向になるわいねえ。
 ところが――星港では。
 星港ではRoxy Records & Tradingに行って、君はThe Stylersを経験したか?、ってな調子なのよねえ。この、同じ華僑国家でも全く違ったムードになっている理由は、結局のところ、本音になると高圧的な政府という姿勢では似たところはあるけれど、本質的には自由主義はベースにあるからね。
 というわけで、知る人ぞ知る、Paul、Sia、Richardの星港三兄弟のRoxy Records & Tradingの二番目のSiaのお店で60年代のガレージについて話し込んだのたっだよ。ドヌーン。
 当時は、このStylersをバックにして、来星港した東南アジア各国の歌手が、公演をしたんだそうだな。

   20191111 東南アジアツアー(14).jpg

 結局のところ、コンピレーションは無いんだそうだ。古いレコードはDECCAと契約したバンドなんかの古い60年代のレコードを見せて頂いたけど、高額でね、コレクターズアイテムというわけだ。
 こちらはSiaさんのお勧めのThe Stylersの6枚組ボックスセットで、何と6枚組が25.00SD(80円×25=2,000円)よ。
 Siaお勧めの店に行って、この日はシンガポールラクサ全部入り4SDとタイガービール6.5Sで乾杯。840円ってとこか知らん。
 仔象の行進とか、何だかムーディーなバラードとか、テナーサックスが泣いたらどっかのムード歌謡みたいな世界もあるし、The Stylersはいいね、ハチャメチャで、アジアっぽいんだな。かけっ放しにしておくと、気分は、60年代から70年代のあの妖しい時代の東南アジアですらい。

   20191111 東南アジアツアー(13).jpg
  Siaさんはとってもいい人なんだけど、このお店、もしかすると、ロンドンのあの
  Roxy Clubのロゴを取ってんじゃねえかと思ったよ。EATERとかJAMとかもっとスゴイ
  のは、MC5とか、STOOGESのレア盤なんかが無造作に置いてあることだ。時間が無く
  あまり話せなかったので次回はSiaさんにその辺りを聞いてみようと想うんだ。彼も
  彼の世代でこの商売は終わりだと言っていた。それはそうなんだろうな。けど、同じ
  時代を生きてきたという感じがお互いにあってさ、硬く握手して別れて来たよ。
| 10随想 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0)
気になる本――江藤淳は甦えるのか(中)。
11月12日
気になる本――江藤淳は甦えるのか(中)。
 「江藤淳は甦える」[平山周吉著, 新潮社]
 昨日からの続きで、江藤淳(1932—99年)の評伝の話。特に宇野重規(1967年-)の朝日新聞紙上の書評のタイトルに、「『転向』の言論人の精神読み解く」とあり、これがどうしても腑に落ちなかった話を少し続けたい。
 「転向」の論拠はよく分からない。しかし昭和30年代の前半に活動した「若い日本の会」に江藤淳が加わっていたことがあるのかも知れない。不思議なのは、「若い日本の会」が左翼的な性格を持つ団体と理解されている点だ。
 元々、警察官の職務執行の強制力を法制化した執行法に反対するために若い文化人らが自然発生的に集まった組織だと理解している。「若い日本の会」には黛敏郎(1929—97年)や石原慎太郎(1932年-)や浅利慶太(1933—2018年)と共に大江健三郎(1935年-)も寺山修司(1935—83年)もいたが、ハッキリした左派は大江健三郎くらいだったのではないか。
 むしろ会のメンバーは保守派が大多数で、俺はそんな想い込みがあったのか知らないが、「若い日本の会」は左という評価で定まっているようだ。その評価も俺は不満なんだけど。
 その後、「若い日本の会」が日米安保に反対した時の根拠も、当時はメンバー毎に違って、曖昧だったように見える。前記の通り、昭和ヒトケタでも後半組は、「転向」という言葉は似合わない。少なくとも「若い日本の会」が生まれた頃には、イデオロギーは彼らの間では未分化で、単純に警察の強制力に対する恐怖感から立ち上がったものだろうと想う。
 大体、丸山眞男(1914-96年)を叩いたのも江藤淳が早かった。近年の丸山眞男に関する再評価とは違って、江藤は、同時代人としての論争を挑む挑戦的な批判だったように思う。一方、今や歴史家によって再評価され、位置付けされ直すと、生前のアンタッチャブルな時代には考えられない、俗っぽい丸山の実像が浮かび上がってきたのはまた別な話だ。
 また、本書は、日本経済新聞では日大の歴史研究者の先崎彰容(1975年-)が取り上げた。これまでに知られていない江藤淳の実像に驚いている。

   「江藤淳は甦る」表紙。.jpg

 「江藤の恩師から、江藤が学生時代に自殺未遂をしたことを聞かされた後、平山氏は、もう一度、江藤の作品に目を通す。そして『老子もあれを知っていたのか』という奇妙な文章の存在を思いだす。この『あれ』こそ、自死を意味していて、終生、江藤が『老子』を愛読していた理由が氷解するのである」
 俺など門外漢だから何だけれど、若い研究者の間では、丸山眞男と江藤淳の比較が話題になっているようだ。丸山は敗戦によってそれまでの超国家主義の基盤の国体が絶対性を喪失して初めて日本国民は自由な主体となったとするが、江藤淳は丸山が敗戦の屈辱を直視せず、戦勝国側の「平和」と「民主主義」を理想とするのは欺瞞ではないかと非難した。
 San Franciscoで訃報に接して心に残ったのは2000年2月の田中小実昌(1923—2000年)。コミさんはLos Angelsで客死した。この頃、仕事でLos Angels=San FranciscoのShuttle便にはしょっちゅう乗っていたから、心に引っかかった。
 コミさんは呉のキリスト教会のセガレ。旧制呉一中をしくじって入り直した。モウレツに海軍一色の学校だから、学校のカラーは全く合わなかっただろう。元年呉生まれだから、我が家にとって遠い親戚みたいな感じがあったからかも知れない。
 しかし7歳年下の江藤と違い、コミさんは従軍し、父親が手続きをしていたお陰で入学した東大に籍を置きながら焼跡闇市で啖呵売をやってシノイだ。コミさんに立派な戦争文学作品があるが、江藤淳は戦争世代でもなければ、闇市をうろついた世代でもない。
 だが、2年上で「若い日本の会」に参加した開高健(1930—89年)や野坂昭如(1930—2015年)になると焼跡闇市を歩き回り、スイトンを喰い、走ってはバクダンを呑んで酔っ払った。敗戦間もない時期には、同年には共産党に入党する学友が多数いた。この脚色することができない出発点の違いを押さえておかなければ、転向の議論などは意味をなさない。
 「『妻と私』に描かれた理想の夫婦関係の裏に、もう一人の女性の影を平山氏は発見してしまう。書簡や取材資料を駆使し、私生活にまで盗聴器を仕掛けたようにリアルに描く。読者をまったく飽きさせない」
 女がいたとは。それでも、ひ弱であった。編集者や教え子か知らん。大変に失礼だけれど、女がいても手首を切ったのは山手のお坊ちゃんの真骨頂だなと俺なら突っ込みを入れる。(東京大学教授・宇野重規評、朝日新聞)(日本大学教授・先崎彰容評、日本経済新聞)

追記
星港は三十度を超えていて、その中を一心不乱に1万歩も散歩したので、シャツは絞れるほどだし、パンツまでも汗でびっしょりと濡れたわいね。詳しくは今晩ナニするけれど、Siaさんと仲良くなって、ジモティーで繁盛するラクサのお店を教えて貰ったよ。全部入りで良かったな。大きな具は油揚げだけなんだけれど、豚の挽肉だとか、鶏ガラとかのエキスの沁み込んだスープは、容器の下の方にしじみ大の小粒の牡蠣が下の方に潜んでいた。Vietnamと同じようにビヤホイ姐さんがいて、俺に注いでくれる。よいひと晩でした。
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星港から。
11月11日
星港から。
 星港では様々な話をしなければならないのだけれど、この土地も、政治的には盤石な土地では決してないわけで、多くの人々の血が流れた。
 ラグーは我が家でも定番になって、ブカッティーニ・ア・ラ・マトリチャーナは俺の大好物なのだったわい。

20190910 ブカッティーニ・ア・ラ・マトリチャーナ(5).jpg

 こちらに、ラグー・パスタを喰うのさえ前掛けをかけなければならない程手元が老いさらばえたオジサンが一人。はこだて監獄の前垂れですわいな。武道館裏で買ったんだけど、はて、あれから8年ほどの年月が経ったのかな。
 菅原通濟(1894-1981年)は70歳頃から前垂れかけて歩いていたそうですけえねえ。そいで87歳までお元気だったとは中々太い。ワイもその伝でいきまっせ。ホントかな?

   20191103 パスタとP仙(掲載).jpg
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気になる本――江藤淳は甦えるのか(上)。
11月11日
気になる本――江藤淳は甦えるのか(上)。
 「江藤淳は甦える」[平山周吉著, 新潮社]
 江藤淳(1932-99年)の自死が伝えられた時、我が家はアメリカにいた。San Franciscoに住み始めて2年目で、調子が出てきた頃だったと想う。
 毎月「文藝春秋」を読んでいて、New Yorkで刷っていた日本経済新聞の速報版から自殺を知っても、大きな驚きはなかった。そこまで痛めつけられていたか、という受け止め方をした。
 愛妻の死が大きかったようで、同じ喪失感を繰り返し最晩年に書いていたから、老人性の鬱を超えて、この人、ヤバいんじゃないかという予感めいたものがあったように想う。

    「江藤淳は甦る」表紙。.jpg

 城山三郎(1927—2007年)の最晩年も、連れ合いを喪って、ちょっと危ういところがあった。しかし城山三郎の場合には、特攻隊上がりで教員になり、後に作家になった人物だから、自死を選ぶことは無いだろうとは感じていたが、江藤の場合には、やっぱりという感じがあった。東京のひ弱な文学青年という印象がずっとあったのかも知れない。
 本書は編集者として最晩年の江藤に接した編集者の書いた江藤淳の評伝である。没して早くも20年という節目の年でもあったし、亡くなったのが夏(7月21日)であったから、出版直後の初夏には各方面で話題になり、早速朝日新聞でも東京大学教授の宇野重規(1967年-)が本書を取り上げた。
 「本書は、江藤が自らの命を絶つ数時間前に、その絶筆を受けとった編集者による評伝である。江藤の著作はもちろん、夫人への手紙、関係者へのインタビュー、生まれ育った場所の現状確認を含む、まさに江藤の評伝の決定版といえる。幼き日以来の江藤の精神に秘められた独特の暗部を、丁寧に、しかしどこか同情をもって探る」
 「とはいえ、江藤の著作や言論のすべてを、彼のパーソナルな詳細によって説明するのが本書のねらいではないだろう。進歩派から保守派への「転向」を、西脇順三郎、井筒俊彦、小林秀雄、三島由紀夫、山川方夫らとの関係で読み解き、とくにプリンストン大学時代の講義などを詳細に検討することで捉えようとしているのが本書の白眉である」
 宇野の書評を一読して、奇妙な衝撃が走った。「転向」という言葉である。
 「転向」とはまさに意外で、江藤が保守派に「転向」したというならば以前非合法共産党に属してオルグ活動に関わっていただとか、そういう生前に知られざる過去があったのか――という疑問がにわかに浮かんだのだが――そうではないらしい。  
 宇野の書評のタイトルには「『転向』の言論人の精神読み解く」とあるが、江藤淳の世代、昭和ヒトケタでも後半組で、新制高校・新制大学の昭和7年組に、「転向」という言葉が妥当かどうか。新制高校組は「青い山脈」で、特攻にも志願する年齢が達していない。そもそも、敗戦後に旧制中学に入り、新制高校を卒業しているのだから、「転向」する暇が無い。
 気になっているのが、弟子筋の動きである。気付かなかっただけかも知れないが、慶応で江藤淳の弟子筋の福田和也(1960年-)が本件について発言をしていないことだ。俺などは、江藤淳は「転向」という言葉が最も合わない人なんじゃないかと想うので、本人が泉下で切歯扼腕しているだろうことで、弟子筋は、噛み付いても良さそうに想うのだが。

追記
フツーこう書くと江藤淳の本を読み直したくなるもんだけど、そうならないのも不思議ですなあ。多少なりとも気になる人物でもないのかも。あるいはこの先、突然、ムラムラと興味が湧くのかも知れん。しかしこの年齢でピンと来ないのは自分とは他生の縁さえなかった人なのかも。いまだに精神の野人のような人たちが好きですな。ロジックに原理主義的に追従するような人もいいけど、もっと積極的に、どこか破綻しているような人物ね。精神病理的にはサイコパス系の人ということかも。

追記の追記
これからガラガラとちっちゃなトランクを引いて出掛けるので、雨が降るかどうかは大きいんですけど、4時には小倉は大雨警報が発令されておりました。5時半から雨が降り出しました。川崎までに濡れちゃうかねえ。ヤなこった!
念のため抗生物質と風邪薬を仕込んでおりますのと、マレーの関連本を持って行こうと思っておりましたが、少し考えが変わって安岡の最晩年の交友録と、林房雄と三島の対談本を持参することに致しました。皆さまご機嫌よう。
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